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生まれて初めての母親との会食は、彼の単なる思いつきがその動機となったわけだが、ところがそうした彼のいい加減な思いつきが、この親子にとって意外な結果をもたらすことになったのである。というのは母親とこんな具合に食事をすることなど今まで一度もなかったので、何となく緊張してしまい、なかなか家で食事をするような雰囲気にはとてもならかったからだ。つまり変な話し、こうした近い距離で向かい合って座っていると嫌でも相手の顔に注意がいってしまい、今まで気にすることもなく見過ごしてきた母親の顔にびっくりするなんてことが起きるからである。ここまで老け込んで哀れなほど草臥れきった顔をしていたとはなぜか想像すらしていなかったのだ。これには正直彼も意外なほどショックを受けてしまい、最初これはきっと照明のせいだろうと思ったのだが、どうもそうではなく実際に母親の顔は気の毒なほど面変わりしていたのである。今まで一緒に暮らしていたのになんで気がつかなかったのだろうと、彼は反省すると同時に心が締め付けられてしまい今にも涙がこぼれそうになったのである。彼はしばらく黙って出てくる料理を食べるのだが、その味も何となく上の空でフォークを持つ手もわれ知らず止まってしまったのである。
「お母さん。恥ずかしい話し今初めて気がつきましたよ。あなたには今までそれこそ色んなことで苦労を掛けて来たことを。それは親父のことも含めて色々とね。この家では何かと問題があり誰も止めようがありませんでしたからね。私だって子供のころから親父には散々いじめられて、まあ私は適当に付き合っては来ましたが、それでもやはり後遺症は残ってしまったのです。それは、この家には家庭というものがなかったということです。いや家庭的な暖かい雰囲気とでも言ったほうがいいかも知れませんが、ねえ、お母さん、私はねその点で一番苦しんだのは、あなたではないかと今初めてそう思ったのです」
「お前からそういう言葉を聞くと、かえってわたしの方こそ申し訳なかったとそう思ってしまいますよ。だってお前たちをあの父親から守ってやれなかったと、わたしはずっと思っていたからです。母親として何もしてやれなかったと、ずっとずっと悔やんで来たからです。許しておくれね。でもこうしてお前と二人きりで食事が出来るなんて、今の今まで想像すら出来ませんでしたからね。これもお前が、ちゃんと父親の仕事を引き継いでその責任を果たしているからこそ、わたしも安心してお前とこうやって食事が出来るのですからね。お前はわたしの大事な息子です。これからいいですか、この柏木家をもう一段と立派なものにするためにも頑張ってもらわなければなりません」
「それは、もちろん分かっていますとも。でもねえ、お母さん。あなたは今まで自分の人生をちゃんと生きて来たと思っていますか?いや今さらこんなことを言っても仕方がありませんが、でも、まだまだあなたには長生きしてもらわなければいけませんからね。おやじに虐げられていたぶんこれからは大手を振って自分の人生を生きてほしいと私は思っているんですよ。だって、もはやあなたを縛るものは何もないのですからね。そうでしょう?お母さん」
「そう言って気遣ってくれるのはとてもありがたいですが、でもね、もはやわたしの人生などどうなるものでもありませんからね。自分のことなどもういいのです。それよりかわたしには、とても気になることが一つだけあるんです」
「へえ、それはいったい何ですか?」
「それは、お前の結婚問題ですよ。弟の亮はあんな素晴らしい嫁をもらって、なんでお前がまだ独身でいるんですか?それが私には一番の気掛かりなんです。いいですか卓、お前は柏木物産の社長ですよ。そのお前が、いつまでも独り身でいるなんてそんなことが世間で通るわけがないのです。お前も、その辺のことをもっと自覚してくれなければいけません。それともお前はこのままずっと独り身で行くつもりなんですか?そこのところをこういう機会ですからお前の口から聞いておきたいのです」
「ああなるほど、確かにこういう機会でもなければこんな話しはしませんからね。私も迂闊でした。しかし、もちろん私だってこのままでいいとは思っていません。いづれ結婚したいとは思っています。しかし、どうなるかまだよく分からないんです」
「よく分からないとは、いったいどういう意味なんです?したいのですか?したくないのですか?」
「ですから、したいとは思っていますよ。でも、相手がいることですからね。今は、何とも言えないのです」
「どうも、お前の言っていることはよく分からないのですが、ひょっとして誰か好きな人でもいるのですか?」
「いやそれは、まだ何とも言いようがないのです」
「ああ分かりました。好きな人がいるんですね?もしそうなら何も隠す必要などありません。わたしはね、お前が好きになった人ならどんな人でも受け入れるつもりですからね。もちろんお前にふさわしい人でなければなりませんが」
「ふさわしい人ですか?なる程どうしてもそういう条件が付くわけですね。しかしねお母さん、ふさわしいかふさわしくないかなんていったい誰に分かるんです?第一私にふさわしい女の人って、いったいどんな人なんでしょうかね?」
「それは決まってます。お前を親身になって助けてくれる人です。お前の仕事をよく理解して、そのために共に苦労してもいいと思える人です。それが条件です。その人の容姿とか年齢とかは問題ではありません。それにこの柏木家に素直に順応できる人であることも大事かも知れませんね。何かとそういうことにうるさい人がまだおりますからね。まあ強いて挙げれば紫音さんのような人が理想かも知れません」
「えっ、それはまたずいぶんと身近な人の名前が挙がりましたね。なるほど紫音さんですか、そうですね彼女のような人なら反対する人もいないかも知れません。よく分かりますよ。しかし彼女のような人はそうそう世間におりませんからね。でもねお母さん。私のような性格の人間には彼女のような人はあまり向かないのではありませんかね」
「それはまたずいぶんと聞き捨てならない意見ですこと。どうしてそう思われるんです?」
「いやぼくの直感ですよ。私に必要な人はもっとアグレッシブで何事にも動じない人です。自分の信念を持ち、どんな事にも立ち向かって行くという気持ちがある人です。いやあまったくこんなことを言うとすっかり誤解されそうですが、しかしね妻を選ぶときに大事なのは自分にはこんな人はとてもじゃないが無理だろうって思えるような人が、かえって自分にとって一番必要な人だということが往々にしてあるんですよ。それにまた巡り合わせっていうものもありますね。こればかりはどうしようもありませんからね。まるで運命の巡り合わせとでもいうのでしょうか。どんな出会いにもそういうものが必ずあるんですよ。実に不思議なことですがね」
もはや母親にはすっかり分かってしまったのだ。この息子には誰か大事な女がいるのだということが。それはもう確かだと彼女には分かったのだが、しかし今はなるべく、そのことには触れない方がいいのではないかと思われたのだ。ここで余計な詮索をしても何も得るものはないだろうと、この母親は賢明にもそう思うのだった。
「お前のその言葉はある意味当たっていますよ。人との出会いで一番大事なのは、何かそういう不思議な巡り合わせを信じることですからね。それに男と女の相性なんて、そう簡単に分かるもんでもありませんし、出会いでいくら気に入ったとしてもそんなものは後になって単なる思い過ごしだってことがあるからです」
「そうでしょう?でも、さっきお母さんがおっしゃっていたいくつかの条件ね。あれには私も賛成ですよ。確かにそういうことは必要でしょうからね。でもまあ後になって後悔しないと言っても、なかなか難しいかも知れませんが、どうなんでしょう、その点でお母さんは後悔はしませんでしたか?」
「そんな質問をして親を困らせるものではありませんよ。いいですか人生では後悔しても意味がないということをよく覚えておきなさい。そんなことをしても何の足しにもならないのですから。後悔するくらいならもっと今をよく生きるべきです。後悔しても遅いのです。それなら後悔しないという生き方が果たして人間に出来るのだろうかというと、たしかに難しいですね。むしろ後悔の山を築いていくことが実際に生きることなのかも知れないからです」
「となると、ずいぶんと矛盾した生き方をしなければなりませんね。それはつまり後悔先に立たずということで、ああすればよかったとか、こうしておけばよかったとか、そういうことはみんな嘘の皮だということでしょうかね。人は自分に後悔という嘘をつくことで、かえって自分の人生の意味を見失ってしまうということでしょうか?」
「そうです。誰もがそうやって自分を騙しながら生きていくことで、自分の人生を意味のないものにしてしまうのです。どんな人生でもそれはその人にとって掛け替えのないものであるはずなんですが、どうもほかにもっと違う人生があると思いたがるんですね。そんなものなどどこにもないはずなのに、どうしてもそう思いたがるんです」
「それはよく分かりますよ。確かに人は今ある自分には満足しませんからね。もっと違う人生があるはずだと思うわけなんですが、それはそれで仕方のないことではないでしょうかね。それに、それほど間違ったことでもないように思われるのですが」
「間違っているかどうかというより、それは単に自分の人生に不満があるからだとは思いませんか?」
「そうです不満があるんですよ。それは誰だってそうじゃないんですか?」
「不満がある。まあ不満にも色々ありますが、それならお前の不満はいったい何ですか?」
「私の不満ですか。そうですね、やはり自分にないものをどうしても求めてしまうということですかね」
「具体的に言うと?」
「まあ強いて挙げれば、結婚でしょうか」
「お前も、なかなか正直なところがありますね。いや結構。それじゃ後悔しないためにも、そういうお前の不満を解消すべきだとは思いませんか?」
「ええ、それはもちろんそうしたいとは思っていますよ。でも今はなかなか難しいのです」
「どう難しいのですか?」
「ですから、さっきも言いましたが相手がいることですからね。自分だけでは問題は解決しないのですよ」
「それは確かにそうでしょうね。分かりました。そういうことなら、この話はもうやめにしましょうね。これ以上続けては、せっかくのいい雰囲気を壊しかねませんからね。それに、わたしも何だかとても疲れてしまいました。だからって余計な心配は無用ですよ。わたしは何もお前に不満など何もないのですからね。まるで反対です。お前と二人だけでこんな楽しい時間を過ごしたことは、これはもう一生忘れられない思い出となるでしょうからね。それにまあ何と素敵な夜景なんでしょう。こんな夜景は今まで見たこともありませんでしたよ」
「お母さんの若い頃は、こんな高いビルで食事なんかしなかったでしょうからね。私も実際に見るのは初めてなんですが、それにしても宝石を散りばめたようなとかどうも月並みな言葉しか思い浮かびませんが、こうした情景をいったいどう表現したら人の心にいい印象を与えられるんでしょうかね。いや難しいなあ……」もちろん、彼の心はすでに禮子のことで一杯で、どのような会話をしたら喜んでもらえるのかといった極めて細かいことにまで本番さながらにシミュレーションしていたというわけである。
こうして生まれて初めての母親とのディナーは、一応お互いにそれなりのものを得たことで満足したのか、それからしばらくはとりとめのない会話をしながらも何となく親子の絆を、お互い心置きなく味わうことができたようだ。こうした思いがけないというか、まるで瓢箪から駒が出たような極めて有意義な二人だけの会食はこれといった波乱もなく無事に終わりを迎えて夜もすっかり更けた頃になってようやく自宅へと戻って来たのである。その時、紫音が一人でこの親子の帰宅を出迎えたわけだが、二人の様子を見て何かとても暖かいものを感じたのだ。きっと、うまくいったのだろうと彼女もすぐにそう思えるくらい、二人はお互いを労っているように見えたからである。母親は、さすがに疲れたような顔をしていたが、それでも紫音にわざわざ出迎えてくれたことを今までにないくらい親しみのこもったお礼の言葉で応えたのである。それが実に優しさに満ちあふれたまるで慈母のように暖かな物言いだったのだ。彼女も嬉しくなって、すでにベッドに入ったまま出迎えようともしなかった夫に二人の仲睦まじい様子を話してやるのだった。彼はまだ眠ってはいなかったが、彼女の話しを目をつむったまま黙って聞いていると、何か思うところでもあったのだろう、いきなり口を開いてこう言ったのだ。
「まったく兄貴が何を考えてるのか弟のぼくでさえよく分かりませんが、あれでなかなか母親思いのところはあるんですよ。それに母親の方も、兄貴にはとても優しかったですからね。この柏木家ではね、兄貴こそが頼りにされているんです。きみも何かそれを感じませんでしたか?この家の女主人どもはね、長男というものを何よりも大事にしているんです。まったく家そのものの伝統が現代ではすっかり崩壊しているのに、この家ではですねそれがなぜかまだ残っているんですよ。かといってこの家そのものが、きみんちのように昔から続く名家なんかではないのにね。いったいどういう考えで、そういうことにこだわっているのか実に不思議で仕方がないんです」
「私の家は確かに昔からある地主で先祖代々ずっとあそこで暮らしてきましたが、長男を大事にすることはなかったようです。でも家制度なんて、今ではすっかりなくなっていますが、それでも人々の中にはそういう伝統はやはり残っているのではないでしょうか。やはり家を守るためにはどうしても何らかの秩序が必要なんです。だからお義母さんたちは、それを長男というものに託しているのだ思うんです」
「つまり便宜上そうしているってわけですか?それならぼくは弟というだけで割を食っているってわけですね。それも、たった一つ違いってことだけで。いやはやまったく。でもまあ親父が生きていた頃に比べれば、この家もずいぶんと住みやすくなっては来ましたからね。母親も親父が死んできっとホッとしてるかも知れませんよ。こんなことを言うと、きっときみも何て不謹慎なって思うかも知れませんが、そりゃこの家の過去の実態を何も知らないからですよ。実際ぼく達は父親の犠牲者ですからね。まったく今考えてもよく何の事件も起こさずに生きてこれたなあって思いますからね。これは決して冗談でもなんでもありませんよ。嘘だと思ったら兄貴に聞いてみて下さいよ」
「でもお父様は、きっとあなた達にいい大人になってもらいたかったからではないでしょうか?」
「それが大きな間違いなんですよ。だって子供の時は、子供として育てるべきものだからです。それをまったく無視して頭だけ大人にしようなんてそんな教育は始めっから間違ってるんですよ。それでも、ぼくはそういう父親に素直に従って一生懸命勉強したんです。それこそ、この父親の期待を裏切ってはいけないと思ってね。そのくらい子供の時は素直だったんですよ。今思えばとても信じられませんがね。自分でも不思議に思ってますよ。今思い出してみるとやはり一番苦しかったのは中学から高校にかけてかな。もちろん受験勉強に関してのことなんですがね。ぼく達兄弟は一つ違いでしたからね、まるで同じ学年のような扱いを親父から受けたのです。割を食ったのはぼくで、まだ習ってもいない問題を平気で出してくるんですからね」
「お父さまが問題を出すのですか?」紫音は驚いてこう聞くのだった。
「いやもちろん親父が雇った家庭教師が出すんです。その家庭教師がまた嫌な野郎でしてね。親父がどこかで見つけてきた国立大学出の融通の利かない馬鹿野郎なんです。まったくよくもまあ、あそこまでマニュアル通りに生きていけるなあって思うくらい段取りが決まってないと何も出来ない奴なんです。兄貴もそんなところがありますがね、それ以上なんです。きっと正しい答えを出すことだけに専念して来たからなんでしょうね。彼には正解か間違いかの二択しかないのです。ほかの選択肢など考えられないんですよ。まるでコンピューターのように自分の意思というものがないのです。ただ論理的な考えに従って物事を判断するだけで、そこに感情のかの字もなかったんです。きっと彼の頭の中には0と1しかないのかも知れませんね。だから親父から何か言われたら、その言われたことを何の反省もなく馬鹿正直に実行するだけなんですよ。さっきもちょっと言いましたが、ある時まだ学校で習ったことのない問題を平気で出して来たんです。ぼくはすかさずこんなのまだ習ってませんていったところ、その家庭教師は、いやお父様からまだ習っていない問題でも出して彼の実力を上げるべきなんだと言われていますから、あなたが何と言おうとぼくにはどうしようもありませんなんて真顔で言って来たんです。でも、ぼくはまだ習ったことのない問題なんか答えようがありませんって言ってやりましが、実際ぼくには分かりませんでしたからね。そうしたらあろうことか、この問題を解かなかったら夕飯は抜きにするなんてまるで虐待まがいのことを平気で言ってきたんです。(もちろん親父の差し金ですが)だから、ぼくはその家庭教師に言ってやったんです。そんなことをあなたの口から聞きたくはなかった。あなたは独立心のある立派な家庭教師なんだから、そんな親父の馬鹿げた嫌がらせを断固拒否して、ぼくにあった問題を出すべきじゃないかって言ってやったんです。でも、ぼくの意見は通らず、その家庭教師は自分の教師としてのプライドすら捨てて親父の言いなりになることでよしとしたわけです。もちろん、ぼくはその日の夕飯を食べそこないました。今では笑い話で済ましていますが当時のぼくはそれこそ涙を流しながら、その分からない問題とずっと対峙していたのです」
「えっ、泣いたんですか?」と、思わずこう言ってしまったのだ。
「そう、なぜか涙が出て止まらなかったんだ……」




