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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 こうして柏木家始まって以来の重要な家族会議は、亮が紫音の付属品だったことがはっきりしたところで幕を閉じたのだが、まさしくこの会議を境にすべてのことが何かに向かって動き始めることになったのである。兄の卓はもはや猶予がないと思い、さっそく結婚式の日取りを決めようと考えたのだ。確かに今のうちなら雰囲気的にもまだ間に合うだろうし、それに彼が結婚することによって会社の士気も上がるだろうし、それに社会的な信用もずいぶんと違うだろうと考えられるからである。社長ともあろうものが、いつまでも家庭も持たずにどうして社会的信用が得られるというのだ。それこそ世間的にもまた人としてもかなり不利に働くことは間違いなかったからだ。まして彼の部下は年上が多い上に、みんな先代に鍛えられてきたつわものばかりだったのだ。彼がもっとも信頼していた専務の木戸という男は、今年七十になるが颯爽とした白髪の老紳士で、彼がいなければ恐らくこの会社はきっと崩壊していたのではないかと思われるくらいの傑物だったのだ。彼は先代の右腕とも言われた男で、創業当時から何かと頼りにされていて先代が亡くなるときも彼に後事を託したくらいだからその信頼度も絶大だったのである。というのもやはり息子の力だけでは恐らくこの会社は持ち堪えられないと思っていたふしがあったからだ。それは彼も先代が亡くなってからのこの会社が、かなり厳しいものになって行ったことからもよく認識していたのである。そういう厳しい状況のなか何とか現社長を陰で支え、その一方で彼の退任を図ろうとしている反社長派に抗するべく日々奮闘していたというわけである。

 ある日、卓は社長室に木戸専務を呼び出すと、おもむろに自分が結婚することを彼に報告するのだった。木戸専務は自然と頬がほころび「それはおめでとうございます」と、その喜びを素直に出すというよりも、どこかその喜びを噛みしめているような声で彼を祝福するのだった。この専務も何かと彼がいつまでも独身を決め込んでいるのをそれなりに心配していたのである。いわば彼の父親から託されたことのなかに彼の結婚のことも含まれていたからである。しかしそれもこれで解決したわけなのだが、ところがその相手の名前を聞くとその頬が引きつったようにピクリと震えたのである。というのもその相手の女性をまったく知らないわけではなかったからで、以前に彼も会社の接待などでいわばそういう場所によく行ったことがあるからだ。彼女は、その当時から誰もが一目置くくらい注目されていた女性で、彼ももちろん一目置きながら、かといってそれほど特別な感情など持つこともなくごく普通に接していたのだが、いつの間にか彼女の魅力に取り憑かれてしまっていたのだ。だからといって何も男として彼女の美貌に目が眩んだわけではなく、むしろ彼女の頭のよさに目を見張ったからである。おそらく彼女はプロとしてその道に徹していたのだろう。自分の意見も大事にしながら相手に合わせることも自在で、かといって客に媚びることもなく、それでいて相手を軽く見ているわけでもなかったのだ。彼が一番瞠目したことは、必要とあらば自分の本心を誰にも見せずにすべてを取り仕切る事が出来るという、実に油断のならない強かな女だと見て取ったことである。社長がそのような女といったいどうして結婚することになったのだろうか。それがまず誰の頭にも一番最初に浮かぶ疑問だったに違いない。とくに彼女と少なくとも親しく話したことのある人間からすれば、それが一番不思議なことだったからだ。まして彼のような老練な人間からすれば、二人の結婚がそもそも奇妙なものに思えたからである。もちろんお互い気が合って自然と惹かれ合ったのだろうと一応想像することは可能なのだが、果たしてそんなことがあり得るのかという疑問もまた可能なのだ。もちろんそれはあくまでも外から見た話しで、結婚する以上お互いに気に入ったからこそ結婚するのだろうから、そこに他人の意見など入り込む余地などないわけだ。とはいえ他人からすれば、そのギャップにどうしても目が行ってしまい、そもそもその生きている世界がまったく違うではないかと思うわけである。いやそれどころかお互いの様子を見てもおよそ水と油という極めてありふれた例えで申し訳ないが、二人の性格の例えとして考えても一番ピッタリな表現かも知れないのだ。少なくとも他人は誰でもそう思うだろうが、しかしこの結婚にはひょっとして何か裏でもあるのだろうかと考えれば、すべて話しは違ってくるわけである。最初彼もそういう考えが一瞬ではあるが脳裏をよぎったのだが、すぐにそれはないだろうと自ら断言するのだった。彼のような筋金入りの慎重居士が、そんな世間から後ろ指を指されるような結婚などするはずがないからである。もっとも彼女の方に何か思惑があったとしたらどうだろう。それは何とも言えないことだが、少なくとも社長の側から見れば、おそらく純粋にあの女に惚れてしまったのだろうと考えたほうが一番納得しやすいのかも知れない。いやもしそうならばそれこそもっとも注意しなければならない人生の落とし穴だったかも知れないのである。

 卓はさっそく禮子におばあさんの許しが出たことを知らせ、近いうちにどこかで会って二人のこれからのことをじっくりと話し合いたい旨を伝えるのだった。禮子も内心これで自分の思惑の第一段階が、めでたくも突破できたことを喜んだのだ。彼女にとってこの結婚は、かなり複雑な思いがそれこそ幾重にも重なり合った上での行動で、何も単純に市長夫人から社長夫人に乗り換えたということではなかったのである。とはいえ彼女だって柏木家の当主と結婚する以上それなりの覚悟はいるわけで、まず何よりもこの家の家風にあえて染まる必要があるわけである。なにせそこには何よりも恐ろしいあのおばあさんがまだ健在だからだ。少なくともまだ当分この世に存在することだけは、どうやら確実だと彼女もその様子から確信したわけである。もっともこのおばあさんのことはもう一つよく分からないというか、油断のならない人のように思えて、彼女もこの先おそらくこのおばあさんとは何かあってもおかしくはないと覚悟していたのである。

 卓はこの結婚によって、自分がやっとこの柏木家を背負って立つ事が出来る存在になったことを自覚するのだった。もっとも実際にはまだ結婚したわけではないのだが、もはや彼にとってここまで来れば結婚したも同然だと、なぜか慎重な彼にしては珍しくそう思ったのである。そういうわけで例のレストラン、ガストン・ロワイヤルで禮子と改めて対面した時、目の前にいる相手がこれから自分の妻になる女性だと思うと、なぜか涙が出て来るくらい感動してしまったのである。一方、禮子はこの実直だが別にこれと言って取り柄のない彼を、何とかまともに勝負出来るだけの男に仕立て上げなければならないと思っていたのである。こういう考えはダメな亭主を一廉(ひとかど)の人間にという、何かよく聞く話しのように思われるかも知れないが決してそんな単純な話しではなく、これは現代の日本において、実に深刻な問題へと繋がる話しでもあったからだ。もともと彼のような慎重で何事にもまじめに取り組む人間は、この日本においては別に珍しいといえるような存在ではないのかも知れないが、それでもやはり彼のような人間は実に得難い存在でもあるわけなのだ。というのも彼のような男はそれこそ日本の風土が作り上げた、一つの典型的な人間だと言っても過言ではないからである。彼はこの日本でしか生まれない人間の長所をすべて持っているわけで、それが今まであまり褒められもせずに何となくいい加減に扱われてきたわけなのだ。彼にしても自分の性格にコンプレックスを持っていたし、出来ることならもっと大胆な人間になりたいと本気で思っていたくらいであったからだ。しかしこれではいつになっても彼自身の本質に目覚めることはないだろう。やはり自分という本質に目覚めるためには何かが決定的に不足していたのである。彼にもっとも足りないもの、それは彼とはまったく異質のもの、つまり禮子のようなとてもこんな女性とは一緒になれないと思われるような存在と出会い結婚することなのだ。彼はその点、何かに引き寄せられるように自分の運命と出会ったわけである。つまり彼のような神経質でやたら慎重な男は、この競争社会においてその力を発揮することは実に難しいことかも知れないからだ。やたら成長成長といって(はばか)らない、現代のような神経症的なご時世では、確かに彼のような鈍くさい慎重居士にとっては、まともに生きることさえ難しいだろうからだ。もちろん彼はそんなことはこれっぽっちも思ったことはなかったのだ。なにせクソが付くほどのまじめ人間だったし、自分のやるべき仕事は決して手を抜かなかったし、もちろん彼だって怠けたくなることだってあったのだが、それでもここ最近の会社の深刻な状況を何とかしなければと、寝る間も惜しんで必死にならざるを得なかったわけである。もちろん、そんなことは社長という立場では当然なことなのだが、それでも今回の結婚が、そういう緊張した自分の立場を何となく癒やしてくれるのではないかと、心のどこかでそんな甘い夢を見ていないわけではなかったのだ。ところが世の中そんな都合よく行ったためしはないもので、彼にとっての結婚生活はそんな甘い夢などそれこそ夢のまた夢のような実に緊張したものになって行くのであるが、それはさておき、彼はさっそく二人の結婚式をどうするか相談するのだった。彼の希望としては、式はそれほど派手なものにはしたくなかったのだ。というのも現在の会社の状況を考えると、そんなに派手な式など挙げたくはなかったからである。しかし禮子は、それこそ実に現実的な反論を彼にして見せるのだった。

「でも、いくら派手にしたくはないといっても、やはり柏木家の当主で二代目社長としてのあなたが結婚するのです。どうしたって財界や政界からそれなりの人物がやって来るわけで、なかなか地味な結婚式になんかとてもならないのではありませんか」と、まるで結婚するのはいったい誰なんだと言いたいくらい冷静に話すので彼もすっかり納得して反論する気にもならないのだった。とはいえ、彼女だって自分が言いすぎたことはすぐに気が付いたので、「何もあなたの気持ちを無視しようってんじゃないの。ただ、あなたの二代目としての権威を示すためにも、やはりそれ相応の結婚式にしなければならないと思っただけなんです」と、まるで優れた結婚アドバイザーが言うような的を射た意見に、彼もますますお手上げ状態になり、もはや彼女に一切をお任せするにしくはないと観念するのだった。こうして二人の逢瀬は、これといって甘い雰囲気など少しも感じられず淡々と過ぎていくのだが、彼としても、これにはちょっと違和感を感じたのだ。というのも、今まで会った時の彼女と比べると、そこに見過ごすことの出来ない変化があったからである。とはいえ、彼女は何も自分の気持ちだけを大事にするような女ではなかったので、当然彼の違和感なるものがその様子から見て取れたので、さっそく、その修正に入るのだった。二人は、それから夜景を一望できる取って置きの場所に移動すると、まるで自分の運命を彼と分かち合うかのように、彼女はこう言ったのだ。

「あのね、卓さん。あたしね今までの自分の人生を振り返ってみると、一番思ってもいなかった出会いがあなただったんですよ。あなたとはそういう不思議な巡り合わせで出会ったんです。だって、その当時は橘さんと結婚しようと思っていたんですから。だから彼がもし選挙で当選していたら、あたし、きっとあの人と迷うことなく結婚していたでしょうね。でも運良く落選してくれたので、あたしも目が覚めたと言うわけです。これがどういうことかお分かりですか?でも人生って不思議ですね。だって今考えて見ると、あの橘さんがいなければあなたと出会うことなどなかったんですもの。あなたとは出会うべくして出会ったのです。いいですか卓さん。あたしはあなたのためにすべてを捧げて、あなたを男の中の男にして見せますからね」と、平然とした顔でこうしたことを言ってのけると、そのまま何の説明もなく彼の肩にやさしく寄り添うのだった。しかしこういう状況で、これから結婚する相手に、もしこんなことを言われたら人はいったいどう反応するだろうか。すぐにもそれはどういうことかと彼女にその真意を尋ねるだろうか、それともニヤリと笑って軽く受け流すだろうか。ところが彼は心から感動してしまったのだ。というのも彼はそこに天啓のようなものを聞いてしまったからである。彼女がそう言ったのだ。男の中の男にすると。もしこれが他の女なら、またいい加減なこと言ってといくら彼でも取り合わなかっただろうが、しかし他ならぬ彼女がそう言ったのだ。どうして感動せずにいられようか。彼はすっかり舞い上がってしまい、それからしばらくはそのことが頭から離れず、ろくすっぽ会話もできなかったのである。彼も困ってしまい、仕方なくこの間あった家族会議の一部始終を、彼女にも分かるように順序立てて話して聞かせるのだった。すると彼女はその話をそれこそ異常な関心を示しながら聞いていたのだ。とくに、あの亮が妻である紫音の付属品だと自ら認めたという話しを聞いたとき、思わず声を上げて笑ってしまったくらいである。確かに亮のような男は、彼女にとってみれば単なる付属品にすぎなかったのだ。しかしつい最近まで橘家のお嬢さんに過ぎなかった彼女が、そこまで変わったのかと思いこれから頻繁に彼女と顔を合わすことになるわけで、今から彼女との間に何かしらの軋轢が生まれることを覚悟するのだった。それにしても卓がもたらした興味深いエピソードから柏木家の問題点が浮き彫りになり、それ以上に亮との権力闘争がはっきり分かったことが彼女にとって最大の収穫となったのである。しかし彼女はいったい何を狙っているのだろうか。彼女が単に社長夫人になるために彼と結婚したわけではないことははっきりしているのだ。それなら彼を男にするという言葉に彼女の真意が隠されているとでも言うのだろうか。でも、それは今の彼の苦境を助けるという意味ではないだろう。もっとほかに意味があるはずなのだ。であるならほかにいったい何があるというのか。弟の野望を打ち砕き兄の覇権を盤石なものにするためなのか。確かに彼女は、亮が社長の座を狙っていることは前々から知ってはいたのである。ということは、そのことのためだけにわざわざ彼と結婚までしたと言うのだろうか。まあ百歩譲ってそうだとしよう。しかし、このような犠牲を払ってまでするようなことなのだろうか。よっぽど卓のことに思い入れがない限り、まずそんなことはしないだろうという理屈は成り立つはずである。確かに彼を男の中の男にするとまで言ったことは事実であり、そこまで言う以上そのことはまんざら嘘ではないのかも知れない。彼女のことだから本当に彼を男の中の男にするかも知れないからだ。としても、なお不可解なことは決してなくならないわけである。確かに人の心の中など誰にも分かりゃしないと言ってしまえばそれまでだが、しかし、それを分かりたいという思いもまた事実なのだ。それでなければおよそ人間社会は成り立たなくなってしまうだろうし、第一小説など誰も読まなくなるだろう。それなら、もう少し視点を変えて見たらどうだろうか。彼女の本当の狙いはもっと違うところにあり、その一番の狙いは卓ではなく弟の亮にあると考えたらどうであろうか。この視点はなかなか興味ある問題を(はら)んでいるように思えるのだ。そもそも彼女と亮との出会いは、それこそ実に因縁めいたところがあり、彼女自身、当時本気で好きになった相手でもあったからだ。それくらいだからそう簡単に忘れられるはずもなかったのである。とはいえ、彼は薄情にも紫音と結婚してしまったのだが、それでも彼女は彼の近くから離れることはなかったのだ。それどころか結局こうして同じ家で一緒に暮らすことになってしまったのである。いったいこれをどう考えればいいのだろうか。そういうことも踏まえて更に考えると、彼女の心のどこかでまだ何かしらの未練があるのだと考えても決しておかしくはないのではなかろうか。人の記憶というものは、たとえ本人が忘れてしまったとしても、それは決してなくなってしまったわけではなく、こちらの事情など一切お構いなく不意に蘇って来ては計り知れない影響を与えてしまうものだからである。それは一つの生きられた運命なのだ。運命という絆は決して切れることはなく、それは永遠に関係を求めるものだからである。

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