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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 卓は彼女のどこまでも真剣で前向きな姿勢に、これまた禮子と同じように女の強かさをそこに感じたのである。これこそ女の底力といってもいいくらいなもので、とてもじゃないが男にはここまでの度胸は備わっていないのではないかと、男として実に情けなく思うのだった。彼女のような一見穏やかで優しい女性であっても、ここまでの知力と度胸があれば確かにどんなことでも成し遂げられるのではないかと彼も心強く思ったのだ。そこで彼も彼女に協力するために、自分のこの結婚に懸ける思いを彼女に切々と話し、彼女もその力強い言葉に彼のまじめな思いをはっきりと確認することが出来たのである。こうして二人の密談はどうやら無事に終わったようで、あとは彼女がどうするのかそれはすべて彼女自身に任されたのである。それにしてもここまで来ると、もはや後戻りは出来なくなったわけで彼としてもここは一つ腹をくくって、親たちと真剣に向き合っていかなければいけないと改めて覚悟するのだった。

 紫音はその夜、夫の亮に昼間あったことを逐一報告するのだった。夫はさすがに驚いて彼女がそこまで真剣にこの事に当たろうとしているのを改めて確認すると、これはひょっとしてひょっとするかも知れないと驚きを通り越して何か変な気持ちになってくるのだった。というのも、もしこの問題がうまく片付いた時のことを思うと彼女に対する評価がまた更に上がるわけで、そうなると自分もますます彼女に頭が上がらなくなる可能性も出て来ることになり、それはそれで微妙にまずいことになるわけである。彼の思惑としてはむしろこの問題が破綻してくれたほうが好都合なのだが、しかしたとえ意に反して兄が結婚できたとしてもそれはそれで目出度いことでもあり、要するにうまくいこうがダメになろうが結局はどちらでもよかったのだ。彼にとって一番大事なことは、彼女がこの問題に絡むことで恐らく柏木家始まって以来の大騒動になって行くことにあったからである。そこに彼の狙いというか、もっとも大事なものが隠されていたからである。

 紫音はその時、夫に母親のことについて何でもいいから話してくれないかとお願いするのだった。母親がどういう女性なのか、それに彼は自分の母親をどう見ているのか、といったようなことが聞ければ嬉しいのですがと言うのだ。もちろん義兄にもいずれ詳しく聞いて見ようとは思っていたのだが、というのも、この兄弟が抱いている母親像は、きっと違っているのではないかと思ったのだ。やはり母親が弟に見せる顔と、兄に見せる顔とでは微妙に違っているかも知れないと彼女は思っていたからである。もちろん自分に見せる顔もまた彼らとは違ったものだろうと思ったのだ。人の心とはそういうものではないかと彼女は思っていたところがあり、確かに、人の心というものは、その時々の相手の対応の仕方によって変化するものだからである。

 するとさっそく亮の気持ちが変化したようで、どこか不機嫌そうな顔をしながらこう聞くのだった。

「いったい、ぼくから母親の何を聞き出そうってんだね。母親の悪いところかね。それともいいところかね。まあ、ぼくはどちらかと言うと、母親にはあまり好かれてはいなかったと思ってるんだ。なぜか知らないけど、ぼくにはとても冷たかったからね。だからどうしても母親の嫌な面ばかりが思い出されてきてね、あまり参考にはならないとは思うが、でもまあ、それも彼女の一面として見れば何かしらの役には立つかも知れないけど」

「そんなにお義母さんはあなたに冷たかったんですか?」紫音は驚いて、こう聞き返すのだった。

「いや、もちろん今考えればこっちの勝手な思い込みだったってこともあるのかも知れない。母親だってまさか本当にそんな思いでいたわけではないだろうからね。もちろんそこははっきりしないんだよ。まあ、そこには子供らしいやっかみがあったと見た方がいいのかも知れないね」

「そうですね。私にも、やはりそういう経験はありますから。とくに長女であったこともあるのでしょうが、弟や妹の方に母親の愛情が行ってしまうことを寂しく思っていたこともありましたよ。だからって自分に対して冷たいとは思いませんでしたけど」

「そりゃそうだよ。問題は母親の方にはなく、すべてぼくがどう思ったかにあるからさ。もちろん母親の方にはっきりとした意図があれば別だがね。まあ実際のところ、ぼくもずいぶんと変わった子供だったからね。母親もきっと苦労したんじゃないだろうか。ぼくはね自分で言うのもなんだがとても几帳面な子供だったんだよ。子供ながら、やたらと規則にこだわるところがあってね。自分から一々こうすべきだと決めて掛かるんだが、いつも途中でダメになっちゃうんだ。そのくせまた性懲りもなく明日は絶対こうするんだと思ってはまた始めるのだが、結局最後まで続けられたためしがないんだよ。そういう子供だからね、ぼくは家族から変な目で見られても仕方がなかったんだ。だからというわけではないのだろうが、ぼくはね、とても家族には気を遣っていたんだと思う。というのは、なるべく嫌われないようにって思ってのことなんだよ。親の顔色を見ることもあったくらいでね。だから親の言うことは何でも聞いたんだ。実に素直な子供として接していたかも知れない。今思い出しても何て嫌な子供なんだって思うけどね。それもこれも家族の平和を何よりも大事だと考えていからなんだ。ところが、親父が自らそれをぶち壊していたところがあるからね。実際のところ、この家に秩序ある生活など望むべくもなかったんだよ。そうした普通の家庭とは、まったくかけ離れた生活を余儀なくされて、さぞや母親も苦労したんじゃないかとぼくは思ってるんだ。一度だが親父が母親に対してあんまり怒鳴り散らすので、ぼくは何も出来ない自分を恥じながら、ただ母親が可哀想だと思って涙を流していたことを今でも思い出すよ。だからさぼくの家族愛も親父のお陰でずいぶんと歪なものになってしまったんじゃないかと思ってるんだ。親父さえいなければこの家はもっと平和な生活を送れたのにって、子供心に思っていたかも知れないな。ところがその絶大な権力を振るっていた親父がさ、いとも呆気なく死んでしまっただろう。後に残された者にとっては、それはそれで困ったことになったわけだ。親父の抜けたその穴を誰が埋めるのかって問題が出て来たわけだからね。もちろん兄貴がその穴を埋めなければならないわけなんだが、その兄貴がああいう性格でいつまでも一人でいるだろう、親にしてみればいったい何をやってるんだってじれったくてしょうがないんだよ。今この家で一番力があるのはやはりおばあさんなんだが、もともとこのおばあさんは兄貴の結婚を何よりも一番望んでいた人物だからね。そういうこともあり、やはり兄貴に人一倍期待が掛けられているってわけさ。だから問題は、この難しい結婚をどうすればおばあさんに納得してもらえるか、ということにすべてが掛かっているとぼくは思っているんだがきみはどう思う?」

「私にはまだよく分かりませんが、そういうことでしたら、おばあさまのことで何か注意すべきことでもあれば聞かせてくれませんか」

「そうね、でもきみはどちらかというと、あのおばあさんとはうまくいってるんじゃないのかね。ピアノだってまだ続いているんだろう?」

「ええ、最近はお歳のせいか前よりは少し練習も滞りがちになってはいますが、それでもよく二人でお喋りはしております」

「だったら、ぼくに聞くよりきみの方がよく知ってるんじゃないの。ぼくはね子供の頃から、あのおばあさんが苦手でね。何か知らないけど怖いんだ。それに向こうもぼくのことをあまりよく思っていないしね。昔ぼくも女のことで家族に色々と迷惑を掛けてしまったからね。それも大いに関係しているのかも知れない。まあ注意と言うほどのことでもないが、あの人の性格を一言で言えば、とにかく気が強くて自分を曲げない女だってことだ。これだけははっきりしているんだ。ところがそのくせ、なぜか親が決めた結婚には素直に従ったってんだからね。まったくわけがわからんのだ。いつだったか、きみもおばあさんの驚くべき告白を聞いただろう?」

「ええ、その話しでしたらおばあさんから直にお聞きしました。亮さんも確か一緒に聞いていたと思いますが、あのお話しにはとても感動して、その時はおばあさんと一緒に泣いてしまいましたもの」

「ああ、それはぼくも覚えているよ。ほんとにその時までは、あの人にそんな恐ろしい秘話があったなんて思いもよらなかったし、まさか自分の夫をそこまで追い詰めていたなんてね、まったくおじいさんこそいい迷惑さ。なんでそこまで追い詰めなければいけなかったのか。恐らく思い込みという強い観念に取り憑かれると、善いも悪いも関係なくなってしまい、もやは理性的なものなど全然通用しない世界に入ってそこから出られなくなってしまうんだろうね。そうなるともはや子供だけが命で、夫など紙くず同然にほったらかしたって別に何とも思わなくなってしまうんだよ。妻の一念、夫を黙殺すってわけさ。こうなるとおじいさもお手上げ状態で、ただ呆れて部屋に引きこもるよりほかどうしようもなくなるってことだよ。その点女性は男とはまた違ったやり方でうまく対処できるってことが、この間のおばあさんに対するきみの行動を見ていてそう感じたんだがね」

「私が、どううまく対処したって言うんですか?私はただおばあさんに同情しただけですが」

「いや、そうじゃないんだよ。まさにきみのように行動することが男には出来ないってことが言いたいんだ。男は色々と考えてしまうからね。変に同情して誤解でもされたら嫌だとかね。まったく実につまらんことにこだわるんだよ。その点きみは人間としてぼくなんかよりずっと優れているから、まずそんな下らんことには悩まないだろうからね」

「そんなことはありませんわ。私だってつまらないことにいつまでもこだわっていますからね。実際に何で私がお義兄さんの代わりにこんなことをしなければいけないのか、今もって納得出来ていないんです」

「いや、それはぼくだって十分申し訳ないとは心から思っているよ。でもこの仕事は、きみにしか出来ないって今でもぼくは思っているんだ。きみなら絶対やってくれるはずだとぼくは確信しているんだよ」

「でも、そんな過度な期待は持ってほしくないんです。これはお義兄さんにも言ったことですが、このことは、もうほとんど奇跡でも起こらない限り成功はしないと思っているので、あまり過度な期待は持たないでほしいと釘だけはちゃんと刺しておきましたから。ですから、あなたにもそのことだけはよく承知しておいてほしいのです」

「いや、もちろん、きみの言うことは一々もっともだし、これ以上つまらないことできみの機嫌を損ねたくないので口は慎みますが、それでも、きみにはそれこそ涙が出るくらい感謝していることだけは、どうか知っておいてほしいんだ」

 彼も、これはちょっと用心して掛からないと偉いことになるかも知れないと思い、どこまでも協力しますよといった素振りを見せながら、恐る恐る彼女の気持ちを探ってみるのだった。

「きみが、そこまで真剣に考えているんだって知って、ほんとに頭が下がる思いで一杯なんだが、それでもぼくはどうしてもきみに期待したいんだ。それがダメだと言うのなら夫としていったいどうすればいいのだろうか?ぼくだってきみのために何かしてやらなければ申し訳ないからね。といって下手に口出ししてかえって混乱させてしまったら悪いし、というのも、きみの中ではすでに段取りが出来上がっているんじゃないかと思っているからさ」

「いえ段取りどころか、いったいどうしたらいいのかさえもよく分かっていないんです」こういうことをあっさりと言う彼女をどこまで信じたらいいのか彼も判断しかねたのだが、「それでもきみの中では、おおよそのことは出来上がっているんじゃないのかね?」と、彼女のことだから、そこはしっかりと考えているに違いないと思ったのだ。

「いえ、まったく何も考えていないんです。というのは、いくら考えたってその通りに行くはずもないからです。ましてやお義母さんを説得しようなんて気は、もはや捨てようかと思っているんです。そんなことをするより、お互い普通にお喋りでもした方が、はるかにましな結果をもたらすのではないかと思ったからです」と、彼女もごく普通に、これは決して冗談ではありませんといった調子で言ったので、彼も正直唖然となってただこう言うしかなかったのだ。

「なるほど、それがきみ流のやり方なら仕方がないが、それでもやはり最後はどうやって説得するかってことはちゃんと考えているんだろう?」

「ですから説得などしませんってば。ただ女同士のお喋りをしたいと思っているだけなんです。それが一番いいと思ったからです。でも女同士のお喋りですから、おそらく男から見れば、まったくバカバカしい話しに聞こえてしまうんじゃないかしら」

 彼は、これを聞いて呆れると同時に、彼女もとうとうさじを投げたなと思ったのだ。もはや説得など出来そうにないと観念したのかも知れない。まあ、それはそれで彼にしてみればむしろ好都合なわけで、何もそれに対して彼女にどうこう言う筋合いもないわけである。それどころか何か知らないが無性に嬉しくなってしまったのだ。というのもこれを聞く限り、彼女も決してそれほどの女ではないのかも知れないと思われたからである。もちろんこれだけで決めつけるほど彼もバカではないのだが、ただ彼女にもこんなところがあるんだという、いわば優れた人間にちょっとした瑕疵を見つけて喜ぶといった、凡人にはありがちな抑えようのない満足感を味わったわけである。こうなると彼もこれはいよいよ自分の思惑通りの展開になる可能性が高くなったんじゃないかと、彼の期待もいやが上にも高まったのだ。

 ところが、そういうのっぴきならない状況にお互いがどうやら追い込まれてしまった時、思いもよらない知らせが彼女のもとに飛び込んで来たのである。父親の橘氏が自動車事故に遭って負傷したという連絡が入ったのだ。どうやら彼の脇見運転が原因のようで、ハンドルを取られた車はガードレールにぶつかり、その反動で半回転しながらまたガードレールに衝突して、どうにか他の車を巻き込むこともなく止まることが出来たという話しだった。その車には息子の貴臣も同乗していて、彼はどうやら軽傷で済んだらしいのだが、父親はかなりの衝撃を首に受けてそのまま救急車で病院に運ばれたとのことである。この思いがけない事故で、今まで進められていたすべての計画は一時中断せざるを得なくなってしまったのだ。彼女も相当ショックを受けていたようで、何はさておき夫と一緒にすぐに病院まで駆けつけるのだった。


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