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こうしたどこまでも執拗な亮の話しぶりに、紫音もいささか呆れ返っていたのだが、しかしここまで言われると彼女も彼の妻として何とかしてあげなければいけないのではないかと思うようになってしまったのである。これをどう見るかは人それぞれだろうが、彼女としてはただ義兄が苦しんでいることだけは何となく想像できたのである。確かに禮子のような女性に一度惚れたら、恐らくそう簡単に諦めることができなくなることくらい彼女にもよく分かっていたのだ。それは理屈ではなかなか説明できないのだが、彼女だって以前女として禮子の魅力に惹かれたことがあったからだ。自分のような女でさえ彼女に惹かれたくらいだから、まして男ならひとたまりもないのではないかと思われるからである。そういう観点から、彼女も義兄に同情する余地があったわけで、夫が言うところのごちゃごちゃした理屈にはそれほど心は動かされなかったのである。ただもし、この話しを引き受けたとして、いったい自分に何か名案でもあるのだろうかと一応冷静になって考えてはみるのだが、まったくあるわけもなかったのだ。困ったことに夫はどうやら考えを変える気などまったくないようで、もはや同意を得たかのような顔で彼女の返事を待っている有様だったのだ。
彼女は、さすがにこのまま断るのはどうも出来そうにないと観念でもしたのか、このどう考えても難しい役目を引き受けることにしたのである。そう腹を決めたことは決めたのだが、そんなことを引き受けて本当に大丈夫なのかと正直自分でも呆れていたのである。ただ義兄のことを考えるとやはり何とかしてやりたいという思いが自然と湧いて来るわけで、要するにそこに彼女を動かした一番の動機があったようである。そこで彼女がまず考えたことは義兄の気持ちを母親に包み隠さず話すことから始めるべきではないかと思ったのだ。もちろんその後どうなるかはまったく分からないが、しかしすべてはそこから始めるしかないだろうと思うのだった。そう考えた彼女はまずお義兄さんに直接会って、実際の気持ちを聞いて置かなければならないわけで、夫にそのことを話すと彼は少し驚いた顔をして、いったい彼女は何を考えているのだろうかと訝るのだが、それでも彼女が引き受けてくれただけでも、これで自分の思惑は現実に向かって一歩前進したのだと内心その場でガッツポーズでもしたいくらいだったのだ。
そういうわけで紫音は、夫に何とか義兄と会えるように話をしてもらえないだろうかと頼むのだった。それから二三日して彼の会社の一室で二人だけの会談を持ったのである。というのも、このところ義兄は休みもろくすっぽ取れないほど忙しくてなかなか家でくつろぐ暇もなかったのだ。もちろん彼女も、こういう話しを家でするのはどこか差し障りがあると思い、それなら一層のこと彼の会社に乗り込んで話した方が安全だと思ったのだ。彼女は生まれて初めて会社という建物の中に入ったわけなのだが、そこが義兄が経営している会社であり、また自分の夫が勤めてる会社でもあるということで、なぜか不思議な親近感を持ってしまったのである。彼女にはまったく縁のなかった世界ではあるが、こういうところで働くということがいったいどういうことなのか、もし自分がこういうところで働くことになったら、いったいどんな人生が送れるだろうかなどと想像しながら、まるで小学生のような好奇心に満ちたまなざしで部屋の様子に目をやるのだった。その部屋はあまり大きな部屋ではないが、恐らく特別な部屋なのだろう、かなり凝った作りの美術品や置物が棚の上に置かれていて、壁にはどこかの草原だろうか、真っ青な空には風でちぎれたような雲が流れ、地上では放牧された牛の群れが静かに草を食んでいるといった、どこか長閑な風景画が一つ掛かっていたのだ。そういう別にどうってことのない品々に彼女の感受性は敏感に反応して、これらの物はひょっとしてお義兄さんの趣味かしらなどと想像するのだった。彼女はゆったりとした革張りのソファーに座ったまま、しばらく何もしないでじっとしていたのだが、それにしても会社というところは何て不思議なところなんだろうと彼女はふと思うのだった。というのも先日、夫に聞かされたあの話しがなぜか思い出されて、それがこの時はからずも自分がその会社の一室に居ることで、なおさら奇妙な実感となって彼女を襲ったからである。『いったいどういう理由で彼はあんなことを言ったのだろう。自分は将来社長になるなどと言ったが、社長というものはそんなに簡単になれるものなのだろうか。第一自分の兄が社長になって日が浅いというのに、どうしてそんなことが言えるのだろうか。それにもう一つ奇妙なことは、兄は自分を恐れているといはいったいどういうことなんだろう。何を恐れているのだろうか。夫が社長の座を狙っていることをか。だから兄を安心させるために自分は社長になる野心などないと兄に信じ込ませたということなのだろうか。そう言えば今度の結婚はお義兄さんに恩を売るための絶好の機会だとか言ってたわね。でもいったいどんな恩を売るつもりなんだろう。ああ何だってこんな変なことを夢中になって考えているのかしら。これからお義兄さんと大事なお話しをしなければいけないっていうのに……』彼女は、気持ちを切り替えようと襟元を正したり、髪を整えたりと無理やり自分を落ち着かせようとするのだった。すると、一人の女性がお茶とお菓子を持って部屋に入って来たのだ。その女性は、ちょうど紫音と同じくらいの年齢に見えたのだが、この会社のことならきっと何でも知っているに違いないとなぜかそう思うのだった。彼女は丁寧にお辞儀をして、「お待たせして申し訳ございません。社長からのご伝言で、あいにくと会議が少し長引いておりまして、もうしばらく時間が掛かるそうなのです。申し訳ございませんが、今しばらくこちらでお待ち願いたいとのことです」
おそらくその女性は秘書か何かなのだろうが、もちろん彼女が社長とどういう関係の人かくらいは聞かされていたはずなので、そこは丁寧な対応をとる必要があったのである。その女性はそう言って、まさに入って来た時と同じように丁寧にお辞儀をすると静かに部屋を出て行くのだった。紫音はその女性が出て行くとふっと小さくため息をつきこんなふうに思ったのだ。『世の中には色んな職業の人がいて、こういうところで働く人は、禮子さんとはまた違ったスキルが必要なのかも知れないわ。おそらく、そこには大変なご苦労があるに違いない』と妙に感心して、『それに比べて自分は何の苦労もないまま毎日いい加減に生活している』ことを恥じるのだった。『ああいう女性には、自分はいったいどのように見えているのかしら。自分がもし彼女だったらこんな昼日中に若い女が、いったい何の用で社長に面会を申し込んだのだろうってまず考えるだろうな』と、急に変な自己分析が始まり、『だって一介の若い女性が社長といったい何の話しをするのかとても興味があるだろうし、女だったらきっとそういうことを当然想像するに違いないもの』どうやら彼女は人の心理にとても興味があるようだ。『ああいう立場の女性は、きっと色んなことを見たり聞いたりするだろうし、こういうことだってよくあるんじゃないかしら。噂話の種には事欠かないってわけね。だから自分もきっと明日にでもなればそれこそ会社中に知れ渡ってしまい夫の耳にも入るかも知れないわ。もっとも彼だってそんなことは承知しているから黙って聞き流すだろうけどね。おもしろいからわざととぼけて聞いてやろうかしら。変な噂が広がって困ったんじゃないかってて』こうして彼女の空想はとめどなく広がっていくのだった。『会議が長引いているようだけど、いったいどんな会議なんだろう。お義兄さんもきっと大変なのかも知れないわ。もし会社の経営がおかしくなったら、やはり責任を取ることになるのかしら。そんなことはないとは思うけど、だってお義兄さんのような方は、そうなる前に何とかするはずだもの。ああそれにしてもお義兄さんに何て言ったらいいのかしら。実は夫から頼まれたことがありまして私も微力ながらお力になろうと思いまして、こうしてご迷惑も顧みず押しかけて参りました。これじゃ何か嫌々言っているように聞こえないかしら。もっと心を込めて言わないとかえってお義兄さんも変に思ってしまうかも知れないわ。でも、果たしてお義兄さんは自分の気持ちを素直に話してくれるかしら。もしそれがダメだとなると、それこそお義母さんにどう話せばいいのかまったく見当もつかなくなるわ。そうなったらもうお手上げかも知れない。ああ、それにしても何だってこんな役目を引き受けちゃったんだろう。ほんとに断れるもんなら今からでも断りたいわ。お義兄さんに言ってみようかしら。こんな役目から降りたいんですがって。お義兄さんならきっと分かってくれるに違いないもの。ああ、でもダメだわ。一旦引き受けた以上今さら嫌になりましたからやめますなんて言えるはずがないもの。何とかやり遂げなければ夫にも、お義兄さんにも申し訳ないじゃない』結局は、彼女の正直な思いも、こうした極めて道義的な結論の前に沈黙せざるを得なかったのである。とはいえ彼女もすっかり落ち着きをなくしてしまい、何かじっと座っているのも苦しくなり、突然立ち上がると窓辺に近づき外の様子に目をやるのだった。そこから見る景色は、この会社が街の中心から少し外れた高台の上に建っていたせいもあり結構見晴らしがよく遠くの街並みまでよく見えたのである。彼女はその街並みをしばらくじっと見ていたが、『自分はきっと何かに囚われているに違いないわ』と思うのだった。『やっぱり失敗したらどうしよって思いが強すぎるのかも知れない。でも、それも仕方ないわ。やる以上何とかしなければいけないのだから。でも何とかならなことだってあるんだからあまり期待するのもよくないのかも知れない。それじゃ、いったいどうすればいいのよ。だから、もうこうなったら余計なことは一切考えないで、ただぶつかって行くしかないのよ』
すると、そこにようやく義兄が部屋に入って来たのだ。その入ってくる様子が、何か家で見掛ける彼の姿とは少し違って見えたので、彼女も急に緊張してしまい慌ててソファーに座ると、姿勢を正して改めてお忙しいところに突然おじゃましたことを丁寧に詫びるのだった。
「いや、そんなことは気にしないで下さい。それより、ずいぶんとお待たせしてしまい申し訳ありませんでしたね。あなたが来られることは弟から事前に聞いていたのですが、何分このところやけに忙しくなってしまいましてね、なかなか予定通りに終わらないこともしばしばなんです。でも、あなたとの約束もありますからね。こちらの都合で勝手に伸ばしていいなんて法はないわけですよ。それにしても、こうしてわざわざご足労頂いてまで、一体全体どういうお話しを伺えるのかってひどく気にはなっているんです。まあおおよそのことは察しがついてはいるんですが、しかしあなたもこんな嫌な役目を弟から押しつけられて、さぞかし困っているだろうと心配はしていたんです。だって私の個人的なことに、あなたまで巻き込んでしまったことだけでも本当に申し訳ないと私自身思っているからなんです。冷静になってよく考えればまったく迷惑千万な話しで、下手をすれば大事にもなりかねませんからね。そんなことにでもなればあなただってひどく傷つくわけだし、今からだって嫌ならやめてもらってもいいんですよ。何も無理に引き受ける必要なんかないし、弟の言うことに素直に従うことなんか少しもないですからね。私がこんな計画はとても受け入れられないと言えば、それで済むことなんですから」こうした義兄からの道理ある優しい言葉を聞かされた紫音は、これ幸いとその言葉に飛びついて「そういうことでしたらお義兄さんのほうから夫に断りの言葉を入れてくれませんか」と、きっと言いたいだろうと思いたいところなのだが、あに図らんや、そんな思いは彼女の心から跡形もなく消え去っていたのだ。確かにほんの少し前にはそういうことも真剣に考えてはいたが、今この瞬間には彼女の心は先ほどまでの弱気な気持ちから一転して、もうどんなことがあっても、たとえ義兄の言葉に一瞬グラリときても決してそれに負けないと思われるほど心は決まっていたのである。彼女の特徴は、こうしたところにもはっきりと現れたのだ。確かに彼女の本心はそんなことは正直やりたくなかったのだが、自分がそういうぐらついた気持ちを乗り越えて一旦決めた以上、もはやどんなことがあっても変えてはいけないと思ったのだ。
「お義兄さんから、そういう思いやりのある優しい言葉をお聞きすることができただけでも、ほんとに気が楽になりました。正直なところ私もこんな役目などやりたくなかったのですが、でももう大丈夫です。私は夫の気持ちも、お義兄さんのお気持ちも無にしたくはないのです。私のような女に何が出来るのかと思うかも知れませんが、もちろん私自身これといった考えなど何もないのですが、もう、そんなことに拘るよりももっと違った面からこのことを考えていった方がいいのではないかと、さっき窓の外を見ていた時にふとそう思ったのです」
「まあ、あなたのことですから、私がいくら言ったところで無駄なことくらい分かってはいましたがね。しかし、あなたもよくそんな役目を引き受けましたね。私もね弟からあなたの事を聞かされたときは、そんなことは無理だろうって思ったんですがね。それがどうやらその覚悟が出来ていらっしゃるようで、私自身も驚いているんですよ。私もね、この問題は前々から悩みの種にはなっていたんです。実際のところ禮子さんの職業を考えれば、そう簡単に親たちが承知するはずなんかないってことくらい分かっていますからね。もちろんあなたは禮子さんのことはよくご存じでしょうが、うちの家族たちにとってはまるで未知の存在で、まあこの間ちょっと家のパーティーでお会いしたくらいですからね、もうほとんど知らないといってもいいくらいなんです。そんな親がですよ、どこの馬の骨か分からない一介のホステスを、この家の正式な妻として迎えるなんてことはおよそ考えられないことでしょうからね。おそらく一番考えられるのは何も言わずに門前払いするってことなんですが、もしそんなことにでもなったら、それこそ元も子もなくなるわけですよ。つまり弟はそうならないためにあなたのことを言い出したわけなんです。こういうことは、どうも男の手に余る難事であることだけははっきりしていますからね。ですから私はね、あなたのためならどんなことでも力をお貸ししようと思っているんです。もうこうなったらあなただけに苦労をお掛けするわけにはいきませんからね。どんなことでも協力はするつもりでいますから、どうか何でもおっしゃって下さいね。母親のことで何か聞きたいことがあれば何でもお話ししますから」
紫音は、この思いがけない義兄の言葉に力を得て、これなら何とかなるのではないかと彼女もそれなりに希望を持つことにしたのだ。
「お義兄さん実は私、お義兄さんのお気持ちをもっとよく知りたいのです。つまりこの結婚に懸けるお気持ちを知りたいのです。なぜかと言いますと、お義母さまによく分かっていただくためには、お義兄さんのお気持ちをぜひ知っておく必要があるからです。私はもちろん禮子さんのことは、よく存じておりますから、そのことはまた別の意味で大いに役に立つと思うんです。禮子さんの人間性についても詳しくお話して納得いただけるかも知れませんからね。まあ、どうなるかはやってみなければ分かりませんが、とにかくこの話しはとても難しいことだけは間違いありませんから予断は禁物です。決して思い通りにいくなんてことはあり得ませんから。ですから過度の期待だけはどうか持たないようにしていただきたいのです。そうしないと私もかえって余計なことを考えてしまい気持ちがぐらついてしまうかも知れませんので。それだけはどうかよろしくお願いいたします」




