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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 橘氏は、さっそく亮と一緒にタクシーに乗り込むと、彼をある場所に連れて行くのだった。橘氏はこの時、何としてでも禮子の動向を探る必要があると思っていたので、それにはこの男からその情報を得るのが一番手っ取り早いと考えたわけである。彼としても、このまま手をこまねいて彼女のやりたい放題にさせていたら、とてもじゃないが男としての面目が保てないと思われたのだ。実際あんな豪華な結婚式を見せつけられて何も感じないなんてことは、振られた身としてはやはりあり得なかったのである。どうしても怨みがましい感情がどこからともなく忍びよって来て、彼を落ち着かなくさせてしまっていたからだ。現に彼女の幸せそうな晴れ姿を見ていると何か知らないが後から後から妄想が浮かんで来て、結局あの女にふさわしい男はこのおれ以外にいないのだと突然うぬぼれてみたり、そもそもあの女には道義心というものがないのだろうかと怒りに震えてみたりと、かなり心理的に追い詰められていたことだけは確かだったようだ。すると橘氏は、このまま席を立って彼女の側まで行き、どうしてこんな結婚をしたのかと急に聞いてみたくなったのである。その衝動はあまりにも強く、もうほとんど行動を起こす寸前まで行ってしまったのだ。しかし、もしそんなことをしたらそれこそ人々から愚かな行為だとバカにされ、これまで築いてきた世間的な信用も一気に崩れ、恐らく次の選挙にも多大な影響をもたらし、彼の人生はそこで完全に終わっていたかも知れなかったのだ。ところが、そんな最悪な事態もどのような神の思し召しによってか知らぬが、あのホステス嬢が取ってくれたあまりにも非常識な行動のお陰で何とか押しとどまることができたのである。

 禮子がどうして卓のような男と結婚したのか、そのことは今でも彼にとっては一つの大きな謎であり、この結婚が彼女にとってどのような意味があるのか皆目見当もつかなかったのである。橘氏のような男には恐らく彼女が市長夫人を蹴って、社長夫人に乗り換えたと考えた方が一番納得しやすかったのだが、どうもそれだけではなさそうだと今では考えるようになっていたのである。彼の推理によると、彼女は決してあの男が好きで結婚したわけではないことは、彼女が言った「世の中何も色恋だけで動くものではない」という言葉でほぼ確信していたのだが、それでもあの時、娘という思いがけない邪魔が入らなければ、もっと彼女の真意に迫ることが出来たはずだと今でもまだその事を悔しがっていたのである。

 二人は、クラブ「ラビリンス」に到着すると、先程披露宴で橘氏を危ういところで図らずも救うことになったホステス嬢がさっそくお待ちかねで、二人を歓迎してくれるのだった。どうやら橘氏とはすっかり話しがついていたらしく、それもそのはず橘氏があのとき密かに彼女に頼んでおいたからである。

「柏木さん。こちらが禮子なき後、このお店のナンバーワンとなるであろう桂木茜さんです。あなたもぜひ贔屓にしてやって下さい」

「まだ禮子さんのように皆さんに愛されるような者ではございませんが、どうかよろしくお願い致しますね」と言って、彼女は披露宴の時とは打って変わって、さっそく商売上の顔になり彼の側にしおらしく寄り添うのだった。

「彼女はね、あの禮子嬢でさえ嫉妬するくらいの逸材でね。私もこの子には大いに期待しているんです」

「あらいやだ。そんなことをおっしゃって禮子さんがもし聞いたら、きっと首を傾げて笑うに決まってますわ」

「いや、そんな心配などもうしなくてもいいよ。だって禮子はもはやこの世界の人間ではなくなったんだからね。あいつはね自分の野望を実現するためにこの世界からおさらばしたんだよ。それもよりによって、今まで一度だって経験したことのない堅気(かたぎ)の世界に乗り込もうって言うんだから、ますますわけが分からんじゃありませんか。いったい彼女は何をしたいんでしょうかね。亮さんは、その辺の事情を何がご存じありませんか?」彼はこう言って、さっそく話しの本丸に亮を誘い込もうとするのだった。しかし亮には彼の狙いがイマイチよく分からなかったので、もう少し様子を見なければならないと思い、こう返したのである。

「橘さんのお気持ちは、ぼくにだってよく分かりますよ。まあ、あなたにしてみればいったいどうなってるんだってことでしょうからね。でもそんなことを言えば、ぼくだって同じです。あの禮子さんがですよ。よりによってあの兄貴と結婚するなんてまったく予想もしていませんでしたからね。いや実際、奇妙きてれつ以外の何物でもありませんよ。まったくわが柏木家にとって、恐らく前代未聞の椿事であることだけは間違いありませんからね」と言って他人事のように笑って見せるのだった。

 橘氏は、いったいこの男は何だってそんな平気な顔して笑っていられるんだろうと呆れてしまったのだが、それでもやはり彼をおいて彼女の情報は得られないと思い、何とか気を取り直してこう聞くのだった。

「でも亮さん。あなたご自身は、どう思っていらっしゃるんです?これから、あの禮子さんと同じ屋根の下で、一緒に仲良く暮らすことになるのではありませんか。あなただって、まったく関係がなかったわけではないんですからね。なのにどうして、そこまで落ち着いていられるんでしょうか?私だったら、とてもじゃないがそんな暢気に椿事とか言って笑ってなんかいられませんがね」と、最初は何とか辛抱していたが、それでもやはり我慢できずについ余計なことを口走ってしまうのだった。

「いや、関係したといっても昔のことではありませんか。それに、ぼくは一度だって彼女のことを好きになったことはありませんからね。むしろ彼女の方がぼくにまとわりついてきたんですよ。そのことをどうかお忘れなく。それに一緒に暮らすといっても、何も四六時中顔を付き合わすわけではないので、別にあなたが心配するようなことなど起こるわけがないのです」と、こっちもつられてつい本音が出てしまうのだが、それでも彼の狙いはこれではっきりしたと彼は思ったのだ。そう思うと、もう少し突っ込んで聞いて見たくなったのである。

「それにしても、橘さん。あなたも実にお気の毒な方かも知れませんね。だって、ご自分に落ち度があって、こんなことになったわけではないじゃありませんか。すべては、あの女の一方的な気まぐれなんじゃありませんか。そうでしょう?でも、あなたは律儀にもこうして禮子さんの結婚式にまで出席されたんです。まったく頭が下がるといいますか、でも、それにしてもですよ、いったい、そこまで義理立てする必要があなたにあったんでしょうかねえ?」

「何で私があの女のために出席しなければならないんですか?そんな道理に合わないこと私がするわけがないでしょう。ただ世間的なお付き合いに従ったまでですよ。私もね次の選挙が控えている身ですから、こういう大事なイベントには出席しないわけにはいかないんです。なにせお兄さんにはまたお世話にならなければなりませんからね。ですからこの際、私的な事情など気にしている場合じゃないんです」

「なるほどそうですか。ぼくとしても正直そういう言葉を聞いて一安心しました。だって、ほんとうに心配してたんですから。でもやはり橘さんも並のお人ではないと、これではっきりいたしました。ぼくはね、あなたにきっぱりと言って置きたいことがあるんです。何も彼女と一緒に暮らすことになっても、ぼくのことで心配することなど少しもありませんからと。ぼくはね、こう見えてお義父さんに心から同情している人間ですからね。それだけはどうか覚えておいて下さい」

 橘氏は、亮のこの発言を聞いて、おや、ずいぶん変なことを言うなあって思ったのだ。いったい彼は何を言おうとしたのだろうか。でもまあ彼がそういうことを言うのなら、こっちもそれを真に受けて彼の同情を大いに引こうと思ったのだ。これはこれで何かの時には使えるかも知れないとそう直感したからだ。すると橘氏はさっそく彼の同情につけ込んで、自分が前から考えていたある計画をこの男に話してみようと思い付いたのである。

「いや、あなたのそういう暖かな思いやりに今さらですが私もひどく感激してしまいました。私もはっきりいってもう歳ですからね。このまま何もしないでただ死んで行くのも何か人間として釈然としないのです。もちろん次の選挙では何としてでも当選しなければならないし、その対策も抜かりなく進めてはおるんですが、しかし私にはそれ以外にどうしても気になっていることが一つあるんです。それはですね、あなたのお兄さんのことなんです。あれはいつでしたかね。そう、私が自動車事故で入院していたときのことです。お兄さんがわざわざお見舞いにいらして下さいましてね。その時なんですよ、お兄さんのお人柄に改めてびっくりしたのは。実にその何て言いますか、まるで律儀さと誠実さが背広を着て歩いているようなお人だとその時感じましてね、このようなお方がまだこの日本にいたのかと驚いてしまったというわけなんです。というのも私はですね、このようなお人柄を間近で見てこう思わざるを得なかったからなんです。この人はきっとあの女にいいように利用され、ひどく苦しむだろうってことが、その時私の頭にイメージとしてはっきりと浮かんだからです。どういうことかと言いますと、あまりにも純朴過ぎるのです。あなたのお兄様は。これではとてもあの禮子嬢に太刀打ちできないとそう思ったからです。で、私はあることをそのとき考えましてね。つまり、お兄様にあの女の対処法なるものをぜひとも伝授させて頂きたいと思ったからなんです。そのためにもぜひあなたからお兄様にお口添え願いたいと思っているところなんです。このままで行きますとお兄様は、あの女にいいようにされてしまうことだけは間違いないことですからね……」と言って橘氏は、何とか自分の企みが成就できますようにといった顔で彼の反応を待つのだった。とはいえ、これはどう考えてもとてもまじめに検討されるべきものではないことだけははっきりしていたのだ。それでも亮は、こういう提案にもきっと何かちゃんとした彼なりの理由があるはずだと考え、彼も頭から否定することはしなかったのである。というのも彼にはよく分かっていたからだ。彼の苦しみがどこにあるのかと言うことが。こういうことを言うこと自体、その証拠を示していると言ってもいいからである。彼も実際気の毒な男ではあったのだ。選挙には敗れるし彼女には逃げられるし、それに次の選挙だって必ず当選するなんて保証はどこにもないのである。もしそれに負けたらいったい彼はどうなってしまうのだろうか。別に義理の父親だからというわけでもないのだろうが、何か同情を通り越して我が事のように心配する彼がそこにいたのである。すると何だか急に彼女の仕打ちが腹立たしく思えて来て仕方がなかったのだ。自分でさえこんなに怒りを覚えるのだから、きっと橘氏はそれ以上に腹を立てているに違いないのだ。そうなると、これは単に禮子に未練があるというより、もっと変にこじれた感情がそこにあるのかも知れない。確かにこういうことを考え出す彼の神経も少し問題がありそうだし、これはこれで一筋縄ではいかないものがあるかも知れないからである。それなら、いったいどうしたらいいのだろうか。仮にも義理の父親であり、昔からの付き合いもある関係で、そうつれなく断るもの気が引けるのだった。それでも何とか彼を説得して、この奇妙な提案を諦めてもらうしか他に方法がないわけである。実に厄介なことになりそうだと彼も困ってしまったのだが、このままほっとくわけにもいかないので何とかしなければならなかったのだ。

「でもね、お義父さん。兄貴はお義父さんが思うほどそんなに純朴な人間ではありませんよ。ああ見えてなかなかしたたかな所がありましてね。そりゃ女に関してはお義父さんの足下にも及びませんが、でもいくら何でもお義父さんが心配するようなことが起こるとはとても思えないんですがね」

「いや、あの女を舐めてかかってはいけません。それこそ手痛いしっぺ返しが待っているだけですから。いいですかな亮さん。あの女にとっちゃどんな男でも自分が必要ないと思ったら、さっさと捨ててしまっても何の痛痒も感じないのですから。現にこの私がそのいい例ですよ。選挙に負けたとたんゴミのように捨てられ、それでいてあの女は良心の呵責すら感じていないのですからね。まことに嘆かわしいことではありますが、それがあの女の真骨頂なんですから仕方がありません」

「ですが橘さん。あなたがおっしゃるその何でしたっけ。ええと、対処法でしたっけ、そう、あの女の対処法でしたね。それはいったいどのようなものなんでしょうか?いえね、橘さんのおっしゃることを分かりやすく兄貴に説明するためにも、やはり、その内容を知っておいた方がいいと思ったからなんです」

「確かにあなたのおっしゃることはもっともです。それでは、まずあなたにその対処法なるものがどんなものか少し説明させて頂きたいと思います。といっても別に難しいことではありません。亮さんご自身が彼女の様子に何かおかしな所があると感じたなら、それを私に報告して下さればそれでよろしいのです。その都度どうすればいいのか私がその対処法を伝授いたしますので、それで問題は解決するというわけです」

「ということは何ですか?このぼくがスパイになり彼女のことを監視しなければいけないわけですか?」

「いえ、スパイなどとそんな大それたことではありません。ただ日常生活においては、やはりどうしても意見の相違から(いさか)いというものが起こらざるを得ないわけでして、そういうちょっとしたことから問題が大きくなってしまうことがあるからです。それを防ぐためにも、あなたの監視がぜひとも必要になって来るというわけなんです。これは何もそんなに面倒なことではありません。だって同じ屋根の下で一緒に生活していれば、いやでも気が付かないわけにはいきませんからね」と言って、橘氏はいかにもこの説明で彼は納得するだろうと期待をふくらませるのだった。ところが亮からすれば、彼はどういうつもりでこんなわけの分からない理屈を考え出したんだろうと呆れるばかりだったのだ。いったい彼は何を狙っているのだろうか。こんな奇怪な企みの行き着く先にいったい何があるんだろうか。彼はすっかり疑心暗鬼に陥ってしまい、もはや為す術もないといった諦めにも近い気持ちでこう言うしかなかったのだ。

「しかし橘さん。あのですね今少しの猶予をぼくにくれませんか。これは非常に難しい問題だと思われるからです。いや正直に言ってしまいますと、あなたが何をなさろうとしているのかそれがよく分からないのです。もちろんお義父さんのおっしゃることも、なるほど一理あるとは思いますが、それでも、それを実行に移すとなるとそれは非常に難しいかと、つまり精神的に難しいかと思われるからです。いくら何でも、彼女の行動を監視するなんてことは道義的に言っても許されることではありませんからね。たとえそれが家庭内でのことであっても、やはり許されないのではないでしょうか」と、ここではっきりと道義的な問題があることを指摘してやったので、彼もこれでようやく諦めてくれるだろうと思ったのだ。

「いえ、そんなふうに取ってしまうから難しいと思ってしまうのです。いいですか亮さん。これは非常に大事なことなんです。あなたのお兄様がこの先どうなるか、その命運があなたの監視にかかっているからです。あの女はきっとお兄様を手玉に取り、いいように利用するだろうことはもはや明々白々だからです。いいですかな亮さん。ここは思案のしどころですぞ」と言って、諦めるどころか再考を促してきたのだ。これにはさすがの亮も開いた口が塞がらなくなってしまい、いったい彼は本当に正気なのだろうかとさえ思わずにはいられなくなってしまったのだ。

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