表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫音の約束   作者: 吉田和司


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

73/104

73

 紫音も禮子のその視線からそれをはっきりと感じてはいたのだが、ここで父親の本心と思われる弟の証言を彼女に言って果たしていいのかどうかとても迷ったのだ。しかしそれは何も父親を庇うとかそんなことではなく、あくまでも父親の本心など誰にも分からないということが、彼女にとって一番大事なことだったからだ。単なる憶測でしかないものを本心だと言って人の心を迷わせるのは実に簡単なことだし、それが勝手に一人歩きして思わぬ事態に発展して行くなんてことは、人間社会ではそれこそ掃いて捨てるほど頻繁に起こることだからだ。人は何よりもそういうイメージによって心を動かして行くものだし、それは事実よりももっと強い影響力を持つものでもあるからだ。

「禮子さん、どうか父のことを許してやって下さい。確かに父はまだあなたに未練があるのかも知れません。事故を起こして間もないって言うのに、こうしてあなたに会いに来ているのですから。そう見られても仕方がないでしょう。でもいったいどうすればいいのでしょう。あなたが卓さんと結婚することは恐らく間違いないのでしょうが、そのことが父親の行動をおかしなものにしてはいけないのです」

「ですからあたしも何とか彼に諦めてもらいたいと心から思っているんですよ。でもねこういうことはそう簡単に行かないもんだし、あたし自身もほとほと困っているんですから。ところで何でこのあたしに会いたいなんて、あのおばあさんは言い出したんですか?お父さんもいないことですし戻って来る前にその理由を聞かせてくれませんかね」

「話すと長くなるのですが、それじゃ手短に言いますね。じつはお義兄さんは、あなたとの結婚をどうおばあさんに承認させようかと色々と考えていたのですが、なかなか難しくて弟の亮さんにどうしたらいいだろうかと相談したところ、それなら妻の紫音に間に立ってもらい、おばあさんを説得させてみたらどうだろうかといった、とんでもないアイデアを出したようなんです。私だってそんなことは正直引き受けたくなかったのですが、お前しかいないと夫に拝み倒されて、とうとうその役目を引き受けることになってしまったのです。でも最初からおばあさんを説得するなんてことは、とても無理だと思っていたので説得するよりまず雰囲気作りからと私も色々と考えまして、おかげでやっとおばあさんに会ってもらうという所まで、どうにかこぎ着けたというわけなんです。で、どうしてあなたにお会いしたいのかということですが、それはあなたともう一度よくお話しがしたいということではないかと思います。ですから、こうしてお願いに上がったというわけなんです」

「そうですか……でも、いつもながら、あなたの人の良さには本当に感心してしまいますわ。もちろん、そういう苦労を厭わずして下さるあなたには感謝してもしきれないってことだけは確かだし、あたし達にしてみれば、あなたはさしずめ結びの神ってところかも知れませんからね。それじゃ、おばあさんにこう伝えといて下さい。必ずお伺いいたしますので、その時はこのあたしのすべてを見て頂き、どうか忌憚のないご意見を聞かせて頂けるよう心から楽しみにしておりますって……」

「ああ、すっきりした」と言って橘氏は、ここは是非とも雰囲気を変えようと出来るだけ明るく振る舞うのだった。「しかし何だかすっかり酔いが醒めちゃったな。いや自分の娘がいきなりこんな所に現れりゃ、誰だって一瞬で酔いが醒めて当たり前ですからな。まったく父親からすれば、これは一つの完璧な悲劇かも知れん。いや、お前達から見れば喜劇かも知れんがね」こう言って、彼は道化のように笑って見せるのだった。「で、これからお前はどうするんだね?まだ、ここに居座るつもりか?用が済んだんならさっさと帰ったらどうだね。ここは、お前がいつまでもいるような所じゃないんだからね」

「お父さんは、まだいらっしゃるんですか?」

「もちろんいますよ。それとも何ですかあちらの人間になってしまったお前でも、どうやら親子の情だけは残っているようで、こんな飲んだくれた父親でも見捨てずに家まで送ってくれるってわけですかね?」

「もし嫌じゃなければ、喜んでそうさせて頂きます。すっかり酔っているようだし一人で帰るのも心細いでしょうから」

「これまたずいぶんとお優しいお心遣いで、ありがた涙が出て来て止まりませんわ……」と、一応型通りおどけて見せたものの、この道化は自分の席に着くと急にふさぎ込んでしまい、今までとはまるで違ったトーンでこう語り出すのだった。「いや私もねここ最近どうも嫌なことが続くもんでね、何となく神経質にはなっているんですよ。おまけに娘にこんなこんなことまでされちゃ、どんな強い父親でも完全に調子が狂ってしまうに決まってるんだ。しかしまあ、それもこれも私自身にその原因があったからかも知れないな。娘がこんな所に現れるというのも、みんな私のせいなんだ。でも何もおまえを不幸にするためにあの男と結婚させたわけではないからね。それだけはどうか信じて欲しいんだ。しかしどこで間違ってしまったんだろう。こんなことになるなんて、いやそれも前もって分かっていたことかも知れないのだ。自業自得と言えばそう言えなくもないのだ……。しかし私もここまで落ちぶれるとは思いもしなかったなあ……」

 もちろん、こうした橘氏の奇妙な告白は、どうせ酔っ払いの戯言くらいにしか思われていなかったので表向きには少しも実害はなかったのだ。それでも彼自身にとっては思いのほか、深刻な状態にまで彼を追い込んでしまったようである。

 彼はすっかり意気消沈してしまい、もはやこれ以上こんな場所で娘と一緒にいることに耐えられなくなって来るのだった。自分が先にここから出て行くかそれとも娘にさっさと帰ってもらうか、はっきりさせたくなったのだ。するとどうしたことか彼はいきなり立ち上がると、「もう帰る。勘定をたのむ」と言って、自分がここから出て行くことに決めたのである。娘の紫音は、こうした父親の行動にいささか驚いてしまったのだが、それでもここは黙って自分も父親の後に付いて店を出て行くのだった。すると禮子がすぐさま紫音を呼び止めて、「お願いだから一緒に帰ってあげてね」と言って橘氏を気遣うのだった。二人はタクシーを拾うために大通りまで歩いていくのだが、どうやら父親も娘が一緒に帰ってくれることをそれほど嫌だとは思っていなかったようだ。とはいえ父親としてはあまりにも不甲斐ない自分の姿を見せてしまったことで、正直なところ恥ずかしくてしょうがなかったのである。しかしいくら恥ずかしいといっても娘にしてみれば彼がどんな父親かってことくらいよく分かっているわけで何も今さらそんな恥ずかしがっても手遅れなわけである。とはいえそういう代償を払ったおかげで、こうして娘と一緒に帰ることもできたのだし、これはこれで父親としては別の意味で大満足だったと言ってもよかったのだ。いや彼のそうしたもつれた思いは娘のある行為によってさらにもつれたものになって行くのだった。というのも酔いは醒めたとはいえ、やはりその足下はかなり覚束なくなっていたので、どうしても娘の助けが必要だったわけである。ところがその娘がまるで初めてとは思えない手慣れた手付きで、ふらつく父親をタクシーまでエスコートしたから父親の度肝を抜いたのだ。いったいどこでそんなテクニックを覚えたのだろうと、ちょっとのことでは驚かない父親も自分の娘の変わりようにすっかり驚いてしまったのである。

 紫音は、無事に父親を家まで送り届けると、妹も何で一緒に居るのかとても不思議がり、しきりに上がって行けと引き留めたのだが、時間も遅くなっていたので待ってる家族のこともあり、いずれ近いうちにまた来るからと約束して帰って行くのだった。こうして彼女も自分の家に着く頃には、さすがにぐったりするほど疲れてしまい、もはや何も考えられずぼんやりしたまま玄関のドアを開けると、何とそこに夫が心配そうな顔で待っていてくれていたのだ。これは意外なことだと、きっと驚いた顔で彼を見たのかも知れない。「そんなに驚くようなことか?」と言って呆れたように笑うのだった。「どうやら相当くたびれているみたいだな。風呂にでも入ってゆっくり疲れを取ったらいい。メシも出来ているから」と言って、さっさと自分の部屋に引っ込んでしまったのだ。これにはさすがの彼女も二の句が継げず、こんなことは初めてのことでもあり彼という人間がどういうものか、ここで図らずもその一面を垣間見たわけである。

 翌日紫音は、おばあさんに禮子からの伝言を伝えるのだった。このおばあさんにしてみれば、禮子と再び会うということは何かそこに運命のようなものを感じないではいられなかったのだ。もうずいぶんと前のことだが、彼女と初めて会った時のことは今でも鮮明に覚えていたからである。それはおばあさんにとって、ああいう女性がどんなに人の心を掴んで離さないか、それは自分の経験からいってもよく分かっていたのだ。第一、水商売のような仕事をしようなんて思う女は、おばあさんからすれば男の心を、それこそ根底から引っかき回すような力を持っているに違いないからである。これは男にとって並大抵なことでは対処できないということでもあるからだ。孫の卓がどういう男か、それを思うとこの話はたとえ実現できたとしても、卓の性格に見合うような実直な家庭などまず実現不可能だろうと、このおばあさんは考えていたのである。

 禮子との会見は一週間後に行われることに決まったのだが、その前におばあさんは、この話しはきっと仕組まれたものに違いないと思っていたので、話しが変にこじれないよう前もって卓の母親に事情を詳しく知らせておくことにしたのだ。母親はそれを聞くと思わず笑ってしまいそうになるのだった。というのも、例のレストランで息子と食事をした時のことを思い出したからだ。あの時の息子の言い草が今鮮やかに思い出されてきて、なるほどこれでよく合点がいったというわけである。しかしそうなるとこの話しは、どこまで受け入れるべきなのだろうとこの母親は考えたのだが、もちろんおばあさんが反対しないのなら何も自分が反対したところでどうにもならないとこの母親は思ったわけなのだ。もちろんこの母親だって自分の意見はあるのだが、禮子がいったいどんな女性なのか、それがまだよく分かっていない段階では彼女の職業だけで反対するのもいささか子供染みていると思っていたし、まあ、ここは一つゆっくりと彼女がどういう女か自分の目で確かめてみようと思うのだった。

 いよいよその日が来たのだが、きっと双方ともこれからどのようなことが起こるのか、まったく見当もつかず、それでも何となくこの会見にはそれぞれの思惑が絡み合った、極めて複雑な事情がその裏に隠れていたので、実に不思議な雰囲気がどうしても漂う会見となったわけである。

 禮子はその日、時間通りにやって来ると家族たちのお目通りもなく、中年の家政婦に黙って案内されるまま、以前パーティーで使用された広い庭に面した部屋に通されたのだ。ただこの前とは違って、大きなテーブルにポツンと一人だけ、まるでこれから何か重大な取り調べでも行われるのではないかと思われるくらい彼女も緊張して来るのだった。実際のところ、そういう意味合いもあったわけで、禮子がどういう女なのかここで改めて吟味されることになったといってもよかったからである。そういうことも念頭に、それでもやはり、この結婚をスムーズに実現させられるかどうかは、すべて自分の出方一つに掛かっていると思わざるを得なかったのである。彼女もいつもとは違った心持ちで、果たしてどんな結果になるのだろうかと庭の様子を見ながらぼんやりしていたのだが、今この場所にこうしているというのも何か不思議なことのように思われて来るのだった。というのもそもそもの始まりが、紫音が柏木家の人達にまみえるために、橘氏の家族共々一緒に連れて来られ、気の進まぬパーティーに無理やり付き合わされたことが事の発端だったからである。つまりそのパーティーで彼女の生き方を変えるような極めて意味のある出来事に遭遇してしまったというわけなのだ。孤立をも恐れないという彼女ではあってもさすがに何の影響も受けずに大人しく見物していることが出来なかったというわけなのだ。いつの間にかすっかり巻き込まれてしまい、とうとう橘氏に自ら婚約の破棄を言い渡すという思い切った行動にまで発展してしまったからである。それもこれももとはと言えば、この庭が彼女に多大な暗示を与え、大きな心の変化を起こす切っ掛けとなったからである。彼女はどちらかと言えば都会育ちで、自然などというものはこの商売を始めて以来まったく縁がなかったと言ってもいいくらいで、ほとんど生活は夜が主体で自然と言えばビルの狭間から時より見える満月に何となく心が惹かれるくらいが関の山だったのだ。それに、もともと世間的な常識などというものはまったく興味がなかったし、結婚についても橘氏の時でもそうなのだが正直に言ってそれほどはっきりとした目的など持っていなかったと言ってもいいくらいだったからだ。それが突然どういう風の吹き回しか、いきなり自分の常識がまったく通用しない、柏木家という違った価値観で出来ている世界に乗り込もうとしているのである。これはどう考えても余人にはとうてい理解できないもので、当然橘氏もそのことに疑問を持ったのだ。しかし彼は彼で、どこか納得したような口吻をこの間も漏らしていたようだが、残念なことに娘の闖入によって中断されてしまいそれきりになってしまったわけである。しかし、それはいずれ分かる時が来るかも知れないということで、ここでは追求しないことにする。

 まあ、謎は謎のまま置いとくとして、どうやら彼女もこの結婚にはそうとう真剣に向き合っているようで、その証拠にいつもは派手な服装で過ごすことが多い彼女ではあるが、今回は、それこそレストランで卓と初めて会った時に勝るとも劣らないくらい地味な服装でやって来たからである。彼女からすれば、それは当然なことのようで、ここでいたずらに自分の常識を押し通す必要はない、という極めて常識的な判断が働いたということなのだろう。郷に入れば何とかで、そこは抜かりなく自分を変えて行くことに決してやぶさかではないということを、改めてはっきりと示す格好を取ったということなのかも知れない。

 ようやく車椅子に乗ったおばあさんが、この時も卓の母親に押されながら部屋に入って来たのだ。禮子は一応立ち上がって、この家の主に礼を尽くしたのだが、彼女も商売柄人への対応は慣れていたので、そんな単純な所作でさえ実に自然で惚れ惚れするくらい決まっていたのである。さすがにおばあさんも、これには感心してこれだけのことで彼女の印象がガラリといい方へと変わってしまったと言っても過言ではなかったのだ。それにどうやらおばあさんは最初から母親を同席させるつもりだったようで、その許しを禮子に求めるのだった。もちろん反対など出来るわけもなく禮子は、ここで思わぬ心理的な負担を強いられることになったわけである。これから実際に関わり合うことになるだろう卓の母親に、こうして間近で観察されるということは決して良い気持ちではなかったのだが、それもまたやむを得ないことだと割り切ることにしたのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ