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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 兄の卓にとっていよいよその日がやって来たのだが、その前に一つ片付けて置かなければならない問題があったのだ。今回のことはどうしても母親には秘密にしておきたかったので、何かちゃんとした理由を言って母親に変な疑いを持たれないようにしなければならないと思ったわけである。しかしそこまで用心する必要があるのかという疑問もあるのだが、そこは彼の性格がもろに出たわけで、つまり何事にも用心深くなってしまうのが彼の癖であり、こればかりはどうしようもなかったわけなのだ。彼も母親に嘘などつきたくなかったのだが、今回のことは自分の人生にとって極めて重要なことであり、この際そのくらいの嘘はやむを得ないと割り切って何とかうまく乗り切ろうと覚悟したわけである。そこで彼は母親に、「実は、またあのお店を利用することになりましてね、いや今度は大事な取引先との商談ですよ。もっとも私としてはそんなしち面倒くさい商談よりもっと違うことに使いたかったんですがね」と彼にしてはなかなか大胆に、それでいて極めてありそうな話しで何とかごまかしたのである。しかし、これだけでも彼にとってはやましい感情が心の片隅でうずくのだった。

 彼は、弟に八時という約束で店の予約を取ってもらっていたのだが、ところが気持ちがはやっていたのか、ちょっと早いんじゃないのと思うような時間にタクシーを呼んで家を出るのだった。もちろん相手を待たせるより自分が先に着いて彼女を待つほうがずっといいと思ったのだ。そこは彼の性格が大いに影響したわけだが、それでもあまり早く行って店員に迷惑がられるのも嫌なので、そこは彼の常識的な判断に従って、(といっても一時間も早かったのだが)さも常連のような顔でその店に乗り込むのであった。彼は地味ではあるがそれなりにおしゃれなところがあったのだ。その洋服にも彼一流のこだわりがあり、その夜の服装も母親の時とは打って変わっておろし立ての皺一つないグレーの英国調三つ揃えに、茶色の地にペイズリーの柄をあしらった品のあるネクタイをして颯爽と乗り込んでいったといわけである。彼はそれほど背広姿が格段に似合うようながたいのいい体型ではなかったのだが、身だしなみには立場上非常に注意していたせいもあり、その着こなしもしっかり身に付いていて何となく貫禄もあり十分様にはなっていたのである。

 一方、禮子はというと彼女はきっかり八時に店にやって来たのだが、その様子がどうもいつもとはまるで違っていて、今までのイメージを一新したような渋い色目のカジュアルドレスによく似合った薄手のコートを羽織り、いかにもシンプルで地味ではあるが、それでいて決して彼女の魅力を損なうような格好にはなっていなかったのはさすがであった。その時の彼女の服装を別の言葉で表現すれば、自分だって普通の奥様になれるんだってことを彼にアピールして見せたかったとでも言えようか。ひょっとして自分の職業であるホステスというイメージを払拭したかったのかも知れない。まあ色々と憶測は尽きないのではあるが、それはさておきこれからいよいよ二人の思いがぶつかるわけだが、この二人はもともとお互いに関心があったわけで、決して片思いとか何とかといったものではなかったのだ。しかし亮の奸計により、二人ともお互いの本当の気持ちが分かっていなかったわけである。そういうこともあり、いったいこれからどうなっていくのか、まったく目の離せない展開になることだけは間違いないのである。

「お待ちになりましたかしら?」禮子は先に来ていた彼を見て、そこは礼儀上相手を気遣って見せるのだった。

「いや先ほど着いたばかりでして、もう待つという言葉もいらないくらいです」彼も椅子から立ち上がりながら一応しゃれたことを言おうと色々と考えていたのだろう、ひょっと口から出たその言葉に本人もちょっとびっくりしたのである。こんなことを自分が言うなんてまったく予想もしていなかったからだ。彼女もさすがに驚いてしまったのだが、そこは手慣れたもので何事もなかったかのような顔をして、こう言ったのだ。

「それにしてもあなたがこのお店を指定したって聞いた時、あたしもちょっとびっくりしてしまったんですよ」彼女は椅子に座るなり、ちょっとさぐるような視線を彼にそっと向けるのだった。

「えっ、それはいったいどうしてですか?」と、こっちはこっちで一瞬びくりとしたのである。

「いえ実を言いますと、このお店のオーナーとは昔からの知り合いでしてね。その関係であたしもちょくちょくここを利用させて頂いておりますの。ですからあなたがこのお店をわざわざ指定されたと弟さんから聞かされた時とても驚いたんです。だってこれを偶然という言葉で簡単に片付けてもいいのかしらってずっと思っていたからです」

 それは確かに本当だったのだ。簡単に説明すると、ここのオーナーが彼女の店の常連でもあったわけで、この店のことは彼から十分聞かされもしこの店に招待されたりもしていたからだ。そういうこともあり彼女もすっかりこの店の雰囲気が好きになり、気が滅入った時など一人でこの部屋に閉じこもってキラキラと宝石のように輝く夜景を黙って眺めていたりしていたのである。つまり彼女の唯一安らぎの場所でもあったわけだ。そういう事情をいきなり聞かされた卓は、前もってこの店に来ておいて本当によかったとホッとしたのである。彼の用心深さがここで生きたわけで、実際彼はあれからこの店のことをネットで調べてもいたのである。

「人生には得てしてそういう意味のある偶然が起きるんですね。いやそれにしてもこの部屋は実に居心地がいいですね。私もこの部屋に来るたびに何か心が癒やされるのです。ここは実に都会のオアシスであり、日常の嫌なことを忘れさせる唯一の隠れ家でもあるわけです」

「そうですわ。この部屋は誰にも邪魔されず、一人で思う存分この夜景を見ていられるからです。ああ、それにしても何て素敵な夜景なんでしょう、いつ見てもこの夜景にはなぜか心が癒やされるのである。でもやはり誰かと一緒にこの時間を共有することもまた楽しいのかも知れませんわね。たとえば誰か好きな人と二人だけで過ごすとかね。実を言いますと、あなたにお会いすることをずっと心待ちにしていたんですのよ」

「えっ、本当ですか?」

 彼はこう言ったきりしばし絶句してしまったのだ。というのも彼女がそんな思いでいたことなど想像もしていなかったからである。しかしこれはどう考えてもおかしな話しだったのだ。なぜなら彼女の言葉は弟の話とずいぶん違っていたからである。確か弟の話しだと、彼女はそんな自分からお会いしたいなどという状態なんかではなく、まったく仕方なく会ってくれているというものだったからだ。しかしそうはいっても、彼女がそう言っている以上それを疑うなんてことはかえって失礼ではないかとさえ彼には思えたのである。たとえ何かの理由でそんな嘘をついているのだとしてもだ。しかしそうなると何でそんな嘘をつく必要があるのかという疑問が残るのだが、反対におかしいのは弟の方だという見方も出来るわけである。しかし今はもうそんなことで一々悩んでなどいられなかったのだ。というのも自分がここに来たのは、そんなことを悩むためではなく自分の思いをぜひとも彼女に伝えなければならなかったからである。また禮子の方も彼には多大な関心があったので、何とか彼の本心をもっと知らなければならないと考えていたのだ。というのもこの前亮から聞かされたことが記憶に残っていて、それが果たして本当のことなのかそれをちょっと確かめてみようなんて気にもなっていたからである。そこで色々と試してみるのだが、彼の方が緊張でもしているのか思うように反応してくれないのだった。それならと、ここは持ち前のテクニックで彼の本心を聞き出そうと言葉巧みに揺さぶってみるのだった。

「あの、あなたのことをどう呼べばよろしいかしら。いきなり卓さんなんて呼んでは、かえって失礼ではありませんかね」

「い、いや、そんなことはありませんよ。正直そう呼ばれた方が自分としては何となく嬉しいし、二人の距離も少しは縮まるかと思うんです」

「ああ、そうですね。それでは、あなたをそう呼ぶことにして、じゃあ、あなたはあたしのことをどう呼んで下さるんですか?」

「えっ、私ですか?……それは、ちょっと……しかし、いくら何でも自分からあなたのことをこう呼びたいなんて、そんな図々しいことは、とても私には……それなら一層のこと、あなたが決めてくれませんか。その方が私としても安心できますので」

「まあ、そんなひとまかせなことおっしゃって嫌なお方。そんなことではいつまでたっても二人の距離は縮まらないではありませんか。でもまあ、そこまでおっしゃるのなら仕方がありませんわね。それじゃ、これからは遠慮なく禮子って呼んでくださいね。ああ、これでやっとすっきりしましたわ。それじゃここで一度乾杯してこれからの時間を楽しく過ごしていきましょうね。じゃあ乾杯!」

 彼はもちろん、彼女と同じようにとてもすっきりなど出来なかったのだが、それでも彼女のこうしたはしゃぎっぷりからどうも弟の話の方を疑わざるを得なくなったわけである。しかし、それでもまだ半信半疑ではあったのだが、彼女がここまで自分との距離を縮めようとしてくれていることに、どんな疑惑を差し挟めばいいと言うのだろう。それはもう目の前にいる彼女の存在を疑うことと同じではないか。と彼も何とかいいように考えようとはするのだがなかなか思うようにいかず、果たしてこのまま彼女の言うことを信じてもいいのだろうかと彼の気持ちはどうしようもなく二転三転するのだった。そういうわけで本来ならばもっと積極的に彼女にアプローチしなければいけなかったのに持ち前の用心深さが徒となり、どうにもこうにも身動き出来なくなってしまっていたのだ。

「で、卓さんはこのお店にはよく来られるんですか?」ある意味、彼女のこの質問が、彼を揺さぶるどころか激震となって襲ったわけである。

「えっ……、まあ……そうですね。……い、いや、実を言いますとですね、この店に来たのは一度だけなんです……。もう正直に言ってしまいますが、この間、母親と二人でこの店に来たのが初めてなんです……」

 彼はこれ以上嘘の上に彼女との関係を続けて行ったらそれこそ大変なことになると思ったのである。それはある意味正しい選択なのだが、もうちょっと機転を利かせてこのやり取りを乗り切れなかったものかと思うのだが、どうもこのあたりが彼の限界だったようである。しかし、こうした彼のバカ正直さがかえって思わぬ展開を引き起こす結果となってしまったのだ。というのは、実は彼ら柏木家のこの店での一連の行動は、すっかり彼女に筒抜けとなっていたからである。どういうことかと言うと、彼女はオーナーに今度お宅のお店で、こういう方と食事をすることになったと言ったところ、その彼から実に興味深い話しを聞かされたからである。ある一組のカップルがこの店にやって来たのだが、その二人はどうやら夫婦のようで、その妻とおぼしき人物は、それはとても品があり実に美しい女性だったことがとても印象に残っていたそうなのだ。で、その二人はそれから実に楽しくお喋りしながら過ごしていたそうだが、問題はその帰りに起こったのである。その夫はこの店に来たときはどこか紳士然とした態度でちょっと気取ってはいたのだが、もう帰る頃にはぐでんぐでんに酔っ払っていて、とても一人では歩けない状態だったからである。さすがにその連れ合いも困ったような顔をしていたので、オーナーも彼女一人で大丈夫だろうかと心配したそうだ。その二人はどうやらタクシーで帰っていったようなのだが、面白いのはまた同じ名前の二人連れが、今度はどうもカップルというよりも親子だと言った方が当たっているのではないかと思われる二人連れが来店したからである。その二人は終始静かにおしゃべりをして時間が来ると別に酔うこともなく帰っていったそうだ。つまりあとになってその人達は、どうやら柏木家のご一行様だということがその予約名簿から判明したわけである。こうしたことがすでに彼女に知らされていたのだが、別にこのことが彼女にとって何かの足しになるような情報ではないのだが、それでも彼らのこうした行動の意味を想像してしまうと、これは今回のことと何か関係でもあるのだろうかという疑問がどうしても出て来てしまうのである。しかしたとえ関係があるとしてもいったいそれが今回のこととどう関係しているのだろうか、確かに彼らの行動は決して偶然なものではないだろうが、いったいどう理解したら納得ができるのだろうか、と彼女も珍しく考え込んでしまったのである。

 それが彼の告白によって一挙に謎が解けたのだ。要するに自分がこの店を指定した以上、何も知らないということはやはりまずいわけである。ということは少なくとも一度くらいはこの店に来て、その不安を解消しておいたほうがいいということなのだ。つまりあとになってこの店のことを聞かれて、戸惑うことがないようにという配慮からである。もちろんこれは一つの仮定としての話だが、そんなに見当外れなものでもないだろうと彼女には思われたのである。恐らく誰かに入れ知恵されたのだろうが、彼もそれに刺激されて母親とやって来たというわけである。そしてその入れ知恵をした張本人が誰あろう亮本人であることはもう明々白々なのだ。

 しかしだからといって、そうしたことがたとえ本当だったとしても、そのこと自体に何か問題があるとはいくら何でも彼女には思えなかったのである。それに彼女自身がたまたまそのような事情で彼らの行動を知ったとしても、彼女はそのことで一々彼に自分はこういう秘密を知っているのだが、どういう意味なのかなんて聞けるはずもなかったのだ。そんなことをしていったい何になるんだろうか。もっともあとで亮には、このことで問い質してみようとは思っていたのである。きっと何か隠していることがあるに違いないからだ。

「じゃ、卓さんはお母様とこのお店にやって来たわけですね。それならきっとお母様も喜ばれたのではありませんか?だって母親というものは幾つになっても、ご自分の息子と一緒に食事をすることが嬉しいに決まっているからです。ああ、あたしがもしお母様と同じ立場にいたのなら、きっと嬉しくて涙を流してしまうに決まってますわ」彼女はこういって、なぜかハンケチを取り出すと、それをそっと目頭に当てるのだった。彼女の演技もここまでくると何かわざとらしいものを感じてしまうのだが、しかしこれは何も彼の歓心を買うためにしたのではなく、彼の気持ちを何とかふらつかせないようにして、しっかりと自分に引きつけて置かなければならないと思ったからである。禮子には彼の心情が手に取るように分かったのだ。なぜ彼がそのことを告白しなければならなかったのか。何もそんなことを言う必要なんてどこにもなかったのに。彼はただ嘘を付きたくなかっただけなのだ。彼女はこの時、彼が例の跡継ぎに関する重大な秘密を弟の亮に告白したときのことを思い出したのだ。あれもきっといつまでも弟に自分たちの不正を黙っているわけにはいかないと思ったのだろう。あの秘密を話せばどうしたって自分の今の立場が正当なものではないと自分で認めるようなものなのに、それをあえて告白したということはきっと彼の良心がそう言えと彼の背中を押したに違いないからである。恐らく今の彼の気持ちもそれと同じなのだろうと彼女は思ったのだ。どうしても黙ってはいられなかったのである。たとえそのことで自分の立場がおかしなものになろうとも、彼の性格がそれを許さなかったというわけである。

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