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こうした亮のいかにも思惑ありげな発言に、正直なところ誰もが不穏なものを感じないではいられなかったのだが、そのなかで紫音などはそこにはっきりとした夫の意図を感じていたのだ。どうやら夫は話の矛先を会社の経営問題にすり替えて兄を糾弾しようとしているのではないかと疑ったのである。しかしもしそんなことにでもなったら、それこそ、おばあさんの隠居問題よりもずっとたちが悪いものになりかねなかったのだ。というのも彼が社長という地位を諦めていないということは前々から知ってもいたし、気にもなっていたのだが今の発言で、それが気になる段階から憂慮すべき段階になったということがはっきりしたからである。もし、このまま彼の暴走を放置していたら、きっと彼はこの場で恐らく兄を批判し、責任問題という形で彼を追及し始めるかも知れないのである。彼女としても、今まで夫に直接何か意見をするなどということは一度もなかったのだが、もしそうなったら今回ばかりは黙っているわけにはいかないだろうと覚悟するのだった。彼女も妻としてやはり言うべき時は言わなければならないとそう思ったのだ。実際この問題は、彼の将来ばかりか柏木家の将来にもかかわる大問題であり、たとえこうした直接自分とは関係ない問題でも彼の妻である以上、まったく関係がないなどとはとても思えないからである。ところがおばあさんも同じように、亮のその発言に何か不穏なものを感じて、こう言ったのだ。
「私には会社のことはあまりよくは分かりませんが、でも、そういうお話しは、それこそ会社の会議室かなんかですべきものではありませんか?おまえも、もう少し場所柄というものを弁えてくれないとね。私たちとしてもどう対処していいのか困ってしまいますよ」
「いやもちろん、そんなことはぼくだってようく分かっております。でもねおばあさん。ぼくは柏木家の一員として心配しているだけなんです。ですから、まあついでにと言っちゃ何ですが、わが社の現状というものを、みなさんに知って頂けたらなあって思っただけですよ。別にここで経営に関する難しい話しをしようなんて思っていません。ただ、こういう滅多にない機会ですから、出来れば経営者としての兄貴のご意見も、ちょっと聞いてみたいなって思っただけなんです」と言って、亮は自分は何も変な考えがあってこんな話しをしたのではないことを強調するのだった。すると、ここで妻の紫音が驚くべきことを言い始めたのである。それは夫の暴走を止めるというよりも、むしろ彼女自身が暴走し始めたのではないかと思われるくらいのものだったのだ。
「前々から気にはなっていたのですが、亮さんは本当にこの会社の社長になるという望みは捨ててないのでしょうか?」と、まるでその言葉の重大さにはまったく気付いていないかのような調子で、彼女はこう言ったのだ。ところが彼女のその一言に亮はもちろんだが、その家族たちとくに卓の顔が一瞬凍り付いてしまったのだ。というのも彼女にたとえ悪気がなかったとしても、その言葉そのものがとても危険極まりないものだったからである。恐らくこの一言によって、これからの柏木家の運命が決まったと言ってもいいくらい危険なものだったかも知れないからである。もちろんこうした爆弾発言が、彼女の口から出たということは、そこに何か意図するものがあったのだと信じたいのだが、果たしてどんな意図があったのかまではよく分からなかったのだ。とはいえ彼女にどんな意図があったにしろ、こうした発言がみんなに与えた衝撃は、それぞれまったく違ってはいたのだが、その中で最大の被害者である夫としてはこの爆弾発言をどう処理すべきか、そのことをまず一番に考えなければならなかったのだ。ところがなかなか衝撃がひどすぎて思うように頭が回らなかったのである。もちろんこのまま黙っているわけにはいかなかったし、妻に代わって、まずみんなにこの発言の釈明をしなければならなかったのだが、その前に出来ることなら彼女をこの部屋から連れ出して、いったいどういうつもりなんだと文句の一つでも言ってやりたかったのだ。しかしとてももじゃないがそんなことは出来そうになく、仕方がないので彼としてもここで何とかしなければならなかったのである。それとも一層のこと彼女を怒鳴りつけ、混乱と騒動の中にみんなを引きずり込み、そのままうやむやにしたい心境だったのだが、もちろんそんなことはただの願望でしかなかったのだ。そうなると彼としてもなるべく問題化せずに何とかごまかしながらでも穏便にやり過ごすしかなかったのだが、どうやらそれも不可能ではないかと思われたのである。というのも一旦こういうことが表面化した以上、もはや黙って通り過ぎることなど出来ないからだ。となると彼もここは開き直ってでも何とか切り抜けなければならないと覚悟するのだった。
「いやまったく、きみには本当に驚かされますね」と、なるべく穏やかに話し始めようとしたのだが、その表情は戸惑いと怒りで引きつるしかなかったのだ。「で、結局きみは何が言いたかったんです?たんにぼくの意志を確かめたかっただけなんですか?まったく理解に苦しみますね。第一いきなりそんなことを聞かされれば、誰だって疑心暗鬼に陥るのは目に見えているじゃありませんか。それこそ誤解のもとですよ。まったくきみらしくもありませんね。でもまあ言ってしまったことは仕方ありません。それにしても困りましたね。この問題はよく考えれば、ぼくだけの問題ではありませんからね。おのずから兄貴に飛び火しないわけにはいかなくなるからです。そうなりゃ困るのは兄貴で、だってほら見てご覧なさい。兄貴の困ったような顔を。きっと腹の中はあらゆる疑惑でごった返しているに違いありません。しかし、どうしたもんでしょう。このままぼくが釈明しなければますます兄貴の疑惑が深まるばかりだろうし、ああ、もう仕方がありません。こうなったらすべてをお話しするしかないようですね。そうしなければ、ぼくの立場はどんどんおかしなものになるしかありませんからね。せっかく和解が出来たと思って安心したらこのざまです。もはやみなさんの前で妻のお騒がせ発言を説明しないかぎり、これはどうにも埒が明かないというものです」と言って、彼は妻の失言の釈明に取りかかるべきだと思ったのである。というのも、これはこれでかえって好都合かも知れないと思い始めたからだ。日頃から考えていた思惑が一挙にここで表面化するわけである。自分の野心が家族全員に知られれば、もやはコソコソ動く必要もなくなるわけだ。いや災い転じて福となすではないが、まったく彼女にはいつも驚かされるし、これ以上の妻はそれこそどこを探しても見付からないだろうと、彼女のアシストぶりに感謝しなければいけなと思うほどだったのだ。とはいえ果たしてこのことが本当に彼にとってアシストになったのか、それともオウンゴールであったのかそれは今の段階では何とも言えなかったのである。なぜならそれを決めるのは彼自身であり、これからの彼の出方次第では今まで通りの生活はそれこそ不可能にもなりかねなかったからである。もちろん彼としては、そんなことくらい何でもなかったのだが、妻の紫音にとってはなかなかそう簡単にいかないだろうと想像するくらいは出来たのだ。しかし彼にしてみれば、それは彼女自身が言い出したことじゃないかという言い訳が立ち、それくらいの不都合は仕方がないだろうという理屈も成り立つわけである。
「みなさん、どうか落ち着いてこれから言うぼくの話しをお聞き下さい」彼はこう言って、すっかり覚悟が決まったのか、もはやそこには妻の失言をどうやったら誤魔化せるかと思い悩んでいた、さっきまでの情けない姿はどこにもなく、この僥倖をどこまでも利用してやろうという強かな彼がそこにいたのだ。
「まず最初にぼくが言いたいことは、妻の発言はおそらくぼくの将来を心配してのことだろうと解釈したいのですが、もっとも何でそのことを今言ってきたのか。それはまったく分かりませんが、でもしかし彼女は実にいい時にいいことを言ってくれたのです。なぜなら今こそ会社は変わるべき時だからです。いいですか、みなさん。この柏木家の、いや柏木物産の将来は、もはや兄貴の力だけではどうにもならないところまで追い詰められているからです。これだけははっきりしたことなんです。というのも何もぼくの個人的な狭い料簡で、こんな大それたことを言っているわけではないからです。これは会社の一部首脳陣の間では公然と議論されている問題だからです。いわば現社長を退任させようと目論んでいる反社長派とでもいう輩が実際にいるからです。それもこれも理由ははっきりしているからで、会社はこのままで行きますと早晩取り返しの付かないひどい状態になることだけは確実だからです。そういう事実があるのですよ。でもまあ、ぼくだって何も今すぐ兄貴に社長を辞めろなんて言ってるわけではありませんからね。そこまで不人情な人間ではありませんよ。でもまあ一番分かっているのは兄貴ご自身ですから、何も今さらぼくがとやかく言うことでもないのですがね」こう言って、亮は強引にゴールに向かって力強くボールを蹴ったのだ。すると、おばあさんがおもむろに顔色一つ変えずに兄の卓にこう聞いたのである。
「亮の今言ったことは本当のことなんですか?」
「ええまあ、おおむね本当のことです。確かに会社の経営はとても苦しいのは事実です。しかし私が辞めなければならないほどではないとは思っていますがね」兄の卓は、眉間に皺を寄せ、彼にしては珍しくぶっきらぼうにこう答えたのだ。確かに弟の言うことは本当のことだったのだ。しかし弟が何でそこまでの情報を知っているのか。それがまず彼には引っかかったのだ。彼のようなまだ上層部とはそれほど関係のない部署で働いている人間には、そんな情報が得られるわけがないからである。ということは恐らく上層部の誰かと繋がっていると見てもいいのかも知れない。彼にはそれが誰なのか何となく分かるのだった。しかし、もし弟が彼の言う反社長派と結託することにでもなれば、極めてまずいことになるわけで恐らく彼は公然と兄を追い落とし、あわよくば自分がその後釜に座ることを要求するかも知れないのだ。しかし、弟が、ここまで社長という椅子に執着していたとはちょっと意外だったのだが、それでもこれまでのことを振り返ってみれば、やはり思い当たる節もあったわけである。今回の後継者問題だって、その一環として考えれば整合性が合うわけだ。とはいえ彼の野心がもし本当なら、自分はこの先どうすればいいのだろうか。すんなりと白旗をあげて彼に城を明け渡すのが一番いいのだろうか。同じ身内だし、それに弟の変身ぶりには目を見張る物があったし優柔不断なところも影を潜め、ここまで成長するとは正直予想外でもあったわけである。ひょっとして彼の方が社長という職に向いているかも知れないとまで思うようになっていたのである。実際彼の正直な思いとしては、それほど今の立場に執着などしていなかったし辞任して解決出来るものならすぐにでも辞任したかも知れないのだ。そのくらい今の状況は、彼のようなどこまでも慎重居士で石橋を叩くような経営を心掛けてきた人間でも、まったく見当がつかず、いったいどうしてここまでおかしくなってしまったのかさっぱり分からなかったからである。だからってそう簡単に自分の社長としての責任を放棄するわけにはいかなかったのだ。彼にだって男としてのプライドがあったし、それにもし結婚する前に辞任することにでもなったら、それこそ男としての面目が丸潰れになるわけである。彼女の性格から言っても今の自分の情けない状態を知ったら、きっと呆れてこんな男との結婚など取りやめにするかも知れないのだ。つまり社長としての責任もあるのだが、一方に、そういう極めて個人的な理由もあったのでそう簡単に辞任することも出来なかったのである。こういう所が人間のおもしろさであり、公私混同などといって切り捨ててはいけないのだ。誰でも自分の人間性を離れて生きられるはずもないのだが、彼がもし官僚的に振る舞える人間であるならば、恐らくもっと違った理由で自分の保身を図ったかもしれないのである。とはいえ、彼としてもこうした弟の思いがけない糾弾にあって、彼の本当の気持ちを垣間見たわけで、それはそれでまた一つ厄介な問題が彼の頭上にのしかかることになったわけである。それにしても、『何でまた彼女はあんなことを言ったのだろう。いや、それは自分だけではなく弟も不思議に思っていたことは、さっきの彼の言葉からでも推測できるのだ。おそらく彼女は何か違ったことを考えていたのかも知れない』と兄の卓は思うのだった。『それを亮は自分に都合よく解釈しただけなんだ』しかし、『彼女のことだ自分の夫がまさか自分の兄貴を糾弾するなんて思ってもいなかったに違いない。こうなると責任感の強い彼女のことだ、何か厄介なことにでもならなければいいのだが』と、兄の卓は、そっと紫音の方に目を向けるのだった。すると一瞬二人の目が合ってしまい、そのことが何かの合図になったのか、彼女はいきなりソファーから立ち上がると、まるで義兄に弁明するかのようにこう言ったのである。
「お義兄さま、どうか夫を許してやって下さい。彼はきっと思い違いをしているのです。会社が苦しい時こそ兄弟力を合わせて協力していかなければならないのに、それを何でお兄さまを追い詰めるようなまねをあなたは平気でするのですか?あなたの今の立場は、ご自分のこれからを心配することではなく、まずお兄さまの苦境を助けることにあるのではないでしょうか。それをいかにも恩着せがましく、「自分は何も今すぐ辞めろなんて言ってるわけではありませんからね。そこまで不人情な人間ではありませんよ」なんて、いったいまあ何て言い草でしょう。とても信じられません。お兄さん、ぼくはあなたのために協力しますよって、なぜ言えないのですか。あなたはその程度の人間なんでしょうか?そんな方ではないですよね?」と、彼女は果敢に夫に言うべきことを言ってソファーに座ったのだが、それでも全身が小刻みに震えていたので、この発言が彼女にとっていかに決死の覚悟だったってことがよく分かったのである。一瞬、部屋の中は静まり返ってしまったのだが、いやはや、ここまでくると一種異様な雰囲気に包まれることになってしまい、みんなもいったいどうしたものかと言葉に窮するのだが、ただおばあさんだけは心の中で拍手喝采していたのだ。これこそ妻の鑑。自分が見込んだ女だけのことはある。ところがこの時、夫の亮はすっかり呆れてしまったのだ。『おいおい待ってくれないか、なんでそこまで言われなければならないのだ』と。『おまえの方こそ思い違いしてるんじゃないのか』すると彼は突然、何だか今まで感じたことがないような怒りに襲われるのだった。おまえがそんなことを言うのなら、こっちだって言わせてもらうといった、売り言葉に買い言葉ではないが、いやその程度の怒りではとても説明できないものが彼を襲ったのだ。これはきっと今までむりやり押さえ込まれてきた彼女に対するコンプレックスが、ここに来て一気に溢れ出したと考えていいのかも知れない。
「きみに、そこまで言われる筋合いはないよ。いいかね、よくお聞き、きみは恐らく何も知らないからそんなことを言ってるんだ。思い違いしているのはきみの方だよ。ぼくが兄貴を追い詰めているようなことをきみは言ってたが、それこそ、まさしくきみの思い違いだ。ぼくは何も兄貴を追い詰めてなんかいないよ。ただ事実を言っただけだ。いや逆に、きみこそ夫であるこのぼくを追い詰めてるんじゃないのかね。きみはぼくの妻だろう?きみはさっき、ぼくがきみの付属品であることを疑っているとか何とか言ってたようだが、それはいったいどういう意味なんだい?きみは確かに立派な人間だよ。それはぼくも認めるさ。しかしね、妻として言っていいことと悪いことがあるんじゃないのかね。それを言っちゃおしまいだってことが夫婦の中にだってあるんだよ」
「へえ、そりゃいったどんなことだい?」と、おばあさんはすかさず茶々を入れるのだった。
「おばあさん、お願いですからふざけないでくれませんかね。こっちは今それどころじゃないんですから」
「私は何も、ふざけているつもりなんかちっともありませんよ。私はただ、それを言っちゃおしまいだってことがとても気になってね。いったい、どんなことを言えばおしまいになるんだろうって、ちょっと気になったから聞いてみたんです。具体的にそれはどういうものなんです?」
「そんなこと、今さらおばあさんに言ってもしょうがないでしょう。知らないわけでもないくせに」
「いえ、まったく知りません。ですから教えて下さい。おまえにとって言っちゃおしまいだってことをさ」
「ああ、分かりましたよ。そんなに知りたければ教えて差し上げますよ。それはね女がよく使う手なんですよ。まあ、そういうことにかけちゃ女は天性の達人かも知れませんからね。それはね、そうだと分かっていながら、すっとぼけてそんなわけはないと言い張ることですよ。男からするとそれが一番ムカつくんです。あら、そんなことちっとも知りませんでしたわ。だって、あなたがそんな人だとは思ってもいなかったですものなんてね。まったく嘘つきやがれってんだ。そんなことは百も承知のくせして、あえて逆説を弄するわけです。お分かりですか?まったくすました顔してよくもそんなことが言えたもんだと、こっちもね、そこで怒っちゃ男がすたると思ってグッと我慢しますが、女はそんなことはお構いなくますます調子に乗ってムカつくことを言って来るんです。いいですか、おばあさん、そんなことはあなたのような人間通には、実につまらんことかも知れませんが、ぼくのような人間には棘となっていつまでも残ってしまうのです」
「それは、お気の毒にね。でもね、亮さん。あなたの奥さんは実にできた方だとは思いませんか?あなたを思うからこそ、そこまで言ってくれたのです。それを分かってあげなければ、あなたはますます彼女の付属品に成り下がってしまうだけなんじゃありませんか?」
「ああそうですとも、ぼくは彼女の付属品ですとも。ああ、今こそ分かりました。でもね、今にその付属品に頭を下げる時が来るんですよ。いいですか、これからのぼくをようく見ていて下さい」




