表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫音の約束   作者: 吉田和司


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

72/104

72

 紫音は、手短に自分の名前と用件を話したのだが、このママはまさか彼女が橘氏の娘だとは思いもしなかったので、あいにく禮子は今お仕事中でとても手が離せないと言ってあっさりと断ってしまったのだ。さすがに紫音も仕事なら仕方がないと思い、また日を改めて出直そうかと一瞬思ったのだが、どうもそんな甘い考えではこれから自分のやろうとしていることなど到底実現しないだろうと思うのだった。第一おばあさんに啖呵を切ってまで連れて来ると約束した以上、何としてでも禮子さんに会ってお願いしなければならなかったのだ。

「あの、それでは終わるまで待たせて頂くことは出来ないでしょうか?」と、彼女も何がなんでも会いたいので、ここはどこまでも粘らねばと思ったようだ。

「でも今いるお客さんが、すぐにでも帰ってくれればいいのですが、それが何時になるのか分からないんですよ」と、きっと橘氏は閉店間際まで居座るに違いないとこのママは職業的な勘からそう予想したのだ。こうなるとさすがに紫音もあまり遅くなっては家の者も心配するに違いないので、いったいどうしたらいいのかと真剣に悩んでしまったのである。するとそのママは、彼女のひどく思い詰めたようなその顔の表情が思いのほか印象的で素晴らしく、日頃からホステス嬢を探していたこともありもし彼女にその気があるなら、自分が責任を持って面倒を見てやってもいいという気持ちが自然と湧いて来るのだった。こういう気持ちは彼女のような長年こういう世界で生きてきた女でもそう滅多にあることではないので、これはひょっとして得難い原石を見つけたかも知れないと彼女にひどく興味を持つのだった。

「失礼ですが禮子とはどういったご関係なんですか?」と、ママももっと彼女のことが知りたいと思い、ここは一つ何でも聞いてやろうと言葉を掛けてみるのだった。

「禮子さんとは昔からのお友達のような関係でして、今日はある事情からどうしても禮子さんに会ってお話ししたいことがあったもので、こうして突然お邪魔したわけなんです。でも前もって連絡しておくべでしたね。ほんとに迂闊でした」彼女はこう言ってハンドバッグからハンケチを取り出して額の汗を軽く拭うのだった。その時、彼女の形のいいその白い指に結婚指輪が光るのを見たのだ。ママもその事実にちょっとガッカリして、これで自分の思惑も消えてしまい、そういうことならこのまま帰って頂くかどうか、さっさと決めてもらいたいといったすっかり冷めたような目で彼女を見ることにもなるわけである。とはいえ、それではいくら何でもあんまりだと、さすがにこのママも自分のそういう態度を戒め、もともと気風(きっぷ)のいい女でもあったので、ここは一つ彼女のためにも一肌脱ぐべきだと思い立ち、そこからまるで我が事のように心配し始めるのだった。

「それではこうしてみましょうか。このままここでちょっと待って頂き、私が何とか禮子をここに連れて来ますので、いや少しの時間なら問題ありませんから。ね、そうしましょう。あなたもこのまま会わないで帰ってしまうのも何かスッキリしないでしょう」

「本当ですか、もし、そうして頂ければ本当に本当に助かります。まったく、私のような世間知らずが、いきなり押しかけて来て、会わせてくれなどとわがままなことを言って本当に申し訳ございませんでした。でもこれで何とか大事な目的を果たせるかも知れませんのでどうかよろしくお願いいたします」と言って、彼女は丁寧にお辞儀するのだった。親切なママは彼女の礼儀正しいその立ち振る舞いに笑顔で応えると、そのまま部屋を出て行くのだった。

 一方、禮子の本音を読み取ったと確信した橘氏は、すっかり機嫌がよくなりおまけに自信も戻ってきて、それならとここで一気に彼女からその本音を引き出そうと決心し、まずその手始めにみんなの気持ちを自分に引き付けるためにこの店で一番高いお酒を惜しげもなく振る舞うのだった。その効果は絶大で、誰もが彼の言うことに真剣に耳を傾け始めたのである。そうなると彼もますます調子に乗って、いつの間にかすっかり酔っ払ってしまい、もはや何の障碍もなくなったかのように禮子に向かって容赦ない言葉をまくし立てるのだった。

「この禮子嬢は実に頭のいい女性でして、そんじょそこらにいるような男ではとても太刀打ちできないことだけは確かなんです。それがですよ、よりによってあのような実に不釣り合いな男と、どうしてそのような関係になってしまったのか、これはどうも実に不可解そのものだと断定してもいいくらいなんですよ。ね、そうでしょう?どうなんですか。あなたにお聞きしているんですよ。あなたに」と言って、橘氏はその節くれ立った人差し指を前に突き出して彼女を脅すようなまねをするのだった。禮子としては彼が酔っ払ってしまった以上まじめに取り合うのもどうかと思うので、いい加減にあしらって酔い潰してしまうに越したことはないのだが、それでは同じ事がまた繰り返されるだけで終わりのない泥沼が何時までも続きかねないのだ。それではまずいわけで、この際はっきりと彼に諦めてもらうためにも、ここは一つ腹をくくって彼の恨み言に付き合おうと覚悟したのである。どっちみち文句を言いたいがためにやって来たのだろうから、こちらとしてはそれを大人しく聞いてやる必要もあるわけで、なぜなら彼の気持ちもそれなりに理解できるからだ。というわけで彼女としても何とか彼を怒らすことなく諦めてもらい、無事にお帰りになって頂きたいので、なるべく逆らわないようにして彼の言い分を聞こうと思いこう切り出すのだった。

「あたしは決してあなたがおっしゃるような女ではありませんが、それならいったい何がそんなにあなたを刺激してしまったのか、その理由をお聞かせ願えるでしょうか?」

「よくぞ聞いてくれました。そこにこそ問題の核心があるんですって。いいですかな、まず最初に私はね、あなたがどうしてこのような選択をしたのか、それをずっと考えてきたのですよ。これにはきっと何か訳があると私は睨んでいたからです。それがですよ、先ほどのあなたがおっしゃった、「世の中、何も色恋だけで動くものではない」という名言を聞いて、すぐにピンと来たんです。いいですかな、ここにあなたの真骨頂があるからですよ。私はそう確信しました。ここに謎を解くすべての鍵があるとね。だからですね、あなたともっとこのことでお話しがしたいわけなんです。よろしいですかな」

「いったいその言葉の何があなたをそんなに刺激してしまったんでしょうかね。ほんとに驚いてしまいますよ。大した意味なんか何もないっていうのに、それをご大層に言挙げしていったい何が言いたいんでしょうか」

「だからこそですよ。いいですか、そういう何気なく言ってしまった言葉の中にこそ、真実の気持ちが隠れているからなんです。よろしいですかな。その辺のことがまだあなたには分かっていないんだ。そういうことならこの私がこれからじっくりと、その謎の正体を筋道立ててあなたにお聞かせしようではありませんか」と言って、橘氏はその謎の正体を得意になって話し始めようとしたその時、店のママがいきなり割り込んできて、「今、禮子さんにどうしても会いたいと言って、ある方が別室で待っているのですが、どうでしょう橘さん、ほんの二、三分でいいので何とか席を外させて頂けないでしょうか」と、言ったところ、橘氏は急に機嫌が悪くなって、こうまくし立てたのだ。

「どうして、そんな余計なことをこのタイミングで言ってくるのかなあ。まったく非常識にもほどがあるんじゃありませんか?これから一番大事なことを彼女に話そうとしてたその時に、席を外させてくれだなんてそんなバカな理屈が通るとでも思ってるんなら、それこそこの世は崩壊しますよ。いいかですか、よく聞きなさい。私の前から禮子嬢を連れて行くなんてことは断じて許しませんからね。第一いったいどこのどいつなんだ!そんな図々しいことを言って来る奴は。このおれさまが、その曲がった根性を叩き直してやるから今すぐそいつをここに連れて来いってんだ。このバカもんが!」と言いながら、あまりに怒鳴りすぎて喉でも渇いたのか、グラスのウイスキーを一気に飲み干すのだった。

「まあ、よろしいじゃありませんか。ほんのちょっとの時間なんですから、何もあなたを残してこのまま逃げやしませんから。いいですね、終わったらすぐ戻って来ますから、大人しくしてるんですよ」

「しかし君たちにのやることは本当に常識を遙かに超えてますな。まったくやりたい放題じゃないか、しかしまあ、そこまで言うなら仕方がない。それじゃ、この私もちょっと用足しにでも行って来るとしましょうか。でもいいかな私が終わるまでには必ず戻って来るんだぞ。ところで、その会いに来たって奴は男ですか?それとも女ですか?」

「若い女性の方ですわ。それに禮子さんのお友達だとおっしゃってました。確か、柏木……ええと名前はなんでしたか、あ、そうそう紫音とかおっしゃってました」

「柏木……紫音。はて、どっかで聞いた事がある名前だが……」橘氏は、その時突然背筋に凍るようなものが走り、そんなバカなことがあるはずがないとは思うものの万が一そうだとしたら、これはいったいどういうことなんだろうとさしもの彼も一瞬ゾッとしたのだ。

「あらやだ。その方って、ひょっとして橘さんのお嬢さんではありませんか?」

禮子は、突然手を打って一目散に彼女のもとへと走って行くのだった。

 しばらくすると、確かに紛れもない我が娘が現れたのである。彼はそこに幻でも見たのか、それともこれは現実で、それもとびっきり悪夢のような現実で、そう簡単に信じることなどとても出来ないような現実だと思ったかも知れない。きっとその訳をようく聞かないかぎり到底信じられないようなことが、今現在進行中なわけで、橘氏としても何時までもこの幻のような娘の姿を黙って眺めているわけにもいかなかったのである。その理由を聞かない限り何時までたってもこの悪夢から覚めることはなかたったからだ。

「いったい、これは何のまねだ。どうしてお前がこんな所にいるんだね?まず、その訳をいいなさい」と、橘氏はさっそく父親の権威を思いっきり振りかざすのだった。

「いやお父さんこそ、いったいここで何をされているんですか?」

「いやまあ待ちなさい。どうか落ち着いて決して先走ったことは考えないように。いいかな。それじゃまず、お前から何故に禮子さんに会うためにわざわざこんな所まで来たのか、まずはその訳を言いなさい。それを知るまで、私のことは一切何も言わんからな!」

「私はただ禮子さんにご相談があってここに来たんです。ただそれだけですわ」

「そのご相談の内容が何よりも一番大事なんだ。わざわざこんな所まで来て言うほどの、その相談の中身をまず私に言う義務があるんだよ。お前には」

「それは簡単に言えば、禮子さんに一度わが家に来て頂けないか、それのお願いにやって来たんです。おばあさまがぜひ禮子さんにお会いしたいと言うことで、そのことをお伝えするためにこうしてお伺いしたわけなんです。それだけですわ」

「そのおばあさまってえのは何かね、あの柏木家の実質的な支配者である、あのおばあさまのことかね?そのおばあさまが、いったいどんな理由で禮子さんに会いたいって言うんだね?」

「それは言う必要はありませんわ。だってお父さんには関係のないことですから」と、意外にも娘はここではっきりと自分の立場を鮮明にしたのである。

「そんなことはないだろう。これでもお前の父親だぞ。関係は大ありじゃないか」

「いえ、たとえ父親だろうと言えないこともあるんです」

「これだ、これが実の娘の言い草なんだからな。呆れ返って物も言えんよ。まったく父親というものが、いかに娘に信用されていないか、これはそのいい見本かも知れんな。それともすっかり柏木家の人間になってしまったので、父親だろうが関係ないってことかな?いやはやまったく父親の権威も形無しだ。おまえには本当にガッカリだよ」

「まあ、そんなにガッカリする必要など何もありませんよ」と、ここで禮子が口を出したのだ。このままではまったく埒が明かないどころか、ますますこじれて行きそうでここは一つ自分が間に入って何とかしなければと思ったようだ。

「それじゃ立ったままでは何ですから、紫音さんも、どうぞこちらに来てお座りになって下さいな。あなたともほんとに久しぶりだし、でもこうして間近で見ると何か以前のあなたとはすっかりイメージが変わってしまったわね。いったいどんな心境の変化があったのかしら。それにしても見違えるほど女っぽくなられて、こうしてうちの子達と並んでもまったく引けを取らないどころかそれ以上ですもの。もしあなたがホステス嬢になったら、きっと店一番の稼ぎ頭になることだけは請け合ってもいいわ」

「何をバカなことを言ってるんだ!うちの娘がどうしてお前たちと一緒に働かなければならんのだ。まったくバカバカしいにもほどがある。話しにもならん」と、わが娘をここのホステスたちと比較されたことがひどく気に障ったようで、父親としてはたとえ冗談でもそれだけは許せなかったようだ。

「そんなに真剣になって怒らなくてもいいじゃないですか、何も娘さんを本当にホステスにしたいなんて思っていませんから」

「そんなこと当たり前だろう。何をバカなことを、まったく女というものは何を言い出すやら本当に見当もつかんわ」

 彼女としてもこれ以上橘氏を怒らせたくはないのだが、それでもこのまま大人しくしているわけにもいかなかったのだ。なぜなら何とかこの状況を利用して、彼に引導を渡す事が出来ないかと思ったからである。

「どうやら紫音さんも、こんなことになるとは思いもしなかったでしょうね。まさかご自分の父親が、こうしてホステスたちに囲まれながらお酒をしこたま飲んであげくに管を巻いていたなんてねえ、これじゃ父親のイメージもすっかり台無しで、これからはもう娘さんの前では何も偉そうなことなど言えなくなってしまうんじゃなかしら。ねえ橘さん。何とか言ったらどうなんですか?お嬢さんはご自分の用件をすっかり言ったのですから、今度は父親のあなたが何でここに居るのか、その理由を娘さんに説明する必要があるんじゃないのですか?」

 ところが橘氏の頭の中は、それどころではなくこの状況をどう考えたらいいのか、そのことでほとんど手一杯だったのだ。

『しかしいったい禮子と何を話そうとしたんだろう?結婚の日取りでも決めようってことかな?それにしても何か怪しいな。どうして娘を使いとしてこんな所まで寄越したのだろう。と言うことは娘もこの結婚にはまったく無関係ではないってことだろうか?いやはやもしそうであったら、それはちとまずいことになるんじゃないのか?』彼は急に不安になって来たのだ。というのももし娘が禮子と結託してこの話しを進めているとしたら、そう簡単にこの結婚話に手を突っ込むことが難しくなると思われるからだ。娘がその背後に控えているのに、それを無視してどうして禮子にちょっかいなど出せるというのだろうか。そんなことをすればまだ彼女に未練があることを自白しているようなものだからだ。そのうえ彼女と話した内容だってすべて娘に筒抜けになる可能性もあるわけで、そうなるとますます父親としての信用が落ちるということにもなりかねないわけである。彼は実にまずいことになったとつくづく自分の不運を嘆くのだった。今まで自分が娘にして来た悪徳の数々が、こうした形で自分を苦しめ出したのではないかと思うのだった。すると禮子が追い討ちを掛けるようにこう言ってきたのだ。

「橘さんも、ここに来てだんまりを決め込もうってわけですか?このまま何も言わないで逃げ切れるとでも思ったら大間違いですよ。娘さんだってちゃんと分かってるんですからね。あなたがこうしてあたしに会っているってことだけで、おそらくまだ未練を持ってるんだって思っているに違いないでしょうからね。あれだけこのあたしがはっきりと別れてほしいって言ったのに、それをこの期に及んでまだぐずぐず言ってるんですから、いったいどんな言い訳をすれば納得出来るんでしょうか。ねえ紫音さん。あなたからもこの際ですからはっきりと言った方がいいですよ。お父様のためにも、ここでちゃんと言っとかないと、あとできっと後悔することになるかも知れませんからね」

「いやちょっと待ってくれないか。何もそこまで言う必要はないと思うのだがね。娘だってそれなりに理解していてくれていると私は信じているからだよ。なあ紫音。お前だってお父さんがこういう場所に来ていることくらい知らないわけではないだろう。だって今に始まったことじゃないのだからね。それに私は何も禮子さんに会いたいがためにここに来てるわけじゃないんだよ。こういう雰囲気が好きなだけなんだ。それだけだよ。だから未練だとか何だとかといった、そんなものは思い過ごしもいいってとこさ。しかしなんだね人間年を取ると何か知らないがやたらにトイレが近くなってどうもいかんな。どうやら私も限界に来たようで、このままでは大変なことになりそうなので、ここでちょっと失礼させてもらうよ……」と言って、突然逃げるように飛び出して行くのだった。禮子は橘氏がいなくなったのを幸いに、ここでうまく紫音からあることを聞き出そうと思い、こう話し掛けるのだった。

「まったく、あなたのお父さんも困ったお人ですね。いやこれは何も悪口ではありませんよ。あることをあたしは言いたいだけなんです。だって、あの人の本心なんてもう見え見えなんですからね。しかしいったいどうしたらいいんでしょうかね。このままあたしが結婚したら、あの人はきっと何かまずいことになるかも知れません。ところでお父さんは何が原因で事故を起こしたんですか?お父さんの病がその原因なんでしょうか。さっき自分はうつ病になったって言ってましたけど、もしそうならひょっとしてこのあたしが原因だってことなんでしょうか。それだけは勘弁してもらいたいですが、どうなんです?」と言って、禮子は紫音に意味ありげな視線を投げるのだった。それはまるで、「この際だから、白状しちゃったらどう」と、紫音の嘘のつけないその性格に巧みに付け入ろうとしているようにも見えるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ