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もちろんこれはあくまでも仮説にすぎず、彼女の真意はいぜん謎のままであることには変わりはないのである。それでも彼女を知る上で一つの手掛かりにはなると思う。その後、彼女の意向通り二人の結婚式は、極めて豪華なそれこそ弟の時とは比べものにならないくらい盛大なものになったのだ。やはり、二代目社長の結婚式ということもあったのだろう、かなり有力な政治家や財界からも大手企業のお歴々が揃って列席してくれたわけである。もちろん一番喜んだのはおばあさんであり、何よりも息子の跡継ぎとしての孫の結婚式を自分の目で見られたということだけでも涙が出るほど感激したのである。しかし、この結婚式で一番列席者の好奇心をそそったのは、やはりこの新郎新婦の取り合わせにあったことだけは間違いないわけで、とくに禮子のその凜とした晴れ姿に商売仲間の後輩たちも、うっとりするくらい魅了されてしまったのである。もちろん誰もがこの結婚に祝福の言葉を掛けていたわけではなく、中には皮肉な調子で二人の前途を悲観するような話しを、それこそ面白おかしく話題にするような連中もやはりいたのである。
「私は予言してもいいが、いずれこの会社はあの女にいいようにされるかも知れないね」と、いかにも事情通を鼻にかけたような中年の紳士が確信ありげにこう言うのだった。
「えっ、いったいそりゃどういう意味なんです?」と、さすがに驚いてしまったのか、隣りに座っていた彼の友人らしき男がこう聞き返したのだ。
「決まってるじゃないか。あの女に乗っ取られるって意味だよ。ぼくはね、なんたってあの女のことなら何でもよく知ってるからね。あいつは実に食えない女だよ」
「そんな食えない女が、どうしてこんな立派な会社の社長と結婚できたんだろう」
「そりゃ、決まってるじゃないか。彼は純朴でいたってまじめな人間だからね。あの女にうまいこと丸め込まれてしまったのさ」
もう一つ特筆すべき出来事があったのだ。彼女の両親が娘の結婚式に出席したからである。両親とはほとんど勘当同然の絶縁状態がずっと続いていたわけだが、それがどういう経緯で出席することになったのか、そのことも一応お知らせしておいた方がいいと思うのである。彼女はこの結婚式に自分の両親を呼ばなければやはりまずいのではないかと考えたのだ。確かに彼のためにもそうすべきであり、このまま親の了解も得ずして結婚するわけにも行かなかったからだ。そこで足が重かったが、両親のもとへと二人して出向き、この度結婚することになり、勝手ではあるがどうか私達の結婚式に出席してくれないかと頭を下げたのである。彼女も、ここは世間の常識に従ったわけなのだが、その両親が驚きながらも今までの経緯もあり、そう簡単に承知することはなかったのだ。しかし二人の話を聞いているうちに、彼の素性も明らかとなり、これはどうも親として無視するわけにもいかないだろうと思ったのか、次第に軟化していくのだった。それでも娘の性格を知っている両親からすれば、なかなかこの結婚そのものがどうしても信じられなかったらしいのだ。ひょっとして娘は彼を騙してるんじゃないかとさえ考えたのである。とはいえキャリア官僚である父親としては、相手の社会的地位に不足はないわけで、自分の娘がどんな手段を使ってこのような玉の輿に乗ることができたのか、その理由はさておき相手の家のこともあり、やはり娘の親として出席しないわけにはいかないだろうという結論に至ったというわけである。もっとも娘の商売を知っている父親としては何事にも官僚的な考え方がこびりついていた関係で、そこは世間からの変な批判を受けないためにもその一挙手一投足に気を配るのだった。それに形式というものを誰よりも重んじていた父親からすると、やはり長女の結婚式の時も娘と一緒にバージンロードを歩いて来たので、禮子もその前例に倣って同じように歩かなければならないとどうしても考えてしまうのだった。で、そのことを娘に言うと、この歳になって今さらバージンロードでもあるまいと彼女も些か呆れたのではあるが、父親がやたらにそれにこだわって来たので、それは必ずしもしなければならないというものでもないと言って、どうにか父親を納得させ取り止めにしてもらったのである。
式も終わり、披露宴になると会場は一転して盛り上がるように進行するわけであるが、それでもただ段取りに従って進んでいるだけで、どこか心が通わぬ型通りのものだったのだ。それにやたらに祝辞が多く、それを一つ一つ聞くのもなんか退屈で、どうせこの結婚が、世間の常識を遙かに超えたものだと誰もが思っていたわけで、むしろ祝辞を述べるより一層のこと二人に今の心境でも聞いた方が、よっぽど盛り上がるんじゃないかと思われるくらいだったのだ。きっと彼女も気の利いたコメントの一つでも聞かせてくれるに違いなのだ。ところが、そういう通り一遍で退屈な小細工が進む傍らで、突然、禮子の後輩たちが誰かに向かって手を振ったりして、キャッキャと騒ぎ始める始末で、会場のあちこちから顰蹙のため息やら、笑い声が沸き起こったのだ。というのも、彼女たちもどうやら型通りのやり方に退屈してしまったらしく、辺りを見回すと席のあちらこちらに顔見知りもいて、自然と愛嬌を振りまいたというわけである。すると、その後輩たちの中でもとりわけ美人だった一人が、ある人物に気が付いて、彼女もその人のことは贔屓にしていたし、どうやら相手も手持ち無沙汰のようだったらしく、さっきから彼女の方をチラチラ見ていたこともあり、さっそくお酒の瓶を手に持つと、まるでここがお店とでも勘違いしたのか、その人物の席までのこのこと歩いて行き、さあどうぞといって手に持っていたお酒をコップに注ぐのだった。こうした場を弁えぬ行動が、まるでイベントの一環でもあるかのように、ごく自然に行われたのである。もちろん、その傍らで、披露宴は何事もないかのように進んでいたのだ。確かにそれは非常識極まりない行為だったかも知れないが別に騒ぐわけではなく、ただホステスとして、その顔見知りにご挨拶をしたというだけに過ぎなかったのだ。現に、その顔見知りもすっかり喜んでしまい自然鼻の下も伸び、祝福より嫉妬のほうが大きかった彼の荒んだ心も、彼女の思い掛けない行為によってある意味救われることになったのである。その人物こそ、誰あろうあの橘氏であり、彼も正直なところ逃げられた恋人の結婚式など遠慮したかったのだが、そういうわけにもいかずこうしてまかり越したというわけである。もちろん隣には紫音もいたし夫の亮もいたのだ。紫音などはすっかり呆れてしまい、いったいこの女がなぜ父親にこのような振る舞いをするのか、その訳を今すぐにでも父親に問い質したかったのだが、父親のいかにも気の抜けた間抜け面を見てしまうと、まじめに問うことすら諦めざるをえなかったのだ。
こうしたとても常識では考えられないような出来事が起こりながらも、披露宴はまったく完璧ではなかったにしろ、それでも何とか滞りなく終了させることができたのであった。おばあさんも禮子の両親と懇ろに挨拶を交わし、お互いの家の繁栄と幸せを共に願うのだった。こうしてすべてが恙なく終了すると、おばあさんもすっかり安堵して、さすがに神経を使いくたびれてしまったようで口数も少なく律子に車椅子を押してもらいながら迎えの車まで連れてってもらうのだった。もちろん胸の内は万感の思いで一杯だったのだが、やはり大変なのはこれからだと、どうしてもそこに考えが行ってしまうのだった。一方、紫音は、夫との関係があの事件以来どこかギクシャクしているように思えたのだが、夫はというと、なぜかそれほど気にもしていないらしく、自分がたとえ彼女の付属品だとしても、そんなことは今の彼にはそれほど屈辱的なことでもないらしく、それよりこれからの自分を見てくれといった気持ちの方が強かったらしいのだ。それくらい彼の野望は彼の生き方に大きく作用していたようである。で、夫がこれから二人で二次会に行こうと言ったとき本当は行くべきなのだろうが、彼女はなぜか帰ると言い出したのだ。彼にしてみればこのまま帰っても何も面白いことなどない上に、第一なぜ彼女が帰ると言い出したのか、その理由すらよく分からなかったのだ。まあいつもの女の気まぐれなんだろうと諦め、彼も付属品らしく文句も言わずに大人しく妻の意見に従うのだった。すると側にいた橘氏が、これから二人で取って置きの場所に行かないかと言って彼を誘って来たのだ。すると亮はこの誘いに何かを感じ取ったのだが、一応妻のほうに目をやりその了解を得ようとしたのである。もちろんこの誘いを断る気など最初からなかったのだが、そこは先ほどの妻の行動を忘れていない夫としては、まるで当て付けのようによもやダメだなんて言うはずがないよねといった顔をして見せたのである。それを見て取った妻は、もちろん反対などするはずがないのだが、どうも彼は先ほどの自分の行動を根に持っているに違いないと思ったのだ。しかし彼女としてはこれ以上彼との関係をこじらせたくなかったので、自分はおばあさん達と先に帰りますと行ってその後を追うのだった。紫音はおばあさんに追いつくと一緒に帰りますからと言って同じ車に乗せてもらい、三人ともさすがに疲れ果ててはいたのだがそれでも何とか無事に結婚式が終わったことを共に喜ぶのだった。
「あら紫音さん。旦那さんはどうなさったんですか?」
「これから父と二人でどこかに行くみたいです」
「おやまあ、そう言えば橘さんは披露宴の最中になぜか知りませんが、派手な女の人と仲良くお喋りしていましたね。いったい何を話されていたんですか?あなた隣りにいたから何か知ってるんじゃありませんか?」
「それが、あまりよくは聞こえなかったんです。でも確かに二人は何やらヒソヒソと相談していたようには見えました。まったく場所柄も考えずにああいうことをされてしまうと、他人でも嫌な気持ちになってしまうのにそれが自分の父親ですからね。本当にショックで何であの子に注意しないのか、まったく理解できませんでした」
「まあ男というものは誰であれ、ああいう女には甘いもんですよ。で、あの子が誰なのかあなたご存じなんですか?」
「まったく知らないというわけではありませんが、でも一度だけある場所でお顔を拝見したというだけで……」
「そのある場所ってのは、禮子さんが働くお店のことですか?」
「ええ、そうです。この間私がおばあさまとの約束を果たそうと出掛けて行った先にいた子が彼女だったのです。でも親しく話しをしたというわけではありません。ただ……」彼女はこう言って、あることを思い出しはたと黙ってしまったのだ。
「ただ、何ですか?そこで禮子さんとお会いしたわけなんでしょう?」おばあさんも何か訳ありげな彼女の様子にちょっと興味を持つのだった。
「確かに禮子さんにお会いできたのですが、それだけじゃなかったんです」と言って、彼女はここまで言って黙っているのも変なので、そこで何があったのかすべて話してしまおうと決心するのだった。「その同じ場所に父がいたんです。それもすっかり酔っ払って……」
「まあ、いったいそんなことがあるんですか?偶然とはいえ恐ろしいことですわね。あなたもさぞかしびっくりしたでしょう。いや、それ以上に橘さんもびっくりしたんじゃありませんか。だって、ご自分の娘がいきなり一人でそのようなお店に来るなんて、まったく思いもしなかったでしょうからね」
「そうなんです。とても驚いていきなり文句を言い始めたんです。なぜこんな所に来たんだとか、おまえは理由をいう義務があるんだとか、いきなり親の権威を振りかざして文句を言い始めたんです。そのくせ、お父さんこそ何でこんな所にいるんですかって聞くと、それには一切答えずに、ただおまえがなぜこんな所に来たのかその理由を言わない限り、自分は何も答えないの一点張りで、もうほとんど話しにもなりませんでした」
「まったく橘さんらしいですわね。で、あなたはその理由を言ったわけですね」
「ええ、禮子さんにお話しがあったので来ましたって言ったら、どんな話しなのかそれを言わなければ話しにならんとか言いますので、それはお父さんとは何の関係もないことなので言う必要はありませんってきっぱり断ったところ、父は、それが実の娘の取るべき態度なのかって怒り出す始末で、ほんとうに手が付けられませんでした」
「まったく面白い方ですね。あなたのお父様は。でもね、そんなお父様ですが、やはりあなたのことになると心配でたまらないんだと思いますよ。この間、私に会いに来たときがありましたね。あなたもご存じでしょう。あの時だってそうですよ。あなたのことをやたらしつこく聞くので、私も変に思って、いったい何が聞きたいのだろうかって色々考えたのですが、彼はどうやらあなたがこの家でいじめられているんじゃないかって疑っていたようなんです。で、そのことを言ってやると彼は慌てて否定はしたのですが、それがまったくしどろもどろでしてね、ほんとに呆れてしまったんですよ。でもね、そんな彼でも、どうやら嘘でもなさそうなことを言ったんです。あの人も奥さんに先立たれてからというもの、あなたとどうやって付き合っていったらいいのか分からなくなって、ひょっとしてひどく甘やかして育ててしまったかも知れないって心配されてたんです。恐らくあなたがこの家でうまくやって行けているのか、それを心配していたんじゃないかしら。ですから私もそんな心配などする必要がないことを彼に分からせるためにこう言ってやったんです。でもね橘さん、あの子くらいしっかりした娘さんはいませんよ。あの子はねもはやこの家では居なくては困るくらい大事な人になっているのですからねって。ところが話しはそれで終わらなかったんです。最後に彼はとても奇妙なことを言ったんですよ。何でも卓のサポート役になりたいとか何とか言い始めましてね。その理由が何でも禮子さんという人はとても口が達者で、卓のような人間にはとても太刀打ちできないから、自分が何とか彼のために力を貸してやりたいって、まったくわけの分からないことを言い始めたんです。もちろんお断りしましたけどね」
こうして何やら父親の胡散臭い動向に紫音も気にはなったのだが、もはやあまりにも彼女にとって負担が大きくなりすぎていたので、父親のことにまで気を遣うことなどとても無理だったのだ。夫が、どこまで本気で自分の野望を実現させたいと思っているのか、そのことだけでも手一杯だったのに、父親のことまで構っていられなかったのである。それに、これからあの禮子が義兄の後ろにつくことになるのだ。夫の野望はすでに義兄から聞かされているに違いないし、彼女のことだからこのまま夫の暴走を黙って見逃すはずもないのだ。きっと何かしらの手を打って来ることだけは間違いないからである。そうなると、いくら夫がその気になっていてもそう簡単に実現など出来るわけがないのだ。と、一応彼女も真剣になって考えるのだが、自分はこれからどう行動すればいいのかまったく分からなくなってくるのだった。もちろん彼女は妻としての立場を離れるわけにはいかなかったし、かといって夫のすることを全面的に支持して果たしてそれでいいのだろうかと、どうしても考えてしまうのだった。というのも、このまま行けば恐らく二人はきっと真正面からぶつかるだろうことは目に見えているからだ。そうはいっても彼女はあまり心配し過ぎているのかも知れない。というのも、このまま二人が、それこそ柏木家が真っ二つになるくらいな骨肉の争いに発展するとはとても思えないからだ。きっと、どちらかが何らかの妥協をして一件落着となる可能性のほうが大きいからである。もちろん、これはあくまでも可能性で、実際にどうなるかはまったく予断を許さないのだが、それでもこういう争いでも何でもそうだが、とくに今の日本社会において世間と闘い自分の欲望を何が何でも実現させようなんて思っている勇ましい男など、いったいどこにいるのだろうか。もちろんそういう人間もどこかにいるかも知れないが、たとえいたとしても、なかなかこの日本で生きていくのは難しいのではなかろうか。亮にしたってそうだ、彼がいくら兄を蹴落として自分が社長の座に着くと言っても、そもそも彼が一人の力でその地位を獲得するなんてこと自体、組織の存在を何よりも大事にするこの日本においてはまず実現不可能だし、一方の兄の本音を探ってみても、恐らく弟と戦うより、自ら身を引いてしまったほうがいいと思っているくらいだから、およそ血で血を洗うような壮絶な戦いなど起こりようがないのである。彼女はその辺の事情など当然あまりよく分かっていなかったので、何かとんでもないことが起こるのではないかと一人心配していたのである。




