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亮は自分の書斎に戻ると今彼女と話したことをもう一度ゆっくりと考え直してみるのだった。するとこれこそ橘氏が話していたことそのものが、はっきりとした形となって表れた証拠ではないかと思ったのだ。『恐らくあの女はもっと色んなことを知っているに違いない。あれは氷山の一角だ。ちょっと仄めかしたに過ぎないのだ。でも兄貴は何でまた彼女にあんなことを話したんだろう?いや兄貴とは限らない。もしかしたら木戸専務から聞いたのかも知れないからな。でもこれであの女の正体がはっきりしたということだ。それにしてもあの女の韜晦趣味にはまったく呆れるばかりだ。夫婦は一心同体だと?本気でそんなこと信じてるんだろうか?それともおれに対する当てつけか?いやそんなことに一々引っ掛かっていてはだめだ。それこそあの女の術中に嵌まるだけだからな。それより恐らくあいつは木戸専務からもっと色んな情報を聞いているに違いないのだ。いったいこれからどうしたらいいのだろう?橘氏に報告すべきだろうか?いや彼に報告してあの女の対処法を聞いても恐らく何の助けにもなりゃしないだろう。しかし、こっちは信頼すべき相談相手もいないのだから、彼に話しをするだけでも何かの足しにはなるかも知れない』と思って、さっそく橘氏に今あったことを報告するのだった。すると彼から逆に意外な話しを聞かされたのだ。今度、木戸専務と直接会うことになったと言うのだ。いったいどういうことなんだと亮もさすがに驚いて、橘氏のあまり滑舌のよくない話しに耳を傾けるのだった。二人の会話を分りやすく整理すると次のようになる。
「来週の月曜日に木戸専務が会いたいと言って来たのだ。きっと選挙のことに違いない」と、橘氏は興奮しながらさらにこう続けるのだった。「この前の選挙では惜しくも僅差で敗れてしまい悔しい思いをしてしまったが、今回は思ってもいないような追い風が突然吹き始めて来たからね。現職の市長もさぞかし慌てているに違いない。長年の実績があるといっても自分だけが偉いわけじゃないからね、それとも自分以外みんなバカに見えたのだろうか?ありがちなことだが、でも部下を殴るなんて人間としてあるまじきことではないか。もちろん本人は否定しているのだが、実際のところどうなのか議会で問題になるらしいのだ。どうもそうなるとその問題の真意よりも、こうなった以上次の選挙で影響が出ることもはや必定ではないか。こっちとしても問題の争点がはっきりして有利に戦えることだけは間違いないことだからな。そうなればもはやわが勝利すでに確定せりってところだと思うのだが、きみはどう思う?」「まあ、そうあって欲しいもんですが、でも何でまた木戸専務があなたに会いたいなんて言って来たんです?」「だからそれは今度の選挙のことで自分を直々に励まそうと思ってのことじゃないかな。いやきっとそうだよ。前回のリベンジを果たすために。会社も恐らく私が有利だと判断して応援する気になったに違いないんだ。そこでなんだがどうだろう、きみも私と一緒に同席する気はないかね?」と橘氏がいきなりおかしな提案をしてきたのだ。しかし亮は、「いったい何のためにですか?第一このぼくがご一緒したらきっと変に思われるでしょう」と、さすがに亮もそれはないだろうと思ったのだが、橘氏は、「いや別に変でも何でもないさ。だって、きみは以前の選挙の時にも応援してくれたのだし、今回だってそういう理由を付けちゃえば何の問題もないじゃないか」と実に適当なことを言って亮を無理やり誘い込もうとするのだった。そういうわけで何だかあまり納得のいかない話しだったが、それでもあの木戸専務と同じ席に立ち会うことによって、彼がどういう人間か目の前で確認することが出来るというわけだ。こんなチャンスはそうないので、橘氏の奇妙な提案に乗らない手はないのではないかと考えるのだった。これは後で分ったことなのだが、橘氏はどうやら、ある思惑があって彼を木戸専務に近づけて置きたかったようなのだ。というのも、いくら先代の息子とはいえ、何と言ってもまだあまりにも力の差がありすぎたからである。彼は先代の右腕であり、彼が先代の後継者として、そのまま後を引き継いでも決しておかしくないくらいの実力者でもあったからだ。しかし先代の遺言により卓の後ろ盾として面倒見てやってくれということでもあり、彼としても恩のある身として黙って従ったという経緯があったのである。そういうわけで橘氏も何とか亮を木戸専務に引き合わせて、彼の後ろには自分がいるということを彼の先々のためにも印象づけて置いた方が得策だと考えたわけである。なぜ橘氏がそこまで亮に肩入れしたかと言うと、やはりそこには彼だけではなく娘の将来も懸かっていたからである。このままもし彼が失敗するようなことにでもなれば、そこれそ娘の人生にもかなりのダメージを与えてしまうからだ。父親としては、そんなことは考えたくもなかったので、何としてでも彼には頑張ってもらわなければならなかったのである。ところが橘氏にとって一番当てにしていた思惑がここで大きく崩れることになってしまったのだ。と言うのも前年の業績があまりよくないところに、突然の景気悪化で更に業績が落ち込んでいしまい、二年続けての赤字続きでV字回復もままならず、挙げ句の果てに社長の進退問題が表面化しそうな雲行きでもあり、今回の選挙協力は残念ながら見送らせて頂くということに決まってしまったからだ。この決定に一番こだわったのは木戸専務本人であり、社長は珍しく最後まで反対したのだ。しかし、こう経営が手詰まりな状態でありながら、政治献金まで出したことによって、それが後で経営に響きでもしたら、それこそ大問題になり、そうなっては会社の信用にも関わることなので、今回は見送った方が無難だという意見が経営会議で大勢を占めてしまったのである。社長も仕方なくその決定に従うしかなかったのだ。橘氏には申し訳ないのだが、社長はその決定を報告するために木戸専務を送ったというわけである。しかし、この決定にはどうやらこの専務の大いなる策略が潜んでいたようなのだ。
その日、二人は三十分ほど早く指定された高級料亭に乗り込んで、彼の到着を今か今かと待ち構えていたのである。木戸専務は時間通りに店にやって来て、まずこの席に亮がいることに驚いてしまったのだ。ということは、前もって同席させるということを知らせていなかったということであり、それはそれで問題ではないかと亮もいささか呆れ返ってしまったのだ。ところが、実際は自分の他に一人同席させて頂きたいという連絡だけはどうやらしていたらしのだ。ただその相手が亮だとは言っていなかったのである。なぜ言わなかったのか。それは橘氏に聞いて見ないと分らないのだが、しかし、こういう意味のあるようなないような訳の分らないやり方はお手の物であり、恐らく何らかの思惑があってのことだと考えた方がいいのかも知れない。
「今回、私どもをこのような席にお招き頂き、まことに感謝している次第でございます。ここにおります亮さんには、以前の選挙で色々とお世話になった関係で同席させて頂きました。確か事前にお知らせしたとは思ったのですが、もしお聞き及びでなかったとしたら、それはひとえに私の不手際によるものであり、彼には何の責任もございませんので、どうかそこのところは私のミスということでなにとぞご勘弁して頂きたいと存じます。それなら、なぜ彼をこの席に同席させたのかと言いますと、それはほかでもございません。御社の発展のためには彼のような人材は絶対必要になると思うからです。色んな経緯が過去にあったとはいえ、過去は過去として忘れるというわけではありませんが、あまり引きずらない方が会社のためにもいいのではないかと思われる次第です。まったく、私ごとき人間が何を出過ぎたことを言ってるんだときっとお叱りを受けるでしょうが、決して間違ったことを言ってるとは思っておりません。と言いますのも、これからの御社を救うのは彼かも知れないからです。いや少なくとも彼が活躍されることが、何よりも御社のためにもなるのではないかと信じているからです」
まるで彼の後援会会長でもあるかのような奇妙な応援演説は、この場の雰囲気をますますわけの分らぬものにする効果だけはあったのだ。しかし橘氏は、そんなことはほとんど気にもしないで、それより彼の思惑からすればこういうこともすでに計画に入っていたようで、たとえこの場にふさわしくなくても、この先きっとこの演説が役に立つ時が来ると信じていたのである。もっとも、どう役に立つのかそれは本人もあまりよく分っていなかったのだが、それでも亮が天下を取るには、今から相手に大いなる暗示をかけておく必要があると思ったからだ。もちろん、この演説が相手にどのように伝わったのかそれはまったく分らないが、しかし、相手もなかなか侮りがたい人間だったので、そこは彼のいかにもあからさまな応援演説を嫌な顔一つ見せずに、むしろ感心しながら聞いていたのである。ところが、亮は橘氏の意図がまったく読めなかったので、つまり彼がなぜそんなことを言わなければならなかったのか、それがいまいちよく分らなかったのである。それより、いったいこの演説にどう木戸専務が反応するのか、そっちほ方がとても気になっていたのだ。
「いや橘さん。あなたのおっしゃることは確かにもっともです。私も先代が残したもう一人の逸材を決して忘れているわけではないからです。彼も以前とは比べものにならないくらい変わりましたからね。先代が生きていらっしゃったらきっとお喜びになったことと思われます。私もあなたのおっしゃることにはまったく同感でして、彼こそ次代を担う主軸になるだろうと、このところそう思うようになっているんです。で、それはそれとして話しは変わりますが橘さん。あなたをこうした席にお呼びしたのはほかでもございません。今回のあなたの市長選挙のことなんですがなにぶんこのところの経営状態があまり芳しくなく、私も色々と手を尽くしてあれこれと説得を試みたのですが、まことに残念ではありますが今回の選挙には手を引かざるを得なくなりました。確かに橘さんは社長とは姻戚関係でもあり、ここにおられます亮さんの義父でもあるわけなのですが、なにぶん現在の我が社の経営状態では、いかんともしがたく社長も実に残念がっておりました」こうしていきなり飛び出した選挙支援離脱宣言は、いくら橘氏でもさすがにショックで、そのまましばらくは二の句がつげず相手の顔を、何やら腑に落ちなさそうな顔でジッと見るしかなかったのだ。しかし彼もこれが現実だと痛感したわけで、もはやそういうことならその決定を受け入れるしかないと、そう自分に言い聞かせるしかなかったのである。
「それはまことに残念なことではありますが、いやそういうことでしたらこちらとしてはただその決定に従うしかございません。私の事より御社のこれからの経営立て直しが何よりも一番大事なことですからね。しかしどうなんでしょう。そうなりますとますます上に立つ人間が大事になるのではないでしょうか。いえ何も出過ぎたことを言うつもりなど毛頭ございません。ただ私としましてはこのまま御社が危機的な状況にならないことを何よりも願っている一人だということを、どうかお忘れにならないで頂きたいのです。と申しますのも私も柏木家に縁のある身として、決して素知らぬふりなどとても出来ないという意味です。それだけでもご承知下されば、先代の右腕と言われたあなたのような辣腕経営者であるならば、私の言うこともきっとご理解して頂けるものと信じておる次第でございます」
「もちろん橘さんは我が社とは縁の深いお方でもありますから、決して疎かなお付き合いなどとても出来ませんので、そこはどうか誤解のないようにお願い出来れば幸いでございます。確かにあなたが市長に当選なされば、我が社を始めこの町に多大な恩恵をもたらすだろうことは今から確信しておりますので、今回の決定はまことに残念ではありますが、いずれ景気も回復すれば我が社も何とか持ち直せるのではないかと信じておりますので、どうか橘さんも何かと大変な戦いになるかとは思いますが、そこはあなたもしたたかな政治家として勝利を得るために死力を尽くして頑張って頂けるものと心より信じている次第でございます。これからお互いに大変な時期を迎える身として何とか頑張っていこうではありませんか。それでは突然で申し訳ないのですが、いったいどうすれば我が社の危機が救えるのか、ここで橘さんのお考えをぜひお聞かせ願えませんでしょうか。なにぶん私一人ではやはり何かと問題が大きいもんですから、ここで一つあなたの政治家としてのビジョンをお聞かせ願えれば、何かと参考になるのではないかと思うからです」
いきなりビジョンを聞かせろと何やら無理な注文を受けた橘氏は、さすがに困った顔をして見せたのだが、そこは慣れたもんですぐに受けて立ったのだ。
「いやとんでもございません。あなたのような優れた経営者を前に、私ごとき人間がいったい何を言えばいいのでしょうか。しかしまあ、そういうことでしたら、お言葉に甘えて一つだけ言わせて頂きたいと思います。どうでしょうか。ここで一つ大きな賭に出てみては。いや賭けなどと言う言葉は堅実な経営をモットーとしている御社にはふさわしくないかも知れませんが、しかし行き詰まった時には大きな賭に出ることも必要なのではありませんかね。つまり心機一転というのでしょうか、いつまでもダラダラと死を待つようなことをしていたのでは、それこそ先代に申し訳ないのではないでしょうか」
「そうですね確かにあなたのおっしゃることも一理あると思うのです。というのも先代がもし生きておられれば、きっとこういう経営状態を立て直すために思い切った手を打っているだろうということは、もはや明らかなことだと思われるからです」
「なるほど、そうなるとどうなんでしょうか。まさか何もしないなんてことではないでしょうね。漏れ聞くところによりますと社長の進退問題が取り沙汰されているとかで、そうなりますとなかなか御社も大変なことになるかも知れませんね。しかし、そうなる前に何とかそれこそ思い切った手を打って出たほうがかえって苦境を脱することになるかも知れませんよ。どうでしょうか木戸専務。あなたも並のお人でないことは誰もがご存じなんですから、ここであなたの本当の実力をみんなに見せる時が来たのではないでしょうか」
「もちろん何らかの手を打たねばならないことは当然ではあるのですが、何しろ色々と問題がありましてね」と、木戸氏は何気ない様子で亮の方を見るのだった。まるで彼が何か問題を起こしているとでも言いたげな視線を彼に向けたのだ。彼もその怪しげな視線をまともに感じたのだが、きっとこれは何かのチャンスが転がり込んで来たのではないかと直感するのだった。この機会を逃せばもはや二度と同じような場面は訪れないだろうと言うこともその時はっきりと感じたのだ。彼がどこまで知っているのか、それを確かめるだけでも何か言っておくべきではないのだろうか。それは確かにそうなのだが、なかなか橘氏のようにはいかなかったのだ。しかし彼もここは自分の将来を決めるためにも、何か思い切ったことを言って置くべきではないかと覚悟するのだった。




