8
亮と紫音の対面がようやく叶えられるという、その当日、いつもと違って如何にも落ち着きのない様子で時計ばかり見ている橘氏をよそに、何も知らされていない紫音は、リビングでいつものように静かに本を読んでいた。華音はすでに働きに出掛けていたので、あとはただどんなタイミングで娘の前に出て行くか、それだけを考えてドアの前に来ては中の様子に聞き耳を立てながらしばらくじっとしていたのだ。ところがこの男は、そのまま中には入らないでフッとため息を吐くと何を考えたのかまた自分の書斎に戻って行くのだった。そんなことを三度繰り返したのだ。そういうわけで、いつもと変わらず静かに読書にいそしむ娘にくらべて、彼の心はどうやら本人が意識している以上にプレッシャーを感じていたみたいである。その原因はやはりどうすれば普段通りの自分を保ちながら、娘を不安にさせず波乱なく車へと誘導できるか、それだけが一番肝心なところで、車に乗っけてしまえばあとは何とかなるだろうと、どうやらこの男はそう考えていたようなのだ。で結局は、どうすればそんなことが可能なのかという一点にどうしても戻って来るのだが、そこで一つ閃いたのが、これはやはりなるべく不自然にならず、自然体で説得するのが一番いいのではないだろうかと考えたわけだ。しかし自然体といったところで、いったいどういうものが自然体なのか、この切迫した場面で分かるはずもなく仕方がないので彼は、呪文のように自然体で自然体でと念じながら、ようやくドアを開け中に入って行くのだった。
「あのな、紫音、ちょっと話しがあるんだが、いいかな」
彼のような口達者で、押しの強い歴戦の強者でも、この時ばかりはどうも勝手が違っていたようで、いざ娘の前に出たとたん、その目論見も、その第一声からして物の見事にはずれてしまったのだ。というのも彼の自然体も結局は、付け焼き刃のまがい物でしかなかったので、紫音も当然、父親のいつもとは違う様子にびっくりして「えっ?」と言ったきり、目をむいたまま一瞬固まってしまったのだ。すると父親も娘のいかにもびっくりした顔を見て、同じようにびっくりしてしまい、自分を落ち着かせるためなのか、それとも身体が勝手に動いたのかよく分からないが、なぜか娘の横にフラフラと座ってしまったのだ。こんなことは予定の行動には、もちろん入っていなかったので、慌ててまた立ち上がると、本来座るべきはずだった向かい側のソファーに、ようやく腰を落ち着けるのだった。こういうちょっとした混乱は、いつもの彼からするとまったく考えられないものではあったが、それほど今度のこの事態が、失敗の許されない、ぶっつけ本番だという認識をやはりどこかに持っていたからだろう。彼は何とか平静を取り戻すと、どうすれば娘をすんなり車に誘導できるかという、この父親にとってみれば、前代未聞の大芝居をこれから娘相手に繰り広げる結果とあいなったわけである。
「どうだ、一つこれからお父さんとちょっと車で出掛けないか。ドライブしようじゃないか」
娘は当然であるが、この突飛な誘い文句に正直度肝を抜かれたのだが、そこは素直で礼儀正しく育って来た娘としては、こんな違和感まるだしの奇妙な誘いにも慌てず騒がず落ち着いてこう聞くのだった。
「えっ、ドライブってどこに?」すると父親は「そりゃ、お父さんが前から行きたいと思っていたところさ。お前もきっと気に入るに違いないと思ってね。お前をそこに連れて行ってあげたいんだよ。そこは景色もいいし、食い物だって、とびきり上等でうまいんだ。どうだね、これから一緒に車でさ。一緒に行こうよ。嫌かね。だって今まで二人で出掛けるなんて、まったくなかったじゃないか。それにきょうは晴れて絶好のドライブ日和だし、それに親子水入らずで出掛けるってのもたまにはいいもんだよ」
慣れない事とは言え、冷や汗もんで何とかそれらしい誘い文句を芸もなく並べてはみたのだが、まるで板に付いてない下手な台詞のように感じて、我ながらこりゃ話しにならんと呆れるのだった。しかし、気持ちのやさしい娘は、決して父親を困らすようなことはしなかったのだ。
「ええ、まあ、そうね。きょうは天気もいいし、出掛けるには最高かも知れないわね」
娘はこう言って、父親の明らかにおかしい誘い文句に吹き出すこともなく、ちゃんとフォローしてやるのだった。ところが、この父親は焦りからか、それともすっかり勘違いしてしまったのか、こりゃあひょっとしていけるかもしれんと思ってさらにこう付け加えたのである。
「それに、私はね、お前にぜひとも話したいことがあるんだよ。そのとても大事なことなんだが、それは車のなかで……」
こう言ったところで、お互いなぜか突然顔を見合わせたまま、凍り付いたように黙ってしまったのだ。これがまずかった。このいかにも間の悪い沈黙が、彼女の警戒心に火を点けてしまったのである。明らかに彼女は、そこに尋常ならざる気配を感じてしまったようなのだが、そこは穏やかな性格の彼女としては、決して大袈裟な素振りなど少しも見せずに、ただどこまでも懲りない父親にむかって、天使のようなやさしい口調でこう詰問して見せるのだった。
「本当にお父さんっておかしな人ね。そんなこと突然言って、いったいどういう風の吹き回しなの?だって、いきなり娘をドライブに誘うなんてどう考えても変ですもの。もちろんお父さんに、そういうお気持ちが芽生えたのなら、それはそれでとても嬉しいことよ。でも、どう考えてもお父さんらしくないもの。だからってドライブしたくないって言ってるわけじゃないの。ただ、あまりに急なことだし、それに大事なお話しっていったいなんですか?それとドライブと何か関係があるのかしら。いったいお父さんは何を考えていらっしゃるの?正直におっしゃってくれませんか」
明らかに疑惑を持たれてしまったことは疑いようもなく、あせった父親は、どうすればこの窮地を脱することができるか、あれこれ考えるのだが、この切迫した状態ではうまい言い訳も浮かんでこないのだ。彼は出るに出れず引くに引けないという、まったくどうにもならない状態に嵌まり込んでしまったのだが、そのときハッと娘の言った言葉に、救いの意味を見出したのだ。なるほど人の話しは最後までよく聞いておくものだと、そのとき感じたのである。娘がはっきりと言ってくれたのだ。正直に言えと。それならどうしてそのご要望に応えないでいいわけがあろうかと、さっそくこの父親は厚かましくもそう考えたのである。
「いや、そういうことなら、もう言ってしまうが、いやどっちみち言わねばならないことなんだ。例のあのことだよ。あの御曹司のことだ」彼は汗をふきふき、娘にすべてを白状するのだった。「分かるだろう?その彼と会う約束になっているんだよ。もちろん、お前とのだ。その、きょうの午後一時から、ある場所で会う段取りになっているんだ。そこにお前を連れて行かなければいけないんだよ。ぜひとも、お前と会って話しがしたいって言うんでね。もう先方とも約束してしまったし、もちろん、お前に内緒でそんなことを決めたことは謝る。まったく申し訳ないと思ってはいるんだ。もちろん、行く行かないはお前の自由だよ。しかし、そのなんだ。お父さんの立場ってものもあるからね。そこいらへんのことも、ようく考えて決めて欲しいだ」
彼はこれだけのことを、どこまでも穏やかに、あくまでもその裁量は娘にあるかの如く話すのだが、その一方で、明らかに娘を脅迫していたと言ってもいいくらいだった。しかし、実を言うと、そんなことを気にしている余裕などもうすでになくなっていたのだ。彼は何としてでも、自分の娘を彼の前に差し出さなければならなかったからだ。まるで生け贄のごとく。ところが、彼女はそんな父親の理不尽な要求にこう言って反論したのだ。
「大方そんなことだろうと思ったわ。でも、もし私が行かないって言ったら、お父さんは、どうなさるお積もりなの?それでも無理やり連れて行くのかしら。いったい、どういう理由で、そんなにこの話しに拘るのでしょうか。そのわけを聞かせて下さい。私はその方の顔も知らないし、ましてや、どういう方なのか、それすら何も聞かされていません。それなのに、これからいきなり会って、いったい何を私にさせたいのですか?これじゃ、あまりにもご自分の娘が惨めだとは思いませんか?第一その相手の方だって、私のことを何も知らないに違いない。それとも、お父さんがすでに色んなことをお話しになっているのかしら。そうして、もう前々からすっかり準備が整っていたというわけね。本当に情けない。どうしてそんな情けないお父さんになってしまったんでしょう。昔はもっと人の気持ちを大事にしてくれたのに、今ではすっかりご自分のことばっかり。あれほど思いやりのあった、やさしいお父さんはいったいどこに行ったんですか?きっとこれも、ご自分のためにお考えになっていたことなんでしょうね。でも、一家の主がそんなことで本当にいいのでしょうか」
紫音のこのもっともな意見に、さすがの父親も何も言えないだろうと思われるかも知れないが、なかなかどうしてこの父親も筋金入りの頑固おやじだ。その執念深さでは人後に落ちないという評判の人間だ。彼も負けずにこう言い返すのだった。ある意味彼も必死なのだ。
「お前の言うことは、まったくもっともだよ。お父さんもその辺のことは十分反省してるんだ。しかしなあ、そうは言っても、これにはある深い事情があるんだよ。それにはどうしてもお前を連れて行かなければならないんだ。それだけはどうか分かってくれ。あとはどんな責めも私が引き受けるから。一度だけでいいんだ。顔を出すだけで、それだけで私の面目が立つんだから。どうか分かってくれないか」
父親は我を忘れて娘に懇願するのだが、娘も父親ゆずりの頑固さが、ここで出てしまったのか、なかなか首を縦には振らなかった。事態を重く見た父親は、とうとう本音に近いことを娘にぶつけることになり、さらに二人の隔たりが抜き差しならぬところまで行くのだった。
「お前はなぜ、この話しに私がそんなに拘るのか知りたいと言ったね。それじゃ本当のことを言おう。私がいま一番心配しているのはお前の結婚のことだ。私は父親として、そのことを一番心配しているのだ。お母さんが死んでからというもの、どうしたら親として娘の幸せを叶えさせてやれるのか、私は精一杯考えて来たつもりだ。まったく男親というものはね、娘のことになると実に憶病になってしまうものなんだよ。それでも私は、勇気を出してお前のためだと思って色々と考えてきた。それは父親の義務だと思えばこそそうしてきたのだ。お前は私が自分のために、こんなことをしていると思っているらしいが、それは誤解というものだ。そんなことはちっともありゃしない。どこの世界に娘を思わぬ父親があろうか。娘の幸せのためなら、どんなことでもするのが父親というものだ。それが娘の反発を招いたとしても、私は親としての義務を放棄するわけにはいかないのだ。そこをよく考えてくれないと困る。いいかい、よくお聞き、お前はもう三十だ。まだ三十だなんて思ってはいけないよ。三十なんてあっという間に過ぎて行くんだから。しかし、お前にだって、もちろん考えがあるだろう。親の言いなりになりたくないと思うのも当然だ。でもなこれも一つの出会いだと思えばいいのだよ。何も会ったからって、それで何もかも決まってしまうわけでもないのだから」
父親は、ここに至っていつもの調子を取り戻したのか、自分でも話しながら、これで何とか娘を説得できるという手応えを持つのだった。彼はたたみかけるようにさらにこう続けたのだ。
「これが私のうそ偽りのない正直な気持ちだ。お前を思えばこそ、こうして誤解を与えかねないようなことまでしているのだ。それを疑われちゃ親として、あまりいい気持ちはしないな。しかし、まあ、それはそれとして、どうなんだお前の本当の気持ちは?ここまで言っても私を信用してくれないのか。お前のためを思えばこそ、こうしてお願いしているのに。お前はそうやって黙っているけど、それではちっとも話しが前へ進まんではないか。それとも、それがお前の狙いなのか?約束の時間が過ぎれば、それで終わるだろうとでもお前は考えているのか?ああ、確かに時間が過ぎればこの話しは潰れるかも知れん、ついでに私の顔も潰れるのだ。それでもいいならそうすればいい。それがお前の本心ならね」彼はこう言ったあとで、ちょっと言いすぎてしまったなと思ったが、もはや息を殺して娘の出方を待つしかないと腹を括るのだった。彼はここで大きな賭けに出たわけだが、それでも娘が折れてくれるだろうという甘い期待が、やはりどこかにあったのかも知れない。するとようやく紫音は重い口を開くのだった。
「よく分かったわ、お父さん。そういうことなら尚更このお話しはお断りします。それがお父さんの本心であり、おまけにそうやって娘を脅すようなまねをなさるのなら、お断りするのが一番いいやり方だと思うからです。いくら何でもそれは横暴というものです。私だって自分の置かれている状況が、どんなものかくらいよく分かっています。お父さんのご心配もよく理解しています。でも今までのお父さんのやり方を見ていると、あまりにも自分勝手すぎるのです。こんなやり方で、ご自分の娘が簡単に動くだろうと思っているのでしたら大きな間違いですよ、お父さん。どうかそのことを、もう一度ようく考え直して下さい。それでなければこれから先、恐らくお父さんのおっしゃることに耳を傾けることはないと思います」
完膚なきまでにやり込められてしまった。ぐうの音も出ない完全なる敗北だ。彼の甘い期待も無残に砕け散ったのだ。おまけに心を入れ替えるという条件すら出される始末である。さしもの父親もすべてが終わったと観念したことだろう。これでは今からの修復は不可能だと思われるからだ。正直に言ってしまえば、予想を遙かに上回る衝撃を父親はもろに受けてしまったのだ。目の前に居るのは、もはや自分の知っている娘ではない。何か得体の知れない一個の人格が、彼の目の前に立ちはだかっていたのだ。その人格に向かって、彼はいかにも子供じみたまねをしてしまったわけである。父親はすっかり途方にくれてしまった。娘に、ものの見事にぺしゃんこにされてしまい、もはやどんな言葉も通用しないと悟った父親は、ここであろう事か、さらに呆れるほどの行動に出てしまったのだ。それは、意図的なものなのか、それとも発作的に動いてしまったのかそれは分からないが、人間は切羽詰まると、時々こうした行動に出てしまうことがよくあるものだ。彼はこの時、いきなり娘の足下に身を投げ出したのだ。その姿には、もはや父親としての威厳などひとかけらもなかった。この父親は娘の目の前で土下座をして見せたのである。娘は、その父親の無残な姿に呆れ返ってしまった。というよりも、今の今まで人が土下座をするところなど見たこともなかったので、ただただびっくり仰天してしまったのだ。おまけにそれが自分の父親であったことが更なる驚きをもたらしたわけである。この土下座というやつは、場所や状況を弁えてやらないと、かえって恥辱とも受け取られ誤解のもとになる恐れがある。土下座をすれば許してもらえるだろうとか、分かってもらえるだろうと思うのは余りにも軽率な考えだ。とはいえ、今回の場合を考えて見るに、こうした父親の捨て身の行為には、どこか真実味があったようなのだ。つまりそれは、どこまでも娘の心を、いい意味でも悪い意味でも揺り動かしてしまったからである。紫音はすっかり震え上がってしまったのだ。父親のこのような卑下した姿など想像すらできなかったからである。こうした娘の動揺は、父親の立場から見ると、こいつはいけると考えさせたかも知れない。案の定、彼女は何やら深い物思いに囚われてしまったかのようにぼんやりしてしまって、今さっき言った自分の言葉などすっかり忘れ去ったかのように、自分の父親を同情の眼差しで見るようになってしまったからである。彼女の持って生まれたやさしい心が、父親の横暴さを呑み込んでしまったのだ。その結果どうなったかというと、彼女は父親の捨て身の押しに、難なく寄り切られてしまったというわけである。つまり娘は、おとなしく父親と車に乗り目的地に向かって出発したというわけだ。確かに人間というものは、言葉通りに生きられるわけではないのかも知れない。それは親子だけの問題ではなく、誰にでも起こり得る真理でもあるからだ。そういうわけで、終わってみれば、どうやら父親の執念が実ったと考えてもよさそうである。が、しかし、こういうことの裏には、何やら運命的なものが働いていたと考えたほうがどうもよさそうなのだ。それは、その後の紫音の人生を見ると、そう考えたほうがよほど合点がいくからである。