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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 弟の亮は、二人の結婚には疎かにできない障害があるといった認識をさも自慢げに語ったのだが、慎重居士である兄のような人間が、そんなことくらい弟に言われるまでもなくとっくの昔に考えていないわけがなかったのだ。恐らく彼女と始めて出会った時に、もうすでにその心配は彼の胸中にあったと言ってもいいくらいである。しかし確かにそういう難しい問題が存在していたとしても、だから彼女を諦めようなんて考えは不思議とまったく起きなかったし、いやそれは今でもまったく変わっていなかったのだ。たとえ彼女の職業が女主人どもの気に入らないものだったとしても、少なくとも彼自身はまったく気にもしてもいなかったからである。ところが自分がたとえそうであっても、それが人の意見とぶつかるとなかなかその人の意見を無視することが出来なくなるという欠点があったのだ。つまり家族がもしそのことで難癖を付けてきたりしたら、果たして彼はそれに対して断固たる姿勢を示すことができるのだろうかということである。そういう対決は正直あまりしたくはないというのが彼の本音であり、それが家族であればなおのことけんか腰になってまで事を大袈裟にはしたくなかったのである。

 そういうわけで、弟がいきなり妙案なるものを言い出したことで、彼もすっかりそのことに気持ちが持って行かれ、問題にしていた弟の嘘の件は頭からすっかり消え去ってしまったのである。

「いったい、どんな妙案が浮かんだって言うんです?」

「やはり興味がおありのようですね。いやそれは当然でしょうね。お二人の未来が掛かっているわけですからね。ぼくはね兄貴のそういう正直なところがとても好きなんですよ。ですからこっちもあなたのためになることなら喜んで手を貸してやりたいって思っているわけなんです。そこでですね一つお願いと言っちゃなんですがそのつまりですね極めて重要な申し出があるんです。もしこの結婚がうまくいった暁には、ぼく達夫婦の未来のために何卒お骨折り願いたい大事な話がありまして、いやつまり、ぼくもここ最近自分の将来がどうなるのかそのことがどうも気になって仕方がないのです。いや別に今の仕事が不満ってわけじゃないので、そうではなくつまり、もう少し責任ある地位に就いてもいいのではないかと考えるようになっているんです。それはつまりですね自分の将来だけではなく妻にもなるべくいい思いをさせてあげなければならないと思っているからなんです。ぼくだっていづれこの家から独立して自分のお城を構えたいと思っているわけなんですよ。それには、いつまでも今のような低い地位に安住しているわけにもいかないわけでしてね。そこは兄貴もきっとご理解してくれるのではないかと、ぼくもあなたのその個人的な見識に期待を掛けているわけなんです」

 こうした思いがけない弟の要求を兄もどう判断すればいいのかと一瞬戸惑ってしまったのだが、それでも彼からそうした要求があってもそれほど不思議とは思っていなかったし、こっちも当然考えなければならない時期だとは思っていたのだ。確かに最近の弟の仕事ぶりは、以前にくらべて目を見張るくらいの変貌を遂げていたし、彼の人事での働きぶりは会社のためにすこぶる貢献していたからである。彼はなかなか人の使い方がうまく、本人はまったくそんな自覚はないのだが、それがかえっていい方向に働いているようなのだ。

「もちろん、あなたの最近の仕事ぶりを見れば、当然考えなければならないことだとは私も思っています。ですから、あなたのそうした心配はいずれ解消するだろうとは思います。この間の定例会議でも色々と話しが出た中で、あなたのことも話題になりましたからね。決して会社は何も考えていないわけではないのです。やはり会社が発展していくためには、一人一人の堅実な働きぶりが何よりも重要なことになってくるからです。ですからどうしてもその人の人間性というものが、何よりも大事なものになってくるわけですよ。私はね何よりもあなたを身内の人間として特別扱いはしたくないのです。そんなことをしたところで会社のためにも、あなたご自身のためにもならないと考えているからです。しかしだからって何も心配する必要はありませんよ。最近のあなたを見れば誰がその働きぶりにケチを付けられるって言うのですか。人はその行動においてはなかなか嘘はつけませんからね」

 このような兄の意外な見識を聞かされた弟の亮は、それならとそこは一歩引いて、兄のその言葉を信じるような顔をしてこう答えたのだ。

「いや、そういうことでしたら何もぼくはこれ以上余計なことを言う必要もないわけですよ。あなたがそういう公平無私な立場を取るということはやはり会社のためにもいいことですし、他の連中を黙らせる一番正しいやり方でもありますからね。いやぼくもね最近何かと会社の将来のことが気になり出しましてね。いったい今のような何かと問題が次から次と出て来るような世の中においてですよ、その果たして今のような体制でうまく乗り切れるのだろうかって心配しているからです。会社というものは大きくなればなるほど急には舵を切れませんからね。そりゃ親父が生きていた時はそれでよかったのかも知れませんが、時代も変わってその社会的条件も違って来ましたからね。今まで通りのやり方をしていればうまく行くなんて保証は実際どこにもないのですから。会社の経営というものはちょっと油断しただけであっという間に社会から取り残されてしまいますからね」

「そういうことは何もあなたに言われるまでもなく、私だってずっと考えて来たことですよ。もちろん、あなたもこの会社の一員として心配して下さるのは経営者としてとても心強いことではありますが、今のあなたの立場からすればもっと違うことにその力を使って下さることを何よりも望んでいるわけなんです」

「つまり自分の立場をもっと弁えろってわけですね。もちろんそんなことは当然のことだし、ぼくだってそのくらいのことはちゃんと弁えているつもりなんですがね。しかしまあ、あなたも公私において何かと気苦労が絶えないこの時期にですよお一人で悩むのもどうかと思いましてね。いやもちろん、ぼくが口出しするのはあなたの私的な部分でして、そこで何かしらの貢献が出来ればとそう思っているだけなんです」

「もちろん、あなたがそこまで私の結婚のことを考えて下さることは、兄としてとても嬉しいし、とても心強く感じてもいるわけです。私もその問題はずっと考えてはいたんですが、あいにくどうすればいいのか分からず、ずっと先送りしていたわけなんですよ。確かにこの問題は絶対取り沙汰されることだけはもう間違いないですから、私も以前から頭を悩ましてはいたのです。一つ間違えば破綻することだってあり得ますからね。果たしてあなたのその妙案なるものは、その危機を救ってくれるのでしょうか。もしうまくいけば私を救うだけでなく、柏木家そのものを救うかも知れませんからね」

「いや、そこまで大袈裟に考えなくてもいいと思いますが、でもこの結婚がもし成功したなら、あなたの人生に今までとはまた違った意味が生じるってわけですよ。今までのように、ただ仕事だけに邁進していた兄貴の人生も、ここで変貌を遂げるわけですからね。何も仕事ばかりが人生ではありませんよ。だって兄貴も、もうすぐ四十になるんでしょう?四十といえば、これからが人生の本番ではないですか。そういう時期に結婚するということは、あなたの人生が大きな局面を迎えるってわけですからね。つまりこの大地にしっかりとその基盤を築くことになり、そこからまた新たな価値が生まれるってことですからね。実に素晴らしいことじゃありませんか。その点から言っても、この結婚は何としてでも成功させなければならないんです」

 亮はこう言って、やたらに兄の気持ちを煽るのだった。兄の方も弟からそう言われると、確かに自分もこれから四十を迎えるわけで、嫌でも自分の人生が半分過ぎたってことを意識しないわけにはいかなかったのだ。すると、なぜか焦りにも似た感情が自然と湧き上がりひどく動揺するのだった。というのも、もし、この結婚がうまくいかないことにでもなったら、自分のこれからの人生はあまりにも悲惨なものになるかも知れないと想像してしまったからである。彼は、さすがにそれだけは避けたいと真剣にそう思ったのである。

「で、ぼくの考えた妙案っていうのはですね」と言って、亮は自分の考えを兄に語るのだった。その話の内容を要約すればこんなふうになるかも知れない。どうやら一人ずつ攻略していくようで、まず最初に母親の方から攻めていくというのだ。『なぜなら母親の方が落としやすいから』で、要は母親としての感情にまず訴えてその同意を得るということなのだが、彼の理論から言うと母親というのは、息子の幸せを何よりも望んでいるからそこをうまく突くということのようだ。とくにあの母親は長男である彼を溺愛していたから、その点難しいこともあるのだがそこを逆手に取って、何とか乗り切ればうまくいくというのである。つまり、『溺愛していたからこそ、彼の幸せも人一倍に望んでいるはずだ』からである。そこで問題になるのは、禮子が筋金入りのホステスでその道では知らない者がいないくらいのやり手だという事実なのだ。これがどんな意味を持つのか、極めてマイナスのイメージを持つことだけは間違いないのである。とくに普通の生活を送っている女主人どもにとっては、ほとんどバケモノ染みたイメージを彼女に持つことくらいは覚悟しておく必要があるというわけである。ひょっとしてそのことだけで彼女の実際の人間性にまでは、とても頭が回らないまま門前払いを食らわすことになるかも知れないからである。そんなことにでもなったらそれこそ元も子もなくなるわけで、そうなる前に何とか違う手を打つ必要があるわけである。そこで大事なのは、こうした女の生理的な嫌悪感は、とてもじゃないが男の力ではもはやどうすることもできず、お手上げ状態になることだけは確実なわけである。それならいったいどうしたらいいのか。彼はここでとっておきの秘密兵器を使うと言い出したのである。その秘密兵器が何と彼の妻である紫音だというのだ。彼女を母親との交渉役に使うというのである。いったいそんなことが可能なのだろうか。第一彼女がそんな役目を素直に受けるとは到底思えないのだが、しかし亮はなぜか強気で何としてでも彼女を説得して、この役を受けさせると言うのである。果たして彼女のような物静かで優しい女が、そんな難しい大役をこなせるとでも言うのだろうか。かえって母親の不審を煽ることになり、それこそ二人の関係そのものまでおかしくなってしまう可能性だってあるのではないか。当然そういう心配を兄は持ったのだが、それ以前に彼女にそんな役目を押しつける弟の神経そのものが理解不能だったのだ。それでも彼は何がなんでもこれだけは譲れないと言って聞かなかったのである。これにはさすがの兄も困ってしまったのだ。まさか自分の結婚問題に、彼女まで巻き込んでしまうことになるとは思ってもいなかったからである。

 で、結局どうなったかというと、兄もさすがにその場で弟の妙案を了承するわけにはいかなかったので、少し考えさせてくれと言ってその時はそれで終わったのである。兄もこれはとんでもないことになりそうだと、自分の結婚問題がこれで一気に家族を巻き込んだ大騒動に発展するのではないかと危惧するのだった。こうなると、かえって弟の妙案なるものは騒ぎを大きくするだけの単なる愚策でしかないのではないかと、さすがの彼も呆れてしまったのである。

 弟の亮は、それでも自分の考えを変えるどころか、さっそくその夜自分の部屋に妻を呼んで、実はこういうわけで何とか兄のために力を貸してくれないかと説得し始めたのである。彼女も最初は、そんなことはとても自分には出来そうにもないと言って断ったのだが、彼もそう言ってくることくらい承知していたので適当に調子を合わせながら、そこを何とかと執拗に食い下がるのだった。紫音はこの時いったい夫の話をどう思っていたのかというと、兄と同じようにほとんど理解不能だったのだ。『どうして自分がそんな役目を引き受けなければならないのか。第一、お義兄さんが話す前にどうして自分が彼の母親を説得しなければならないのか、そんな出過ぎたことをして果たしてお義母さんは納得してくれるのだろうか。反対に変に思うのではないだろうか』という当然すぎる疑問を持ち、そのことを夫に包み隠さず話したのだが、彼は納得するどころか、かぶりを振って、「いや、そうじゃないんだ。このことは兄貴のためだけにするわけではないのだから」と、こう話し出したのである。「何で自分が兄貴の結婚を、ここまで真剣に考えているのかというとそれは結局ぼく達の将来にとても影響があるからさ」と言うのだ。どんな影響かというと、「あまり大きな声では言えないが、この結婚が兄貴に恩を売るための絶好の機会となるからなんだよ。なぜかというとね、よくお聞き、実はぼくは将来この会社の社長になりたいと思っているんだ。このことはまだ誰にも言っちゃだめだよ。とくに兄貴にはね。なぜかと言うとね、ぼくがそんな大それた野心など持っていないと信じているからなんだ。それがどういう意味か分かるかい?ぼくが、そう信じ込ませたからなんだよ。もう、ずいぶんと前になるが、ぼくは兄貴にそう言って安心させたからなんだ。というのも兄貴はこのぼくのことを恐れているからさ。親父は病に倒れてから自分の後継者のことでずいぶん迷ったようなんだ。実を言うとね、ぼくはその当時ちょっとしたノイローゼに罹っていてね、その、あまり親父の受けがよくなかったんだ。そのためだろうか結局は兄が社長の座に就くことになったわけなんだ。この辺の詳しい事情は、そのうちきみにも話してあげるよ。しかし今はそういうことより、もっと違う意味で心配すべきことを考えなければならないんだ。兄貴はもともと慎重になりがちな性格でね。まあ、それは彼の性格だから仕方のない面もあるんだが、でも一旦考え込んでしまうと、なかなか思い切った決断が素早く下せなくなってしまうんだ。最近の会社の経営があまりよくないのも、その辺に原因があるんではないかという噂さえあるくらいでね。まあ、それはそれとしてさ、だからもしここで彼の結婚が破綻でもしたら、それこそどうにかなってしまい会社にも影響が出てしまことだってあり得るんだからね。これは決して大袈裟な言葉でも何でもないんだよ。彼だって恐らくこの結婚に自分の人生を掛けているに違いないからね。というのも、ぼくはこの目で確かめたからさ。彼が禮子さんにどのくらい惚れ込んでいるかってことをね。だって、彼はぼくの目の前で泣いたんだぜ。まあその辺の詳しい経緯は彼の名誉のためにも話さないでおくが、実際そうなんだよ。だからさ彼には絶対結婚をしてもらう必要があるってことなんだ。そのためには母親をまず説得しなけれならないんだよ。分かるかね?ぼくの言いたいことが」

「そういうことでしたら、なおさらお義兄さんご自身が、まずお母様にお話しするのが筋ではないでしょうか。私風情の出る幕ではないと思うのですが」

「ところがそうじゃないんだよ。いいかね、ここはとても大事なところだから、よくお聞き。つまり、きみもよく知っての通り、禮子さんの職業を考えると、そう簡単に母親は承知などしないってことくらい最初から分かっているからなんだよ。いいかね彼女のような職業に対するイメージをまず考えなければならないんだ。いったい普通の母親がさ、彼女の職業にどんなイメージを持つと思う?恐らくバケモノ染みたイメージを持つに決まってるんだ。そんな母親がだよ、どこの馬の骨か分からないホステスとの結婚をあっさり許すとでも思うかい?まず許さないだろうね。むしろその話しを聞いただけで門前払いするに決まってるんだ。つまりこうした女の本能的な嫌悪感に、男の理屈ではとてもじゃないが対抗出来ないんだよ。そこできみがぜひとも必要だとぼくは思ったのさ。いいかね、ここはとても大事なところだからね。何もぼくはいい加減なことをきみに言っているわけじゃないからね。そこはよく分かって欲しいんだ。ぼくはね、きみがどういう人間かってことくらい、ちゃんと心得ているからね。きみくらい頭のいい女性はいないし、それに何と言っても人の気持ちがよく分かるってのが君の一番の強みなんだからね」

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