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その思いがけない人とはもちろん紫音のことなのだが、彼女はこの一連の話しを聞いてすっかり考え込んでしまったのである。というのもその話しの内容もさることながら、それ以上に夫に対するおばあさんの悪意すら感じられる意地の悪い言い方に驚いてしまったからだ。紫音も夫の子供時代のことは少しは聞いて知ってはいたが、この話はまったく初めてであり、もしこんな重大な問題に自分が何の反応もせず黙っていたとしたら、果たしてそんなことが許されることなのだろうかと不安になってきたのである。もちろんこうした問題に自分などが口を出したところで何が明らかになるわけでもなく、かえって混乱させるだけだとは分かっていたのだがかといってこのまま夫の苦境を黙って見逃したりしたら、それこそ自分の妻としての立場も崩壊し、きっと夫からの信頼も失せてしまうのではないかと思ったのである。彼女は迷いに迷ったのだが、やはりこのまま夫を見捨てるわけにはいかないという強い思いと妻としての自負心が相まって、夫の名誉のためにおばあさんにあえて言いにくいことも言わなければならないと覚悟を決めるのだった。しかしそうなると、そこにちょっとした軋轢も生まれる可能性だってあるわけで、なかなか難しい判断をしながら話しをしなければならないわけである。そうした話しの仕方もさることながら、彼女にも気になることがないわけではなかったのだ。それは彼の父親が言った、この決定はすべて会社のためだという言葉で、この言葉によってすべてが正当化されてしまうのではないかと恐れたのである。もしおばあさんがそのことを指摘してきたらいったいどうしたらいいのだろうか。しかし、もはやそんなことで悩んでいる暇などなかったのだ。今すぐにでも何か言って夫を助けてやらなければならなかったのである。
「差し出がましいことを言うようで、ちょっと心苦しいのですが」と、急かされるように口を切ってはみたものの、いったい自分はこれから何をどう話すつもりなのか、それすらはっきりしないまま彼女はただ妻としての矜持だけを頼りにこの難しい状況に飛び込んで行くのだった。「でも、おばあさまにぜひともお伝えしたいことがございますので、あえて自分の立場も顧みずこの問題に口を挟ませて頂くことにしました。それと言いますのも先ほどお二人の話しを聞きながら、ちょっと疑問に思ったことがありまして、そのことで少しお話しさせて頂きたいのです。この話しの一番の問題は、お父様の言った言葉に集約されていると思うのです。それはお義兄さまのお話しからも明らかなように、お父様が意図的に亮さんを後継者から外したことに問題の核心があると思うからです。でもおばあさまからすれば、それは亮さんにその資格がないからだとおっしゃりたいのかも知れませんが、でもそれは本当にそうなのでしょうか。どうして亮さんにその資格がないと言えるのでしょうか。それが私の一番の疑問なんです。現にお義兄さまから、いづれ会社の中枢に入るというお墨付きを得たではありませんか。これだけでも夫は決しておばあさまがおっしゃるような現実が見えない、そんな浅はかな人ではないということです」
彼女は、このとき問題の核心がどこにあるのか、そのことをなるべくはっきりさせようと一生懸命話したのだが、それがかえってこの場の空気を一変させる原因になってしまったのだ。彼女が問題の核心をあまりにも正直に指摘してしまったからである。確かに彼女のこうした思いも掛けない発言は、誰もが予想すらしていなかったことでもあり、それ以上に彼女の鋭い指摘にみんな度肝を抜かれてしまったからである。これは明らかにおばあさんに対する紛れもない宣戦布告であり、一体全体彼女はどこまで本気でこの問題を明らかにしようとしているのか、それは実にこの柏木家に新たな火種をもたらしかねなほどのものだったのだ。今までまったく素直でいい嫁を地で行くような彼女が、突然夫の名誉を回復するために立ち上がった女戦士のように、このグレートマザーに刃向かうその勇ましい姿は、それこそ今までのイメージを一新させてしてしまうくらいの意外性があったのである。もちろん彼女にはそんな意識などまったくないのだが、ただ夫の亮からすればこれはまさしく青天の霹靂と言っていいものであり、これほど待ち望んでいた頼りになる援軍はなかったのだ。正直に言ってしまうと彼はすっかり諦めていたのである。自分はやはりこのおばあさんの言うとおりのダメな男に過ぎないと、きっと彼女もそう思っているだろうと考えていたからだ。それがどうだ。彼女は自分のために立ち上がってくれたのだ。彼はすっかり息を吹き返したカエルのように今にも彼女の胸に飛び付きたいくらいの心境だったのだ。
一方おばあさんはというと、彼女の思いがけない反撃にちょっと唖然としてしまったのか、一瞬戸惑うような視線を彼女に向けながら、いったいこの嫁の思いがけない攻勢にどう反応したらいいのか思案しているような感じだった。と言っても何も彼女の出過ぎた言動に腹が立ったわけではなく、ただいつもは大人しい嫁が、なぜか知らないがいきなり夫のために立ち上がって文句を言って来た、そのことにちょっと驚いてしまったのである。確か以前にも似たようなことがあり、その時も彼女の行動にびっくりしたことはあったのだ。それ以来そうした彼女の一風変わった性格に興味を持つようになっていて、今回のこのことがあばあさんに、ある期待をますます持たせてしまう結果となってしまったのである。この嫁だってこれくらいのことは言えるのだ。そう思うと夫のために立ち上がったこの健気な嫁を、ある意味褒めてやりたいくらいだったのだ。というのも以前から賢い女として彼女を高く評価してしたし、どんな相手でも道理に背くことであれば、それを正すくらいの気概のある女だと感じていたからである。亮のようなだらしのない男にはちょっともったいない女だとは以前から思っていたくらいで、そんな彼女がどうしてこんな男に惚れて一緒になったのかそれこそ大きな謎でしかなかったのだが、それでもこの男にもいいところがあったからこそ結婚したのだろうし、何も不思議がることなどないのかも知れないのだ。しかしこのおばあさんだって、何も亮のことを箸にも棒にも掛からないダメな男だとは必ずしも思っていたわけではないのだ。ダメな男にはダメな男なりの取り柄があるだろうし、その取り柄に惚れることだってあり得るからだ。だから彼女だって、このダメな男の取り柄を見つけ出しこの男をいっぱしの人間にすることだって出来ないことはないのである。そういう意味でも、おばあさんは前々から彼女を色んな意味で頼りにしていたところがあったのだ。というのも夫の教育もさることながら、もう一つ極めて奇怪に思われるかも知れないが、彼女の聡明な力によって禮子という従順ならざる女を何とかコントロールできないものだろうかと、このおばあさんは考えていたからである。もしそういうことが出来たなら、これは柏木家の安定にすこぶる貢献することにもなるわけで、今回の彼女の行動がますますおばあさんに期待を持たせる結果となったわけである。でも、まだまだ物足りないくらいで、もっともっと自分の意見を言って欲しかったのだ。そういうわけでおばあさんは、この場を利用して彼女をもっと鍛えてやろうともくろむのだった。
「おや、あなたの口からそんな勇ましい言葉が出ようとは思いもしませんでしたがそこまでおっしゃるのなら、私だってもちろん言いたいことは言わせてもらいますよ。あなたも妻として黙っていられなかったのかも知れませんが、でもね私に言わせれば、そんなことはそれこそ贔屓の引き倒しというもんですよ。あなたには何も分かっていらっしゃらないのかも知れませんね。いいですか人には持って生まれた性格というものがあるんです。あなただって亮の性格がどんなものかよく分かっているんでしょう?だったら父親にそれが分かっていないはずがないのです。亮が社長という重責に耐えられるのかどうか。そういう判断だって必要なんじゃありませんか?かといって私は何も亮のことを、まったく箸にも棒にも掛からないダメな人間だなんて言ってるわけじゃありませんからね。彼にだっていいところもあるんだし、それをもっと生かした方がいいのではないかと思っているだけなんです。会社の仕事だって色々あるはずですからね。何も社長の仕事だけがすべてではないし、その地位にこだわる必要なんかないのです。だって社長という地位がそれほど憧れるようなものでもないからです。もっとも彼が何が何でも社長という座に着きたいんだって思っているなら話しは別かも知れませんが、でもねその社長という仕事もなかなか一筋縄ではいかないものなんですよ。いや何も利いた風な口を叩いているわけじゃありませんからね。これは息子が言った言葉ですから間違いないことなんです。ある時期に息子は私にこう言って嘆いたのです。「いや社長などという仕事は、この国ではまったく割に合わん仕事かも知れんな。会社を守るためにリストラすれば鬼だと罵られ、かといってリストラもせず経営が傾き出すと無能だと言って蔑まされるのだ。自分の会社でありながらもはや自分の自由にはならない。自分を押し通せば人がついてこなくなる……」私は黙って聞いてましたが、この息子でさえそう嘆いていたのですからよほど苦しかったに違いありません。いいですか紫音さん。あなたも自分の夫を社長にしたいのでしょうが、その前にもっとよく人間を見なければいけませんよ。だってあなたにはそういう目があるのですから。そうでしょう?でなければ亮となんか結婚していないはずです。確かに亮にもいいところはあります。それは認めますよ。人間誰しもいいところもあれば悪いところもあるわけで、ただ本人だけが分かってないだけなのかも知れません。まったく、そういうところにこの問題の難しさがあるのですよ。だからこの問題に不正があったかどうかというよりも、すべては彼の人間性に問題があったと私は見ているんですが、あなたはその辺の所をどう考えているのか、この際ですから、あなたの本音を聞いてみたいもんですね」
「本音といいましても、私はただ彼の人間性を考えるよりも前に、お父様のやり方は明らかに悪質であり、それをまず考えなければならないと思っているんです。なぜそこまでして亮さんを候補から外さなければならなかったのか、そこをはっきりさせない限りこの問題は終わらないと彼は言いたいのだと思います」
「ですから父親にそういう行動を取らせたのも彼の人間性に問題があったからではないんですか?父親だってはっきりと言ってるんですよ。これは会社のためだって。これからの会社のことを考えれば、彼を候補から外すべきだという父親の深謀遠慮が働いたのだと思います。確か卓がさっき父親の話としてそう言ってましたよね」おばあさんは、卓の方を見ながらそれを確認するのだった。
「ええ、確かにそう言いましたが、でもその深謀遠慮がどんなものなのか私にはまったく分かりませんが、ただ会社のためにはそうすることはやむを得ないとまあ、おやじは、そう考えていたように私には思われましたね」
「私もそうだと思いますね。彼はまだ人間として未熟だと父親は思ったからこそ、彼を候補から外したのです。だからって何もそのことを不正だと言って騒ぎ立てる必要など少しもないのです。だって、これからの頑張り次第で彼だって会社の重責を担うことだって出来るのですから。いいですか亮さん。あなたももう少し広い目を持たなくてはいけませんね。ご自分の不平不満にあまり囚われすぎて道を間違えてしまっては、それこそ元も子もありませんよ」
「まったく話しにもなりませんね。おばあさんにとっちゃおやじは絶対であり、ぼくの言うことなど何の価値もないんでしょうが、いいですかぼくは何も不平なんか言ってるんじゃありませんよ。事実を言っているんです。おやじの不正は明らかであり、そのことでぼくは当然受けてしかるべき権利を失ったわけですからね。ぼくの人間性などそのこととどう関係するんですか?おやじのやったことは明らかに間違いであり、ぼくの権利を侵害したわけですからね。お願いですから問題をすり替えないでくれませんか」彼は、どうやら妻の援護ですっかり自信を取り戻し、これなら何とか巻き返せるのではないかと思ったようだ。もっとも巻き返していったい何を得たいのか、そのことになると彼自身もよく分かっていなかったのだ。ただこのまま黙っておばあさんに言いくるめられることだけは、何としてでも阻止したかったようである。
「冗談じゃありませんよ。問題など少しもすり替えたりなんかしていませんよ。あなたは、そうまでして父親の顔に泥を塗りたいのですか?まったく呆れて物も言えませんね。きっと、ご自分に強い味方が出来たのをいいことに、ここで一ついいところを見せてやろうなんて考えてるんじゃありませんか?そういうところが、あなたのダメなところなんです。いいですかよくお聞きなさい。あなたは子供のときから、そういうところがあったんですよ。一人じゃ何も出来ないくせに誰かが少しでも自分の味方についたら、さっそく強気に出て来るんですからね。あなたもねもう少し大人にならなければ、とてもじゃありませんが会社の中枢に入って卓の補佐なんか出来やしませんよ。いったいあなたの狙いは何なんですか?父親の不正を明らかにして、それでいったい何をしたいんですか?もう一度選び直せとでも言いたいのですか?しかしね、今さらそんなことをしてもどうなるもんでもないでしょう。ただあなたの信用がますます落ちていくだけだと思いますよ。しかしまあ、あなただってそこまでバカじゃないでしょうから、私は何の心配もしていませんが、ですがこのままじゃ問題がますますこじれていくばかりだと思いますので、やはり何とかしなければなりませんね。そのためにはもっと冷静にこの問題を考え直してみなければならないと思うのです。そこで紫音さん、ここであなたのご意見をぜひとも伺ってみなければなりません。だって、あなただって、この問題はこのままにしておけないと思ったからこそ、こうして何とかしたいと口を出して来たのでしょうからね」
おばあさんはこの時、このことによって兄弟の間に溝が出来、それがそのまま骨肉の争いにまで発展しまうことを何よりも恐れたのである。ましてやこれから卓の後ろに禮子という気味の悪い女が睨みを利かせることになるのだ。それを考えればこの問題は今のうちに何とか片付けてしまわなければならなかったのである。そこでおばあさんは、ある程度の譲歩もやむを得ないと考えたのだが、しかしそれがいったいどんなものになるのかまったく思いつかなかったのだ。ということは、そもそもそんな気持ちなど最初からおばあさんにはなかったということである。譲歩するのは自分ではなく亮の方であると当たり前のように考えていたからで、おそらくそれを察して紫音の方から何か言ってくるに違いないと思っていたわけである。確かに彼女も、このままではいけないと思っていたことは、おばあさんと一緒なのだが、そのためには何が必要かずっと考えていたらしく、気が重かったがそれをここで思い切って言う必要を感じていたのだ。それこそ、おばあさんが考えもしなかった譲歩案であり、まさかこういう形でおばあさんに突き付けられてくるとは、いくら何でも思ってもいなかったに違いない。
「もちろんこの問題は、夫にとってこれからの人生に大きな影響を与えることだけは確かだと思います。ですから何卒おばあさまも、ご自分の立場だけを考えずにどうか公平な判断をして頂きたいのです。もちろんご令息への限りのない愛情は母親としてまったく当然のことであり、私も母親とはそうあるべきものだと正直とても感銘を受けたのです。ですが母親とは得てして子供に対しては盲目になりがちだと思うのです。それは母親という神聖な魂に潜む一つの病なのかも知れません。ですがそうなると、もはや公平な判断などとても無理だと思います。先ほどのおばあさまの言動は、あまりにも無慈悲であり、とても受け入れられないものです。もしおばあさまが、これ以上この問題をこじらせたくないと思っていらっしゃるなら、どうか夫に謝って頂きたいのです。それがこの問題を解決に導く一番いい方法だと思うからです。おそらく夫はおばあさまに分かってもらいたかったんですよ。それでなければ子供時代のことを、あれほど詳しく話さなかったと思うのです。ですから何卒おばあさまの限りない慈悲心でもって、夫の傷ついた魂をどうかいたわってあげて頂きたいのです」と言って、彼女は無謀とはいえ一つの賭けに出たのである。というのも、ここまで来るともはや通り一遍のことでは何の解決も見ないだろうしこのおばあさんを怒らすくらいのことでもしないかぎり、とてもじゃないが何も動かないだろうと思ったのだ。もし、これでおばあさんが反発したら、それこそ二人の間に大きな亀裂が出来るだろうと覚悟したのだが、それでも自分の無謀な要求はもし何かが邪魔をしなければ恐らくおばあさんの心に届くに違いないと確信していたのである。




