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こうして何の前触れもなく、いきなり弟が持ち出そうとしている不正なる話しはそれでなくてもようやくおばあさんの同意を得たと思って安心していた兄にしてみれば、単なる嫌がらせとしか思えなかったのだ。彼は恐らく父親と自分との間で交わされたあの密約を、おばあさんにバラすつもりなのだろうが、今なぜそのことを言わなければならないのか、その真意がまったく読めなかったのである。おばあさんにそんなことを訴えていったい何をしたいのだろうか。まったく何から何まで不可解極まりない弟の行動に兄の卓もまったく不安を抱えたまま、ただ黙って弟のすることをこのまま見守るしか方法がなさそうに思われるのだった。
一方おばあさんはというと、いきなりとんでもないことを言い出した、かつての放蕩息子をジッと睨みながら、いったいこの孫が父親とどのような関係であったのか、さっそく自分の記憶の中にその痕跡を探ってみるのだった。確かに亮は子供の頃から父親に厳しい教育を強いられていたことだけは知っていたのだが、しかしそれはダメな息子だからこそ人一倍愛情を注ぎ込んでいたのだと理解していたのだ。もちろん、このおばあさんとて何から何まですべて見ていたわけではないので、二人の間にどんな確執があったのかまではよく知らなかったのである。ましてや二人の兄弟のどちらが父親の跡を継ぐかなどといった問題にはまったく関知していなかったわけである。彼の言う不正というものがいったい何なのか、それが万が一息子の威信を損なうものだとしたら、もしそんなことであったとしたら一層のこと耳を塞いで聞かないでいたほうがよくないだろうか。この期に及んで息子の嫌な面など知りたくもないという思いも正直あったのだ。しかし、もうこうなったら自分の思い出が例え汚されようと、そんなことはどうでもよくなり、この際もう何でもいいからいったい何があったのか早く知りたくなったのだ。「それなら、おまえの言うその不正とやらを今すぐここで聞かせてくれませんかね」と言った、その決意の裏に、たとえそのことで息子の名誉が汚されたとしても、その汚名は母親として甘んじて受けようといった強い意志を感じるのだった。ところが亮は、この話しを聞けば、いくら自分のことをよく思っていないおばあさんでも、きっと涙を流して同情してくれるだろうといった甘い期待を持つのだった。もしそうなれば、こっちだって少しはおばあさんに対して抱いてきたわだかまりも消え、今まであまりよくなかった関係も改善し、お互いに許し合えることにもなるわけである。彼は自分の空想にすっかり勢いづいて、こうなったら、おばあさんを味方に引き入れるためにも、この不正の事実を知ってもらうべきだと思うのだった。つまり、父親と兄の陰謀によって、どれくらい自分の権利が奪われて来たかという事実をおばあさんに訴えれば、それこそ同情を引くだけでなく今までの誤解も解け、自分だって兄に変わり得る器であることもよく分かってもらえるはずだと確信したからである。
「ぼくはこう見えて、父親の言うことにはどこまでも従順で、それこそ文句の付けようがないくらい素直で実にいい子供だったんです。おばあさんの目にどのように映っていたのか知りませんが、親からすればこれほど都合のいい子供はいなかったんじゃありませんかね。でもね、子供だってバカじゃありませんから、親の顔色を伺いながら色々と判断するわけです。ここで親の期待に応えれば、今まで以上に親も喜んでくれるに違いないなんてね。まったく子供というのは悲しいくらい親というものに依存しているもんですからね。親が喜べば次もそうしたいって思うわけですよ。そういう純真な子供だったぼくがある日突然、この家ではどうやらぼくより兄貴の方が、ずっと尊重されているんだって感じた時の、その衝撃は恐らく誰にも分からないでしょうね。自分は本当にこの家の子供なんだろうかなんてね、そう思って子供ながらに真剣に悩んだ時もありましたよ。でもいくら何でもそんなバカなことはないだろうと、まあ、子供ですからね次の日にはそんなことはすっかり忘れて学校に行くわけです。ところが家に帰って来ると、やはりそうした現実にどうしてもぶつかるわけなんです。ぼくはついにこれは自分がダメな人間だから、こうなってしまうんだって思うようになったんです。みんなに好かれるためにはもっと今まで以上に努力をして父親に認められなければならないとそう思うようになったんですが、でもねそういう人間の不条理を毎日のように見てしまうと、子供だって大人以上に深く考え込んでしまうものなんですよ。ところが驚いたことに今になっても、同じようことがまったく変わらずに続いていたんですからね。実際そうでしょう?ぼくの結婚の時の扱い方と比べてみれば、それは一目瞭然ではないですかね。でもまあそんなことはもはや大した問題ではありません。というのも、ぼくはね子供の時から抱いていたわだかまりが、ここに来て一挙に解決するんじゃないかって思うようになったからです。そうですよね兄さん。あれはいつのことでしたっけ、兄貴がなぜか知りませんが自らその問題を打ち明けたのは。あのパーティーの時でしたっけ。そうそう、思い出しまた。あの時は確か禮子さんも一緒にいたと思うのですが、しかし、よりによって兄貴のあの告白を禮子さんに聞かれるとはね、今になって思えば一生の不覚だったかも知れませんよ。だって、そんなことを聞かれた以上、いつ何時それをネタに何を言われるか分かったもんじゃありませんからね。しかしまあ、それはそれとしてですよ。問題はぼくの方なんです。どうかおばあさん。あなたの誉れ高き息子が一代で築いたこの王国で、いったいどんな不正が行われていたのか。おばあさんにもようく分かるようにお話しいたしますので、どうか公平無私な態度で判断して頂ければと思っております。ちょっと前置きが長くなりましたが、さっそく本題に入りたいと思います。要するに何が不正だったかと言いますと、おやじは最初からこのぼくを社長候補から外していたということが一番の問題だったわけです。つまり、このぼくから理由もなく候補としての権利を剥奪していたのです。要するに、ぼくのことなど最初から眼中になかったんですよ。でもね、おやじはぼくを子供の頃から兄貴と一緒に競わせたんですよ。何のためかというと将来の後継者として二人を競争させ、どちらがそれに値する人間になるかというおやじのめちゃくちゃな教育方針がそこにあったからなんです。ぼくはねそれは一生懸命勉強しましたよ。その結果が、なんとかませ犬ですからね。実際そうなんですよ。ぼくは兄貴を引き立たせるための単なるかませ犬として存在していただけなんです。こんなことが同じ家族として許されることなんでしょうか?どうでしょう、ここで一つ兄貴の方から何かおっしゃって頂くとぼくも助かるのですがね。おやじと、いったいどんな話し合いが行われたのか、ちょうど家族全員揃っていることだし、兄貴もここですべてを話して今までのわだかまりを解消した方が、将来のためにも宜しいんじゃありませんか?」と言って、これで自分の名誉も回復し、今まで受けてきた差別も解消するに違いないと、それこそ勝ち誇ったような顔でおばあさんを見るのだった。しかしおばあさんは彼の期待を物の見事に裏切ったのである。
「いや、卓そんなことは言わなくてもいいです」と言って、おばあさんが亮の話しを聞き終わると、その意味するところを悟り落ち着いた口調でこう言ったのだ。「おまえから聞かなくとも、そのあらましは亮の話しからでもよく分かりました。要するに亮は社長の器ではないってことです。父親はそう判断したのでしょう。それを何ですか、父親がおまえを社長候補に入れてなかったことが不正だと言いたいのでしょうが、それは違うと思いますよ。おまえはただ自分の現実が見えていないだけなんです。ちょっと感情的になっているのかも知れません。もっと冷静になって考えれば問題は極めて常識的で、現実的な判断だってことに気付くはずなんですがね。そういうことに気付いていないとすれば、そりゃ候補に入っていなくても文句は言えないでしょう。あなたには自覚が欠けてるんです。それをよりによってみんなの前で、自分の父親を告発するようなバカなまねをするなんて、まったく呆れてものも言えませんよ。いいですか。あなたはご自分の父親を貶めようとしたんですよ。父親は正しい判断をしただけなのに、それをまるで鬼の首でも取ったようにまったくどこまであなたは自分の恥をさらせば気がすむんですか?そんなね、自分こそ犠牲者だと言わんばかりに、長々とご自分の来歴を話してくれましたが、そんな話しよりもっとあなたの周りのことも考えてやらなければいけないんじゃありませんか?あなたの茶番のおかげで、どれくらい紫音さんが肩身の狭い思いをしているか、そういうことも考えなければそれこそ夫として失格なんじゃありませんか?まったく昔の放蕩時代とちっとも変わってないんですから。あなたこそもっと変わるべきなんじゃありませんか?そんなことも分からず兄の性格を偉そうにあれこれと皮肉るんじゃありません!」と言って、おばあさんは昔の放蕩者に思いっ切り逆ねじを食らわし、自分の息子の名誉をがっちりと守ったのだ。
しかしこんなことは亮からすれば、あまりにも理不尽極まりない母親の論理でしかなかったのだ。彼は愕然として一体全体なんでこんなことになってしまったのかと首を傾げるのだった。『ひょっとして、このばあさんすっかりボケてしまったんじゃなか』と思いたいくらいだったのだ。『おれの話しのどこが感情的だって言うんだ。こんなに理路整然と話してあげているのに、それをまるでこのおれがすべて間違っているみたいな話しになっているじゃないか。呆れて物が言えないのはこっちの方だ。第一あの密約の話しはいったいどこへ行ってしまったんだ。このおれが社長の器ではなかっただと。ふざけんのも大概にしろってんだ。この親子はどこまでこのおれをバカにしたら気が済むんだ。この不正がおれの勘違いとでも言いたいのか。この不正が極めて常識的で現実的な判断だって言いたいのか。ああ、まったく恥ずかしいことだ。おやじもおやじなら、ババアもババアだ。そろいも揃ってこのおれをコケにしやがって、おれは、おれは絶対このババアを許さんからな!』
何よりも一番我慢のならなかったのが、自分が社長の器ではないことを妻の面前で指摘されたことなのだ。そのことが彼の自尊心を取り返しのつかないほど傷つけたのである。彼はこの不正の真実を妻に知らせることで自分がどれほど苦しめられてきたかを十分に分かってもらいたかったのだ。ところが反対に妻が自分のバカな行いのせいで、かえって肩身の狭い思いをさせてしまったということにどうやらなってしまったのである。もうこうなると何をか言わんやでただ呆然とするしかなかったのだ。彼は、まるで死刑宣告を受けた人間のように顔面蒼白となり、もはや反論する気力もなくなってしまったのかすっかり意気消沈してしまったのである。やはりみんなの前で、これほどおばあさんに侮辱されれば、彼の心も折れて当然なのかも知れない。ところが実際はもっと複雑だったのだ。彼にとって今この時もっとも悩ましていたのが、おばあさんに侮辱された以上に妻が黙ったまま何の反応も示さないことだったのだ。それが一番彼を悩ましていたことなのである。彼女はいったい何を考えているのだろうか。やはり彼女もおばあさんの言うことを信じ、自分のことを妻のことすら考えないダメな夫として見ているのだろうか。彼はそう思うと、もはやおばあさんのことなどどうでもいいくらい心の中が千々に乱れたのである。すると兄の卓は、始めは弟の嫌がらせを苦々しく思っていたのだが、どうもこれではあまりにも話しの本筋が見えなくなり、なぜか弟もすっかり悪者にされてしまい気の毒なので、ここは一つ自分から父親との間で何があったのか話して、この困った状態を解消させるしかないだろうと思うのだった。
「どうも、これじゃ事の真相がいったい何なのか分からないでしょうから、私の方からご説明させて頂きますよ。それでないと、このままじゃ本人もきっと納得しないと思いますのでね。ですから、いったいおやじとの間でどういう話しがあったのか、私からもっと詳しくその経緯を話した方がいいと思うんです。というのも、これは弟のためだけではなく、やはり自分のためにもそうしなければいけないと思うからです。実際、私たち兄弟は子供の頃からおやじの薫陶を受けた仲でしたし、彼がどれくらいおやじのめちゃくちゃな教育方針に黙って従っていたか、どれくらいおやじのいじめに耐えていたか、そのことも知ってもらった方がいいと思うからです。正直彼の苦しみは並大抵のことじゃなかったんですよ。それくらい彼の努力は驚くべきものだったんです。それに比べれば私のほうがずっといい加減でしたよ。だって、とてもじゃないがおやじのやり方について行けなかったからです。ところが弟はそのめちゃくちゃなやり方にそれこそ身を捨てて付き合ったわけです。ですから、おやじから弟が後継者としてその候補にも入っていないことを告げられた時は、さすがの私も腹が立ってしまったんです。最初から候補にも入っていないとはいったいどういう意味なのか。あれほど頑張っていた弟の努力はまったく無駄だったわけか。私はその理由を聞きたかったのですが、聞く前にあまりにも頭に来て、その時自分は残念ながらあなたの後継者にはなれませんって今考えても不思議なんですが、そういう信じられないような言葉が口から出てしまったんです。すると、それがどうやらおやじの逆鱗に触れたらしく、恐ろしい剣幕で怒鳴り返されてしまいました。おかげで理由を聞くどころか、それから延々と説教を食らうはめになったというわけです。でも、おやじも、どうやら正当な理由もなく弟を候補から外せないと思ったらしく、何とか彼を納得させるような理由を色々と考えたようで、そこで思いついたのが二人の内どちらが後継者として相応しいかという出来レースを編み出したというわけなんですよ。要するにさっきも弟が言ってましたが、かませ犬として利用することを思いついたというわけです。これなら形式上彼も候補として立つわけだから、彼だってそれで敗れても文句はないはずなんです。会社の連中だってそんなことはもう十分承知しているので、おやじの気持ちを忖度して一芝居打ったというわけです。まったくこれじゃ弟も浮かばれないと思いましたが、どうすることもできませんでした。説教されていた時におやじはこんなことを言ったんですよ。いいか弟にはこのことは内緒だぞ。それもこれもこの会社のためだ。あいつには社長という仕事は無理なんだ。そんなことくらい、おまえだってよく分かっているだろう。人の上に立って人を動かすにはあいつの優柔不断な性格では絶対無理なんだって、おやじがそう言った時に、私だって決して決断力のある人間ではないって言ってやりたかったんですが、正直そこまで言う勇気はありませんでした。それでも、おやじがなぜ、そこまで弟を毛嫌いしたのかよく分かりませんが、でも私はちょっとおやじとは違ったふうに弟を見ていたんですよ。確かにある時期には彼も無茶な人生を送っていて、家族に迷惑を掛けていたのですが、でも、人の性格なんて環境が変われば変わると思うんです。何も優柔不断という確固たる性格が、亀の甲羅のようにその人の背中に一生くっついているわけではないからです。人の行動だって何もその人の性格を素直に反映するもんじゃないでしょう。性格というものは社会の中で作られていくもんだと思うんです。山の中で一人で暮らしている人には性格なんか必要ありませんからね。もし自分はこういう性格ですなんて思っているなら、それこそその人にとって不幸なだけですよ。自分はもはや変わりようのない人間だと思い込んでいるくらい不幸なことはありませんからね。そこで私はこう思ったんです。弟をどうすれば再生させることが出来るかと。もちろん本人が変わろうと思わないかぎり再生はあり得ませんが、それでも何とか彼を蘇らせるために、どうしたらいいかと考えたのです。そこで思いついたのが彼を一時的に関連会社に出向という形で出したらどうかと思ったのです。環境を変えて、しばらく考えてもらう時間を作ろうとしたんです。でも、その間に弟は結婚することになり、それが功を奏したのかどうかは分かりませんが、彼もやる気を出してくれたようなんです。ですから果たして亮が社長の器でないかどうかの判断は控えさせて頂きますよ。というのも最近の彼は以前とはまるで違って、見違えるほどの仕事ぶりを発揮するようになりましたからね。それは、会社の担当役員も驚くくらい、その変貌振りは驚異的だったからです。今度の人事で彼も役職に就くはずです。この調子ですと、あと数年のうちに彼は会社の中枢を担う地位に就くことだって決して夢ではないかも知れません」彼はこう言って、果たしてこういう話しが家族みんなにどう受け取られたのか心配ではあったのだが、それでも、さっきまでの重苦しい雰囲気がいくぶん和らいで来たように思われるのだった。ところが、なぜか知らぬがまったく思いがけない人によって、さらなる波乱が巻き起こってしまったのである。




