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ところが橘氏は、ここで自分の目論見をさらに確実なものにしようと、あることを暴露することによって彼を焚きつけ、何としてでも同意の方向に持って行こうと全神経を結集するのだった。
「実を言いますと、これはあなたにとってかなりメリットがある提言だと思われるんですがね。と言いますのも、あなたが次期社長になるべく密かに画策をしているってことを私は知っているからです。いいえ隠してもダメですぞ。私にはあなたの野心くらい昔からちゃんとお見通しなんですから。いいですかな亮さん。あなたがご自分の出世のためにお兄様を追い落としたいと思っていることは、ある筋からちゃんと情報は得ているんです。いえ誤解なさってはいけませんよ。何もお兄さんのためにあなたの出世の邪魔をしたいなんて思ってるわけではありませんから。そうではなく、あなたの野心の実現のためにも私の提言は必ずお役に立つはずだとそう言っているんです。だって、あの禮子嬢が黙ってあなたの野望を許すわけがないからです。そんなことはあなただって十分ご承知のはずだ。いいですかな亮さん。ここはあなたにとって本当に思案のしどころなんですぞ」と言って、橘氏はここまではっきりと言った以上、彼だってもはや承知するしかないだろうと思うのだった。すると亮は、何でそんなことまで知っているんだと不審に思ったのだが、それでもやはり彼だって自分の娘婿の出世に関心がないわけがないので、そのくらいのことは知ってて当然なのかも知れなかったのだ。しかし彼がいったい何を考えているのか、これでますます分からなくなってしまったのである。あれほど兄貴のために禮子の行動を監視すべきだと言っておきながら、今度は彼自身にその矛先を向けて来たのに驚いてしまったからだ。『まったく何が思案のしどころだ。おれにメリットがあるとかなんとか調子のいいこと言っても、それはたんに、おれにスパイのまねごとをさせたいがためなんだろう』と、彼も次第に疑いを深めて行くのだが、そのメリットなるものがいったい何なのか、それがやたらに気になって来るのだった。
「いや橘さん。まったくあなたという人には毎度びっくりさせられていますが、今度のことだって正直ぼくには何のことやらさっぱり分からないんですよ。正直に言ってしまいますが、あなたの本当の狙いはいったい何なんでしょうか?まず、それをお聞きしたい。いいですか。ぼくだって最初からあなたを疑って掛かっていたわけではないのですからね。あなたももう少しまじめにご自分の狙いをはっきりとさせてもいいのではありませんか?それでなければ、この話しはなかったことにしてもいいのですからね」と言って、亮も橘氏がいったい何を考えているのかそれをハッキリさせないかぎり、こんな茶番じみた交渉にいつまでも付き合っていられないといった態度をして見せるのだった。「それにしても橘さん。あなたも昔とちっとも変わっていませんね。いや、ますます磨きがかかってきたのかも知れません。政治家としての嫌な資質がどうもあからさまになって出ているように思えてならないからです。だって、こんな手の込んだ茶番を平然とやってのけるんですからね。まったく兄貴のことを散々ぱら持ち上げていましたが、あれは嘘で本音はまた別のところにあるってことなんでしょう?」
「いや、それはちょっと違いますね。私はね、お兄さんの人柄を決して茶化したりなどしていませんから。もしそう受け取られたのならそれは大きな誤解ですね。よろしいですかな亮さん。私がどれだけお兄さんのことを尊敬しているか、あなたにはまだよく分かっていないようだ。私はご覧のようにデタラメな人間ですが、そんな私でもお兄さんだけは尊敬に値する人間だと、あの時私にはそう確信できたからです。ですから私は何もいい加減なことを言っているわけではないのです。私の言うところに嘘はないのです。お兄さんは確かにあのようなお方だが、だからこそこのまま放ってはおけないと私は言っているだけなんです。で、そのメリットなるものですが、あなたもやはりお聞きになりたいのではありませんか?何ももったいぶっているわけではありません。それではそのメリットですが、いったいあなたにどのような利益をもたらすことになるのかそのことをお話しさせて頂きます。やはり禮子さんという存在がどうしてもこの問題に関係してくるのです。いったい彼女がなぜお兄さんと結婚したのか、それは今でも大きな謎ですが、私もね、そのことをずっと考えていたのですがやはり分からないのです。むしろあなたの方がよくご存じではないかと思ったのです。と言いますのも彼女とは昔から因縁浅からぬ関係でしたからね。それが先程のあなたのお話しを伺いながら、まるで他人事のようなことを言って済ましておられたのが、かえって変に思えて来てしまったわけです。いえ何もあなたを疑っているわけではありません。ただ私には、あなたご自身が彼女と結婚してもおかしくはなかったと思っていましたので、それがなぜお兄さんと彼女がそういう関係になってしまったのか、そのことが実に不可解千万なことだと思っているだけなんです。で、そのメリットですが、あなたが社長になるにはもちろんあなたお一人の力でなれるわけではありませんからね。あなたを支持する人間がいなければならない。あなたはその点でどうやら抜かりはないようだ。私はある人物を知っているのですが、その人物からある情報を得ることが出来たのです。それによりますと、どうやら禮子さんがある重要人物とすでに連絡を取り合っているということが分かったのです。これはあなたにとって、実にまずいことになる可能性が出て来てしまったというわけなんですが、そこで、あなたが彼女の動向に関心を持つだけでも、そのまずい状態を回避することが出来ると思うからです。いや持たなければならないわけですよ。それでなければ、いいですか亮さん。あなたの社長への道はずっと遠のく可能性が出て来てしまう事にもなりかねないのです。でもあなたがそれでもいいというなら話しは別です。この会社はあなたの父上が創業したものであり、あなたにだってその権利はあるわけですからね。黙っていてもあなたのものになることは可能性としてはずっと大きいからです。しかし、現代のようなめまぐるしく変動する社会では、創業者家族がいつまでもその権利を握っているわけにもいきませんからね。しかしまあ、そんなことは当面の問題ではありません。問題は今現在のあなたのお気持ちにあるわけですからな。いいですか亮さん。あなたが禮子を監視したとしても、そこに道義的な問題など起きようがないのです。いや、むしろそれはあなたにとって当然の権利だと言ってもいいくらいですよ。だって禮子さんは、まさしくあなたの前に立ちはだかる邪魔な存在になるかも知れないからです」
いったい彼は何を言おうとしているのか、それはあまりにも夢のような話しに聞こえたので、亮にはいまいちピンとこなかったのだ。『いったい彼はおれに何を警告しているのだろうか』それにやたらに禮子のことを心配していることが妙に気になったのだ。『彼女がおれの出世を邪魔するなんて、そんなことが実際にあり得るのだろうか?』
「ところで橘さん。あなたの講釈はとても面白いのですが、しかし、何だかそれはあまりにも夢物語のように聞こえてならないんですがね。いったい、なぜそんなに禮子さんを恐れる必要があるのでしょうか?先程も禮子さんがぼくの野望を許すわけがないとおっしゃいましたが、それは本当のことなんですか?だって、どこにそんな証拠があるんですか?あなたのお話しを伺っていると、まるで彼女がその事のために兄貴と結婚したようにぼくには聞こえてしまうんですけどね。いやたとえそうだとしてもですよ、正直言って彼女にそんなことが出来ようとはとても思えないんですが」亮は彼なりに彼女の今回の結婚には、もちろん何かしらの企みがあるだろうくらいは考えていたが、橘氏の言うような、それが自分の出世に直接影響を持つとは、まったく考えてもいなかったのだ。
「おお、そんな悠長なことを言ってては、それこそ相手にすっかり先手を取られ、こっちが打って出ようとした時にはもはや手遅れなんてことになりかねませんぞ。いいですかな亮さん。あなたにはまだ、どこか甘いところがあります。もちろん、失礼を承知で言わせてもらうのですが、と言いますのも、すでに戦いは始まっているからです。あなたの気が付かない所で、すでにあらゆる謀略が進められているからです。それでもまだ、あなたはそんな暢気なことを言って、ご自分の立場をますます不利なものにしてしまうお積もりなんですか?いいですか亮さん。それなら私が今ここで、あなたの味方であることをまず宣言し、あなたがどのような策略にはめられようとしているか、その証拠をこれからお聞かせしたいと思います。先程、禮子さんがある重要人物とすでにコンタクトを取っているという話しをさせて頂きましたが、その重要人物というのが、卓さんの右腕といってもいいあの木戸という男です。もちろん、このことはまだ表沙汰にはなっていません。それに専務との関係は、彼女がまだホステスとして働いていた頃からのものであることは、あなたもご存じだと思います。それが社長の妻となった今なぜそのような動きを起こしたのか。それはもちろん想像の限りで、確かなことは言えませんが、それでも大凡の見当は付くというものです。これだけの事でも、禮子を警戒することが、いかに重要であるか、あなたにだってお分かりでしょう?相手は、この会社を実質的に牛耳っている男なんですからね。そのような男と禮子が手を組んだとしたら、恐らくあなたの社長という目は遅れるどころか永久に潰される可能性だってあるわけです。どうですか、これだけ言ってもまだ目が覚めませんか?」
しかし、正直亮には、ここまで言われても、まだ腹の底から信じることが出来なかったのだ。いくら木戸専務と禮子が手を組むといっても、それがなぜ自分にとってそんなに不利になるのかよく分からなかったからである。そもそも彼女に経営の何たるかなど分かるはずがなかったのだ。そんな彼女がいくら兄貴の妻になったとしても、どうして会社の経営に口出しなどが出来るというのだ。出来るわけがないではないか。とはいえ、橘氏からそこまで言われてしまうと、まだはっきりと目が覚めたわけではないのだが、どうやら耳の奥で何やら警戒音が鳴り出していたことだけは確かだったのだ。それに、ここまで来ると、もはや禮子の動向をそういう目で見てしまうことだけは避けられそうになかったのである。ということは、嫌でも彼女を監視しないではいられなくなるわけだ。それなら残る選択はただ一つ、彼の話に乗っかるしかないわけである。たとえそこに道義的な問題があったとしても、彼女をこれから監視しなければならなくなってしまうわけである。まったくバカげた話しが現実になろうとしているのだ。
「うーん、それじゃ仕方がありません。あなたのご指摘通り禮子さんを監視して、もし問題があればあなたに連絡してその対処法なるものを伝授してもらいますよ。それで、よろしいですね」と、そこまで言うなら、ここは一つ彼の話を信じてみようかと思ったのだ。別にそうしたところでこっちが不利になるわけでもないので、この際彼女が何を考え、どう行動するか自分の目で確かめてやろうと思ったのである。
「それでこそ、私の娘婿。これであなたもきっと満足のいく人生を送れることだけは間違いありませんぞ」と言って、橘氏はしてやったりと腹の中でほくそ笑むのだった。
こうして橘氏の思惑通りのことが実際に動き始めたのである。しかし、橘氏にしてみれば、これはほんの手始めにすぎず、まだ十分なものではなかったのだ。とはいえ、これだけでも彼にとってみれば大きなアドバンテージを手にしたことだけは確かで、これであの女の考えや行動が、すべて筒抜けとなるわけである。『今まであの女に散々ぱら虚仮にされて来たが、今度はこっちがあの女を虚仮にしてやる番だ』と、何やら胡散臭い考えが彼の脳裏を駆け巡り、彼の少しいかれかかった頭をますます興奮させていくのだった。
ようやく柏木家にとって、一番待ち望んでいた新しい家族が誕生して、家の雰囲気もすっかり変わったように感じられたのだが、禮子もホステス時代の雰囲気など微塵も感じさせないくらい様変わりしていたのである。もちろん、それは彼女の覚悟の表われでもあり、誰もがその変身ぶりに驚いていたくらいなのだ。いくら何でも、そう簡単に新しい環境に慣れることなど出来ないだろうと誰もが考えていたので、それがここまで裏切られるとは正直予想もしていなかったからだ。
結婚式が無事に済んですでに二ヶ月ほど経った今、彼女もすっかり柏木家に溶け込んでいるように家族には見えたわけで、その点で誰もが内心喜んではいたのだ。とはいえ、なかなか人の本心など実際のところ誰にも分からないので、彼女だってひょっとして仮面を被っているのではないかと疑えば疑えたわけである。確かに、誰にでも秘密と言うものはあるのだが、だからといってそれは人間である以上なくならないもでもあるわけだ。今回の結婚にしてもそうで何も最初から彼女にはっきりとした意図なるものがあったわけではないからである。そんなことより彼女が生きるうえで避けて通れない問題にぶち当たったと考えたほうが当たっているかも知れないからである。つまり、自分が女である以上その本能に従うのが一番いいのだが、今までそれがどうもうまくいかなかったということなのだ。要するに自分にとって一番大事な問題を、ここではっきりとした形にしなければならないと考えたわである。今まではそこに色んな問題が絡んでうまくいかなかったわけで、というのも彼女にとって愛という言葉になぜかとても違和感を覚えていたからだ。彼女はこの言葉を聞くと全身に虫唾が走るくらい拒否反応を起こしてしまうからである。とはいえ人間にとってエロスこそ一番大事なものであり、それなしに生きることはとても耐えられないくらい苦しいのではないだろうか。もちろん彼女だって、そんなことはよく分っていたのだが、なかなか今まで上手くいかなかったわけである。確かに、彼女の男性遍歴をざっと見ても、そこに見えて来るのはどうも普通の女性が考えるような常識的な愛とは、ちょっと違った形がどうしても見えてしまうのだ。もちろん、どんな形なのか具体的に言えといわれてもなかなか言えないのだが、それでも彼女にしか持ち得ないような、ある独特な形がそこに見えて来るのではないだろうか。やはりその形は結婚というものと切り離して考えることが出来ない、何か自分だけのものを作りたいという強い欲望がそこにあるみたいなのだ。それは何もお金のためとか、市長夫人とか、社長夫人とか言ったような名誉な形とはちょっと違っているのかも知れない。もっと何というか自分の情熱をすべて捧げられるようなものでなければならなかったようなのだ。それなら橘氏と別れた理由は、そういうものが彼には感じられなくなったということなのだろうか。つまり選挙に敗れた情けない男として彼を見限ったというわけだ。ところが、一概にそうとは言えないところもあるので困ってしまうのだが、おまけに彼女自身もその辺のことになるとなぜか口を拭っているのである。
柏木家の人達は、彼女があまりにも従順で波風一つ立てない生活を送っていたので、嬉しい反面なんか不気味な物をそこに感じてしまうのだった。というのも、やはり誰もが彼女にある種の先入観を抱いていたわけで、それはやはりみんなの意識から払拭できないほどの強い力を持っていたからである。亮も内心拍子抜けしてしまった一人だったのだが、こう毎日が平穏無事に過ぎて行くようでは彼女を監視するにしてもまったくの無駄骨になりかねなかったからである。つまり橘氏の話しを信じた以上、彼女をそういう目で見てしまうわけで、それが何時まで経っても何の変化もないようでは彼としても困るわけである。というのもいくら身内になったとはいえ、疑いを抱いている身としてはなかなか自然体で彼女とお喋りするだけでもどこかギクシャクしてしまうからである。もっとも彼にスパイのまねをうまくやれということ自体どこか無理があるわけでなかなかそう簡単にはいかなかったのだ。とはいえ、あれだけ橘氏に脅かされたらいくら何でも平静でいろというのが無理であり、どうしたって妙な質問をして変な顔をされたりするからである。というのも彼はあれからよく考えて見たのだが、もし自分の夫が弱気になって社長を辞任したいなどと彼女に相談したとしたらいったい彼女はどうするだろうか。恐らくそんな弱気になった夫の尻を叩いてでも何とか撤回するように叱咤激励するに違いなにのだ。ひょっとして兄貴も雌鶏勧めて雄鶏時を作るではないが、その気になって逆に頑張ってしまう可能性だって出て来るわけである。亮はある一つのシナリオを思い描いていたのだ。それは会社の業績の悪化を理由に社長を辞任に追い込むというもので、これはほぼそうなる可能性が次第に大きくなっていたからである。彼としても、そういう道筋でこれからのことを計画していたのだが、それが禮子によって破られるかも知れないのだ。これはこれで彼女が会社の経営に口を出すなんてことよりよっぽど現実味があり、そういうことなら彼女もやるかも知れないからである。となるとなかなかシナリオ通りには事は進まなくなる可能性だってあるわけである。というのも社長があのような人間だから、下手にこっちが調子に乗って動くとかえって反感を持たれるかも知れないからである。いくら頼りない社長でも、誠実さと人望にかけては比類のないものを持っていたからで、会社の連中がこぞって彼の側に付いてしまうかも知れないからだ。とはいえ、それはまあ一つの可能性であり、何もその通りになると思う必要もないのである。もう少し冷静になってこれから起こることをその都度判断していけばいいのだ。何もそう先走って考えることもないわけである。しかし、こうなるとやはり彼女の存在はとても無視できないものであると、どうやら彼もそのことが分かって来たようなのだ。確かに彼女とこうして同じ屋根の下で暮らすことになったことだけでも、彼にとってみれば実に奇怪なことであったからだ。彼女とは確かに今まで色々とあったわけで、それがどうしてこういう関係に落ち着いてしまったのか、それだけでも何か気味の悪い実に嫌なものを感じないではいられなかったからである。これは確かに彼の立場からすれば、心情的に歓迎すべきものではなかったわけなのだが、もちろん彼はそこまではっきりとは意識していなかったのだが、ただ何となく心から喜べない何か変な虫の知らせなようなものが、彼をイラつかせていたことは事実だったのだ。しかし禮子の監視に忙しかった彼としては、とてもじゃないがそんな虫の知らせなどに一々引っかかってなどいられなかったのである。




