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なぜこのような自動車事故が起きたのか、そのあらましをここで少しばかり述べておく必要がある。というのもこの事故の発端が、どうやら隣に座っていた息子のある発言が切っ掛けとなったらしいからだ。もちろんそこに明確な因果関係があるかどうかははっきり言って分からないのだが、ただ気になるのは父親の橘氏がそのことは警察に言うなと、息子に強く口止めしていたという事実が後になって判明したからである。それはそれで確かに胡散臭い話しなのだが、橘氏によればそれは説明するだけでも極めて面倒なことだし、直接的な原因だと自分でもはっきりとは言えない以上、警察に言う必要などないと判断したようなのだ。そういうこともあり表向きには脇見運転という、誰にでも納得しやすい証言で事故は処理されたのである。とはいえ、そうなるとますますその真相は明るみに出す必要があるわけで、たとえ警察には黙っていたとしても、ここではむしろはっきりさせる必要があるわけである。
ということで、なぜこの自動車事故が起こったのか、それを理解するためにはまず最近の橘氏の生活ぶりから話していく必要があるようだ。というのも肝心の彼の精神状態をよく知っていないと、このような事故の必然性というものがよく分からないからである。もっとも彼の精神状態といっても、それほど小難しいものではないので、要するに今の彼は次の選挙のことで頭が一杯で、その他のことはすべて付け足しのようなものだと思っていたくらいだったからである。そのくせ正直に言ってしまうと、今度の選挙に以前のような情熱がなぜか湧いてこないのだった。これは彼にとって実に由々しき事態で、こんなことが続けば次の選挙で勝つことなどまず無理だろうと彼にもよく分かっていたのだ。なぜこんなことになってしまったのだろうか。歳のせいだろうか。しかし体力的にはまだまだ十分耐えられるという自信はあったのだ。ところが問題はどうも体力的なものではなく、どうも精神的なものではないかと思われたのである。というのは日常生活そのものが突然色あせたような、何をするにしても意欲が湧いて来なかったからである。こんなことは彼の人生で初めてのことであり、この歳になってまさかこんなことで悩むことになるなんてと彼も正直驚いてしまったのだ。さすがにこれはどうもまずいことになったと、彼も何とかしなければいけないとは思うものの家族にもなかなか打ち明けられないでいたのだ。こんなことで一々息子に相談するのも何か父親としての沽券にかかわるのではないかと思っていたようでどうにも決断出来ないでいたらしいのである。日頃、偉そうに振る舞っていたぶんかえって言い出しにくかったのかも知れない。それでも、このまま黙っていてもあまりいいことにはなりそうにないと思い、ある日息子に話しのついでという形を取りながら、自分の身体がどうもおかしいんだという話しをして見るのだった。最初、貴臣はこの父親にもそんな繊細なというか普通の神経が備わっていたのかとちょっと驚いたのだが、聞いていくうちにこれはどうも普通じゃないかも知れないと思うようになっていったのである。
「お父さん、それはひょっとしてうつ病かも知れませんね。このまま放っておくとちょっとまずいことになるかも知れませんよ」
「お前もいきなりおかしなことを言うね。このおれがうつ病だって言うのか。バカも休み休み言いなさい。いいかいよく聞くんだ。自分で言うのも何だが、これでも数々の修羅場をくぐり抜けてきたこのおれだが今まで一度だって精神的に落ち込むなんてことはなかったんだからな。第一、政治の世界ではな、日常的に起こる面倒な軋轢に一々悩んでいたら、とてもじゃないが生き抜くことなんか出来んのだよ。まあ腕力はあまり関係ないかも知れないが、気力だけは誰にも負けないものを持っている必要があるわけなんだ。そうじゃないとあっという間に潰されてしまうからな。おれはそう覚悟してずっと政治生活を送って来た人間なんだ。その私がこの歳になってうつ病だと?まったくバカバカしいにもほどがある。ふん、お前なんかに相談するんじゃなかったよ。呆れてものも言えん」
「いや何も絶対そうだと言ってるわけじゃありませんよ。でも、もしそうだったら困るから言ってるんじゃありませんか。そりゃ、お父さんは確かに人一倍強い精神力でもって、今まで生きて来られたかも知れませんが、そういう人だからこそかえって気をつけなければいけないんですよ。自分に自信がある人ほどちょっとしたことが切っ掛けで、意外と簡単に落ち込んでしまうなんてことは決して珍しくありませんからね。ですからいくら強がりを言ったりしても、あなたの身体はちゃんとこうして警告を発しているわけです。現にこのぼくに相談しているじゃありませんか。そのこと自体どう言い訳するつもりなんですか?」
「そりゃ何だよ、やはりこのまま黙っているのもまずいだろうと思ったからだ。つまり、家族には一応話して置いた方がいいのではないかと思っただけだよ。それをおまえはいきなりうつ病ではないかなどととんでもないことを言うもんだから、私もそれは言い過ぎだろうと思ったわけだ。だって、おまえは医者でも何でもないではないか」
「そりゃそうですが、でもこうなったら早く専門の医者にでも診てもらった方がいいかも知れませんよ。だって次の選挙のことを考えれば、このまま放っておくわけにもいかないじゃありませんか。ぼくの知り合いに精神科の医者がいますから、さっそく頼んでみますよ」
というわけで橘氏も口では何のかんのと文句は言うのだが、それでも息子の指示には素直に従ったのである。これは彼にしてはかなり珍しいことでもあったのだ。それくらい彼自身も本気で心配したのだろう。確かにこれから大事な時期を迎えるという時にこんな病に罹るなんて最悪だと感じていたし、この際大人しく息子の言うことを聞いて医者に診てもらった方が賢明だと判断したのかも知れない。それにしても、どうしてこんな情けない状態になってしまったのか。それを思うと彼も色々と自分で考えるのだが、まったく原因が分からなかったのだ。ひょっとして娘をあの男に売ったことが、今になってこういう形で自分の身を苦しめているのだろうかと思ったりしたのだが、確かに自分の父親としての歴史を振り返ってみると、あまりにも親として失格だったと思わざるを得なかったのだ。いったい自分のどこを探せば、親らしい情のある振る舞いにお目に掛かれるというのか。むしろ娘の心を弄んだという罪悪感をもっと自覚すべきではないのかとさえ思いたくなるくらいなのだ。そう思うと確かに自分は親として実に罪深いことをしたかも知れないと思うのだった。しかしまあ、それはそうだとしても、それなら娘はあの男と結婚して本当に不幸のどん底に落ちてしまっているのだろうかと、彼も一応親として心配してみるのだが肝心のその娘から今もって何の音沙汰もないという事実が、親としていったいどう判断すべきだろうかと迷ったのだ。むしろ便りのないのはよい便りという、ことわざ通りに前向きに受け取って安心すべきことなのだろうか。『まあ、娘なんか一旦嫁に行けば、もはや父親のことなど忘れてしまうもんなんだろう。こんなことは娘を持った親の宿命なんだ』と、彼も自分の罪深さなどすっかり忘れたかのようにこううそぶくのだった。まったくどこまで真剣に考えているのかよく分からないのだが、彼にしても決してふざけているわけではなさそうである。そんなことより彼もこうした突然の身体の変調に、なぜかいつもより敏感に反応していることだけはどうやら本当であったようだ。それはやはり彼の年齢が大いに関係しているかも知れないと思ったほうがいいのかも知れない。確かに人間六十も過ぎれば後は雪崩のようにあっという間に七十になり、あとは必然的に人生の崖っぷちに追い込まれることだけは確実だからだ。そして日頃、生きることに忙しい人間にはなかなか訪れない人生の根本的な問題に人は突然面と向かうことになることもあるからだ。確かにうつ病にはこうした問題が絡むこともあるだろうし、決して珍しいことではないと思われるからである。
それなら橘氏も、ここに来てようやくそうした根本的な問題に悩むようになったのだろうか。今まであまりにも世俗的なことだけに価値を置いていたことだけは事実であったし、そういう生き方にこだわりすぎたお陰で人生そのものがあまりにも一面的になり、その反動が身体を借りて彼自身に訴えかけて来ているのかも知れないからである。こういうことはその人の資質にもよるだろうが、彼が実際にそういう根本的な問題に本当にぶち当たったのかどうかは今のところ正直に言ってよく分からないのである。確かに今までの生き方を見れば、あまり興味のある対象ではないのかも知れない。彼はただこの世で自分がどうしたら名誉ある人生を送る事が出来るのかといった、あまりにも世俗的な成功に重点を置いていたからである。いわばこれがこの男の最重要課題だったのだ。彼にとって大事なのは人生の根本的な問題なんかではなく、こうした世俗的な夢だと言ってもいいのかも知れない。しかし何もそれが意味のないことだとはもちろん言えないのだが、実際のところ彼の生きる意味はそういうところにあり、彼の一番の願いは自分の世俗的な人生を徹底的に生きることにあったからだ。昔の日本人だったら、そんな煩悩にまみれた人生など忌避したことだろうが、現代人の彼はその煩悩を徹底的に生きることでしか生き甲斐を感じられないといったところだろうか。まったく、どこまで堕落したら満足するのかと思われるほど、彼はそういう人生をまるで誰かに唆されてでもいるかのように一心不乱に生きていると言ってもよかったのである。
そういう彼がここにきて自分の一番大事な理想を奪われそうになっていたのである。『いったい、どういう理由でこんな責苦を受けなければならなくなったんだ?まったくこの歳になってそれはないだろう』と、彼は真剣にもう一度よく考えて見るのだった。すると彼はあることを思い出したのだ。いや思い出したと言うよりも何かいきなり目の前に飛び出して来たといった方がいい。あれほど期待を掛けていた自分にとって大事なものが、ある日突然目の前から消え去って行ったという、あの残酷極まりない事実が、あたかも今起こったかのような生々しい感覚を伴って忽然と蘇って来たからだ。それは彼にとって絶対思い出したくないことでもあり、出来ることなら記憶から完全に抹消したいくらいのものだったのだ。ところが抹消するどころか、現実よりもっと鮮やかに蘇って来て彼を打ちのめしたのである。そして、すべて合点がいったのだ。そんなことは死んでも認めたくないものではあったのだが、しかしもはやそれに違いないと認めざるをえなかったのである。しかしそれでもまだ確信が持てなかったのだ。というより、そんなことが原因だったなんて正直考えたくもなかったと言った方がいい。彼ともあろう人間が、たかが女に逃げられたことでこんな体たらくな状態になったなんて、いったいどうして認めることが出来るというのだ。いや自分だけではない、このことをもし息子達が知ったら果たしてどう思うだろうか。まさしく父親の沽券にかかわる重大な問題だと考えざるを得なかったのである。しかしそれにしても、『もし、それが本当なら自分のこれからの人生は、もはや修復不可能だってことだろうか』とはいえ、今さら未練たらしく彼女に戻って来てくれないかなんて言えるわけもなかったのだ。『第一あの女のことだ、どうしておれのところなんかに戻るもんか』と、彼も次第にイライラしてきて、これ以上彼女のことなど考えたくもないのであるが、それが不思議といつまでも未練たらしく、彼女との思い出が奈落の底から蘇って来るのだった。それはもうどうしようもないくらい異常なほど濃密な思い出となって彼を襲って来たわけである。いったいこれはどういうことなのだろうかと、もはや手の施しようがないくらい手遅れな状態なのに、なぜかその思い出だけでも懸命に蘇生させようと必死にもがいているような案配なのだ。まるでスルメを見ながらイカになれと念じているかのように。
こうした、もうほとんど絶望的な状態でありながら、彼は次第に彼女との復縁を心のどこかで望むようになっていたのである。これだけ聞くと何か男の哀れさをひしひしと感じてしまうのだが、どうやらいたずらにそんな子供じみた願望を抱いているようではなさそうなのだ。そこには彼なりにちゃんとした心理的裏付けとなるものがあったからである。彼はその時、彼女とのある場面を思い出していたのだ。それは柏木が自分の疑惑を晴らそうと、禮子と一緒に我が家にやって来た時のことである。あの時の様子は、今でもはっきりと脳裏に焼き付いてしたし、というのもとても変わった儀式がその時あったからだ。禮子がまるで霊媒師のように橘氏の疑惑を我が身に引き受けようとしたからである。それは確かに奇妙きてれつな儀式ではあったが、そういうどこか怪しげな儀式より、むしろ彼女の心情の方をもっと重視すべきではないかと彼は思ったわけである。そこに一縷の望みを掛けられる、ある種の愛情が感じられたからだ。それにまた彼にとって決して忘れてはいけない言葉を思い出したのだ。それは彼女が別れ話を切り出したとき、こう宣言したからである。「あたしは何もあなたが嫌いになったから別れるのではない」と。いわばその言葉だけを唯一の手掛かりとして、彼はもう一度彼女とよりを戻せるのではないかと夢見たわけである。しかしそれははっきり言って、より絶望的ではないかと思われるのだ。むしろ橘氏にとっては、嫌いになって別れてくれてた方がよっぽどよかったかも知れないからだ。その方が潔く諦められたかも知れないからである。そういうわけで橘氏も自分の病の原因が、どうやら彼女にあることを嫌々ではあるが認めたのである。認めたことは認めたのだが、かえって余計彼女への執着が強まってしまったのだ。これはこれで、かなり回復への道が遠のいてしまうのではないかと危惧されるのである。
数日後、橘氏は息子を伴って病院へと車を走らすのだった。彼も精神科など生まれて初めて行くわけで、いったいどんな治療をするのかとても不安だったのだ。というのも、こういう精神的な病はやはり本当のことを言わなければまずいわけで、まさかとぼけていい加減なことを言うわけにもいかないだろうと思ったのだ。確かに本当に治りたかったらでたらめを言ってもしょうがないであろう。『しかし、そうなると、自分の恥を晒すことになるわけだ』とはいえ相手は専門の先生なのだから、何も恥ずかしがることもないのである。それに守秘義務というものもあるからだ。しかし、たとえそうだとしても、はっきり言って体裁が悪いこと甚だしいわけである。「実は女に逃げられましてしまいましてね、どうもそれからというもの気が晴れないのです」なんて、いったいどの面下げて言えというのだ。息子の話によると、どうやら橘氏と同じような年齢の先生だそうだ。『まあ同じ年齢なら、自分の苦しい気持ちもよく分かってくれるだろう』彼はそう思い、ドキドキしながら診察室の扉を開けて中に入るのだった。




