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亮は、ここが運命の分かれ道だと思い、橘氏の言葉ではないが賭けに出てみようと腹を括るのだった。しかし彼は前もって何にも考えていなかったので、いきなり話して果たして大丈夫だろうかとドキドキもんだったのだ。おまけに木戸専務に面と向かって話すことは、これが始めてだったのでなおさら緊張するのだった。
「ちょっと、よろしいでしょうか」と、彼は意を決して話し始めるのだった。「この場に木戸専務と同席させて頂けたのは、きっと何かの運命だとぼくは信じたいのです。と申しますのは、ぼくのような人間があなたのような優れた経営者に何か話すことだけでも恐れ多いことでもあるからです。ましてや、ぼくは先代から見放された人間ですからね。もちろんそのことはあなたもご存じでしょうから、詳しいことは申しませんが、それでもぼくの人生で一番屈辱的な時期を、別の会社で過ごさなければならなかったぼくの心情は、恐らくあなたもご存じないはずです。しかし自分で言うのもなんですが、それがどうやらここに来て会社の人たちにも、何とか認められて来たようだと自分でも素直にそう思うようになったのです。さきほど専務は先代が生きていたらきっと喜ぶだろうと、そうおっしゃっておられましたが、ぼくはなかなかそうは行かないだろうと思っているんです。もっともぼくの勝手な思い込みかも知れませんが。しかし、専務もご存じでしょうが先代の気性を考えれば、ぼくの言うこともそれなりに納得して頂けるのではないでしょうか。なにせ、ぼくより兄貴の方がずっとお気に入りでしたからね。いや何も今さらそんなことをここで告白することなどなかったのですが、しかしたとえ親子とはいえ、そういう軋轢が存在し、それがどうしても避けられなかったということをどうしても言いたかっただけなんです。これは実に根の深い問題でして、先代が亡くなってからもぼくの中では消えていない問題だからです。つまり形を変えて同じような軋轢が今でも存在しているからです。何が言いたいかと言いますと、現在の我が社において上に立つ人間があまりにも不甲斐ないから、今のような状態がずっと続いているのではないかと、ぼくはそう考えているということです。いえ、何も自分の立場というものを決して忘れているわけではありません。しかし、ある程度の諫言は絶対必要だと思うわけです。まして木戸専務のような物分かりのいい、それでいて厳しい上司にもの申すことは、誠にスリリングで申し甲斐のあることだと今そう実感しているからです。現在のような状態で何とか我が社がやって行けているのも、偏にあなたが居るからだとぼくはそう思っているんです。いえ、これは決しておべんちゃらを言っているわけではありません。実際にぼくはそう信じているからです。ですから、ここは一つ橘氏の言葉ではありませんが、あなたにぜひとも思い切った改革を実行して頂きたいと思っている次第なんです」亮は、こう言い切ると何かとても満足した気持ちになるのだった。まるで自分が次期社長の器であることを証明したかのような気分になったからである。確かに、ここまではっきりと専務に物が言えたということは、あながち彼の単なる自己満足ということだけではないのかも知れない。
「その思い切った改革というものは、果たしてどういうものなんでしょうか?よろしければ、ぜひお聞かせ願えないでしょうか」と、木戸専務は彼の話しをどうやらまじめに受け取ったようで、その物静かな言葉の調子には、相手の意見をどこまでも尊重するような真摯な響きが感じられたのだ。彼も自分の話しに興味を持ってくれたのだと思い大いに気を良くするのだった。ところが驚いたことに、まさか突然気が緩んだというわけではないのだろうが、『もし禮子が彼の愛人だったとしたらいったいお前はどうするつもりなんだ?』と、再び例のとんでもない妄想が彼の脳髄を襲ったのだ。これには彼もいい加減呆れ返ってしまい、『よりによってこんな大事なときに何をろくでもないことを考えてるんだ』と、さすがに彼も自分を思いっきり罵倒したのだ。もちろん心の中で。しかし彼はよほど自分に腹が立ったのか思わずチッと舌打ちしてしまい、それを何とかごまかしたのはいいが、相手に気付かれたかどうかははっきりしなかったのだ。しかしここまでひどくなってしまうと彼ももはやなす術もなく、まったくこれでは何もかもが台無しだと、危うく自分を見失いそうになったのだが、それでも何とか自分をどうにか落ち着かせると専務に向かって実に過激なことを口走るのだった。
「もちろん改革というのは、今の経営陣をすべて入れ替えるということです。もはやそれしか方法はありません。元凶はそこにあるからです。この際ですから、この会社の一員として言わせてもらいますが、今の上層部には現状認識がまるで出来ておりません。いったい彼らは先代が一代で築いたこのお城を自分達の代でつぶす気なのでしょうか?もちろんぼくの意見は単なる一社員の世迷い言かも知れません。しかしまったくピントの外れた話しではないことだけは、専務も承知してくれるだろうとぼくは信じております。専務に向かってこんな大それたことは言うべきではなかったかも知れませんが、しかし、あなたのような優れた経営者には、恐らくそんなことはすでに分っていることだと思いますので、ついその……」
「いや驚きました。確かにあなたのおっしゃることは決してピントの外れた世迷い言なんかではありません。しかし、実際問題として考えてみますと果たしてそれですべてが解決するかどうかはなかなか難しいのではないでしょうか。でも、あなたはそうしなければならないと考えていらっしゃるわけですね。いや実におもしろい意見です。あなたがそこまでこの会社のことを真剣に考えているのだと思っただけでも、私は実にもう涙が出るくらい感激してしまいました。いや実に素晴らしいことです。お父上が生きていらっしゃったら、いや止めておきましょうかね。先程のあなたの話しからすれば、決してお父上はあなたの意に沿うお方ではなかったようですからね。それでは、この私がお父上に代わってあなたのご意見を、今度の経営会議にかけて見ることにいたしましょう。こういう意見が会社の一部で問題になっているということを話してみるのです。あなたの貴重なご意見を会議にかけるんですよ。そうすれば、きっとこれは、この会社の雰囲気を一変させることになるかも知れませんからね。どうですか、それでよろしいでしょうか?」
亮は、この突然の提案をどう判断したらいいのか戸惑うのだった。彼は本当にそう思っているのだろうか。彼は本気で自分の提案を聞き入れてくれたのだろうか。ひょっとして、自分はいいようにあしらわれているのではないだろうか。しかし、もし彼の言うことが本当なら、これは確かにこの会社の雰囲気を一変させるかも知れないのだ。
彼にとって、今回の出来事ほど、この先を占う上でも極めて重要な事件のように思われたのだ。まさかこんなことになるとは予想もしていなかったので、なおさらそこに運命の手が感じられたのである。実際に、これがもし実現すれば、恐らく自分が実行しようとしているクーデターに思いもかけない風が吹いて来るかも知れないのだ。とはいえ先はまだ不透明であり、どうなるかはまったく分らないのだが、それでも、この出来事はこの会社の未来を決めるほどの、かつてないほどのインパクトを与えることだけは間違いないだろうと彼には思われたのだ。彼はすっかり興奮して、木戸専務と別れた後も、しばらくは口も聞かずに橘氏と一緒にタクシーに乗り込むのだった。二人は、そのままクラブ「ラビリンス」にやって来て、さっそく今あったことを酒を飲みながらヒソヒソと密談し始めたのだ。しかし、二人は同じ相手にそれぞれまったく違う経験をしたわけで、橘氏はすっかり当てが外れて意気消沈してしまったのだが、亮は反対にこれであの男と対等に渡り合えることが証明出来たと喜んだのだ。もちろん、そんなことは彼の思い上がりに過ぎなかったのだが、それでもなぜか知らないが自分にはその力があるのだという確信というわけではないが、それに近いものを感じ取っていたのである。
「いや、あの男は実に一筋縄ではいかない御仁ですな。まったく何を考えているのかさっぱり読めんのだからね」と、橘氏はグラスの酒を一気に飲み干すと、手酌で間を置かず並々と注ぎ、また一気に飲み干すのだった。よっぽど悔しかったに違いない。あれほど当てにしていた選挙協力が、まあ、お家の事情があったとはいえ、そこまであっさりと否決されるもんかと彼も疑問に思っていたのだ。というのも、「選挙資金と言ったって、そんな巨額な金が動くわけでもなし、赤字続きとはいえ出せない金額でもないだろうに、それを何でこんなにいいチャンスを見逃すんだ」そこが彼には腑に落ちなかったのだ。「そこまで台所が火の車になっているわけでもないだろうに。実に不思議だ」橘氏は、顔を真っ赤にしながら、亮に、これは何か臭いという意味の仕草をして見せるのだった。
「ということは、何か臭うわけですか?」と、亮は、そこは余裕をかまして義父の不運に軽く同情して見せるのだった。「しかしまあ、そうは言っても我が社の台所事情がどうなっているのか、今のぼくには何とも言えませんが、まあ赤字続きなのは確かですから、彼の言っていることもあながち嘘だとは言い切れないのではありませんかね。しかし、その辺りの真相はいくらぼくでも調べようがありませんからね。いや待って下さい。ぼくには無理だが、あの連中には出来るかも知れない」と言って、亮は橘氏に自分の今思い付いた考えを語って見せるのだった。彼には自分を支持してくれた二人の上司がいたのだが、「その二人を使って、経営会議で何があったのか、もちろん彼らも参加していたのだから、きっとどのような話しがあったのか知っているはずだし、もし必要なら彼らにその辺りの真相を探ってもらうことだって可能ではないだろうか」亮は、そのようなことを橘氏に話し、「それに」と、こうも続けたのだ。「彼らの忠誠心を試すためにも打って付けの仕事ではないだろうか。彼らがどれだけ自分を支持してくれているのか、それを確認するためにもやってみる価値はあるかも知れない」と、亮はもはや自分は彼らの主人だという気になっているような意気込みで、自分の思い付きに夢中になるのだった。
そのうち、二人とも酒が回ってきて、先程、自分たちが木戸専務と話したことについて、あれこれと分析してみるのだった。亮はまず、どうしてあのような場違いな演説をしたのかという疑問を橘氏にぶつけたのだ。すると、橘氏は、何やらニヤニヤしながら、そんなことくらい察しろよとでも言いたげな様子でしばらく黙っていたが、「お前さんは」と、すっかり酔ってしまったのかタメ口でこう話し始めたのだ。「お前さんは、あの男のことをひどく持ち上げていたが、それは果たしてきみの本音かね?もし本音なら、おれがどうしてあの男にあのようなことを言ったのか、それくらいのことは分ってくれてもいいと思うんだがね。それにお前さんは、何を頼りにあの男と社長の座を狙って争うつもりなのかね?お前さんを支持して立ち上がった、例の物好きな連中を頼りにして戦うつもりか?しかし、それはどう見ても分が悪いな。おれには今度のことで、あの専務がどういう人間かよく分ったような気がするんだ……」とてもじゃないが、お前さんが敵うような相手ではないという言葉が、その後に続くはずだったのだが、それがなぜか喉の奥に引っ掛かったまま出て来ることはなかったのだ。橘氏は、彼らしくないほど弱気になって、亮の顔をもはや勝負は付いているといった悲しげな表情で、力なく見詰めるのだった。亮は、橘氏の意外な見解に、なぜかひどくプライドが傷つけられたような気になったのだ。というのも、自分はあの専務と対等に話し合ったという思いがどうしてもあり、彼の酔いに任せた皮肉な調子が正直ひどく気に障ったからである。
一月ほど経ったある日、思わぬ知らせが亮のもとに飛び込んできたのだ。彼を営業課の取締役部長に任命するという、何とも意外な辞令が突然降って湧いたからである。亮はこれで自分の野望の実現に向けて、ますます好都合になったと喜ぶのだった。この意外な人事は、どうやら木戸専務の強い押しがあったからだという、まことしやかな噂が流れたのだが、その真相は今のところ分らないが、そのうち分かる時が来るかも知れない。正式な辞令はまだ先なのだが、彼もこれで、この会社の経営を担うことが出来る立場に一歩近づいたわけである。
亮は、以前上司に頭を下げて頼んで置いた、例の選挙協力のことで何か分ったことがないか聞くために、彼らを密かにクラブ「ラビリンス」に呼んで、その報告を受けるのだった。とはいえ、曲がりなりにも彼の上司でもあるので、そこは丁重に彼らのメンツを立てて、彼らの労力に対して素直に頭を下げるのだった。しかし、その結果はあまりパッとしたものではなく、というより、まったく呆れるくらい何も分らなかったのである。何か真相にたどり着くヒントくらいは聞かされるだろうと期待していたのだがそれすらなかったのだ。さすがに亮も、これでは先が思いやられると思ったが、しかし、ここで切れたらそれこそ元も子もなくなってしまうので、そこは我慢して彼らのその凡庸な調査力に呆れながらも、人を上手く使うにはこの程度のことで、一々癇癪を起こしてはいけないと彼なりに自制するのだった。彼らだって、一応自分の未来を亮に託した以上、慣れないことにまで首を突っ込んで汚れ仕事をやって見せたわけである。いくら何の成果もなかったからといって、部下である彼が変な態度を見せることなど、もってのほかであることくらい彼もよく分っていたのだ。そこまで彼もバカではないから、いくら先代の息子とはいえ、組織の人間としての常識を守りながら、そこは上手く行動しなければいけなかったわけである。実際に、彼らはこの一月というもの、彼らなりに暇を見つけてはあちこちと密かに探ってはいたのだ。しかし、なかなか思うようにいかなかったのである。つまり彼らなりの忠誠心というか、自分の野望のためにというか、そういうものを抱きながらそれなりの努力はしていたわけである。ところが、そんなある日、木戸専務から二人に直接呼び出しがかかったのだ。彼らはいったい何事かと思いながら、執務室に二人揃って入って行くと、そこには何と社長自らも控えていて、彼らを見るなり立ち上がると、何時もの柔らかい物腰で二人を出迎えたのである。これには、二人とも驚いてしまい、いったいこれから何が始まるのかと身構えるのだった。木戸専務がまず二人をソファーに座るよう促すと、社長と専務がテーブルを挟んでそれぞれ並んで彼らの前に鎮座するのだった。すると、まず専務が何時もの穏やかな、それでいて重みのある声でこう言ったのだ。
「いや突然お呼び立てして申し訳ありませんでした。でも、とても重要なお話しでもありますので、こうして社長も交えて、お二人とお話しさせて頂こうと思ったわけです。ですがその前に、あることでちょっと確認しておきたいことがあるのですが、それはほかでもございません。先の経営会議で決定した選挙協力のことなんですが、あれについてはあなた方も確か否決に回ったと私は承知していたのですが、何かそこに不審な点でもあったのでしょうか?いや別に大したことではないのですが、それでも、ここで一応確認だけはして置きたいのです」こう言って、木戸専務は二人に確認を取るのだった。二人は、もちろん否決に回ったと正直に白状したのだが、どうやらこれはまずいことになりそうだと彼らも何となく察したのだ。自分たちの情報活動がどうやらバレたのかも知れないと思ったからである。
「いや何もあなた達の行動をどうこう言っているのではありません。まあ念のためにということでご了解して頂ければ幸いです。で、それはそれとして先程も言いましたが、ある重要な問題が発生してしまいましてね。それが実に難しい問題でもあるからです。あなた達も我が社の現状はよく分っているとは思います。正直とてもこのままでいいはずがないということもご存じのはずです。で、そういう危機的状況である我が社を立て直すために、ある人物から一つのとても過激な意見が提出されたのです。その人物の申すところによりますと、我が社を立て直すには経営に責任のある者たちをすべて入れ替える必要があると強く主張したということなんです。我が社には、まだこういう無茶なことを平気で言う逸材がいたのです。今まで誰も考えもしなかった、いや、そんなことは自分の安泰だけを考えている人間からは絶対出て来ない言葉だからです。恐らく先代の社長を除いてはみな似たようなことを思っているに違いないからです。もし、先代が生きていらっしゃれば、きっと今いる経営陣は即刻クビでしょう。しかし、もはや先代はこの世にはおりませんから、少なくとも会社がつぶれない限り我々は一応安泰ではあるわけなんです。で、この問題を次の経営会議にかけてみようかと考えているのですが、その前に、こうして一人一人この会社の経営に責任のある人達を呼んで、忌憚のない意見を聞いているというわけなんです」




