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紫音の約束   作者: 吉田和司


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「いったいどうしてそんな人を煙に巻くような物の言い方をするんでしょうかね。呆れて物も言えませんよ。いいですか、そんないい加減なことを言って誤魔化しているってことはまだまだ未練があるって証拠です。もし未練があるならあると正直に言ったらいいんですよ。何も怒りやしませんから。どうなんです?正直に言いなさいってば。まったくはっきりしないお人ですね」と言って、おばあさんはこの男の態度に段々腹が立ってくるのだった。やはりこの問題は決して疎かにはしておけないものだったので、おばあさんとしては彼からはっきりとした言質を取っておきたかったのである。ところが橘氏としてはずっとこんな調子で押し通したかったのだが、ここまでおばあさんに言われてしまったら、もはやどんな言い訳も難しいと思えたので、それならとひねり出した答えがこれだった。

「それでは、今現在自分がどのような心境でいるのか、そのことをここで正直に打ち明けようと思います。ほかでもございません、この度不肖ながら再び市長候補として選挙に打って出ようと心に決めた所存でございます。以前お孫さんである卓さんには並々ならぬご協力を給わりながらも、あと少しのところで力及ばず涙を飲んだわけですが、どうやらここに来てまさしく捲土重来(けんどちょうらい)、相手にかなりの逆風が吹き始め願ってもないチャンスが巡って来たというわけです。これでようやく柏木家の当主であるおばあさまにご恩返しが出来ると思い、至らぬ点も多々ある私ではありますが自分のこれからの人生のすべてをそのために捧げようかと思っている次第でございます」

「だからどうなんです?また選挙に協力しろとでもおっしゃりたいんですか?もしそうなら、何もこの私に頼んでも仕方がないですよ。私は政治には興味ありませんからね。そんなことより私の質問にちゃんと答えてくれませんかね」おばあさんも次第にイライラしてくるのだった。

「ですから、これがその答えでございます。私はただ自分の選挙に邁進したいわけでして、あの女のことなどまったく眼中にございません。ましてや未練などといった、そんなたわけた思いに、どうしていつまでもこだわっているわけがございましょうか」

「つまり、そこまではとてもじゃないが手が回らないってことですか?まあ、あなたも歳ですからね、あっちもこっちもじゃ体力的にも無理なんでしょうかね。それじゃ、あの女にはもはやちょっかいなど出さないって約束できるんですね」

「もちろん、そうあるべきはずのものだと考えている次第でございます」と橘氏は肝心なことには相変わらずお茶を濁し、そんなことよりもっと大事なことがあるんだと言わんばかりにこう続けたのだ。

「ですが、それとはまた違った極めて重要なことを、おばあさまにご忠告させて頂きたいと思います。これはもちろん、私の経験から引き出した一つの結論なんですが、どうかあの方の言動にはぜひともご注意なさって頂きたいのです。なにぶん口の達者な女性ですからね。もちろん、そんなことはすでにお見通しだとは思いますが、しかし卓さんのような方にはなかなか難しいかと危惧されるからです。そこで一つご提案させて頂きたいことがあるのですが、もしこの度のお二人のご結婚が実現することにでもなれば、恐らく難しい問題が自然と発生することになると思われるのです。そうなれば卓さんのために私も一肌脱がなければならないと思っている次第なんです。ともうしますのも恩義もさることながら、それ以上にこの間お見舞いに来られた卓さんのお人柄に強く惹かれるものを感じたからなんです。というのも、あの方の実に誠実な態度に強く打たれるものがあったからなんです。そこでもし許されるならば喜んで卓さんのサポート役になりたいと思っている次第なんですが……」

「ああ、もう結構です。こうして見ると、あなたもなかなか一筋縄ではいかないお方のようですから、あなたのおっしゃることにも、それ相応の解釈が必要なのかも知れませんね。それじゃ何ですか、あなたの計画によると、これからしばらくはご自分の権力闘争に全精力を注ぐというわけですね。それならばどうかお体に気をつけて、私もあなたが当選することを心からお祈りしておりますから」

 こうして二人の奇妙な会見は終わったのだが、橘氏がなぜおばあさんに面会を申し込んだのか、その理由がこれではよく分からないと思われるので、彼の心情をもう少し分かるように解説してみようと思うのだ。要するに彼がここに来た一番の理由というのが、何と柏木卓という男をぜひともあの女の毒牙から守ってやらなければならないと思ったからなのだ。どうやら橘氏はあの男にある種のシンパシーを感じたらしいのである。そのシンパシーはもちろん禮子に対しての復讐心と重なり合った極めて危険な思いからなってはいたのだが、それでも彼が病院にお見舞いに来てくれた時、彼の人柄がどういうものかすっかり見て取ってしまったからである。つまり彼の人柄では、とてもじゃないがあの女には到底太刀打ちできなものがあると見抜いたからである。それは禮子がどんな女か身をもって知っている橘氏としては、このまま黙って放っておいたらきっと彼の命運もあっという間に尽きるに違いないと思ったわけである。そのためには自分が何とか彼のために一肌脱いで守らなければ、彼の人生はきっと悲惨なものになってしまうだろうと確信したわけである。

 もっとも、こういう彼の心情には極めて矛盾したものがあるように思われるのだが、しかし、そこはやはり彼のためというよりも恐らく自分のために、どんなやり方でもいいからあの女に一矢報いたいといった気持ちがあったのかも知れない。

 こうして柏木家にとって極めて重大な決断を下す時が来たと、ここに至ってはっきりと認識したおばあさんは次の日、家族全員に非常招集を掛けるのだった。食堂にみんなを呼び集めたおばあさんは、さっそくこれからどのような家族会議が始まるのか手短に説明するのだった。まず開口一番。この柏木家の歴史を根本から変えてしまうほどの変化が起こるかも知れないといった、ちと大袈裟な言葉を、おばあさんは殊更厳めしい口調で切り出すと、みんなはいったい何事だとそれぞれに顔を見合わせながらも、そこにどんな意味が隠れているのかは何となく察することは出来たのである。

「いいですか、これから私が言うことをよく理解しながら聞いて下さいね。この間私と律子さんは、あの方とお会いしてそこで色々とお話しをいたしました。ですがその時はまだはっきりとした結論は何も出しませんでしたが、それでも極めて前向きに考えていいのではないかと私はその時思ったわけです。そこで卓さん。あなたは本当にあの方と一緒になりたいと思っているのですか?いや、こんなことを聞くのも、あなたのような性格の男には正直言って荷が勝ちすぎているんじゃないかと私は思ったからなんです。まあ、あなたも四十になったいい大人ですから、今さらこんなことで心配するのもどうかと思いますが、でもね何事にも分相応というものがあるんですからね。あなたのような実直でまじめな人間には、あの方はどう考えても釣り合いません。これははっきりと言っときますよ。ですが私は何も男女の相性などというものはあまり重要視しないことにしたんです。自分の人生を振り返って見ても、相性などというものはあまり意味がないと思っているからです。それなら男と女が一緒に生活する上で必要なのはいったい何でしょうか。もちろんここに一般論を持ち出しても恐らく何の意味もないでしょう。人はみな違いますし人生をうまく乗り切るのに人の忠告を聞いたり本を読んだりしたところで、はっきりした効果など殆ど望むベくもないからです。ですから結局はその人達に任せるしか方法はないのかも知れません。要するに人生とは、その人達が作り上げて行くものであり、その人達自身でその答えを出すしかないのです。それに順調に行くことだけが人間の幸福ではありませんからね。ですから私もこれ以上何も言いませんが、ただどうか気を確かに持って決して甘い夢だけは見ないで下さいね」

 おばあさんはこう言って、この結婚に反対ではないということを示した格好にはなったのだが、弟の亮はその話の内容からおばあさんの断腸たる思いを感じ取り、やはり内心ではこの結婚を疑問視しているに違いないと強く思わざるを得なかったのだ。もしそうであれば、このおばあさんの気持ちだってこれから先どう転ぶか分かったもんではないと思うのだった。紫音はというと、おばあさんの話しをジッと聞きながらどうやらこの結婚が実を結びそうなので、あの時のおばあさんとの話し合いが無駄ではなかったと思い一応ホッとしたのだが、実際はというと、果たしてそれでよかったのだろうかと一抹の不安を感じられないではいられなかったのだ。というのもこの結婚には彼女から見ても、何かしらかの波乱要因が隠れていると思わざるを得なかったからだ。すると、今まで黙っていた母親がわが愛する息子に向かって、おばあさんとはまた少し違った母親らしい視点から、こう優しく語りかけるのだった。

「卓、私はね、おばあさまからこの話しを聞かされた時、すぐあの夜お前が言った言葉を思い出したんです。覚えていますか?お前はこう言ったんです。妻を選ぶなら自分が好むような人ではなく、こんな人ではとてもじゃないが無理だろうって思えるような人こそ自分にとってもっとも必要な人であると、お前ははっきりとそう言ったんですよ。その時はよく分かりませんでしたが、今になってよく考えれば何となく分かるような気がするんです。お前の気持ちは決して間違ってはいないと思いますが、でもそれはあくまでもお前の考えであり、あの方はまた違った考えを持っているんだって事も忘れてはいけませんよ。おまえの優しさはもちろん、あの方も理解してくれるでしょう。でもね若い人ならいざ知らず、酸いも甘いもよく弁えた女にとって優しさばかりではなかなかうまくいかないことがあるんですからね。おまえは初めての結婚だし、その辺のところはまだ理解できないと思いますが、それでも相手のこともよく考えて、決して自分の考えに固執してはいけませんよ」

「もちろんですよ。ぼくだってね何の考えもなしに、あの人との結婚を決断したわけじゃないんですからね。やはり男にとって家庭を持つことは、そこに一つの確かな(いしずえ)を作り、その上に一人では決して創造できないものを作り上げていくのが目的じゃないかって思ってるんです。あの人はそれに最もふさわしい人だと思うんですがね。確かにあの人は、私のような人間にはどうしても不釣り合に見えるかも知れません。それは認めますよ。しかしだからこそ私のような人間には必要な人ではないかって考えたんです。これは世間一般の常識からすれば、あまり理解できないかも知れませんが、生きる上においては最も理にかなった人選ではないかと思っているんです。もちろん家庭の平和は必要かも知れませんが、男女の関係はそこにある程度の緊張感がなくなれば自然と堕落していくのは目に見えてますからね。結婚において何が一番大切か、それはお互い尊重しあうことではないでしょうか。ですが馴れ合ってしまってはそれも望むべくもありません。そうなってはいけないのです。でも、そうならないためにも私はね、自分を変えて行かなければいけないと思っているんです」

「まったく夫の鑑になるような実に素晴らしいコメントですよ」と言って亮は、長い独身生活にやっとピリオドを打てた兄貴に何かお祝いの言葉でもと思ったのだが、そんな心にもないことを言うより、ここはぜひとも兄貴の目を覚まさせるためにも、彼のそのくそ真面目な根性を叩き壊してやる必要を感じるのだった。

「まあ兄貴と違ってぼくなんかはそこまで真剣に考えていなかったんですが、それでも兄貴のそういう真面目な結婚観を聞かされると、やはり自分も変えなければいけないのかなあなんてなぜか思っちゃうんですが、でも兄貴は何も自分を変えなくたって、きっとうまくやっていけるとぼくは思うんですけどね。だってそこは何たって兄貴のことですから、彼女の言うことなら恐らく何だって聞き入れるんじゃないかって思うからです。彼女にとってみれば兄貴ほど御しやすい夫はいませんよ。あの橘氏を見限って、兄貴になびいた意味もそこにあるんじゃないかってぼくは睨んでいるんですがね。ですから何もご自分を変える必要などまったくないし、むしろ変えない方がよっぽどうまく行くんじゃないかって思ってるくらいなんです」

「亮。おまえはいったい何が言いたいんだね?」と、おばあさんが亮の発言に、何やら不穏なものを感じて、その真意を探ろうと思いこう話し始めたのだ。「あの方くらい自分に正直で誠実な人はおりませんよ。私はねあの方に初めて会ってお話した時それをはっきりと感じたんですから。どうやら、おまえは、あの方にあまりいい感情を持っていないようですがそれは一体なぜですの?ひょっとして、おまえはあの方がこの家に来てはまずいことでもあるんですか?」

「いや別にそんなことはありませんが、でも憂慮はしてますね。というのも恐らくこんなことを言ったら、おばあさんの顰蹙(ひんしゅく)を買うのではないかと心配なんですが、それでもあえて言わせてもらいますと、確かにおばあさんが生きている間は、あの人だって正直で誠実な自分を演じてみせるでしょう。でもおばあさん亡き後きっとその正体を現すでしょうね。そうなった時いったい誰があの人に向かってダメなものはダメだとはっきりと注意出来るでしょうか?お母さんにそれが出来ますかね。ましてや兄貴なんかそれこそ何も言えないに決まってるんですよ。これこそぼくが憂慮することなんです。ではなぜぼくがここまで言うのか。さっきおばあさんがおっしゃっていた疑問に答える格好になるかも知れませんが、ぼくはね、あの人のことはあなた達よりよく知ってるからです。それは妻の紫音が証言してくれますよ。なんせ彼女とぼくが結婚するときに色々あったんですから。まったく忌々しい話しですが彼女にはほとほと手を焼いてしまうという実に嫌なことが実際にあったからなんです。それがまた、よりによって今度はこの家で、その嫌な思い出が再現されるなんてことにでもなったら実際目も当てられないじゃありませんか。ぼくはそんなことはまっぴらごめんですからね」亮はこう言って、自分の言ったことが、どうやら、おばあさんどころか家族全員の顰蹙を買ってしまったようで、その後始末に彼もどうしたものかと、かえって心配になってしまったくらいなのだ。兄の卓もこれにはさすがに動揺してしまい何とか言わないとまずいことになると思って、おばあさんの顔を心配そうに窺うのだった。するとおばあさんは亮がなぜそこまで言うのか不思議だったのだが、すぐさま亮のそんな意見など取るに足りないことだと言わんばかりの断固とした口調でこう言ったのだ。

「おまえがあの方にどれほど手を焼いたのか知りませんが、それは相手がおまえだったからではありませんか?女というものは相手によってずいぶんと変わりますからね。ですから私はあの方をどこまでも信じたいと思っているんです。彼女は決して猫を被るようなそんな卑怯なまねなどしないと断言しますよ。私はね、こう見えて女を見る目だけは確かなんです。これは本当ですよ。ですから私が死んだ後でも彼女は変わることなどないと思っています。いや、むしろこの家のためにきっと力を貸してくれるに違いありません。私はそう信じています。そこで亮おまえにちょっと聞きたいことがあるんですが。何でおまえは禮子さんのことをそんなに悪く言うんですか?だって今回の禮子さんとの会見は恐らくおまえが仕組んだことなんでしょう?どうなんですか?そういうことを裏でしておきながら、どうして禮子さんのことで一々文句を言ってくるんですか?まったく何を考えているのか分からないところなんか、ほんとにあの橘さんと一緒なんですからね。いいですかおまえがいったい何を考えているのか知りませんが、この柏木家はお前が何を言おうとこれでいよいよ盤石なものになっていくことは確かなんです。いいですか、これからこの柏木家も大きく変わるかも知れませんが、それでもまだ私が生きているうちに、この結婚が決まったということだけでもよかったと思っているんです。私も息子に先立たれた時は、この家もこのまま落ちぶれて行くのかと心配しましたが、どうやらそれも回避できそうなのでこれで安心してあの世に行けるというものです。いいですか二人の孫達もよく聞きなさい、こうしておまえ達がこの家で生活していけるのも、おまえ達の父親が一人で頑張ってここまでしてくれたからですよ。それを忘れないように、どうか二人の力でこの家を今まで以上に盛り立てて行って下さいね」こう言って、おばあさんは感極まったのか自然と涙が溢れて来るのだった。すると亮は、おばあさんのそういう一方的な主張に大いなる違和感を感じ、あなたの偉大な息子はどういうわけか父親としては失格だったことを、ここで言ってやりたくなったのだ。自分がどれくらいあなたの自慢の息子にいじめられてきたか、どんな差別を受けてきたか、こうなったら父親の正体をみんなの前でぶちまけてやろうと決心するのだった。

「でもねおばあさん、あなたのそういう熱烈な心情に水を掛けるようで本当に申し訳ないですが、ぼくはねそう簡単におやじに感謝するのもどうかなあって思ってるんですよ。恐らくおばあさんでも知らないことだってあると思っているからです。いくらご自分の息子が偉い人間だったとしてもですよ。そのあなたの息子であるぼくの父親が、どんだけぼくのことを苦しめていたか、いくら何でもそこまではご存じないのでしょうからね。まったくこの家の者達はみんな兄貴だけを頼りにしていたのですから、それも無理ありませんがね。でもねそういうあなた達の欺瞞をよそに、このぼくがどれくらい父親の不正に苦しめられてきたか、いくらおばあさんだって夢にも思ってやしないんじゃありませんか?」

「いったい何が言いたいんです。あなたの父親がいったいおまえに何をしたっていうんですか?」おばあさんはこの聞き捨てならない亮の発言に、いつもならこの男の言うことなど、軽くあしらって気にも止めなかったと思うのだが、この時ばかりはなぜか堪忍袋の緒が切れてしまい一気に血圧も上がり、もしその不正なるものが自分の息子を(おとし)めるようなものだったら、それこそこの放蕩息子をこの家から叩き出しかねないくらいの勢いだったのだ。

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