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一度は諦めかけた娘の結婚話も、あの朝以来どうにか持ち直すことに成功したと思ったので、父親の橘氏は、すっかりご機嫌になって、さっそく自分の計画を秘かに練り直すのだった。それには何事も、先方の出方が気になるところでもあるのだが、それよりもどうすれば娘と御曹司を、お互い無理なく、自然に対面させることができるか、それが何よりも重要なキーポイントになると思われるのだった。ところが意外にも先方との話が思ったより早く付いて、それもかなり確実にその瞬間が訪れることになったのである。
しかし、そのことを話す前に、ここで初めて登場するある人物について一言、いや出来ればかなり詳しく話しておかなければならないのだ。それはこれからの紫音の人生に多大な影響を与えずにはいなかった人物の一人だからである。
その人物とは、橘氏が散々口にしていたあの御曹司のことだ。彼の名前は柏木亮と言って、その地方では有名なあるオーナー企業の次男坊で、今年三十八になる、その容貌からしてもまた社会的な立場からしても何の文句も付けようがない、いつの世でも羨ましがられ持て囃されるに違いない、典型的な好男子として誰の目にも映っていた男である。この誰の目にもそう見えたということが、何よりも曲者で、というのもそれが彼の実態ではなかったからだ。誰でもそうだが、いやとくに彼のように社会的にも高い地位に昇りうると考えている人間は、えてしてその地位とある意味同一化し、まったく自分はそういう人間であることに、何の疑いも持たなくなるということは往々にしてあるものだ。ところが、そういう社会的に作り上げられた仮面が、そのまま軋轢もなく適応しているかぎり、社会生活も順調に進行するわけだが、一旦その仮面に疑念が生じると、そういう自分に耐えられなくなる時も出て来るわけである。要するに世間に見せている顔と、そうでない顔が鮮明になりあまりにも懸け離れてしまうことにもなる。おまけにそのことが、どこまでもひどくなると、その人間の内部で亀裂が生じ、精神的なバランスも崩れ始め、生活のあちこちで不都合な事態が表面化してくるからである。確かに彼の私生活は正直あまり褒められたものではなかったのだ。
そもそも彼の家庭環境からしてなかなか複雑で極めて異常なものであったのだ。彼の父親はある意味典型的な暴君タイプの人間で、自分が築き上げた会社というお城を守るためにどうしても自分の息子たちに跡を継がせたかったのだ。そのために二人の兄弟を自分が思い描いていた人間に仕立て上げようとかなり厳しく教育したのである。それはよくあることだが、どういうわけか弟だけが小さい頃から兄と比較され、なぜか知らないがいつも貶されていたのだ。父親からいつも怒鳴られるのは彼の方だったわけである。そういう時はいつも母親の懐に逃げ込むのだが、そのうち、その母親も自分にとって決して安住の地ではないという事に彼も気付くのだった。それは母親ですら自分よりも兄の方を大切に思っているのではないかという疑惑を持つに至ったからである。そういう子供時代を過ごして来た彼なのだが、それと成人してからの破綻振りに何かしらの因果関係があったのかどうかはよく分からないが、しかし、ここ最近そういう自分の生活が、ひどく重荷に感じてしまうことが多くなってきたのである。彼はそういう無秩序な生活に、強い嫌悪感を感じるようになっていたのだ。こういう変化はある意味いい兆候のように思われるかも知れないが、なかなかどうして酷い葛藤に苦しめられることになってしまったのだ。何事もある状態を変えようとしただけでも、それだけで苦しみが、そこに生まれて来るのは仕方のないことなのだが、彼はある女性との関係にひどく悩んでいたのである。できることならその関係を清算したいと、心より思っていたにもかかわらずなかなかそれが出来なかったのである。というのも、そういう関係を思い切って断ち切るには葛藤をものともしない強い意志と決断力が必要なのだが、彼にはそれが不足していたか、あるいはもともと性格的にそうすることが苦手だったのか、その辺のところは今もってよく分らないのである。もう少し例を挙げれば、ここに二人の女性が彼を思っていたとしよう。この時どういうわけか二人の女性はどちらか一人を切れと要求してきたのだ。しかし彼にはそれがもうほとんど出来ないのだ。彼はどうするかというと何もしないで成り行きにまかせるのである。すると二人の女は彼の前からいつのまにか消え去っているのだ。ここで弁護するわけではないが、彼の立場に立って言わせてもらうと、彼は決して同時に二人の女を愛しているわけではないのだ。一応一人に決めているのである。決めているのだが切られる立場になった女のほうに一層の愛着を感じてしまうのである。この気の毒な女を出来ることなら慰めてやりたいくらいなのだ。もちろん女からすれば噴飯ものである。まったく未練たらしい上に、何といういい恰好しいなんだろうと呆れ返るに違いない。確かにこういう思いは女には絶対理解できないのかも知れない。しかし、もう少し彼の内面に食い込んで考えを進めて行くと、そこに何か違った彼独特の風景が見えてくるような気がするのである。それはここでは敷衍しないでおくが、いずれまた似たような場面にも出くわすのではないかと思う。
このように、人の性格を何とか理解できるように話すというのも、なかなか骨の折れる仕事でもあるわけだ。とくに彼のような、まかり間違えば変に誤解されてしまうような男の魂が、仮面を脱ぐようにその本質が露わになるとも思われないのである。が、しかし、そういう理解に苦しむような彼でも、社会で生きている以上、秩序と責任を持って行動せざるを得ないわけだ。そこで今の彼が、いったいどのような状態になっているのかというと、それは哀れなほどわけの分からない状況に追い込まれていたのである。自分がこういう運命に巻き込まれていて、それと実際に戦ってはいるのだが、果たしてそれにどんな意味があるのか、まったく理解できなくなっていたのだ。これは女のことばかりでなく仕事上のことにも言えることで、こうした会社という組織の中で、滑稽にも自分が人の上に立ち、あれこれ指図するなどということは、彼の性格からすれば、もうほとんど離れ業に近い芸当だったのだ。しかし、人はどんな立場に立たされようと、その気になれば出来ないことはないのだが、ただ本人がその気になっていない以上、周りが何を言っても仕方がないわけなのだ。おそらく、どんな仕事でも、本人がやる気を出せば、限界はあるにしても大体ある程度はこなせるものなのだ。そうであってみれば、自分がこの会社の社長になることだって可能なのだが、本人はそれほど執着しているわけではないというところに、どうも一番の障害があったというわけである。もちろん表向きには彼も自分の兄と仕事上のことで切磋琢磨することはやぶさかではなかったのだが、あいにく子供の頃から、この兄とは熾烈な競争をさせられてきたお陰で、今ではすっかりうんざりして、そのエネルギーはもうほとんど枯渇寸前にまで来ていたのである。そういうわけで、彼にも一応取り巻きがいたのだが、彼の投げ遣りな態度が自然とその行動に表れるに及んで、彼に見切りを付ける上司もいたわけである。実際のところ、次期社長は兄にほぼ決まったわけだが、そうなると亮の今後の処遇に注目が集まるというわけだが、それが兄の社長就任パ―ティーではっきりと宣告を下されたわけである。それは盛大に催されて、政界や財界から名の知れた有名どころが多数駆けつけ、もちろん橘氏もその末席を汚したわけだ。就任式も終わり一段落して亮は、兄に突然呼び出され居並ぶこの会社の重鎮を前にして、こう告げられたのだ。「今度、ここに居る私の優秀な弟が、新たな門出を迎えることになりました。それにつきまして私は、彼にある重要な仕事を任せようと思ったのです。それは外でもありません。わが社の関連企業に出向して、そこで責任ある地位について、これからの彼の人生をその仕事に賭けてほしいと思ったからです」もちろん、これは体のいい島流しだと思ってもいいのだが、それがまるで未来ある仕事でもあるかのように、満面の笑みを浮かべながら彼にそう宣告するのだった。しかし、これにはこの兄の隠されたある思いがあったのだが、そんなことは今の彼にはどうでもいいことでもあったのだ。ある意味、これでこのつまらぬ争いから解放されるのだという思いが、この一種情けない屈辱を帳消しにするほど彼の心はスッキリしていたのである。とはいえ、彼もこれからの自分の人生設計なるものを、どう立てるかという問題は依然残るわけだが、そのことはまったくもって白紙状態で放置されたままであった。しかし、これも一つの新たな門出だと思えば、ある意味白紙であることは、かえって好都合かも知れないと彼は思うのだった。
そういう重大な転機が亮の身に起きていた頃に、橘氏は自分の思惑を何とか実現させようと、それこそ無い知恵を絞りながらも画策に余念がなかったのだ。彼はさっそく自分の立場を最大限に利用して、再び柏木家に乗り込もうとしたのだが、しかし今回は母親の方ではなく、亮の兄を巻き込んでの作戦に変更するのであった。あの母親は、恐らく自分の息子の嫁になる女性に対しては、すでにこういう人でなければならないという固定観念が出来上がっているに違いないので、これ以上母親といくら話しても結局は無駄骨を折るだけだろうと思ったのだ。それよりか男同士の差しでの話しのほうが、うまくいく確率が大きいのではないかと考えたわけである。ある日、橘氏は手土産を片手に、以前来たことのある閑静な高級住宅街の一画にでんと構えた大きなお城のような柏木邸に出向くのだった。
しかし橘氏が二回目に訪問した時の柏木家は、突然巻き起こった後継者問題で大きく揺れていたのだ。というのも創業者でもある先代の父親がいきなり病で倒れ、今は療養中という恰好で、どうにか社長代理のもと何とか会社を維持していたわけである。当然このままもし社長が死ぬようなことにでもなったらそれこそ大変なことになるので、次期社長をなるべく早い時期に決めなけれならなかったのである。そこで、かねてから自分の息子のどちらかを自分の跡継ぎとして決めたいと思っていたので、どちらが社長として相応しい人間かを秘密裏に検討させていたのだ。その報告が病に伏せっている彼のもとに届き、どうやら自分の思いが上層部にも通じていたようで、何の問題もなく兄の方に決定して彼も安堵するのだった。これで後顧の憂いも消えたと思ったのか、この独裁者も満足して静かに息を引き取ったというわけである。これはこれで一応この親の責任は果たしたということなのだろう。もっとも子供から見れば、また違った言い分があるかも知れないのだが。それは橘氏にも言えることだが、こっちはというと、子供のためなのか自分のためなのか、もうほとんど分からなくなっているのではないかと思われるのだ。
彼は和風の余計な置物や家具など一切ない、六畳ほどのこじんまりとした部屋に案内され、そこでしばらく待たされたのだ。以前来たときは別のもっと洋風な部屋だったが、今度は和風かと思い、きっとこの家には色んな部屋があるのだろうと橘氏はつまらぬことを想像するのだった。しばらくすると兄の卓氏が部屋に入って来たのだが、彼は弟とは一歳しか年が離れていないのだが、まったく雰囲気からして似たところがなく、兄弟でもずいぶんと違うものを感じるのだった。確かにその風貌は如何にも穏やかで、この人とならきっと分かり合えるに違いないとそう思ってしまうくらい物腰の柔らかい中年の紳士だったのだ。もっとも中年といってもまだ四十前なのだが、それでもその印象は実際の歳よりもはるかに老けていたと言ってもいいくらいであった。もしこの人が次の社長に決まりでもしたらきっとこの会社はうまく行くに違いないと彼も何となくそう思うのだった。しかし、彼としてはそうならないことを願うしかないのだが、それはそれとして、果たして彼はどのくらい話しの通じる人なのかそれが問題だったのだ。橘氏はもちろん、この時はまだこの兄弟の間で、あの問題がどう決着したのかは知らなかったので、彼の弟をそれこそ橘氏独特のねちっこい遜った態度でこれでもかと持ち上げるのだった。しかし、そのとき彼はその卓氏から、あることを聞かされ一瞬言葉を失ったのだ。それは外でもない、亮が兄の会社を離れ、別の子会社でしばらくは仕事をすることになるだろうという話しだった。橘氏はそれを聞くとすぐにピンときて、表面上はいかにも冷静を保って聞いていたものの、こういう調子にのった迂闊な発言がもとで、大事な計画もおじゃんになることだってあるのだと一瞬慌ててしまったのだが、すかさず何も慌てることはないと自分を落ち着かせるのだった。するとさっそく彼独特の狡知が働き、いやなにそれならそれで何事も臨機応変に対処すればいいだけのことだ。しかしそうなると彼の未来も修正を余儀なくされ、当然娘の人生も変わらざるを得ないだろうと思うのだった。それじゃ、この話はないことにすべきではないかと、さっそくひねくれた考えが浮かんだのだが、ここでも父親としての彼一流のエゴイズムが幅を利かし『いや、これはかえって面白いことになったかも知れない』と思い、予定通り娘の結婚はこのまま進めるべきだという、今まで通りの路線を堅持することに決めたのである。もっとも、何が面白くなったのかは今もって謎である。すると卓氏は弟のこれからの生活について、とても重要なある情報を彼にもたらしたのだ。それによると彼はこの家を出て、一人でしばらくは暮らすことになるだろうということだった。そこですかさず橘氏は「私はいつでしたか弟さんから、ご自分の仕事や人生の抱負についてのお話しを色々と聞く機会がございました。そのとき私はとても感激したのです。仕事に対するその熱意にです。こういう男こそ自分の息子にしたいと。いや、そうですか。そういうことなら弟さんも、これから一人暮らしで、何かとご不自由な暮らしを余儀なくされるというわけですね?」と、それとなく彼の私生活に触れてみせるのだった。兄も「確かに弟は仕事は熱心なのだが、どうも私生活のほうに問題があってね」と身内として気になっていることをちょっと漏らしたので、そこを逃さずこう言って彼の不安を逆に煽ってみせるのだった。「確かに男の一人暮らしは何かと不都合なことが起きがちなものです。さぞかしお兄様もご心配の事と思います。それに弟さんのようにいずれ責任のある地位に就くお方が、いつまでも独り身というのも世間的に見ても、何かと誤解を与えることにもなりかねません。そこでなんですが私には娘がおりまして、いつぞやお母様にお目に掛かったときに僭越にもわが娘のことを、ほんのちょっとですが、お話ししたことがございました。そのときはお母様も、それほど関心を示されませんで、そのままその話しは立ち消えとなってしまったのですが、ところが、それからしばらくして亮さんとある会合で、ばったり顔を合わすことがございまして、そのとき娘の話しがどういうわけか亮さんご自身の口から出たのです。何ですかそれによりますと、わが娘によほど関心がお有りのようで、そこでなんですが、どうでしょう、お兄様の方から、ぜひともわが娘も亮さんにとても関心があるということを、それとなくお話しされては下さいませんか。そうしていただければ、こちらとしましても何かと都合がいいのですが、いえいえ、こんな差し出がましいお願いごとで、お兄様の手を煩わすなど、まことに不躾であることぐらい重々承知しております。そこをたってお願いするというのも外でもありません、何分わが娘は自分のほうから事を起こすなどということは、それこそ背中をむりやり押したって、いっかな動くような人間ではないからです。まことにお恥ずかしい話しを恥を忍んでご披露せねばなりませんが、娘はその亮さんに、その何ですよ一目惚れしたようなんです。まったくもってはしたない話しではございますが、そこはいたって正直な心だと思い、親といえどもそう簡単に無視するわけにもいかないという話しになりましてね。そこで娘の言うには、どうしても亮さんにお目に掛かりたいというわけなんです。まったくもって親馬鹿ではございますが、ぜひともお兄様の口から一言、たった一言、日にちを決めて、お会いすることができないかということをお伝え願えないでしょうか。もし、そうしていただければ、娘にとってこれほどの喜びはございません」と言うことを橘氏は初対面の卓氏に向かって滔滔とまくし立てるのだった。それもかなりの口から出任せをである。まったく親のエゴイズムというのは、娘のためなら(もっともこれは娘だけの事でもなかったのだが)どんな嘘でも何の抵抗もなく話せてしまうものなのかも知れない。