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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 こうして神ならぬごく普通の親子がいかにも思い上がった意見を交わしながら、地上で繰り広げられている人間どもの茶番劇を高みから批判したわけである。もちろん彼らとて地上に下りれば他の人達とまったく同じような生き方をするわけなのだが、どうも本人達にはその意識はないようであたかも神になったような気分のまま家路へと車を走らせたのだ。こういう時の人間というものは自然と自分が他人より何となく偉くなったような気分になっているもので、出来ることなら少し頭を冷やした方がいいのだがどうやら神の気分をお互い引きずったまま運転を続けたわけである。息子の貴臣もすっかり調子にのって口も軽くなり、父親が姉のことを話題にしたついでにとっておきの話しだと言って、姉に堅く口止めされたにもかかわらず例の話を喋ってしまったのである。

「それにしても、あのレストランは見晴らしもいい上にメシもとびっ切りうまかったなあ。あそこにはよく行くのかね?」

「いや、そうでもないですが、ああそう言えばこの前、紫音姉さんと一度あのレストランでメシを食ったことがありましたよ」

「えっ、それは何時のことだね?あいつが結婚してからか?」

「ええそうですが、偶然街中で出会ったんですよ。ぼくも久しぶりだったんで食事でもしませんかって誘ったわけなんです」

「まったく父親というのは、娘とどう付き合えばいいのか正直よく分からんのだ。あいつも結婚してもうずいぶん時間も経つが今まで何の音沙汰もないんだからね。やはり嫁に行くということはそういうことが当然なのだろうかって私も知り合いに聞いたことがあるんだが、どうやらどこでも同じようなんだ。父親というものは娘にとってはあまり心配の対象にはならんのだろう」

「そんなことはないと思いますが、でも姉さんだって向こうの家で暮らす以上なかなか大変なんじゃありませんかね。というのもある噂によればですよ、今柏木家では何かとても大変な事が起きてるようなんです」

「いったい何が起きてるって言うんだ?まさか娘に関係したことじゃないだろうね。おまえ、あいつと何を話したんだ?」

「いや何って別に……断って置きますが、姉さんとは直接関係ないことです。ああそうだ。お父さん。姉さんもずいぶんと様変わりしてましたよ。何が変わったかって、恐らく初めて髪を伸ばしたんじゃないかな。今まで伸ばそうとすらしなかったあの髪をです。まるで別人のように女っぽくなっていましたよ。一度訪ねて行って見てご覧なさい」

「へえ、あいつが髪を伸ばしたって言うのか。それはまた珍しいことだな。私もね前から気にはなっていたんだ。だってあいつがいつまでも色気のないままでいるとかえって心配になってくるからだよ。これは男親としてあまり褒められたことじゃないんだが、自分の娘がこのままずっと地味な女として親の側にいてくれるのは決っして嫌なわけじゃないんだ。でもその一方でやはり女としてもう少し自覚を持ってほしいって思ったこともあったんだよ。親馬鹿かも知れんが、あいつは親の私から見ても恐ろしいくらい綺麗だからな。でも本人にはその意識はまったくないようで、まるで自分がどういう顔をしているかってことも恐らく気にもしていないようなんだからまったく恐れ入るよ。やはり結婚して本人も自覚したのかも知れんな。それとも夫に何か言われたのだろうか、もしそうだとしたらそれはそれでとてもいいことだ。だって自分の夫の好みに合わすというのも一つの賢いやり方だからね。どうやら、あいつもうまくやってるようだな」

「でもねお父さん、その柏木家に驚きの変化が起ころうとしてるんです」

「そりゃ、どこの家だって変化ぐらいするだろう。あそこもおやじが急に亡くなって大変だったようだが、跡目相続もうまくいったようだし、いったいどんな驚きの変化が起こるって言うのかね?」

「それがですよ。いよいよその兄が結婚するらしいのです」

「なるほど、それはめでたいことだが、いったいそれのどこが驚きなんだね?」

「いやそこなんですよ。ぼくが驚いているのは。なぜかって言いますと、それが実にたまげたというか、信じられないというか、どう表現したらいいのか本当に困ってしまうような相手だからです」

「やたらにもったいぶるね。さっさと言ったらどうだ」

「それじゃ言いますけど、驚かないで下さいよ。その相手ってのが何とあの禮子さんだって言うんだから驚かない方が変でしょう」

 彼はそれを聞いたとたん驚きを通り越して一瞬気が遠くなってしまったのだ。あまりにも強烈な現実をいきなり突きつけられたもんで、すぐには彼の脳もどうやって反応したらいいのかそれさえ分かっていなかったようなのだ。つまり頭の方が現実と折り合うことが出来なかったというわけだ。おかげで彼の意識はすっかり飛んでしまったようでその時点で運転を止めて少し頭を冷やす必要があったのである。しかし彼はそのことすらまったく思い至らず、ほとんど無意識のまま車の運転を続けていたわけなのだが不思議と赤信号にはちゃんと反応して止まり青になるとまた走り出すのだった。もちろん彼の頭の中で何が起きているのか分からないのだが、どうやら彼の無意識だけはちゃんと機能していて何とか彼を見放すことなく誘導していると見るべきなのかも知れない。彼はようやく我に返ったらしく、こう言ったのだ。

「それは何かの間違いだろう。だって、あの女が結婚する相手はあのような男ではないからだ。私にはすべて分かってるんだ。あの女の好みから、嫌いなもの、その性格から主義主張に至るまで、知らないものなどないのだ。だから、そんなことはまったくのデタラメに違いない」

「お父さん、いったいどうされたんですか、そんなに興奮して。どうも変ですよ。ひょっとしてまだ忘れられないでいるんじゃないでしょうね。ダメですよ。そんなことでは。もう、あの女のことは忘れないといけません。だって、これ以上未練など持ってたら、それこそ選挙に悪い影響を与えかねませんからね。どうなんです、お父さん。分かってるんですか?」

 もちろん、貴臣はこの時点でそういうことは言ってはいけなかったのだ。なぜなら橘氏自身そのことで精神科にまで自ら足を運んで来たのだから。そんなことは息子に言われるまでもなく十分承知していたのである。それなのによりによって彼の意識がすっかり飛んだまま車を運転をしている時に、まるで追い討ちを掛けるようなことを言ったことで恐らく彼も自分が運転していることの自覚さえ、その時完全に消えてしまったかも知れないからである。あれほど姉の紫音に言ってはいけないと注意されていたのに、どうやらそんなことなどすっかり忘れていたのか、それとも誘惑に抗しきれなかったのかよく分からないが、そのことがとんでもない事態を引き起こすはめになったわけである。このようにして人の運命というものは、一番まずい状態の時を殊更に選んで、そこにさらに追い討ちを掛けるような形でやって来るものであり橘氏もある面から見ると犠牲者でもあるわけである。もちろんこのことに因果関係があるのかどうか、それを証明することなど不可能なのだが、まったく関係ないとも言えないわけである。現に橘氏はとうとうハンドルを切り損ね事故を起こしてしまったからである。もちろん原因がなんであれ事故を起こしたことだけは紛れもない事実だし、そんなことはあり得ないだろうと、いくら言っても起きたことは起きたのだ。そういうわけで、これから話すことは事故を起こした直後に車内で交わされた二人の会話である。

「大丈夫か貴臣。いやまいったな。おれとしたこが何でこんな事故を起こしてしまったんだろう」

「お父さん。どうやら誰も巻き込まずに済んだみたいなんですが、これからどうしましょうか」

「どうするもこうするも一応警察に連絡して現場検証してもらわなければなるまい。しかしその前に救急車を呼んだ方がいいかも知れんな。どうも首を酷く捻ったようで痛くて首が動かせないんだ」

「そいつはまずいですね。しっかりして下さいよ。せっかくうつ病ではないと診断されたのに、その帰り道で事故を起こして病院に担ぎ込まれたなんて洒落にもならないじゃありませんか」

「しかし貴臣、おまえの言ったことが本当なら、いいか、このことは絶対警察には言ってはいかんぞ。いいな。もちろんほかの誰にも言ってはいけない。二人だけの秘密として封印するんだ。でも何だって禮子はあの男と結婚するなんて気を起こしたんだろう。まったく気が知れんよ。第一そんなことが実現するとでも思っているのだろうか。まったく馬鹿げたことだ。話しにもなら暴挙だ。おれは絶対に許さんからな。いいか貴臣、おれはどうやら救急車で病院行きだから後はおまえに任せる。それで警察にはおれの脇見運転がどうやら原因だと言っておけ。そう言っとけば、いくら警察だって疑って来るなんてことはないはずだ。まあ、ほかの車を巻き込まなかっただけでも運がよかったと言うべきだろう。しかし、あの女はいったい何を考えているんだろうか」

 こうして、橘氏は自分が事故を引き起こした痛手より、あの女のことの方がよほど身に応えたようで、そのことがどうやら彼の心をすっかり引き裂いてしまったようなのだ。そういうわけで、この悲劇の主人公はひとまず救急車で近くの病院へと搬送されたわけである。事故の顛末は以上で終わるが、終わらないのが橘氏の複雑な思いだ。彼は病院に担ぎ込まれた後も、自分の怪我のことなどまったく意識になく、それに医者の話すことも上の空で、まったくトンチンカンな返答をして医者を呆れ返らせたのである。

 その後、橘氏はしばらく入院するはめとなったわけだが、彼の思いだけは一日でも早く退院して、いったいどういう経緯で二人が結婚に至ることになったのか、何としてでも探らなくてはならないと心に誓うのだった。ところが医者に一週間くらいは入院して、首だけではなく頭の方ももっとよく調べる必要があると言われてしまったのだ。これには橘氏もがっかりして、仕方がないので貴臣に自分の代わりにどうしてこんなことになったのかという詳しい経緯を調べてくれないかと、もはや父親の威厳など忘れたかのように、なりふり構わずまるで自分の欲望を息子に肩代わりさせるかのように、その使命を託したのである。しかし、いくら何でも彼にそんな探偵まがいなことなど出来るわけないので、それなら本当の探偵に頼んでみてはどうかと提案するのだった。橘氏もそれはいいアイデアだと、さっそく適当な探偵事務所を息子に探させたのである。

 しばらくして、その調査報告書が手元に届いたのだ。さっそく橘氏はその報告書を開いて目を通すのだが、手が震えおまけに文字が踊ってなかなかその意味が読み取れないのだった。とはいえ何も小難しいことが書かれていたわけではなく、その報告書にはまるで物語のような形式で事細かにその経緯が書かれていたのだ。どうやらこの探偵事務所は場末の雑居ビルにあるあまりパッとしない個人事務所で、料金が安いということだけで貴臣はそこを選んだらしく、その調査力もいまいち力不足なところが否めなかったのだ。その報告書もどこかいい加減で、担当者によるとこれは裁判所で証拠として提出できるようなものではなく、あくまでも事実関係を具体的に知らせるために、こういう形式を取ったらしいということである。

 まず始めに、これは当該者である某ホステス嬢に関係する高級クラブから得た情報だという但し書きがあり、それによると、その某ホステス嬢はある資産家と結婚の約束をしていたらしいのだが、それがなぜか突然、某ホステス嬢の方からその資産家に結婚の破棄を告げたようなのだ。もちろんその資産家からすれば、一方的に破棄することなど当然納得できなかったので、そのわけを言えと迫ったところ某ホステス嬢は、ただ黙ったままその理由を頑なに言わなかったので、要するに自分が嫌いになったからだろうと、その資産家は勝手に思い込み某ホステス嬢を口汚く罵ると、絶対別れることは許さんと暴君そのままの態度でその某ホステス嬢の行動を強く戒めたということである。某ホステス嬢はすっかり怯えてしまい、それ以来というもの生きた心地もしないまま、まるで人生に絶望したかのような状態で実に暗い生活を送っていたようなのだ。ところがそこに一筋の光が彼女の真っ暗な世界に突如差し込んで、今までの生活を一変させる事態が起きたのである。彼女の前にある人物が現れたのだ。その人物はある中堅会社の社長を務めているまだ三十代の男性で、(ちなみに、その資産家はすでに老境に達したおじいちゃんらしいのである)その社長はどうやら彼女に一目惚れしたらしく、それからというもの人目を忍んで何度も逢瀬を重ねていくうちに、どうやらお互いすっかり自分達の運命を自覚したのか、次第に結婚への期待が自然と膨らんで行ったというよくあるパターンに二人はどうやら陥ったという話しで、この報告書は終わっていたのである。もっともこの話しは、彼女と一緒に働いていた同僚からの又聞きであり、某ホステス嬢から直接聞いた話ではないことをここで断って置く必要がある。

 橘氏は、その悪夢のような報告書から目を離すと、病室の天井を黙って見上げながら、「いやはやどうも、まったく話しにもならん」と、絶望したようにつぶやきいきなりその報告書をビリビリに破いて丸めると、そのままゴミ箱に放り投げるのだった。

『まったくバカげた話しだ。いや、あの女は絶対何か魂胆があって動いているに違いないのだ。だったら、それはいったい何だって言うんだ。金か?しかし、金ならおれだってそこそこの財産はあるからな。それなら年齢だろうか。そりゃ誰だって年寄りより若い方がいいに決まってるが、しかし、あの女がそんなことで動くなんてことはおれには到底信じられんのだ。あの女の気質からいって、それはないと考えた方がいい。ということはやはり権力だろうか。確かに選挙に敗れたことは彼女にとっても痛手だったのかも知れんなあ。あんとき勝ってれば、きっとおれと結婚したに違いないからだ。ということは市長夫人になれなかった腹いせに社長夫人に乗り換えたってことだろうか。あの女ならやりそうなことだが、それにしてもよくも姻戚関係になった家の長男と結婚しようなんて考えたもんだ。まったく恐れ入ったよ。でも、もしあの女が純粋にあの男に惚れたって言うのなら、おれもそれなりに考え直さなければならなくなるだろうが、ところがどっこい絶対にそんな浮かれた話しで、あの女が動くはずがないのだ。それならいったい何だと言うのだ。だから、そこが一番考えなければいけないところなんだ。うーん、それにはやはりおれ自身が動いて探ってみるしかないだろう……』

 すると、そこに華音が姉と一緒にやって来たのだ。姉の紫音は、事故を起こしたその日に夫っと共にやって来て、その時初めて結婚後の娘の顔を見たのだが、確かにかつての娘とはまったくその印象が変わってしまい、とても同じ女だとは思えないくらい様変わりしていたのである。さすがにこれには父親も驚いてしまい、なるほどたとえ自分の娘でも家を出れば、これくらい変わるのだということを嫌でも実感したというわけである。

「お父さん着替え持ってきたわよ。でも本当に死ななくてよかったわよ。もし死んでたら、いったいどんな葬式をやったらいいのか困ってしまったもの」

「ちぇっよくも傷付いた親を前にしてそんなことが言えたもんだ。呆れてものも言えんよ。いいかな華音おまえももう少し人生の何たるかを考えなければダメだよ。今回は運良く首を痛めただけで助かったが、これが半身不随にでもなってみろ、それこそおまえはおれの介護で一生送るはめになるかも知れんのだからな」

「ご冗談でしょう。そんなことはあたしにはとても出来ないわ。もしお父さんが寝たきりになったら、どっかの施設に入ってもらって頂くしかないでしょうね。娘の人生を犠牲にまでして、自分の不注意で起こした事故の後始末までさせようなんて虫がよすぎるのよ。ねえお父さん。お父さんこそいい加減あの女のことは忘れたほうがいいんじゃありませんかね」

「あの女って、いったい何の話しだ」橘氏は、これはまずいことになるとそのとき直感したのだ。

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