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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 卓はその時、彼女の泣いている仕草に気を取られながらも、『何でまたあんな余計なことを言ってしまったんだろう』と、泣きたいのは自分の方だと言わんばかりにひどく後悔してしまったのだが、もう取り返しがつかないので、もはやこれですべてが駄目になるだろうとすっかり意気消沈してしまったのである。しかしそうは言っても、『彼女の涙はいったいどういう涙なんだろう』なんて彼も不思議に思いながらも、彼女のその様子になぜか感じ入ってしまったのだ。つまり禮子の演技は十分に効き目があったのだ。『彼女だって自分がこの店に一度しか来ていないってことが、それほど変に感じていないのかも知れない。それが証拠にそのことにはまったく触れず、ただ母親とのことでいたく感動しているじゃないか。これはまだうまくやれば何とかなるってことじゃないのか』と彼も、このまま終わってはあまりにも情けないので、ここは一つ奮起して立ち直らなければだめだと決意するのだった。

「禮子さん、ちょっとお聞きしたいことがあるんですが、よろしいでしょうか?」と彼は、ここで開き直ったというわけではないのだが、思い切って自分の気になっていることを打ち明けてみようと考えたのだ。

「ええ、もちろんいいですわ」彼女はすぐさま何かを感じてとって居住まいを正すのだった。

「あの禮子さんは先ほど私に会うことを心待ちにしていたとおっしゃいましたが、あれは本当のことなんでしょうか?いや決して変な意味でお聞きしたのではありません。実はこれにはわけがありまして、その弟の話とずいぶん違っているなあって思えたからなんです。というのは、あなたがそのようなお気持ちでいるなんて弟は一言も話してくれませんでしたし、反対にあなたを説得するのにとても苦労したなんて言ったのです。ですから私としても、いったいどちらが本当のことなのか迷ってしまいましてね。いや実際人は嘘などつくものではありませんね。それはいつかバレてしまうものだからです。もちろんこれは自戒の意味でもあるんですが、どうも弟は私に嘘をついたようなんです……」彼はこう言って眉を曇らせるのだった。

 禮子は、やはり亮は何かを企んでいるに違いないと思い、ここは一つ自分の本当の気持ちを彼に知らせておかなければ駄目だと思うのだった。きっと彼はまだ自分を疑っているに違いないからである。

「どうやら二人の仲介者に問題があったようですわね。あの人があなたにどうおっしゃったのか知りませんが、あたしの気持ちは先ほど言いましたように、あなたにお会いできることを心から楽しみにしていたんですよ。それだけはどうか信じて下さいね。ですから弟さんがどういう理由でそんな嘘をついたのか、その真相がはっきりするまで、このことはどうかしばらくの間あなたの胸に仕舞っておいて欲しいのです。決してこのことを弟さんに聞いたりしないで下さい。もし彼が何か企んでいるのなら、きっと自分の方から何らかの行動を起こすはずですから、それまではどうかじっと動かないでいて欲しいのです。ここは一つあたしの方から彼に探りを入れて見ましょう。もし少しでも何か分かったことがあったら、すぐにでもあなたにお知らせしますから、よろしいですね」

 彼もそこまで彼女が言うということは、ひょっとして何か心当たりでもあるのだろうかと勘ぐってしまうのだが、しかしそれにしても何て目端が利く頭のいい人だろうと感心してしまったのだ。

 こうして何だかよく分からないうちに、彼女の本当の気持ちを確信することができ、おまけに彼女がどれほど賢い人だってことも分かり、もはや彼女以外の女性などあり得ないと思うほど引きつけられてしまったのである。とはいえ彼としても、こうなった以上、自分も何とか弟の本心を探りたいとは思うのだが、彼女からこれほど強く言われては、やはりここは一つ彼女の言うとおり何事もなかったような顔をしておくのが得策かもしれないと思われたのだ。どうやらこれで彼もすかっり彼女に主導権を握られたわけだが、彼はまだそれがどんなに鬱陶うっとうしいことだってことは夢にも思っていなかったようだ。しかし、これこそ男と女の相性の妙で自然は意地悪くも的確にその相手を選んでいるわけである。

 二人はその後お酒もかなり入り、心も次第に解放されて口数も多くなり時間を忘れるくらいお互い話しに興じるのだった。気が付いた時にはすっかり夜も更けて、彼としてもここまで彼女と意気投合するとは夢にも思わなかったので、これからはなおのこと彼女との関係をよくするためにももっと努力して、さらにその先のことも視野に入れると、今以上に慎重に二人の関係を育てていかなければならないと改めて気を引き締め直すのだった。二人はその後、別々のタクシーで帰っていったのだが、そのタクシーの中で卓はきっと明日の朝、自分は今までとはまるで違った景色を見ることになるだろうと確信するのだった。それくらい十分な手応えを感じていたのだ。しかし翌朝目を覚ました時、まっさきに頭をよぎったのは弟のことであり、いったい彼はなんであんな嘘をついたのだろうかと考えずにはいられなかったのだ。それは確かに不可解なことであり、今からすぐにでも弟に問い質したかったのだが、なにせ彼女から強く言われていたので彼としてもここは我慢して、むしろ彼に負けないくらいこっちも芝居をする必要があると考えるのだった。とはいえ、そうはいっても亮の嘘はどんな理由にしろ、あまりにも変だったので兄として平然と素知らぬ顔で過ごすのもなかなか苦労したのである。というのは弟と顔を合わすたんびに、彼も意識してしまうわけで、それはそれで難しい芝居にチャレンジしている役者のようでもあり、彼と何気ない会話をするだけでも、どこかぎこちない台詞を言っているような違和感をどうしても感じてしまうからである。

 それからしばらく兄の卓は、彼女との約束を律儀に守っていたのだが、それがあまりにも律儀すぎて本人はまったく気づいていないのだが、かえって弟にはそれがどうしても不自然に見えてしまうのだった。なんで彼はあれ以来禮子のことを一切口にしなくなったんだろうと不思議に思い、今の二人の状況がどうなっているのかそれくらいの報告があってもいいのではないかと亮も思うのだった。それともひょっとしてあまり芳しくないことにでもなっているのだろうかと勝手に想像して、もしそうなら報告などしたくもないのだろうと納得するのだった。しかしそれにしてはあまりにも落ち着いてやしないだろうかと、やっぱり変に思ってしまうのだ。こうしたわけのわからない兄の様子に彼も次第にイライラして来て、もう我慢の限界だとある日、思い切ってこう聞いて見たのだ。

「ところで、あれから禮子さんとはうまく行ってるんですか?いやね兄貴の様子を見てると、これはどうも何かあったんじゃないかって心配してしまったからです。だってあれ以来何の報告もないじゃありませんか。ぼくだって身内としてそれくらいは心配する義務はあると思ってるんです。もし何かあったら、ぼくだってそれなりにショックですからね。だって兄貴にはぜひとも幸せになって欲しいからです。弟のぼくだけが幸せになるなんてことはこの柏木家では許されないことですからね。ですから、ぼくにしても今回のチャンスをどうかものにして頂きたいと心から願っているわけですよ。このことだけはどうか忘れないで頂きたいのです」

「いやそれはどうも、あなたがそこまで気に掛けてくれていたなんて、今の今までまったく知りませんでした。私も迂闊でしたよ。でも決してあなたのことを忘れて報告しなかったわけではないのです。だってあなたが仲を取り持ってくれたからこそ彼女と会うことができたんですからね。それだけでも、あなたには感謝してもしきれないと思っているんですよ。それは本当ですよ。それに何よりも一番あなたに感謝しているのが、あのお店を見つけてくれたことなんです。なぜかって言いますと、それはですねあなたはご存じないと思いますが、あのお店こそ彼女の行きつけの店だったからです。いや、それを知った時の私の驚きようったら、それはもう言葉になりませんでしたからね。しかしまあ、そういうことはよくあることでして、いわゆる意味のある偶然ってやつでしてね、あなただって一度くらいそういう偶然を経験したことがあるんじゃありませんか?しかし実際に経験すると思いのほか、この世は何か目に見えない法則みたいなものですべてが動いているのではないかと実感するわけです。私もね何か知りませんがそういうことはもっと真剣に考えてもいいのではないかと最近考えるようになってしまったんです。で、何の話しでしたっけ?ああそうでした。禮子さんとのことでしたね。いやごめんなさい。私もねこのところ色々と考えることが多くなりましてね、一つのことになぜか集中できないのです。これも歳のせいですかね。まったく困ったもんです。確かに私もね、そのことはずっと考えてはいたんですよ。でも一々報告してあなたを煩わすのもどうかと思いましてね、その遠慮してしまったというわけなんです。ですからどうか決してわざと報告しなかったということではないのです。だってあなたには何かとお世話になったわけですからね、報告する義務くらいはあると当然考えていますよ。ですから、そこんとこをどうかご了解して頂き、これからの私たちの関係をどうか気長に見守っていて頂きたいのです」

 これはいったいどうしたことかと、さすがの弟もこれには呆れてしまったのだ。これはちょっとおかしいと思い、確かにいつもの兄貴とは違うものをそこに感じざるを得なかったからである。それは、長いこと一緒に暮らしてきたからこそ感じられる違和感であり、明らかに何か奥歯に物が挟まったような物の言い方だったからである。

「いったい何があったんです?いや、いつもの兄貴とはちょっと違ったものを感じてしまったもんでね。もし何かあったのならやはり正直に打ち明けてほしいのです。だってぼく達は兄弟ではありませんか。何も遠慮することなどまったくないのです。こっちが聞くまで黙ってなどいられたら、かえって余計な心配をして変に誤解してしまう恐れだってあるわけですからね。そりゃ兄弟といえども、なるべくお互いの心情に立ち入ることは控えるべきなんでしょうが、それでもどうなっているのかくらいの報告はあってもいいのではないでしょうかね。いやぼくだって、こうしたデリケートな問題にはなるべく口を出さないほうがいいだろうと思い気を遣ってずっと黙っていたのに、それをいったい何ですか、まるで取って付けたように気長に見守ってくれなんてそんな言い方は少なくともぼくの知っている兄貴の言葉とは到底思えないのです。いったい、どうなってしまったんでしょうか?いつもの、あの人の気持ちを何よりも大事にする、あの気配りの兄貴はいったいどこに行ってしまったんですかね」

「いやもちろん私の迂闊さが招いた失態だってことは間違いないので、まったく言い訳のしようがありませんし、あなたの怒りもようく理解できます。いやそこは素直に謝りますよ。これからはなるべく報告していきたいと思いますのでどうか今回だけは勘弁して下さい。いやまったく、あなたにそこまで言われるとは思ってもいませんでしたのでとても驚いてしまったんですが、それにしてもなぜだか知りませんが、あなたも今回のことにはとても関心がおありのようで、いや人にはそれぞれ独特の見方というものがあって、そこには私の想像を遙かに超えたものが隠れているのかも知れませんからね。確かに私も今回のことで色々と気づかされたことがあったんですよ。それはですね人はなんで嘘をついてしまうのかってことなんです。これは一般論ではなく自分のことなんですが、私もね今回の件でなぜか母親に嘘をついてしまったのです。自分でもそこまでする必要があるのかって一応思ったのですが、自分のこれからすることを考えるとなぜか本当のことが言えなくなってしまったんですよ。あなたにもそんな経験はありませんか?」

「嘘をつかない人間なんて、この世に一人としていないと思いますよ。そういうぼくだって数限りなくありますからね。何も自慢するわけではありませんが、時には仕方なく嘘をついたり、面白半分についたり、それに自分のために嘘をつくことだってありますからね。何も珍しいことでもなんでもありませんよ。誰もが経験していることですって」

「なるほど誰もが経験していることですか。確かにそういうところもあるのでしょうが、それではそれはある意味仕方がないってことですかね。人間に自ずから備わっている一つの機能とでも言っていいのでしょうか。それにしてもあまり褒められた機能ではありませんが、しかしまあ嘘も方便って言葉もあるくらいですから、ある意味それは許されるべき一面もあるってことでしょうかね」

「嘘だって使い方によってずいぶんと変わりますからね。同じ嘘でも毒にもなれば薬にもなるんじゃありませんか」

「それはまた嘘も方便とはちょっと違ったおもしろい意見ですね。いや、それならその毒にもなれば薬にもなる嘘ってやつをもう少し詳しくお話し願えませんかね。私も色々と勉強したいのです」

「えっ、いったい何でまたそんなことに興味があるんですかね。ぼくだって何も確信があって言ったわけではありませんよ。ただ何となくそうそういう言葉が頭に浮かんだだけなんですから」

「つまり嘘をついたってわけですか?いやそれですよ人間のおもしろいところは。実際にそうやって手軽に嘘をついてしまうわけです。いや驚くべきもんですね人間って生き物は。私もね今まで色んなタイプの人間と付き合ってきましたが確かに胡散臭い人間も世間にはやはりおりますからね。そういう人達とも仕事上どうしても付き合っていかなければならないこともあるわけです。まったくしんどい話しではありますが、しかしそれでもなるべくなら嘘をつかない人生を送りたいとは思っているんですよ。でも難しいです。実に難しい」

「そんなことを今さら悩んだって仕方がないじゃありませんか。だって本当のことだけ言って果たしてこの世の中生きていけるのか、そのことを考えれば自ずと答えは出てしまうわけです。そんなことは恐らく不可能だってすぐに分かるからです。世の中嘘もつかずに本当のことだけを言って、お互い平和に暮らして行けると思いますか?嘘というのはある意味人間の知恵ですよ。お互い平和に暮らしていくための知恵なんですよ。そうは思いませんか?」

「なるほど知恵ですか。確かにそうですね。そうするとやはり嘘にも色々と種類があると見ていいのかも知れませんね。世の中の潤滑剤になるような嘘があるかと思えば、まったく許せない嘘もあり、はたまたどう考えても意味の分からない嘘もあるってわけですね」

「あなたにどんな考えがあって、さっきからそんな難しいことをおっしゃっているのか正直よく分かりませんが、それでも弟として一つご忠告させて頂きますと、なるべくならあまり言い慣れないことを、そうベラベラと喋らない方がいいと思いますよ。ご自分ではまったくお気づきになっていないとは思うんですが、人から見ればそれがどんなにおかしいかってことくらい、もう一目瞭然なんですから」

「つまりお前の台詞は何か白々しいっておっしゃりたいわけですね?それは確かにそうかも知れません。私だってそのくらいの自覚はありますよ。自分でも、さっきから何でこんな柄にもないことを喋っているんだろうって不安でしょうがなかったんですから」

「だったら、もうそろそろこんな無駄話は止めにしたほうがいいかも知れませんね。だって、そんなことよりもっと大事なことを今から考えて置く必要があるからですよ」

「大事なことって、いったいなんです?」

「そんなこと決まってるじゃありませんか。どうしたらこの柏木家の女主人どもをうまく説得して、二人の結婚を認めてもらうかってことです。これは決して疎かに出来ない問題ですからね。だって、あなた方お二人が、たとえ相思相愛の仲になったとしてもですよ、それでハイご結婚お目出度うございますなんてことには決してならないからです。そのくらいのことは兄貴だって十分承知しているはずだとはと思いますがね。まあ母親の方はそんなに心配ないとしても、問題はおばあさんの方ですよ。あのグレートマザーがうんと言わない限り、この結婚は実を結ぶことはないとぼくはそう思ってるんです。いや何も脅かそうとしているわけじゃありませんよ。むしろ兄貴を思えばこそこうして心配しているのです。そこでね、ぼくは、どうしたらすんなりと二人の結婚を認めてもらうことが出来るだろうかって、ずっと考えていたんですよ。そしたら、ある妙案が浮かんだんです。それはですね彼女たちの感情に直接訴えて、その弱点をうまく利用するって方法です」

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