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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 どうやら橘氏にとってあれほど秘密にして置きたかったことが橘家ではすっかり暴露されていたようで、父親としてはもはやどうにも取り繕うこともできないようであった。とはいえ、これ以上あの女のことは話題にさせてはいけないとは思うものの、相手が相手なもんでそう簡単に話を逸らすのも難しかったのである。そこで彼は狙いを紫音に定め、こう話し掛けたのだ。

「なあ紫音おまえはいったいどう考えてるんだ?だって、あのことは恐らくおまえから出た情報だとお父さんは考えてるからなんだ。それでなきゃ貴臣があんな情報を知るはずがないもの。おそらく二人で食事をした時におまえの口から漏れたのかも知れないなあ。おまえにしては甚だ迂闊な行為だったかも知れないね。だって貴臣にそんなことを言えばどうなるかは火を見るよりも明らかだからだ。しかし何もお父さんはおまえのしたことを責めているわけじゃないよ。だって、こういうことはいつかは表に出るもんだし何も秘密にする必要もないわけだからね。それにもっと大事なことは、何もお父さんはあの二人の結婚に反対しているわけじゃないからね。そこんところを、どうも誰かさんは誤解しているようなんだが。しかしね誰にだって結婚をする自由はあるんだし、お父さんだって、もしその結婚が実現したなら、心から二人を祝福するにやぶさかではないってことだけはどうか承知していてほしいんだ」

 どうやら橘氏の戦略としては、華音を無視してここは一つ紫音に的を絞ってこの場を切り抜けようとしてるみたいである。もちろん橘氏の理屈は一見しておかしな話しだと分かるのだが、ところが紫音からすると今回の事故はどうやら弟の話しによると二人の結婚が原因だと考えられたので、そうなると自分もこの事故には決して無関係ではないと思ったようなのだ。こういう彼女の理屈も素直には納得できないものがあるのだが、それでも彼女がそう思う以上、誰にも文句が言えない道理で父親にしてみればまったく思うつぼということになるわけである。すると、やはり華音は何かを察知したのか、これ以上父親に喋らせると姉は本当に自分にも責任があるなどと思いかねないので、そこは何としてでも阻止しようと思ったのだ。

「でもねお父さん。お父さんはどうやら、あたしの話しを無視してお姉さんを血祭りにして何とか逃げ切ろうって腹なんでしょうが、そうは問屋がおろしませんよ。まるで姉さんにもその責任があるような口ぶりですが、そんな理屈が通るとでも思ったら大きな間違ですからね。だって事故を起こしたのはお父さんなんですから。いったいどんな理屈をつけて、お姉さんにも責任があるなんて言えるんでしょうかね。事故はお父さんの脇見運転がその原因だって貴臣は言ってましたけど。自分で事故を起こしておきながら、どうしてそこに姉さんの責任問題を絡めなければいけないんでしょうか。とても不思議な話に思えて仕方がないんですが」

「まったく、おまえの言うことは一々もっともだよ。何もお父さんは紫音にも責任があるなんてそんなバカなことを言ってるわけじゃないんだ。そこを華音もよく考えてくれなきゃね。あの事故は私の責任だってこは明白なんだし、何もそのことをうやむやにしたいわけでもないんだよ。おまえたちもきっと貴臣から聞いたと思うのだが、お父さんはねちょっと最近精神的に疲れてしまったようで、そのことをあいつに言ったところ、ひょっとしてうつ病かも知れないなんて恐ろしいことを言われてしまったんだ。これには正直参ってしまってさ、いったいどうしたらいいのかと私も迷ってしまったのだが、あいつがしつこく言うもんで仕方なく精神科に一緒に行ってもらったんだ。つまり、そういうことがあっての今回の事故ってわけなんだ。まあ悪い時には悪いことが重なるもんだってことが言いたいだよ」

「それじゃなに。あの女が結婚したことに驚いて、ハンドルを切り損ねたわけじゃないって言うのね」

「おお、いったい誰がそんなバカげたことを言ったんだ。しようがないな、あのバカ息子は。そんなわけないじゃないか。今さらどうやってあの女とよりを戻せるっていうんだ。いくら何でももはやそんなことは不可能だろう?おまえもいい加減あの女のことなど忘れろよ、いいな。そうじゃないと何時まで経っても、あの忌まわしい女の呪縛からこの橘家は抜け出すことが出来なくなってしまうんだからな。やはり選挙に勝つには家族の一致団結がどうしても必要なんだ。それには華音、おまえの頑張りが是非とも必要なんだよ」こう言って橘氏は、あることを思い出し、すぐさまそのことに照準を定めるのだった。

「どういう意味?」

「どうだ華音、おまえ政治家になるつもりはないかね?いや、こんなことを言うのも、おまえは気が強くて何でもとことん追求しなければ気が済まないってところが何といっても政治家向きだって思うからなんだ。いやね、このことは前の選挙の時からずっと考えてたんだが、もしおまえにその気があるなら、お父さんは考えてやってもいいんだよ」

「ご冗談でしょう。あたしが何で政治家なんかにならなきゃいけないのよ」

「いやなに、そんなに焦る必要はないんだ。いいいかい、よく聞きなさい。私にはちょっとした計画があるんだよ。おまえに私の秘書をやってもらいたいって考えてるんだ」

「秘書って、私設秘書ってこと?」

「今度の選挙で私が勝ったら、おまえにその仕事をやってもらいたいって考えているんだよ」

「よくも、そんな勝手なことを考えていたわね。驚いて腰抜かしてしまいそうだわ」

「いやなに、これはあくまでも私の政治家としての希望なんだ。でも、おまえがどうしても嫌だっていうのなら、まあそれも仕方がないとは思ってるがね。おまえにだって自分の人生の計画があるだろうからね」

 もちろんこうした橘氏の話しは、ありていに言ってしまえば、この場を切り抜けるためのお芝居ではあったのだが、決してその芝居が嘘だとは言えなかったのだ。というのも確かに以前からそういうアイデアを持っていたからである。ただ何がなんでも彼女になってもらいたいとは思っていなかったわけで、要するにどっちでもよかったのだ。ところが華音は、どうやら父親の話を真に受けてしまったようで、すっかり考え込んでしまったのである。ひょっとして本人もまんざら興味がないわけではないのかも知れない。こうして父親の橘氏は、とっさの閃きで何とか華音の厄介な追求を逃れることができて、ひとまずホッとしたわけである。

 橘氏はその後、おとなしく検査を受けどうやら後遺症も認められなかったので、ようやく退院するメドが付いたのである。彼もこれで禮子の動向を調べられると色々とベッドの上で計画を練るのだった。彼としては、まずあの女を捕まえて何とか口を割らせたいと思っていたようで、さっそく彼女が働く高級クラブに久しぶりに出掛けていくことを画策するのだった。あの女がどう反応するかそれを見てから今後の方針を決めようと考えたのである。するとそのとき病室の扉が静かに開き、そこに何と柏木卓氏が姿を見せたのである。

 彼は例のレストランの時と同じように格調のある背広姿で現れ、お見舞いの花束を抱えながら、どこかおずおずとした様子で中に入って来ると、個室にもかからわずなぜか周囲に気を遣うような小さな声で橘氏に挨拶するのだった。橘氏もこの突然のお見舞いに、正直度肝を抜かれどう応対したらいいのかまったく分からないといったていで何とか挨拶だけは返すのだった。二人は結婚式以来のご対面であり、それに橘氏にとっては某ホステス嬢の結婚相手でもあり、これはどうも厄介な御仁がおいでなすったと、さしもの彼もこれはひょっとして何かあるかも知れないと思い、この突然の訪問に全神経を集中させるのだった。

「このたびはとんだご災難で、さぞかしご心労のこととお察しいたします。実は、もっと早くお見舞いすべきだとは思ったのですが、ひょっとしてご迷惑ではないかと思い躊躇していたところ、弟から明日退院だと聞かされ何はともあれお伺いしなければと思いまして、こうして取るものも取りあえずやって参りました次第です。どうか突然のご無礼をお許し下さい」

「いやとんでもございません。ささ、どうか遠慮なさらず狭い所ですが、ずずーっとこちらにお入り下さい。まったく自分の不注意で起こした事故とはいえ生まれて初めての大きな事故でして、まあ軽いむち打ちで済んだことだけでも感謝すべきだと思っている次第なんです。しかし柏木家の皆さんには、すっかりご無沙汰してしまい本当に申し訳なく思っているんです。娘の父親として一度はこちらから出向いて皆さんにご挨拶をしなければなりませんのに、どうも選挙の準備にかまけてしまい気が付いたら忘れていたという迂闊を通り越して非常識この上ないことであり、何とお詫びをしたらよいのかと戸惑っている次第なんです。私も出来るだけ近いうちにご挨拶にお伺いしたいと思っておりますので、ご家族の皆様方にどうかよろしくお伝え願いたいと思っております。まあ堅苦しい挨拶はこれくらいにして、どうなんでしょうか。いや私もあいつの父親としてその色々と心配はしているんです。うまくやっているんでしょうか?この間、結婚後初めて娘の顔を見ましたが、まったく自分の娘ながらここまで変わるのかと驚いている始末なんです。本当にこれが自分の娘なのかと思うくらい変わってましたからね。まったく父親というのは娘にだけはどうか幸せになって欲しいと思っているわけなんです。それなのに娘ときたら、まったく父親など心配の対象にはならないらしく、今までまったく何の連絡も寄越さなかったんですから呆れてしまいます。でも一旦娘の顔を見てしまうとそんな愚痴などすっかり忘れてしまうわけなんでしてね。実際のところ、あいつは心の実に細やかな情に厚い女ですからね。ところが、どうも世間に疎いところがありましてね。まあ親の育て方が間違ったのか、それともあいつの生まれつきの性格なのかよく分かりませんが、なかなか人様の家庭に溶け込むのも難儀なんじゃないかって、親馬鹿ではありますが今でも正直心配しているわけです。あいつも決して口数の多いやつではないので、この間も会ってはみたものの父親を安心させるような気の利いたことも言わずに、だた心配そうな顔をするばかりでしてね。こちらも何か気が引けてろくすっぽ話も聞けずに終わってしまい、親としてまったく拍子抜けしてしまったというわけなんです」

「いやお義父さん、決してそんなご心配をする必要などまったくございません。私にとってもいや柏木家にとっても、もはや紫音さんは居なくては困るほどの人になっているからです。ですのでお義父さんもどうかそのようなご心配などなさらず、ただお嬢さんを信じてやって頂きたいのです。いやこんな出過ぎたことを言いますのも、私にとって一番頼りにしなければいけない存在でもあるからです。まあ、それはともかく私もですね、こうしてお義父さんのお見舞いという表向きの用件のほかに、一つとても気になっていることがありまして、そのことをぜひともお伝えしておかなければいけないと考えている次第なんです。と言いますのも私事ではありますが、この度あるお方とお付き合いをすることになりまして、そのことで一言ぜひともお伝えしなければならないことがあるからなんです。実は甚だ申し上げにくいことではあるのですが、その私のお付き合いしているその相手というのが依代禮子さんと言いまして、橘さんにとっても決して忘れることのできないお方ではないかと、私もそう認識しているからです。では、なぜそのようなことになったのか、きっとそのわけをお知りになりたいのではないかと思いますので、なるべく正直にその経緯などをお話ししなければいけないと思っているわけなんです。とはいえこんな重要なことを、このような場をお借りしてお話しするというのも、甚だぶしつけなことだとは重々承知しておりますが、しかしもはやそんな事にこだわっている場合ではないと、つまりこの時を逃したらそれこそ打ち明けるチャンスを逃すだけでなく、そのうち誤解を重ねてしまいご両家の間に問題を起こしかねないと心配したからなんです。もちろんこの話はまだ誰も知らないはずでして、私の家族ももちろんまったく知りません。つまり橘さんにこそ、一番最初にお知らせする義務があるのではないかと考えたわけなんです。どうかその辺の私の苦しい立場をご理解して頂けるならば、それこそ私の血の出るような決意も決して無駄にはならなかったと思う次第です。ではなぜこのようなことになったかと申しますと、やはり弟の結婚が一番大きかったのではないかと思うのです。私もやはり刺激されたことは間違いないので、それならなぜその相手が禮子さんだということになるわけなんですがそこにこそ一番の悩みが介在していたわけなんです。つまり私の目の前で、一番見てはいけないものを見てしまったからなんです。あれは確か私どのも家で開いたパーティーでのことだったと思います。どういう経緯でそんなことが起こったのか、今でもまだはっきりした理由が分からないのですが、それでも事実だけを言えば、禮子さんがいきなりあなたに対して別れを告げたということなんです。私もひどく驚いてしまったことを今でもはっきりと憶えています。そんな悲劇的なことが私の目の前で起きたのです。でもその時はまだ私の中ではただお気の毒だという、どこか他人事のような気持ちで見ていたと思うのですが、しかしそれがあながちそうではないと今になって思えば、確かにそこによからぬ感情が密かに生まれていたと認めざるを得ないからなんです。しかし、それはまだ感情の種が蒔かれたといったことでしかなかったのです。ところが弟の結婚を機にその種から芽が出てしまい、あれよあれよという間に私の心の中で、実に怪しからん考えが育っていったというわけなんです。その考えこそ橘さんにしてみれば、実に道理に外れていると見られても仕方がないと思われるものだったんです。この問題は私にとって決して疎かにはできない極めて重要な問題でして、いったいどうすればお互い感情的にならずにこの問題を解決できるのか、今の今までずっと悩み抜いた問題でもあったわけなんです」

「しかし柏木さん、それはもはや私の手から離れてしまった問題なのかも知れません」と言って、彼の意外な告白にどう答えるべきか一瞬迷ったのだが、すぐ気を取り直してこう続けるのだった。「というのもあの女が、いや依代禮子さんがご自身で決めたことなので、私にいくら不満があってももはや為す術もないわけですからね。ですので柏木さん何もそんなに私に気を遣うことなど少しもないのです。どうか私のことなど気になさらずにご自身の人生を歩んで頂きたいと思っております。私はね、あなたのそういう何と言ったらいいのか、どこまでも道理を通そうというそういうお人柄に強く共感を覚えるのです。まだ誰も知らないそういう情報をまず一番に教えてくれた、あなたのその何とも言えない律儀さに、とても感銘を受けるのです。あなたの今までの苦しみだって私には十分すぎるくらい理解できますよ。ですからどうか、これ以上ご自分を苦しめるようなことは止めて頂き、私に気を遣うことなくご自分の道を歩まれることを希望したいのです」

「と言いますと、この問題は解決したものと、そう理解してもよろしいのでしょうか?」と、柏木氏は、あまりにも意外な展開に、果たしてこのまま喜んでもいいのだろうかといった、どこか困惑した表情で橘氏を見詰めるのだった。すると、こっちはこっちでそんなことは当然ではないですかってな感じこう応じたのだ。

「もちろんですとも。これからはどうか私のことなど少しも気にせずに、お二人の未来のために頑張って頂き、私もあなたの父親として二人のこれからを静かに見守って行くことに喜びを見出すべきだとそう考えているのです」こう言って、橘氏は世にも希な人間を見るような何とも言えない表情で柏木氏を見るのだった。彼はこの人物にすっかり惚れ込んでしまったことだけは確かなようだったが、その分どこまで本気でそんなことを言っているのか、彼自身もあまりよく分かっていなかったのではないかと思われるのだ。

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