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こうして禮子にとっても、柏木家を実質的に牛耳っている二人の女主人にとっても、表向きは単におばあさんが会いたいというどこか気楽なリクエストで実現したこの会見ではあったが、その裏ではかなり重要な目論見が進行していたわけである。
「いや禮子さん、お忙しいところをわざわざお越し頂きほんとうに申し訳ありませんでした。でもあなたにもう一度会ったほうがいいのではないかと思いましてね。というのも、あなたもよくご存じのある方にどうしても会って欲しい人がいるんですって言われたものですから、こうしてわざわざご足労頂いたというわけなんです。ところで何ですか私の記憶では、あなたはもっときらびやかでそれこそ女性の美しさというものを存分に発揮したお方だったと承知していたのですが、どうもイメージがすっかり変わってしまい何かいまいちピンと来ないのですが、いやこれは何もそのお召し物が似合わないなんて言っているわけではありませんからね。いやむしろその逆ですよ。そういう落ち着いた雰囲気のあなたも実に素晴らしく、どんなところに出しても決して恥ずかしくないどころか、それこそごく普通のご夫人としても立派に通用するに違いないってことが、これで証明されたってわけですからね。どうです律子さん。あなたもそう思うでしょう」こう言って、隣に控えていた卓の母親の律子に同意を求めたのだ。彼女もいきなり振られたもんで、いささかびっくりしたようなのだがそこは落ち着いて、卓の母親として彼女の印象に関する意見をここで口にしなければならなくなったのだ。とはいえこの母親も部屋に入って来たとき禮子の地味だが、それでいて気品のある姿に驚いてしまい、最初なんて言えばいいのかちょっと戸惑ってしまったのだが、それでも何とか落ち着いた調子でこう答えたのだ。
「卓の母親でございます。どうかお見知り置きを。といってもお会いするのは二度目ですが、あの時は残念ながらお話しも出来ませんでしたが、それでもあなたの印象は今でも脳裏に焼き付いておりますわ。確か、あの時は今回とは違ってずいぶんと個性的なお召し物だったと記憶しております。でも、今回のあなたを拝見して人は着る物によってどこまでもその印象が変わってしまうものだと、改めて痛感させられました」
この時、先ほど禮子を案内した家政婦が、ワゴンにコーヒーや紅茶のポットと色んな珍しいお菓子を乗せて部屋に入ってきたのだ。その配膳も終わり三人はそれぞれ好みの飲み物を選び、お菓子を食べながら甘い香りにいくぶん緊張も緩み、何となく女同士の気楽な会話がこれから始まるのではないかと期待されるのだった。まあ確かに普通の場合だったらそれこそ四方山話に花が咲くのであろうが、今回はどうやらそうも行かないらしくなかなか話しが弾まないようなのだ。さすがに口の達者な禮子であっても、この時ばかりはなぜかいつもの調子で話しを振って行くことも出来ず、何か躊躇するようなどことなく慎重に事を進めて行かなければならないと思っていたようである。どうやらおばあさんもその事を感じ取り、この場の雰囲気を変えようとして、いわばよかれと思ってそんなことを言ったとは思うのだが、禮子にしてみれば甚だ余計な気遣いにも思われるのだった。
「ひょっとして禮子さん。あなたお酒のほうがよかったのかも知れませんわね。どうなんです。正直に言ってくれていいのですよ。何も昼間からお酒だなんてそんな野暮なことは言いませんから。どうか遠慮などしないで言って下さいね。だって確かこの間の時にも言ったと思うのですが、あなたにお酒は実にお似合いでしたからね。その飲み方の粋なことったらそれこそ見惚れてしまうくらいでしたわ」こう言って、おばあさんはどこまで本気でそんなことを言っているのかまったく分からないのだが、禮子にしてもおばあさんを信じていないわけではないので変に疑うことはないにしても、それでも皮肉に聞こえるようなことをまじめな顔してさらりと言ってくるので、これは油断できないと改めてこのおばあさんを警戒するのだった。
「そこまでお気遣い頂きこちらとしてはだた恐縮するばかりですわ。でもおばあさま、こう見えてあたくしお酒はそれほど嗜みませんの。こんな商売をやっていながら変に聞こえるでしょうが実際そうなんですのよ。この間は何となく手持ち無沙汰で、まさかタバコを吹かすのもどうかと思いまして仕方なくお酒に手を出しただけなんですから。でも実際あの時、おばあさまとお話し出来てとても嬉しく思いました。というのも、おばあさまのことがとても気に入ってしまったからなんです。だっていきなりいいお顔をされてますね、なんて言われれば誰だって嬉しくならないわけがないのです。もちろんお世辞だとしても、それでもやはり嬉しいもんなんですよ。というのもあたしのような女は、どういうわけか知りませんが変な目で見られがちでしてね。それにこういう商売をしておりますと、とくにそれが感じられるというわけなんです。でもこっちは別に世間様に後ろ指を指されるような人生を送っているわけではないのに、なぜか色眼鏡で見られることが多いんですのよ。確かあの時おばあさまもおっしゃっていたと記憶しているのですが、男というものはいくつになっても子供だとそのご指摘通り、お店に来る男たちは本当に子供のようにはしゃいでくれるわけなんです。実に驚くべき男の実態というものを毎日のように見ていますと、いったいこれはどういうことなんだろうって考え込まずにはいられなくなる時があるんです。でもまあこっちも商売ですから一緒に付き合ってあげますが、どう見てもおかしいだろうと思うようなことも時々起きるわけなんです。もちろん明日になれば、そんなことはすっかり忘れてまた元気に働き出すのですが、こういう男の実態を知ってしまいますと、なかなか結婚する気も起こらなくなるのではないかと余計な心配もするわけなんです」
「あなたのおっしゃることは私にもよく理解できますよ。私もね以前にクラブのママ達と親しくさせて頂いた時期があったからです。でも何分商売ですから、そこはどんな男でも大切にしなければならないのが一苦労だって、そのママ達も言ってました。ですから女はただ男のご機嫌を取るだけじゃだめで、かなり気を遣った態度で接していかないと、なかなかうまくいかないわけなんですって。男に媚びてもいけないし冷たくしてもいけないわけでしてね、だからかえって男よりもっと冷めた目で世の中を見てしまうなんてことが起きるんだそうです。そんなわけで夜になるとなぜか男たちは女のように甘え出すので、かえって女は男のように自分を律していないといけないわけなんですって。おもしろいですね。こういうところにこの国の現実が垣間見られるんじゃありませんか?いや何も別に偉そうなことを言いたいわけではありませんよ。もちろん男の人達のご苦労は承知していますし、何もバカにする気持ちなどまったくありませんからね。ですからそのママ達もおっしゃってましたよ。男というものは昼間、女のように気を遣いながら働いているので、どこかでその憂さを晴らす必要があるから、こうして高いお金を払ってまで来て頂いているわけなんだし、あだやおろそかに彼らのすることを軽々しく批判してはいけないって。でもね限度ってものがあるわけでして、そう何から何までやりたい放題というわけにもいきませんからね」
これにはさすがの禮子も度肝を抜かれたのだ。一体全体おばあさんは何が言いたいのだろうかと。ひょっとしてこれは自分を試すための一種の通過儀礼なのだろうかと、禮子もまじめにそう思わずにはいられなかったのだ。
「ところで禮子さん。今突然思い出したのですが、あなたと初めてお会いしたのは確かここのお庭でしたよね」と言って、おばあさんは急に違う話題に移るのだった。「その時あなたに紫音さんのことを尋ねたと思うのですが、憶えておられますか?」
「ええ、もちろん憶えてますとも。というのも、あの時おばあさまに実に失礼なことを言ってしまったからです。細かいことは忘れてしまいましたが、でもおばあさまもあの時ばかりはきっと気を悪くなさったに違いないんです。だってそう言ってからすぐに家の中に引っ込んでしまったからです」
「いやそんなことはありませんよ。私はただ感心してしまったんです。あなたの誠実さにね。今またこうしてあなたにお目に掛かれて、図らずもそのことを思い出しましてね。改めてあなたとこうしてまたお話しが出来ることに何か運命的なものを感じてしまったというわけなんです。私もきっとバカなんですよ。何も人様に聞くより自分の目で確かめるべきものでしたから。私も反省して、あれ以来紫音さんとは仲良くさせて頂いているわけなんです。本当に素敵な方で私もすっかり好きになってしまったというわけなんです。人をよく知りたければ実際にお会いして自分で確かめなければいけないって、そういう大事なことをあなたに教わったと言ってもいいくらいでして、今こうしてあなたにお目に掛かれてそれを実感しているわけなんですから。ところで、この間彼女から聞いたのですが、何でもあなたとはお友達のようなご関係だとそう承りましたが、それは本当なんですか?」
「ええまあ、そう言っても間違いではありませんわ。あたしも橘家とはある時期とても親しくお付き合いさせて頂いたことがありますので。彼女とも自然と仲良くなったというわけなんです」
「ええ、ええ、そう言えばあなたが橘さんと別れたとこの間紫音から聞いたのですが、それはまたどうしてなんでしょうか?いやいきなり立ち入ったことをお聞きして申し訳ないのですが、なにぶんそういうこともお聞きしておかないと後々厄介なことになっては困りますのでね」
禮子も、これはすでに大事な身辺調査に入ったのだと合点するのだった。とはいえなかなか難しい質問でもあり、どう言ったらいいのか迷うとこでもあったのだ。
「なにぶんあたくしも色々と思うところがございまして、このまま彼と結婚しても果たしてこの先大丈夫なんだろうかと思いましてね。いやもちろん彼が嫌いになったわけではないのです。それに彼も、ご自分のお仕事が忙しくなりましてね。なかなかお互いの生活が合わなくなってしまったことも一つの原因だったかも知れません」
「そうですか。それは残念でしたね。橘家はこの辺りではなかなか由緒ある家柄のお家でしたからね。それを蹴ってまで別れるということは、あなたも相当悩んだのではありませんか?いやきっとそうだと思いますよ。だってあの橘さんは今度また市長選に立候補するって聞いているからです。この前の選挙では惜しくも落選してしまいましたが、この間彼の支持者だという人から聞いたのですが、どうも現職の市長があまり評判がよろしくないようで、まあ私もよく知っている方なんですが、あまり長くやっていると色んなところにガタが来るみたいで、もうそろそろ市民達も違う人を求めているってことなのかも知れませんね。しかしまあ恐らくそういうことは、あなたにはあまり興味がないのかも知れませんわね。そうでなければそんなチャンスをみすみす逃すわけがありませんもの。でもまあ政治家の妻になるというのも、なかなかご苦労があるようですし相手が相手ですからね。あなたも色々と考えてしまったのでしょう。でも私はあなたのそういう思い切った決断に何か潔いものを感じたんですよ。普通の人にはなかなかまねの出来ないことだと思ったからです。人はどうしても目先の欲望に振り回されるもんですからね。それでは、もはやあの人には何の未練もないというわけですね?」
「もちろん、ございません」と、禮子はこの質問がどういうものか一瞬で悟ったのだ。もちろんこの時点では、おばあさんは二人の結婚のことは一切口にしなかったのだが、それでも彼女にはいい感触が得られたと確信したのである。それから二人は一気にあるくびきから解放されたかのように自由になり、天気もよかったので一緒に庭に出ることにしたのだ。色鮮やかに咲き誇る草花を見ながら、かつて二人が出会った大きな木々で囲まれた場所まで来ると、初夏の爽やかな風で揺れる梢がこの前と同じように二人を出迎えてくれるのだった。
「それじゃ禮子さん、ここいらで一つ乾杯しませんか。あなたがお酒を嗜むところが見たくなったのですよ。律子さん悪いけどお酒持って来てくれせんかね。私も飲みますので、そうですね。上等なシャンパンでもお願いしましょうかね。あなたはもちろんブリュットの方がよろしいのでしょう?あたしは、そうですね甘いやつにしましょうかね。じゃあ律子さん。その二つをお願いします」
こうして、どうやらこのおばあさんは禮子の人柄を改めて確認して、それなりの判断を下したようなのだ。しばらくして家政婦がシャンパンを用意し、それぞれのグラスに注ぎ二人はにこやかに乾杯するのだった。
「ところで禮子さん、あなたのご家族は今どうされているのですか?」と、おばあさんは一口飲んで、とうとう禮子の家族構成にまで興味を示したのである。
「両親はおかげさまで元気で暮らしています。一人二歳上の姉がいますが、あいにく離婚して今は親と一緒に暮らしております。父親は官僚でして、まだ頑張っているようです。まあ高級官僚なんて言うと、何か世間的には一段高く見られているようですが、実際はそんなイメージとはまったくかけ離れた、地味で口やかましい世間一般の父親とそれほど大差のない人間なんですよ。まあご覧のように、あたしがこんな調子ですからご想像はつくと思うのですが、両親にとっては疫病神だと言ってもいいくらいなんです。あたしも早くして嘘で塗り固められた家庭に見切りをつけてさっさと家を出てしまいましたが、若気の至りと言いますかなかなか大変な人生をそれから送ることになってしまったというわけなんです。今から思えば結構危ない仕事に巻き込まれそうになったこともありましたが、どうにか身を落とすこともなく今に至っています。まあもともと気だけは強いわけでして、それだけを頼りに今まで生きて来たといってもいいくらいなんです。で、結局こうした水商売にいつの間にかついていたわけなんですが、それでもこの世界が何も自分の天職だなんてことは少しも思っていませんのよ。何か自分でもよく分からないのですが、きっと他に自分の果たすべきものがあるんだと何となく信じているんです」
「それならご両親とはあまりお会いすることもないのですか?」
「そうですね、この間一度母親が病気になったという知らせがありまして、その時久しぶりに両親の顔を見たのですが、お互いの変わりように正直びっくりしてしまったというわけなんです」
「まああなたのお人柄も話しを聞いて何となく合点がいきましたわ。あなたがどうして今のお仕事に就くようになったのか、それもよく分かりました。と言っても自分に合っている仕事など、なかなか自分では分からないでしょうからね。たまたまってこともあるでしょう。でもあなたのように強い心を持ったお人は、なかなかこの世間では生きにくいのかも知れませんわね。でも、そのおかげでと言っちゃ何ですが、その世間というものがどういうものかあなたにはよく分かっていらっしゃるようですから、こちらとしてもある意味安心してあなたに託せるかも知れません。まあ、そういうことで今日のところはこれくらいにして置きましょうかね。私も何だかとても疲れてしまいました。お酒に酔ったのかも知れません。ではまたいずれあなたと会うことになると思いますので、今日はこれでお開きにいたしましょうか」
こうして、まだはっきりとした答えはもらえなかったのだが、それでも何となく希望らしきものは見えてきたと言ってもいいくらいだったのだ。




