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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 この二人の会見は、すぐさま卓に知らされ、彼もこれでこの結婚もその実現に向けて一歩踏み出したと喜ぶのだった。それにしてもこれはすごいことだと彼も呆れたのだ。それにしても女というものは、どうしてここまで度胸があるのだろうかと今回の二人の頑張りに驚嘆するのだった。恐らく自分のような人間には、とてもここまでの度胸はなく、ただ慌てふためいて失敗するのが関の山に違いなかったからだ。それくらいの偉業だったのだ。彼はそう思い、これは確かに喜ばしいことではあるが、その反面少し考えなければならないことも出て来るわけである。もちろん彼も薄々気が付いてはいたのだが、自分にとって彼女はあまりにも次元の違う女ではないかということである。さすがに、ここまで来ると先々男として極めて不都合なことが起こるかも知れないと、いつもながらの用心深さが頭を持ち上げてきて、素直に喜びを表すことができないという心配が出て来たのである。とはいえ彼もそういう自分の性格には、これまでも散々苦しんでいたのではあるが、なかなかそういう考え方の癖から脱却することが出来ずにいたのだ。しかしそれはもうこの結婚を機に変えるべきではないのかと一応思うのだが、自分を変えるというのも、なかなか難しいのではないかと思うのだった。それでもこれは絶対変えるべきことでもあるわけで、彼女と一緒になっても負けないくらいの人間にならなければ、この結婚はきっとおかしなものになるに違いないと思うのだった。

 一方、亮はというと、あれほど二人の破綻を期待していたわけなのだが、何のアクションもなく極めて穏やかに話しが進んで行ってしまったようで、これにはまったくガッカリしてしまったのだ。それにしてもどうしておばあさんは、彼女と意気投合してしまったのか。そのこと自体とても不思議でしょうがなかったのだが、あのパーティーでのことが思い出されて何やら嫌な予感を持つのだった。席を外せと言われたその後二人はいったい何を話し合ったのか、それが今までずっと引っかっていたからである。これで自分の思惑とはまったく違うことが起こり、ひょっとして二人はめでたくゴールインしてしまいかねなかったのだ。そうなるとちょっと考え直さなければいけなくなるわけだ。もし二人の結婚が実現したとしたら、恐らく兄は盤石の体制を公私ともに築くことになるに違いないのだ。それはつまりこのおれがこの先ずっと冷や飯を食わされるはめになるということでもあるからだ。いったいそんなことが許されていいのだろうか。よもや忘れたわけではあるまい。親子でこのおれをコケにしたことを。このままずっと兄の下でこき使われておまえはそれで満足なのか。満足なわけがないではないか。即刻兄から社長の椅子を奪還し、妻に自分がいかに兄と父親に虐げられていたかを告白しなければならないのだ。そうしなければいつまで経っても彼女と対等な関係など築くことなんか出来やしないのだ。と彼もそういう思いをますます強くしていくのだった。

 その一方で盤石の体制を築けるかどうかまさに運命の岐路にあった兄の卓は、いったいどうすれば自分が禮子に見合うような男になれるかどうかといった極めて個人的なことで思い悩んでいたのである。というのも子供ならいざ知らず、すでに四十を迎える大人がそれもすっかり型にはまった日常生活を送っている大人が、その習慣を変えるだけでもなかなか難しいのにその性格を変えるということになると、なおさら難しいのではないかと思われるからだ。第一彼のようにやたら忙しい毎日を送っている人間にとって、いったい何をどうしたらいいと言うのだろうか。座禅でも組んで瞑想生活にその答えを探れとでもいうのだろうか。いやもっと哲学書を読んで己を知ることに専念すべきなのか。それとも女とはいったい何なのかといった深淵な謎を心理学に求めるべきなのか。ところが驚いたことにそんなことはすでに実行済みだったのだ。彼も現代人らしくそういう啓発物にその救いを求めていたので、忙しい時間をやりくりして貪欲に挑戦していたわけである。もちろんそこに答えが見つかったというわけではないのだ。それでも気休めにはなったのである。そんな彼ではあるがまだ自分を変えようという意欲があるだけよかったのだ。というのも、ここにもう一人自らを変えようなどとは恐らく一度も思ったことのない橘氏が、娘のあの闖入事件以来どういうわけかその行動にある種の無秩序さが露呈し出したのである。

 彼は何を思ったか、ある日突然柏木家に出掛けて行くのだった。それも誰にも知らせずにもちろん自分の家族にも相手の家にも連絡せずに、いきなり手ぶらで出掛けて行ったわけである。この手ぶらでということが、いつもの橘氏の行動様式から見て考えられないことだったわけで、まして娘の嫁ぎ先の家に出掛けて行くのに手土産の一つも持たずに済ますなんて事はおよそ考えられなかったからだ。それが、どういうわけかそんなことなどまるで念頭にないかのごとく、平然とした態度で出掛けていったわけである。それは橘氏をよく知る人なら、きっと見過ごすことの出来ないことだったかも知れないのだ。とはいえ何も橘氏が発狂したというわけではないのだ。そんなことではないのだが、恐らく彼の心に何か突拍子もない考えでも浮かんできて、それが彼の行動をおかしくしたのかも知れない。

 彼は柏木家の玄関先でいきなりおばあさんに面会を申し込むのだった。応対に出た家政婦は、彼が若奥様の父親だということは知っていたのだが一応型通りに名前を聞き、会う約束は出来ているのかどうか確認したところ、していないという返事にそれなら前もってアポを取ってからまた来て下さいといってあっさりと断ってしまったのだ。しかし橘氏は緊急のお話しがあるので、そこをどうかお取り次ぎ願いたいと言って散々粘るのだった。家政婦も彼をこのまま通して、もし後で小言でも言われたら嫌なので、いったいどうしたらいいのだろうと迷っていたらそこに紫音が現れたのである。彼女はたまたま出掛けようとして下に降りて来たのだが、そこに父親がやたら興奮して何やら家政婦と押し問答をしていたのを見てすっかり驚いてしまったのである。

「いったいどうされたんですか。お父さん」と言って、父親と困り切っていた家政婦を交互に見ながら声を掛けるのだった。

「おお、よくぞ来てくれました。我が娘よ。いや、ちょっとおばあさんにお目に掛かりたいと思って来てみたんだが、この方がアポを取ってないからと言って取り次いでくれないんだよ。ここはぜひともお前の力で、この方に何とか面会が叶うよう取り計らってくれないだろうか」と、父親はここぞとばかり娘にすがるのだった。家政婦もちょうどいいところに来てくれたと思い、言われるまでもなくあとはすべて若奥様にお任せすることにして自分はさっさとこの厄介な場面から逃げ出すのだった。そこで困ったのは娘の紫音で、こんなことは今まで考えられなかったことでもあり、いったいどうして何の連絡もなくいきなりやって来たのだろうかと首を捻るのだった。

「いったいおばあさんに何の用なんです?もし、大事な用件なら前もって連絡してほしかったですわ。そうしてくれればおばあさんだって余裕を持って迎えられたのに。でも変ですね、お父さん。おばあさんに会うのに手ぶらで来るなんて、お父さんらしくありませんわ」と、娘も、義理を欠いたら政治家はおしまいだと常日頃言っていた父親らしからぬ行動にますます首を捻るのだった。

「いやちょっと急いでいたもんでね。うっかり忘れてしまったんだよ。しかし今から用意するのもな、ここは一つ目をつぶってもらえないだろうか」と言って、父親は娘に頭を下げるのだった。彼女も、どこまで信じていいのか不安ではあったが、ここで父親にあれこれ言っても仕方がないので、「それじゃ、これからおばあさまに聞いて来ますから、しばらくこの部屋で待っていて下さいね」と言って、彼女は父親のために、おばあさんの元へと直談判しに行くのだった。しばらくして戻って来た紫音は、会ってくれると父親に言うとやはり気になるのか、このまま父親と一緒に付いて行こうとさえ思ったほどなのだ。しかしそこまでは出来なかったので、ここはグッと我慢して話しが終わるのを待つことにしたのである。橘氏はおばあさんのいる部屋の前まで来ると、身だしなみを一応整えて静かにノックするとドアを開け中へ入って行くのだった。

「あら橘さん、お久しぶりですわね。今娘さんから聞きましたが私に用があるとか」と言いながら、いつまでも入り口でもじもじしている橘氏を見かねて、「そこにいつまでも立ってないで、どうぞこちらにいらしてゆっくりなさって下さいな。今、お茶でも持って来させますから」と、自ら電話でお茶を持って来るよう頼むのだった。

「いやどうかお気遣いなく。実はみなさまに召し上がって頂こうと、せっかく用意していたお菓子をついうっかりして家の玄関に置き忘れてしまいまして、そのことをさっき娘に言ったところ、まったく呆れた顔で睨まれてしまい、まったく父親として面目丸潰れになってしまったという次第でして」

「いや何をおっしゃいますやら、そんなことはちっとも気になさならないで下さい。私はね、そういう儀礼的な心遣いなどあまり重要視してませんの。でもまあ私だって置き忘れなんかしょっちゅうありますし、どうか気になさらずにね、いやそんなことより何ですか大変な自動車事故に遭ってしまったと、この間卓から聞いたのですが、どうなんですか?お体の方は」

「そのことでしたらどうかご心配なく。ちょっとしたむち打ちで済みましたので、私もまだまだ運に見放されてなんかいないんだと思いホッとしたわけなんです。で、この間卓さんからご丁寧にも綺麗なお花をお見舞いに頂きまして、私からそのお礼もかねて心から感謝しておりましたと、おばあさまからお伝えして頂ければ幸いに存じます」

 すると、そこに娘の紫音がお茶を持って入って来たのだ。どうやら父親の動向が心配で、家政婦に頼んで自分が代わりにお茶を運んできたというわけなのだ。この紫音の行動にさすがのおばあさんも少し変だなとは思ったのだが、まさかそこにどんな意味が隠されていたのか、さすがのおばあさんもそこまでは思い至らず、ただ珍しいこともあるもんだと思うだけでこの行動を見過ごしてしまったのだ。父親は娘がいる間ずっと身動きすらしないで、それこそ早く出て行かないかなと念じているような感じでジッとしていたのだ。彼女は横目でそっと父親を見ながら、このまま放っておくのが何か怖い感じがして、少しでも長くここにとどまっていたいくらいだったのだが、しかしそれも叶わず、そのまま大人しく部屋から出て行くしかなかったのである。ようやく娘から解放されてホッとしたのか橘氏はこんなことを口にしたのだ。

「この間、卓さんにもお聞きしたのですが、娘はみなさんとうまくやっていけてるのでしょうか?何でも卓さんの話によりますと、誰もが娘を頼りにしているくらいだとおっしゃっていたのですが、本当にそうなのでしょうか。ひょっとしてみなさまに誤解でもされて身の置き所がないなんてことにでもなってやしないかと、まったく親バカではありますが、そんな余計な心配までしている始末でして。ともうしますのも実際のところあいつもあまり口数の多いやつではないので、やはりそうなっても決しておかしくないわけでして、いやまったくその……」と、まさしく親バカならぬバカ親の見本のようなことをブツブツと呟きながら、おばあさんの顔色を伺うと、なぜか媚びるような表情をして見せるのだった。その顔がまた疑いのまなこで充満した、およそ口先だけのまがい物だったので、さすがにおばあさんもこれは何か怪しいと思い、この親バカを睨み付けながら一喝するのだった。

「あなた、そんなことを聞くためにわざわざやっていらしたんですか?もし、そうなら、すぐにでもお帰り願えましょうか。そこまでご自分の娘を信じられない親など見たくもありませんから。しかし、どうしてそんなバカなことをお聞きになるんでしょう?いったい、何を心配されてるんですか?まさか、あなた、ご自分の娘がこの家でいじめられているんじゃないかって疑ってやしません?もし、そんなことを思っていたんなら、どうか二度とこの家に来ないで下さい。あなたの顔など見たくもありませんから。どうんなんですか?あなたの返答次第ではただでは済みませんからね。何とかおっしゃい!」と言って、このおばあさんは本当に怒り出してしまったのである。これはまったく予想もしていなかったことで、彼も、これはちょっとまずいことになったとすっかり青ざめてしまい、これはすぐにでも何とかしなければいけないので、彼は大急ぎでおばあさんにこう言って寛恕を請うのだった。

「と、とんでもございません、そんな大それたことこれっぽちだって思っておりません。それは誤解でございまして決してそういうことではないのです。いや私の言い方がちとまずかったようで、実はその続きがございまして、それを聞いてもらえればきっと誤解も解けるのではないかと、つまりですね私の育て方に問題がなかったかと心配していたからなんです。なにぶんあいつの母親が亡くなってからというもの、どう娘と接していけばいいのか分からなくなりまして、要するに娘を甘やかして育てて来てしまったのではないかと、親としてずっと気になっていましたものですから、ついそんなバカなことを言ってしまったのです。どうかそうした私の至らぬ父親の心情をご理解して頂き、何卒おばあさまの寛大なお計らいによってお許し給わんことを切に願う次第でございます……」橘氏はこう言って、おばあさんの逆鱗を何とか宥めようとするのだった。

「確かに紫音さんは、あなたにはちょっと出来すぎた娘さんなのかも知れませんわね。あなたが、今までどのような人生を送って来たのかは、この私だって知らないわけではありませんからね。まったく、あなたのような父親と一緒に暮らすというのもなかなか大変なことなのかも知れません。と言ってもあなたが実際にどんな父親だったのかそこまでは正直よく分かりませんが、それでもあなたがどんな男で世間でどのように見られているかなんてことは、すっかり調べが付いているんですからとぼけたってダメですよ。でもあなたが娘さんに対してどんな思いでいたのかまでは分かりませんからね。今あなたがおっしゃったことがもし本当なら、私だって考え直さなければならないと思っています。まあ確かにあなたも父親としてご苦労されたのかも知れませんが、でもね橘さん、あなた最近どうなんですか?聞くところによりますと、あなた禮子さんと別れたそうですね。ちょうどいい機会なのでちょっと立ち入ったことをお聞きしますが、どうか正直に答えて頂きたいのです。あなた、もうあの方には何の未練もないのですか?こっちもね、ここに来てなぜか急に大変なことになってしまったんですよ。つまりあなたの正直なお気持ちをぜひとも聞く必要が出て来たってわけなんです」

 橘氏は、この唐突な質問に一瞬驚きを隠せなかったのだが、しかしこの質問の意味はすぐにピンと来たのだ。とはいえここで迂闊なことを言って誤解されてはたまらないので、ここはなるべく慎重にバカな言質を取られないようにしなければいけないと思うのだった。

「いやそのことでしたら、こちらとしてもなかなか断言することが出来ない訳でして。ともうしますのも、この問題はあちらが一方的に言って来たものでして、なかなかそう簡単に解決するものではないと理解しているからです」

「ああ、なるほどそうですか。それなら正直なところ、あなたはまだ彼女に未練があるというわけですね?」

「いや未練といいますか、そういうことではなくて、むしろ彼女の考え方に興味があるといった方がいいのかも知れません」

「いったいどういうことなんでか?意味がよく分からないのですが」

「確かにこのことはなかなか言葉で説明するのが難しいのです。彼女の生き方に関係するものですから」

「ますます分からなくなりましたが、つまり、こういうことですか?あなたは彼女に対して未練はないが、どうしてあの方が別れたいと思ったのかそれを知りたいのだと」

「ああ実に鋭いところを突いているのですが、そう言うことでもないのです」

 こう言って橘氏は、何とかこの問題をはっきりさせないよう自分の態度を曖昧にしたまま、どうやら押し切るつもりでいたようだ。

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