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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 こうして突如としてかなり深刻な状況に投げ込まれてしまった橘氏ではあるが、最初のうちはそんなに重く受け取っていたわけではなかったのである。というのも我ながら心にもないことを言ったという自覚は多少あったにしても、それは立場上やむを得なかったという言い訳が立ったわけで、彼としてもそこに何の矛盾も感じていなかったからである。確かに彼は橘氏にとってみればいわば恋敵でもあり、それなりに邪魔な存在でもあったのだが、しかし何も今さら彼に対して目くじらを立てたところで何が解決するわけでもなかったのだ。それより橘氏にとって重要なことは禮子の方であり、彼女の真意を何としてでも知らなければならないと思っていたようである。これは柏木氏に会って以来、もはや脅迫的な観念として彼の心を蝕み始めたといってもいいくら重要なことだったのだ。とはいえ彼自身この時点では自分が禮子の亡霊に、今まで以上にガッチリと取り憑かれてしまったことをまだはっきりとは自覚していなかったようである。

 それからしばらくして紫音は、父親が後遺症の心配もなく無事に退院することができたのを機に、例の話しをそろそろ考えなければいけないとそう思い始めていたのである。まったく気が重い話しではあるが、彼女自身もあまり目的に囚われずにただ女同士のお喋りに徹しようと、なるべく気軽に行こうと思うのだった。ところが何を思ったのか紫音は最初の計画とは違って、義母ではなくおばあさんの方からまず始めようと考えたのだ。

 この変更は意識して決めたというよりも本能的におばあさんのほうがいいのではないのかと思ったようなのだ。というのも日頃おばあさんとはピアノを介して話す時間も多かったので、気持ち的に話し易いという事情があったからかも知れない。それに何も義母から始めなければいけないという理由もなかったので、そこは同じ家族ということで話し易い方を選んだというわけなのだ。

 ある日の午後、何時ものように紫音はピアノの前に座り、興の趣くまま色んなピアノ曲を弾いていると、そこにおばあさんが車椅子を自分で動かしながら入って来て、しばらく彼女が奏でる音楽に耳を傾けるのだった。おばあさんもこの頃になると少し体力的にも弱って来ていたのか、よく聴きながら眠ってしまうことがあったのだ。この時もそうで気持ちよさそうに眠っているおばあさんに気づくと、今まで引いていた明るい曲から突然途切れることもなく、いきなり静かなバラードに変えるという離れ業までして、おばあさんの眠りを邪魔しなようにと気を遣ったりしたのである。

「ああ、また眠ってしまいましたよ。紫音や、あなたの弾く曲は本当に人の心を眠りに誘う魔力がありますね。もちろんこれは褒めているんですからね。下手なピアノ弾きは自分の主張が強すぎて、とてもじゃないが眠ったりできませんからね。それに比べればあなたのピアノは実に自然で、まったく余計なことを考えさせないくらい音楽の魂が聴く人の心を掴んでしまうのかも知れませんね。どうしてピアニストにならなかったのでしょう?私もね、今までずっとそのことが気になっていたんです。あなたのように才能のある人が、どうして途中でやめてしまったのだろうかって思っていたからです。でも、あなたのお気持ちを思うと聞くのもあれかと思いましてね、でももうあなたもすっかりこの柏木家に溶け込んでいるんですから、もうそろそろ色んなことを聞いてもいいんじゃないかって思ったのです。まあ、あたしもあなたのことは嫌いじゃないし、もっとよく知りたいって思っていたもんですからね。もちろんあなたも何か聞きたいことがあれば、遠慮せず何でも聞いて下さいね。女同士たまにはつまらない話しで盛り上がるのもいいのではないでしょうかね」

「もちろんおばあさまのおっしゃる通りでいすわ。私もこの頃ようやくこの家での生活が楽しくなって来たのは、こうしておばあさまと一緒に音楽を楽しめる時間があったからだと思っているんです。もし音楽がなければこれほどスムーズにおばあさまと打ち解けることもなかったのではないかと思っているんです」

「そうですね。私もそう思いますよ。音楽には人を結びつける力があるのでしょう。私もねあなたの音楽に出会ってからというもの、何か自分の人生が少し変わったように思えてならないのです。こんなことは初めてでしてね。よっぽどあなたが好きになったのかも知れません。ですからもっとあなたと色んなことを話してみたと思っているんです」

「そこまでおっしゃって頂けるなんてまるで夢のようですが、私もおばあさまともっと色んなことをお話ししてこれからの人生の糧にしていきたいと思うようになりました。私もちょっとお話ししたいことがありますので……」

「そうですか、それならさっそくですが、ねえ紫音さん。あなたはどうしてあんな道楽者の亮なんかと一緒になろうなんて思ったんです?いきなり変なことを聞いて申し訳ないんですが、あなたに初めて出会った時まずそのことを思ったもんですからね。まああなたにしてみれば、こんな話しは今さら言いたくもないでしょうが、でもあなただってまんざら知らないわけではなかったんでしょう?でもまあ、あなたのような方が結婚してくれたということで、あれもまんざら悪い人間ではないのかも知れないなんて思ってしまったくらいでね、これも一つの運命なのかも知れませんわね。もちろんこれはお互いに持っている運命で決まっていたと考えてもいいくらいでして、人の出会いなんてみんなそんなもんじゃないのかしらね。まあそうは言っても何もあの子が、まったく箸にも棒にも掛からない男だってことじゃありませんよ。人間なんて、誰でもどこかしらおかしなところがありますからね。完全な人間などいるわけがないのですから、まあ目くじら立てて言う程のことではないのかも知れません。こんな話しになってしまったのも、あの子が子供の頃から問題を起こしては母親を手こずらせていたからなんです。本当に変わった子供だったんですよ。まあ何とか父親の厳しい教育で、ちょっとはましな大人になったと思ったのですが、呆れたことにあなたもご存じでしょうが人妻と不倫などして世間を騒がせてしまいまして、まったく救いようがないくらい自堕落な生活をしていた時期があったんですからね。それがこうしてあなたのような素晴らしい女性に巡り会い、結婚までしたのですからまったく人生とはほんとに分からないものなのかも知れませんわね。自分のことを棚に上げて言うもあれですが女というものは男と違ってまったく理屈で説明できない生き物ですからね。それに比べりゃ男なんてまったく単純そのものですよ。まるで秘密が持てない子供みたいにね。その点、女は自分が思っている以上に秘密だらけの存在だといってもいいくらいなんです。これは本当のことですよ。あなたもそのうち分かるでしょう。だってあなたも結婚した以上身にしみてそう思う時が来るからです。それに女はどうしても自然というものに縛られて生きなければならない生き物ですからね。その重圧から逃れることはほぼ不可能です。そこに生きる辛さというものが隠れているわけなんですが、でも自然に逆らわなければ、それは男よりずっと恵まれた人生を送れるはずなんです。どうです?これくらい私の話しがつまんなければ、あなたも自分の話しをしやすくなったんじゃありませんか?それともずいぶん変なことを言うおばあさんだって思いましたかね。でもまあ変なら変でちっとも構いませんが、それでも私のようにすっかり歳を取ってしまった人間からすれば、確かに、この世界で生きることがどれほど変なことか、それは身にしみて感じていることなんですがね。あなたのようなまだ若い人にはまったくおかしな話しに聞こえるのかも知れませんが、でもね気が付く人には、そんなことはまったく自明だってことくらい分かっているはずなんですがね。だってあなたのような音というものに敏感な人は素人には到底聴き取れないないような複雑な和音から、どれくらいのたくさんの音を聴き分けているか、それと一緒ではないでしょうかね。気付いている人にはこの世界がそのように見えているに違いないって、私はそう思っているんです。私も、もうそろそろあの世に旅立たねばならない年齢ですが、それでもあまり見苦しくならない程度に人生を終わりたいと思っているんです。でも人生の最後に、あなたのような人に巡り逢えたということだけでも、私はとても幸せだったかも知れないって思うようになりました。私の人生など決して褒められたものではありませんが、それでもこの歳まで生きて来たということだけでも、そこに自分の運命を感じないではいられないのです。満足な人生だったなんてとても言いませんが、まあ、それなりによかった人生だったのかも知れません。でも一つだけ心残りなことがあるんです。この柏木家という私の息子が築き上げたお城をその孫の代で終わらせてしまうのかと思うとね、それだけが何か残念でしかたがないのです。しかしまあ、これだけはどうしようもありませんからね」

 こうしたおばあさんの心の嘆きは、恐らく今まで決して表に現れることのなかった人生の総決算のようなもので、紫音にとってはそれこそ色々と考えさせられることが一杯あったのだが、その一方で女同士のつまらない話しをしようと思っていた彼女にとって、思いも掛けずにその環境が整ったと感じないではいられなかったのだ。

「でもおばあさま。お義兄さんの卓さんは、そういうおばあさまのお気持ちをきっと分かっていらっしゃると思うのです。だってお義兄さんのようなお人が、どうしておばあさまの期待に背くようなことが出来ると思いますか?きっとそのうちいい人が現れるに違いありません」

「あなたのような優しい方が、この家に嫁いでくれて本当によかったって心底思いますよ。この家に何が欠けていたかって言うと、あなたのような優しい気持ちの人が居なかったと言うことなんです。この家では誰もがそれを何となく感じていたくらいでね、だから、私も最初にあなたを見たとき、ああ、どうしてこのような人が卓の嫁にならなかったのかって思ったくらいでしてね。ほんとに人生とは思い通りにはいかないって、その時思ったくらいなんです。でも、それでもよかったのかも知れません。同じ家族として一緒に過ごしていれば、きっとあの子の気持ちも変化するかも知れませんからね」

「それなら、おばあさまはどのような人を望んでいらっしゃるのでしょうか?」

「卓の嫁のことですか?」

「ええ」

「それを考え出すと、それこそ止めどがなくなり何にも決めることができなくなってしまうのです。ですから最初から決めて掛かるのだけは避けた方がいいのかも知れませんね。そうしないと何も決まらないで終わるのが落ちですから」

「確かにそうかも知れません。それに思い込みというものはとても厄介なもので、なかなかそういう先入観から抜け出すのも大変だし、一層のこと何も決めずにまず誰か実際に女性と会ってみたほうがいいのかも知れません」

「その誰かがいないから困っているんですよ。もうこうなったら誰でもいいから一度この家に連れて来てもらいたいくらいなんですから」

「でも本当なんでしょうか。お義兄さんに好きな人がいないなんてことが」

「それが本当だから呆れているんです。あの子はどうも少しまじめすぎるんです。それに、あまりにも慎重で昔一度付き合った人があったらしいんですが、それがあの子ったら、あまりに四角四面なうえに要領が悪く、女性をその気にさせるような際どいことも言えずにただ汗ばかりかいているような男なんです。まったくおじいさんそっくりなんですから。おじいさんも実際にそうだったんですよ。でも、おじいさんは昔の人だから仕方がないとして、あの子までが同じようなことで失敗するなんて、もう四十にもなるっていうのに、そんなことではもうどうしようもないではありませんか」

 話しが何かとんでもない方向に行ってしまい、いったいどうしたら自分の思っている方向に話しを持って行けるのだろうと段々心配になって来るのだった。彼女としては、ここで何とか禮子に関係する事柄を話題にしたいと思っていたのだが、その名前を出すことだけでもとても難しく感じられて、夫に自慢げに言った「自分は説得などしない。ただ女同士のお喋りをするだけだ」という自分の言葉が思い出されて思わず眉をしかめるのだった。自分の考えがいかに思い上がったものであったか、こうして実際に経験すると、そう簡単に行くものではないと嫌でも実感するのだった。しかしそうはいっても、このまま何も結果を残せず、ただ黙って引き下がるようなことにでもなったら、それこそ子供の使いと同じではないかと思って、彼女も一瞬焦ってしまったのだろう思わずこんなことまで口にしてしまったのだ。

「でも、そういうお義兄さんの性格こそ、かえって一番の武器になるのかも知れませんわ」彼女も、これはどうも言い過ぎだと思ったらしく、いくらなんでもお義兄さんの性格を武器として使えるだなんて、それはちょっとまずいだろうと思わずにはいられなかったのだ。彼女もこうなると、どうも自分にはこういう駆け引きなんかとても無理なんだと、すっかり自信をなくしてしまい思わず天を仰ぐと、そこにお義兄さんのがっかりした顔が浮かんできて、いったいどうすればいいのだろうかと心底情けなくなってくるのだった。とはいうものの彼女としても、このまま黙ってすごすごと引き下がるなんてことは、とても出来るわけないので、何とかしたいという思いだけはまだあったのだ。しかしそうはいっても、この時点でどう話せばいいのかそれすらもはや分からなくなってしまったので、仕方なくうつむいたまましばらく黙り込んでいると、誰かが耳元でそっとささやいたかのように言葉が思い浮かび、それが自然と口をついたのだ。

「今思い出したのですが、どうもお義兄さんは、禮子さんという方にとても興味があるようなことを、いつぞや亮さんから聞いたことがあるんですが」

「禮子さんって、いったいどなた?」

「ほら、あの禮子さんですよ。おばあさまも確か一度お会いしたことがあると思うのですが」

「ああ、あの方ね。えっ、でも彼女は確かあなたのお父様の結婚相手ではありませんか?」

「まあ確かにそうなんですが、でも色んな事情がありまして父はすでに彼女とは別れたようなんです。ですから、お義兄さんにとっても別に何の問題もないし、父との間にももちろん何の問題も起きようがないのです。どうでしょう一度禮子さんを我が家にお呼びしては」彼女も、この大胆な思いつきに最初こんなことを言って本当に大丈夫だろうかと心配してしまったくらいなのだ。

「そうですか、それじゃあなたのお父様もひどく落胆されているのではありませんか?お気の毒にね。でもまあ、そういうことでしたら、あなたのおっしゃることもなるほど考えて見る価値はあるのかも知れません。でもね正直なところ、それはなかなか難しいんじゃありませんかね。確かに、あの人とは一度ですがお話ししたことがあります。今でもよく憶えていますよ。とても賢い人だという印象をそのとき持ちましたね。でもね、あの人は卓には似合いませんし性格からいってもまったく合いません。とても一緒に暮らすことなど出来ないでしょうね。それも仕方がないと思いますよ。だってあの人の職業は確かホステスとかではありませんでしたか?第一あの人自身が、この家のしきたりに従ってまで卓と結婚をしようなんて、とてもじゃないが思わないでしょうからね。あの人にそんな従順さを求めるなんてとても無理なんじゃないかしら」

「でもおばあさま人は見掛けによらないというではありませんか。いくらあの人の職業がホステスでも、その人の人格とは何の関係もない、つまりあくまでもそういうお仕事に従事しているだけのことでしかないのですから」といった具合で、彼女も何か知らないが異常なほどの粘りを見せ、何としてでもおばあさんに自分の提案を了承させようと頑張ったのである。

「でもねあなたはそういう世界で働くということがどういうことなのか、何も知らないからそんなことを言ってるのでしょう。意外と思うかも知れませんが、こう見えて昔そういう世界で働く人達と親しくさせて頂いていたことがあるんですよ。ですからまったく知らないわけではないのです。もちろん、あなたの言いたいことはよく分かります。それは確かにそうでしょう。ですから私だって何もあの人の職業だけを見て反対したわけじゃありませんよ。ちゃんとあの人の人柄を見て判断したことを言ったまでですからね」

 おばあさんに、ここまではっきり言われてしまった彼女にしてみれば、もはやどうしたらいいのかまったく分からなくなってしまい、いよいよ万事休したと彼女自身も、このままでは諦めるしかほかに手立てがないくらい追い詰められてしまったのである。

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