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 橘氏一流の押しの強い論法によって何となく承知してしまったが、卓氏は、我に返ると何で自分がそんな仲介役みたいなことをしなければならないのだと一瞬嫌な気持ちになるのだった。しかし橘氏の話しをよく聞いていてふと思ったのだが、この男はそのことを頼むためだけに、わざわざ私に面会を求めたのだろうかと不思議がったのだ。ひょっとして自分に接近せんがために、ただそれだけのためにこんな余計なことを考え出したのではないだろうか。つまり今度の市長選のことがこの話しに絡んでいるのではないかと疑ったのである。彼のことは一応噂では聞いていたが、こうして会ってみると、その強引な語り口にいささか驚きもし、正直、面食らいもして果たしてこの男を、どこまで信用していいのかまったく判断しかねてもいたのだ。とはいえ橘氏がこの町の名士でもあり、また有力な市会議員として、前々からその辣腕を振るっていたことは、色んな人から聞いて知っていたので、そういうことからも何かとても怪しげな話しではあったが、このままほっとくわけにもいかず、さりとてすんなり納得もしかねていたのである。しかし、それにしても彼の娘と弟が、いつどこで知り合ったのか、それもまた謎に包まれた話しで、できればそのことを弟に問い質したいくらいだったのだ。というのも柏木家の将来を考えれば、彼の私生活について兄として一言言ってやる必要を、前々から感じてもいたからである。彼も弟の性格は、子供の頃からよく分かっていたつもりではあったが、最近の弟を見ていると、どうも少しおかしいのではないかと感じるようにはなっていたのである。しかし、そういう変な所は、子供の頃からあったと言えばあったのだ。なぜか知らぬがある時から父親に媚びへつらい、父親の言うことなら何でもしますと言ったことを平気で言うようになったのだ。父親に嫌われないようにとでも思っているのか、父親の命令なら歯を食いしばってもやり抜くといったような切羽詰まった態度が見受けられたのである。しかし、兄は知っていたのだ。弟がどれくらい父親を嫌っていたかを。とはいえ、彼がどれくらい父親の横暴に黙って耐えていたか、そういう彼の従順ぶりにどこか鬼気迫るものを兄として秘かに感じてはいたのだ。自分はどちらかというと適当に従う振りをして、父親の横暴を何とかかわしていたが、あいつはまともに受け止めてしまい、お陰で途中で挫折し一年浪人生活を送るはめになってしまったことがあったのだ。その時の落胆振りは、今思い返しても可哀想なくらいだった。なにせもう一年おやじから怒鳴られることを覚悟しなければならなかったからである。とはいえ彼も翌年にどうにか同じ大学に入ったのだが、そこで彼のまた違った一面を垣間見ることになったのである。それは同じ男として実に羨ましいというか自分にはそういうことはまったくなかったのだが、弟なぜか知らないがやたらに女にもてたのだ。しかし、おもしろいことに一人の女性と付き合うと、必ずもう一人別の女性が現れて、そのうちしばらくすると二人ともなぜか居なくなっているのである。それが大学を卒業するまでに何度かあったのだ。いったいどういう付き合い方をしているのか、弟の不思議なもて振りにやっかみ半分もあるのだろうが皮肉な笑いを浮かべながら眺めていたこともあったのだ。そういう変な弟ではあったが、最近はとくに彼の私生活にかなりの問題があって、それが心配の種でもあったのだ。興信所で調べてもらったところ、どうやら弟は、ある中年女と不倫関係にあったらしいことを突き止めたのだ。いい歳をした独身男が、いったいどんな料簡でそんな呆れた生活にうつつを抜かしているのかまったく言葉も出ないのだが、ここは兄としても弟に何とかその女と手を切って、まともな生活に戻ってほしいという思いが強くあったのである。今度の出向の件も、弟に自分の生活を真剣に見直してほしいという願いをこめて、あえて厳しい決定を下したといういきさつがあったのだ。そういうこともあり、橘氏が持って来たその話しが、もし本当なら願ってもないことでもあり、これによって彼の生活も軌道修正され、彼の生き方も秩序あるものに変わる可能性が出て来たというわけである。そういうわけで弟に、さっそく橘氏が言ったことを事細かに話すと、最初なぜか意外な顔をしながら兄の話しを聞いていたのだが、彼も次第にあの男の魂胆が見えてきて、とにかく兄に連絡先を聞くと、さっそく橘氏にいったいどういうことなのかとその真意を問い質すのだった。ところがいつもの調子で場所はこちらで用意するので、ただあなたの都合のよい日でいいから、ぜひ娘と会ってほしいの一点張りで詳しいことなど聞き出すこともできなかったのである。

 彼は橘氏の娘には一度だけ、それも遠目で見たことはあったのだが、ただそれだけのことで、取り立てて自分から積極的にアプローチしてみようと考えていたわけでもなかったのだ。それが橘氏とのいつかの話しもあり何となく嫌な予感はしていたのだが、それも、さっそく兄を使って手を回して来たに至っては、そうとう筋の悪い強引なやり口とは思いながらも、そこまでして自分の娘を売り込もうとしているあの男の魂胆を、こうなったらじっくりと探ってやろうと思ったのである。それに兄の話を信じるなら彼の娘が自分に会いたいとまで言って来たのだ。そこまで言われれば一度は興味を持った女でもあり、いったいどんな娘なのかこうなったら見ないわけにはいかないだろうといった、あくまでもこれは自分の好奇心を満足させるために出掛けて行くのであり、決してあの男を満足させるためではないと自分に言い聞かせるのだった。

 橘氏からすると意外や意外、こうもすんなりと物事が動くことに感激して、これなら今度の選挙も、きっとうまく行くだろうと幸先よく思うのだった。しかし、この後、あることで彼は非常な苦労を強いられることになったのである。それは外でもない。娘をどう説得して彼のもとへ連れて行くかということだった。これは簡単なようで決して生易なまやさしいことではないと彼には思われたのだ。それにもっと大事なことは、この件に関しては、絶対に華音には内緒にしておかなければならないということだった。そういうわけで紫音には前もって事情を説明して了解を得ることが出来なくなってしまったのだ。そんなことをすれば恐らくこの秘密は即座に華音の知ることになるからである。となると出来る手立てはただ一つ、その日の直前に知らせ何としてでも娘を車に乗せ有無を言わせず連れて行くしかないのだ。しかし、果たしてそんなことは可能か?可能かそうでないかはやってみなければ分からなかった。そんなわけでその当日、彼は娘相手にとんでもない茶番劇を繰り広げる結果とあいなったのである。

 亮は橘氏に電話した後、兄からある事を頼まれたのだ。それは若い頃お世話になった、ある方のお宅まで行って、この手紙を渡してもらいたいということだった。手紙なら何も自分がわざわざ持って行くことでもないだろうと言ったのだが、そうではなく、あなたが直々に会って私の代わりにお話しを聞いてもらう必要があるからだ。その話しはあなたのこれからのことにも関係するから、ぜひそうしてほしいと言うのだった。よく分からない理屈ではあったが、亮としても昔お世話になった人でもあるので断ることもできず、仕方なく兄の命令に従うのだった。その人は死んだ父親とは昵懇じっこんで、というよりもある時期までその右腕として創業時から父親をずっと支えて来た人であったのだ。もちろん、これには考えがあってのことで、弟に何か言えるのは、この人を措いて外にはいないと兄は考えたからである。

 亮は、その日いろんな手土産やらなんやらを、大きなバックに入れて出掛けて行くのだった。その人の住んでいる所はかなり遠方で新幹線と在来線を乗り継いで、ようやくたどり着くといったところにあり、かなり辺鄙なところに住んでいたのだ。彼は駅からタクシーでその住所のところまで行こうとしたが、途中で道が分からなくなり仕方なくそこで降りて、あとは歩いて行くことにした。もうすでに夜も七時を過ぎており外灯に照らし出された、いかにも寂れた商店街を歩いて行ったのだが、すでに閉まっているところが多く道を聞くのにも苦労するのだった。何とかその家に辿り着いてはみたものの、その家はすでに暗闇の中に隠れていたのだが、それでも昔の面影が微かな記憶の中から甦って来て、その黒々とした輪郭に懐かしささえ覚えるのだった。彼は厳めしい門扉の脇にある呼び鈴を押した。しばらくすると中から「どちらさまでしょうか」という声がして「柏木です」と言うと扉が開き中からいかにも律儀そうな初老の男性が現れ、黙って彼を中に招き入れるのだった。彼はそのまま天井の高い趣のある応接室に通され、ここでしばらくお待ち願いたいと言い置いて、その人は出て行こうとしたが、その時、彼は兄から預かった手紙をご主人にお渡し願いたいと、その人に手渡すのだった。彼はコートを脱ぎ、如何にも疲れ切った様子で革張りのソファーに腰を下ろした。彼は辺りを見回し昔と変わっていないこの部屋の様子に郷愁を覚えて、若い頃この家で過ごしたことを思い出すのだった。

 しばらくしてガウン姿の小柄な老紳士が部屋に入って来た。亮は立ち上がり丁寧にお辞儀をした。その人物は、年のせいか動きはどこかぎこちなかったが、決して弱々しいというわけではなく、ただ物静かな印象を人に与えるのだった。その頭髪はすでに混じり気のない白髪といってもいいもので、その豊かな量とともに老いた中にもどこか若々しい雰囲気を感じさせるものがあった。その表情はどこまでも穏やかで、絶えず静かな微笑みを湛え、どこにも陰りがなく、その眼差しも静かで、その姿全体に落ち着いた、すでにこの世のしがらみから自由になった人のような、実に従容しょうようとした風情が感じられるのだった。

「これはこれは、遠路遙々よくぞおいで下さいました。生きている間に、あなたのお顔が拝見できてとても感激しております。まったく長生きするというのも、それなりにしんどいものですが、こうしてまたあなたにお会いできるのですから、あながち悪いことでもなさそうですな。どうですか、あなたもお変わりございませんですかな?」

「はい、何とか元気でやっております。その節は色々とお世話になりました。あれ以来すっかりご無沙汰してしまい、気づいた時には、すでにこの歳になってしまいました。あれから何かと仕事が忙しくなり、どうにも時間がとれなく、お伺いすることも出来ませんでした。深くお詫びいたします」

「いや、そんなことは別に気にせんで下さい。こんなむさ苦しい老いぼれのところなんぞに、誰が喜んで来たいと思うものですか。あなたにしてからが、ご自分のお仕事が何よりも大事ですからな。全然気にせんで下さい。ところで、お兄様が社長に就任されたようですね。しかし、あなたにとっても、この経験はそれなりにかてとなったのではないですかな。ところで、どうなんでしょう。それはそれとしてこれからのことですが」

「私はある関連会社に出向という形で、ていよく追い出されてしまいました」

「ああ、なるほどそうですか。それで、あなたはそのことを受け入れたというわけですね」

「そうするしか方法がありません。何事も自分に力がなかったわけですから」

「あなたは今、追い出されたとおっしゃいましたが、それはすべて、あなたの為を思ってのことだということをどうか忘れないで下さい。とはいえ、私は何も説教染みたことを、あなたに言うつもりなど少しもないのです。あなたも恐らく、私がそんな野暮なことをするとは、ちっとも思っていないはずです。ですから今回のこの訪問は、二人にとって何か違った意味が、そこにあるのではないかと私は考えているのです。そこで、どうなんでしょう。あなたには何か今とても苦しまれていることが、おありなのではないでしょうか。しかし、そうは言っても、こればかりは他人の忠告など、それほど助けになるものではありませんからね。ですから、そういうことは一切抜きにして、あなたと久しぶりに色んなことを、ざっくばらんにお話ししたいと思っているだけなのです。以前いらしたときは、まだあなたも二十代前半でしたかね。私はその時感じたのです。あなたという人間をですよ。あなたはまだ半分子供のような、純粋な心を持った青年でしたね。その時思ったことは今でもよく覚えています。ああ、この青年は、この殺伐とした社会でどのような人生を歩むのだろと。この青年は、きっと自分の感受性そのものに苦しむことになるだろうし、それにもまして持って生まれたあなたの繊細な心が、この世の中をどう見るようになったのか、自分という人間に何を感じているのか、そういうことも併せて、この機会にぜひともお聞きできればと思っているのです」

「いや、そこまで私のことを考えていて下さったとは、まったく痛み入ります。自分のことについては、それなりの自覚はあるのですが、いやはやどうも、私はなぜか小さい頃から、どこか風変わりな子供だったらしのです。家族からもそう思われていましたし、友達からも変人と言われてよくからかわれました。自分では正直どこが変なのか、よく分からないというのが本当のところで、人がそう言うから、何となく自分でもそうなのかなと思うだけでした。しかし、それこそ私が一番苦しんでいたことです。なぜ自分ではそれほど感じてもいないのに、人は私のことを変わり者だと言うのか。あまりにも人からそう言われるので、それなら皆さんのご期待に応えて世界一の変わり者になってやると思ったこともありましたよ。あいにく、どうすればそうなるのか分からないまま今に至ってはいますが。私は会社勤めをし始めたとき、まったくなぜこうも朝から晩まで、人と物と時間と馬鹿みたいに競争しなければならないのかとそう思いました。私は今回の騒動も、それほど関心があるわけでもなかったのです。もうこの際、何もかも正直に言ってしまいますが、まったく何かがおかしいのです。それは自分がおかしいのか、それとも世間がおかしいのかよく分かりませんが、それでも何か変だとは思うのです。実際のところ、私の中には何か病的なところがあるのかも知れません」

「あなたは、その失礼ですが、ご結婚は?」老人は、なぜかここでいきなり話題を変えて来たのだ。

「いえ、まだ一人です」彼もいささか面食らってしまい、どうしていきなり話題を変えたのだろうかと訝るのだった。でも彼だって何となく分っていたのだ。恐らくこれもあの手紙の中に書かれているものの一つなのだろうと。

「そのご予定は?いや、申し訳ありません。立ち入ったことを聞くようで」

「いや、別に構いませんが、今のところ、その予定もありません」

「そうですか。でもあなたのこれからのことを考えれば、いつまでも独り身でいるというのも問題ではありませんかね。ここいらで一つ身を固めて見るというのもいいかと……」

「確かに、そうかも知れませんが、しかし、今のところそういう気にもなってないのです」彼はそう言いながらも、まさか不倫のことは書いてないだろうなあと心の中で苦笑するのだった。

「こんな言い方は失礼かも知れませんが、あなたがその気になれば、すぐにでもご結婚できるとは思うのですが、なかなかそうもいきませんか?」

「もちろん、私にも以前結婚したいと思った女性はいました。しかし、どういうわけか一人の女性と付き合い出すと、決まってどこからともなく別の女性が現れ、気づいた時には二人とも私の前から消えてしまうのです。不思議なことに、そういうことが今まで何度かありました。実に奇妙な現象です」

「それはある意味おもしろいお話しだとは思いますが、結論めいたことを言ってしまえば、それはあなた次第で、どうにでもなったはずだとは思いませんか?ひょっとして、あなたはそのいづれの女性にも最初から、それほど興味がなかったのではありませんかね。いや、これはまた実に失礼な言い方をしてしまい申し訳ありありませんでした」

「いえ、確かに、そういうことも考えられなくはありませんが、しかし、それとはちょっと違うものが、そこにあると今では思うようになりました。きっとそこに何か魂胆があるのです」

「魂胆?はてどのような」

「それは言えません。いや、言葉で表現するのが難しいという意味です」

「なるほど、それは実におもしろい。いやこれは失礼。しかし、確かに人生は、自分の思うようにはなってくれませんね。それは確かですが、でもあなたの人生は、あなたにしか決められないのではないでしょうか。たとえ間違いではないかと感じていても、それでも自分で決断を下さねばならない時もあるわけです。そうしないとあなたは自分の人生を結局逃してしまいかねません。しかし、まあ、これは忠告と言うよりも、人生の先輩としての反省の弁としてお聞き願いたいのです。実際に生きることは油断のならないことばかりです。あなたもそういう油断のならない人生にぶつかって、何かとんでもないことに気づかされたのではありませんか?」

「まったくの図星です。私はこの歳になって、あることを思うようになりました。つまり自分という人間は、この世でいったい何をしたいのかと。もっと端的に言えば、いったい何のために生きているのかと、そのことがどうにも分からなくなったのです。自分が今まで夢中になって携わってきた仕事が、あるとき突然、意味の無いものに思われて来たりするのです。それは実にはっきりとした無力感となって私をさいなむのです。昨日まで、あれほど充実した思いで仕事をしていたのに、翌日にはまったくそれが感じられないのです。いや、それなどはまだいいほうで、自分の存在自体が無意味に思われてくるのです。なぜか自分の生き方そのものが、とんでもなく空虚に思われて来てひどく私を苦しめるのです。それは自分の、いかにも下劣な忌まわしい性質に、その原因があるのではないかと憂慮されるからです。今まで誰にも知られていない顔が、そこにあると思われるからです。その顔は最初自分には仮面のように思われましたが、最近ではそれは仮面などではなく、正真正銘の自分の素面ではないかと何となく感じるようになりました。ですから、それを脱いで自分の素顔がそこに現れるかどうかまったく自信がありません。そう思うと不安はいよいよ増すばかりで、そういう自分の悪徳がこのまま自分の一部として、ずっと続くのかと思うと恐ろしくなり、不安で一杯なのです」

「悪は、人にいろんな顔を見せているのかも知れません。それは実に幻惑的な暗示をまとって人々を誘惑します。まるで詐欺師のように普通の人間を装って近づいてきます。そいつは人の心の一番弱いところをうまく衝いて来るのです。ある種の善意さえ見せながら。あなたの苦しみも、恐らくそのようなものが原因で引き起こされているのかも知れません。それに、あなたの無力感も意味の喪失も、現代人特有の病の一つと考えてもいいくらいです。われわれはこの世を生きて行く上で、とても大事な何かを見失ってしまったのかも知れません。われわれは何のために生きているのか。それを意味づける根本的なものがまったく分からなくなったからです。あなたの悪徳もそういうところから考えるべきかも知れません。ですから、あなたのそういう悪も、混乱したあなたをいいように弄んでいるだけかも知れんのです。というのも、よく考えて見ると善と悪は、それほどはっきりとした顔をしているわけではないと分かるからです。いったいこの男は、本当に悪人なのかと誰でも疑うことはできるのです。そこに誰もが戸惑うのではないでしょうか。そもそも、この悪と善には、そういう分かち難いものがあるのではないでしょうか。いや、これはもともと分離できないものなのではないでしょうか。この自然界においては善も悪もなかったのですから。ただ人間だけがそれを別けなければならなかったことに、そこに一種宿命的な人間の不幸の源泉があったのです。それ故われわれは悪には実に過敏になり、ちょっとしたことでも糾弾したりします。まるでそういう悪は、この世から一掃しなければいけないかのように。なぜそういうことが起こるのでしょう。誰も自分の中に、分かち難くある悪にまるで気づこうとしないからです。だから悪いことは自分とは無関係のすべての対象に向けられるわけです。しかし、多くの人々は、やはり自分の中の悪に気づいているのです。だからこそ秘かに悩むのです。ああ、悪いのは自分のほうであって、あいつではないのかも知れないと、その人はそう思ったりするのです。なぜそう思ったりするのでしょう。それは自分の中にある悪の存在に、ほんのちょっと気づいたからです。まったく不思議な心の働きではありませんか。何もそんなことで悩まないでいたほうが、生きて行く上でずっと楽なのに。なぜわざわざそんな面倒な、むしろ余計な苦しい気持ちになったりするのでしょう。どうしてもそういう感情が自然と湧き上がってくるからです。なぜなら実際そういう心の働きが起きなければ、人間はいずれ発狂して滅び去るしかないでしょう。誰も悪そのものにはなれないのです。人間はそれほど強くはありませんからね。ただ気をつけなければならないのは、それなら人間はそういう悪から一歩たりとも、自由になれないのではないかと思ってしまうことです。確かに人間はそういう環境に染まるということはあります。それも習慣になってしまえば、悪もそうは感じられなくなってしまうからです。もちろん、これは決して自由とは言えないでしょう。しかし自由というものは決して人間の自由にはなりません。自由など少しも必要としない人のほうが、かえって自由であることもあるからです。あるようでない、ないようであるようなものが自由だからです。人間の心は実に不可思議で、あらゆるものが対立しあったカオスのようなものです。その中で、いかに正気を保って生きて行けばいいのか、それだけでも大問題です。要するに人間は、どうしても葛藤という狭間に立たされずにはおりません。あなたもそうやってご自分の悪に悩んでいらっしゃる。しかし、それはあなたも正常な精神の持ち主だという証拠です。悪は善を完全に押さえ込むことができるのか、善は悪をすべて駆逐することができるのか甚だ疑問です。しかし、人間の悪は、そのままずっと悪として存在しているわけではないのです。それは善にも変わりうるからです。人間は悪をなしうる存在だが、反対に善を施す存在でもありうるからです。それならそこに微かな一縷いちるの望みを持っても、決して間違いではないでしょう。ですから、あなたも決してご自分の小さな胸の灯りを、自ら吹き消してはならないのです。あなたはひょっとして自己暗示に掛かっているだけかも知れないからです」

「私は、ここしばらく、ある女性と親密な関係にありました。その女性は人妻でした。なぜ、そういう女性によからぬ思いを抱いたのか。それは彼女が何不自由のない生活に安住していたからです。いわば満ち足りてはいたが、あまりにも空虚な生活に浸りきっていたからです。つまり、そういう金と時間だけはあるが、何か大事なものが欠けている家庭の隙間にピッタリ収まってしまったというわけです。もちろん本人は、とても魅力的な女性であったことはもちろんですが。それは実にひそやかな妙に昂奮する恋でした。相手の女性もそれを感じていたようです。すでに四十にはなっていましたが、決してそんな歳には見えませんでした。もちろん本人は自分の年齢のことは気にしてはいましたが、鏡を見る度にその不安を払拭することができたのです。まるで魔法の鏡に、お伺いを立てるかのように毎朝自分の顔を見ては、そこに生きる手応えを感じていたというわけです。そのことは彼女に自信を与え、日々の生活に活力をもたらし、何よりも彼女の虚栄心をくすぐったというわけです。しかし、これは別に非難されることでもありません。何よりも自分の人生の虚しさを払いのけるだけの大きな力ともなっていたからです。こういうことが彼女の落ち着いた態度にも自然と反映され、彼女を実にチャーミングな女性に仕立て上げていたのです。その例えようのない笑顔は何よりも疲れた私を癒やしてくれました。それだけでも私には重宝な女性だったのです。もちろん、彼女も自分がどのように利用されていたかはちゃんと知っていました。とても頭のいい女性で、二人の関係も決して泥沼に陥ることはなかったのです。お互いきちっとそれなりに弁えた行動に徹していたからです。そうした間は何の問題も起きませんでした。しかし、そこにある若い女性が現れたのです。私はとっさに嫌な予感を持ちました。私はそのころ少しノイローゼ気味で、ひどく迷信深くもあったからです。ああ、またいつものパターンが始まったなと思いました。案の定、一悶着起こってしまいました。ひどく夫人のほうが嫉妬し始めたからです。こうなると女性は何をしでかすか分かりません。どんなに頭がよく理性的に振る舞いたがる女性でも、一度そういう感情に取り憑かれると、自分が何をするか本人ですら分からなくなるからです。水が急斜面を下るとき予めどこを通るか分からないのと一緒で、どうしてそこを通ったかは後になって適当に理屈を付けられるだけです。いわばそういう感情の爆発は、とても人間には制御することができません。ところで、その相手の女性ですが、実を言うとその方には何の責任もないと言ってもいいのです。夫人のほうが勝手に焼き餅を焼いたことが原因だったからです。ところが、その時、私は人間としてやってはいけないことをしてしまいました。私はその何の責任もない女性の肩を持ってしまったからです。理屈から言えば、それは間違いではないのですが、感情的な面から言えば明らかに間違っていたからです。夫人が納得するはずがありません。明らかに私が裏切ったと思ったでしょう。お陰でひどい修羅場を経験する羽目になってしまいました。その結果、夫人と私との関係もみんなにバレてしまい、今までの二人の密やかな虚栄に満ちた甘い生活も、そこですべて終わりとなってしまったのです。これは喜劇と考えるべきでしょうか、それとも悲劇と考えるべきでしょうか、いや、そんなことより、こういうことの中に果たして悪は存在していたのでしょうか?もっと言えば、私の中に悪はなかったと言えるのでしょうか?しかし、私は夫人に対してどんな罪を犯したのか今もって分からないのです」

「いや、あなたには分かっているはずです。こういう話しをされたというのも、そこにあなたの良心の呵責みたいなものがあるからではありませんかね。なぜなら、あなたは、こういうことを単なる笑い話で済ますことができない性分だからです。そういうあなたの並々ならぬ繊細な神経が、かえって言い知れぬ苦しみを、ご自分に与えてしまっていると言っていいのかも知れません。確かにあなたはかなり際どいところにいるのかも知れません。ご自分との折り合いがどうもうまくいってないようだ」

「いや、まったくつまらない話しをしてしまい後悔しております。こういうていたらくな生活を送っていたというのも自分の弱さからなんです。こういうことが、これからの自分の人生にどんな影響をもたらすのか、何かひどいわざわいとなって自分に返ってくるのではないかと心配なんです」

「その夫人は今はどうされているのですか?」

「夫人はひどく心を病んでしまいましてね、今はどこかの病院で療養しているようです。詳しいことは分かりませんが」

「何事も過ぎたことはどうすることも出来ませんが、あなたもその夫人に対して強い思いがあったのですから、これからも決して忘れることのないよう、それだけは十分注意しておきなさい」

「先生、またお会いすることはできませんか?私にはどうも先生のようなお方が、どうしても必要なようです。理由はよく分かりませんが、なぜかそう感じるのです」

「もちろん、いつでもお出でなさい。お待ちしておりますから。しかし、あまり待たせてはいけませんよ。なにぶん私の寿命も残り少ないことだけは確かなのでね。とはいえ、こうしたことはすべて運命に任せておくべきことなのかも知れません」

 

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