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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 亮は、これで何とか禮子にある種の恩を売り、以前受けた借りもこれで返せたとホッと胸を撫で下ろすのだった。しかし問題は兄の方で、今の彼をどう動かして行けば、自分にとって有利な結果が得られるだろうかと考えるのだった。つまり自分が兄をうまくコントロールして、これからの自分の出世のためにどのように利用したらいいだろうかと考えたわけである。このような考えはそれこそあの涙の告白以来、絶えず脳裏に浮かんでは何度も夢想するようになっていたのである。なぜなら兄のような人間が禮子という女に惚れた以上、もはや彼女と結婚するためにはそれこそどんなことでもするだろうと彼は確信したからである。彼はこの時点では、ただ兄にこのことで恩を売って少しでもいい地位に自分を引き上げてもらわなければならないと、その程度の夢で満足していたのだ。しかし次第に彼の隠れた欲望は、そんな悠長な話で満足するはずがないことくらい想像に難くないのである。とはいえ現時点ではそれがどのようになるかはまったく分からないが、それでも彼が以前に言った自分は社長などという椅子にはまったく興味がないという発言は、恐らく撤回することになるかも知れないのである。というのも兄が父親と結託して自分を貶めた、あの忌まわしい告白を聞いた以上もはや何の遠慮もなく自分の権利を主張したとしても、兄はそれを簡単に否定などできないはずだからだ。

 彼は兄をリビングに呼び出し禮子さんからの返事がやっと来たことを、さも恩着せがましい勿体ぶった態度で兄に伝えるのだった。それはまるでそれが実現出来たのは自分のお陰だということを、わざと兄に分からせるためにそうしているみたいなのだ。兄もすでに弟を頼りにするしかなかったので、弟のそうしたどこか芝居がかった態度に眉をしかめつつも、そこは無視していよいよ自分の運命が決まるのだと固唾を呑むのだった。すると亮は兄の顔にいきなり近づくと、まるで誰かに聞かれたらまずいかのように声を潜め、こう話し始めたのである。

「やっと彼女からいい返事をもらいましたよ。いや実に困難を極めました。というのも彼女はついこの間、橘氏と別れたばかりですからね。それがいきなりあなたから会ってくれと言われて、かえって戸惑ってしまったようなんです。だってあなたはその現場を目撃した張本人ですからね。そのあなたがですよ、よりによって彼女に興味を示したなんてことは最初何かの冗談かと思ったようなんです。つまり橘さんとは、もはや親戚関係でもあるそのあなたがですよ、橘さんの気持ちを考えないわけがないと思っていたからです。ですからぼくも困ってしまったんですが、それでもぼくは諦めずに何とか兄貴の思いを届けたいという一心で熱っぽく説いて止まなかったのです。そうでもしないととてもじゃないが彼女は承知してくれないと思いましたのでね。しかし、どうやらぼくの熱意が通じたのでしょう。彼女はとうとう会うと約束してくれました。よかったですね兄さん」

「いや、私もね橘氏のことはやはり頭から離れなかったのだよ。それでは、彼女も同じような気持ちでいたわけですね。なるほどあなたが苦労するのも無理はありません。いや、よく説得してくれました。恩に着ますよ。しかし問題はこれからですね。私も気を引き締めて彼女に何とか私の気持ちを分かってもらはなければなりませんからね。でもあなたがこうして熱心に働きかけてくれたお陰で、彼女もそれなりに私の気持ちを分かってくれたのではないかと秘かに思っているんです。いや、よくやってくれました。恩に着ますよ。ありがとう。それで、いつ会ってくれるんですか?」

「彼女の方はいつでもいいそうです。ただ兄貴の都合のいい日に決めてもらえればそれに合わしてくれるそうです。しかし、ここで一つ兄さんに知らせておかなければいけないことがあるんですが、つまり場所をどこにするかということなんです。だって、これは非常に重要なことですからね。そうでしょう?まさか、そこら辺の喫茶店で簡単に済ますというわけにもいかないじゃありませんか。そこで、ぼくは兄さんのためにある場所を見つけておきました」

「えっ、そんなことまでしてくれてたんですか?いやあなたという人は意外となんて言っちゃ失礼だが、何にでも気が付く人なのかも知れませんね。私はね、そういうきめ細かい対応ができる人がとても好きなんです。いやそれにしてもあなたには何から何まで世話になってしまい、もちろんこのお礼は何かの形できっとお返ししますよ。で、その場所というのはどこなんです?」

「たぶん兄さんも聞いたことはあると思うんですが、Yセンター街の高層ビルにあるガストン・ロワイヤルっていうレストランなんですが、ご存じですか?」

「いや、どうも私にはそういう方面はまったく不案内なんですよ。あまりそういうところには出入りしないもんでね。でもあなたが見つけてくれたのならきっと最高の場所なんでしょうね。今からとても楽しみですよ」

「実はですね、兄さんに一言前もって言って置きたいことがあるんです。つまりそのお店のことなんですが、禮子さんにはすでにあなたがそのお店を指定してきたということで話しが付いているんです。ですからもし店のことで彼女から何か質問されたら、その事をくれぐれもお忘れにならないで頂きたいのです。そうしないと話しがややこしくなりますからね。お分かりでしょう?」

「ああ、いやそれはよく分かりますよ。そうですか。つまり私が決めたことになっているわけですね?」

「ええ、そうです」

「ということはつまり私もそのお店のことはある程度は知っていなければならないというわけですかね」

「まあ知らないより、知っていた方が気持ち的にも安心でしょうね」

「うむ、そうなると一度くらいは前もって、そのお店に行っていた方がいいということになりませんか」

「ええ、そうして頂ければなおのこと結構ですね。というのも、その店のことはきっと話題に上るだろうし、一度行っておけば兄さんだってそれなりに安心して対処できるでしょうからね」

 というわけで、彼もその店に行くことになったのだが、一人でいくのも何か体裁が悪いので誰かと一緒に行きたかったのだが、どうにも相手が見つからなかったのだ。どうしたものかと彼も困ったのだが、それなら一層のこと母親でも誘って見ようかと考えたのだ。これには弟の亮も呆れてしまい、もっとほかに適当な人はいなかったのかと思いとどまらせようとしたのだが、時すでに遅く母親もすっかり喜んでしまって、もはや誰も止められない状態になったというわけである。というのも母親にしてみれば、息子がいきなり二人で食事に行こうなんて言い出したもんだから、それこそびっくり仰天してしまったわけである。そんなことは彼女の人生において一度たりともなかったからで、まるで奇跡のような出来事が彼女の前にいきなり出来しゅったいしたわけである。なぜ母親がそんな気持ちになったのかというと言うと、それはこの柏木家での生活がそれこそ普通の家庭とはまったくかけ離れたものであったからだ。というのもこの柏木家では家庭的な雰囲気など作ろうにも作れなかったからで、子供たちとも思うように情が通じない状態が長く続いていたからである。夫の異常とも言うべき教育熱は、子供たちを母親から心理的に隔離し、そのためかどうか分からないが彼女の子供たちへの愛情も思うようにならなかったのである。しかし母親としても、このままでいいわけがなかったので何としてでも夫の魔の手から子供たちを守ろうとしたのだが、どうにも夫の異常な態度の前にはどうすることも出来ずに、それなら長男だけでも何とか自分の手で守ってやろうと必死に抵抗したのだがそれも叶わず、彼女も夫の傍若無人な態度の前に沈黙を強いられてしまっていたのだ。こうなると彼女も為す術もなく、あとはただ夫に黙って従うしか方法がなかったわけで、つい最近までそういう状態が続いていたというわけである。それが夫の死によって、やっとその呪縛から解放されたわけで、彼女も夫の死が自分にとってどんなに重大な転機になったのか、もちろん本人も最初のうちははっきりとそれを自覚したわけではないが、それでもこれで自分も子供たちと幸せに暮らしていけると思ったことは思ったのだ。しかしそれでも夫の死は、やはり彼女にとって色んな意味で痛手でもあり、これから先どう暮らしていけばいいのか姑のこともありそう手放しで喜ぶわけにはいかなかったのだ。しかし自分には子供があり、その子供がこれからの柏木家を背負って立つわけだから、そこはとても安心していたのである。しかしそうはいっても母親には母親の悩みがあり、その一番の悩みはやはり結婚問題だったのだ。これだけが母親にとって、父親亡き後自分が関与できる最大の仕事だと考えていたわけである。もちろんそれは姑も同じで、このおばあさんにとっても、それは柏木家存続のためにも一番の問題であったことは同じだったのだ。そういうこともあり母親はおばあさんともそのことで色々と話し合ってはいたのだ。しかし思うような相手がなかなかいなかったのである。彼女もそのことで一度息子とじっくりと話し合いたいとずっと思っていたのだ。それが突然息子の方からそういう願ってもないチャンスを与えてくれたわけである。彼女も夫に死なれて以来、これからのことを母親として真剣に考えなければいけないと思っていたので、この機会を何とか生かさねばと彼女も期待するのだった。

 兄はこの選択を、もちろんそんなに変なことではないと考えていたようだ。確かに自分の母親と二人だけで食事をするという行為が、それほど異常なこととは誰も思わないだろうし、かえってそこに親に対する愛情を素直に認めてもいいのではないかと思われるくらいなのだ。まあ正直に言ってそんなに大げさに騒ぎ立てるほどのことでもないのである。彼だって適当な相手がいなかっただけのことなのだから。そういうわけで、この案件は決定事項となり、めでたく親子揃っての仲むつまじい食事が実現したというわけである。これはこれでこの家族にとって、今までにない変化が生じたと見てもいいもので、それなりに意味のあることでもあったわけだ。

 とはいえ彼は息子としてこの母親をかなり冷めた目で見ていたところがあり、それは父親に対しても同じなのだが、彼は結局自分の親というものを、どうしてそのように見るようになったのかという極めて興味ある問題をここで少しばかり考えて見たいのだ。というのも彼のこれからの人生を思うと、この考察はかなり重要なものになると思うからである。親にとって初めての子供はやはり特別なもので、どう育てればこの子にとって一番いいのかと普通なら考えるのだろうが、この家ではそうは考えておらず、ただ男の子だったらもはやその子の未来は決まっていたも同然だったのだ。彼の父親は、この子が生まれた時から自分の跡継ぎとして考えていたわけでそれはすでに決定事項であったわけである。そうした運命のもとに生まれた兄の卓は、そういう心理的雰囲気の中で育っていったわけである。ところが一年も経たぬうちに次男の亮が生まれ、父親にとっては、これでどちらがなるにしても跡継ぎのことは心配がないと思ったわけである。しかしそれはあくまでも親の立場から見た場合で、子供はそう簡単に親に従うわけにはいかないのである。とはいえそこは子供であり、なかなか親の心理的な重圧の前では為す術もなかったのだ。彼の性格は今までにも少なからず話しはして来たのだが、ここではもう少し踏み込んで考察して見たいのだ。彼はどちからと言うと、弟とはまったく違ったタイプの人間で、何事においても人の意見を聞きながらじっくりと考えて物事を進めていく性格でもあったわけだ。しかしそれは結局考えすぎるということにもなり、その決断がどうしても遅くなるという欠点にもなったわけである。これは弟にもあるのだが、弟とは比べものにならないくらいの用心深さだったのだ。しかし彼の用心深さはいい面もあるわけで、父親のような自分だけの判断が絶対で、よく考えもせずに何事も決めていくタイプより彼のような自分だけの判断だけではなく人の意見も聞くというタイプの方が、ある意味この日本では好まれるということもあるのだ。しかしこういうこともケース・バイ・ケースで、ステレオタイプ的に考えてもあまり意味のないことなので、これについてのつまらぬ議論はやめるが、ただその時代の通念というものはどうしてもあるもので、それに従って考えて見ると兄のようなタイプの人間は、確かに現代でも好まれる傾向にあるのではないかと思われるのだ。そういう意味で、彼が果たして典型的な日本人と言えるのかどうかはさておき、日本のような社会では、何の抵抗もなく受け入れられるような人間であることには誰も異論がないのではなかろうか。とはいえ人間というものは、その時その時でずいぶんと変わっていくものであり、彼だってこの先どのようになるのかは誰にも分からないわけで、そういう点から考えると、これが典型的な日本人などという考えはあまり信用の置けないものなのかも知れないのだ。誰もが考える、これこそがに日本人だと言えるような人間など果たしているのだろうか。それは単なる万人の夢でしかないのではなかろうか。もちろん誰もが夢見ることくらい自由であり、それはそれで意味のあることでもあるわけなのだが。

 それはさておき彼がなぜ自分の母親を冷めた目で見るようになったのかということだが、これは極めて難しい問題であり、ひょっとして彼自身だってはっきりとした理由など分かっていないのかも知れないのだ。ただ母親の証言をもとに考えてみると、彼は小さいころからなぜかじっと考えるようなタイプの人間であったようで母親に甘えるということもそれほどなかったようなのだ。それがいきなり物心が付くあたりから、父親の異常な教育熱が高まり、子供たちもそれからというものまるで嵐の中で翻弄されるような生活を余儀なくされ、母親ともあまり親密に接することができなかったという事実があったわけである。そういう異常な生活の中で子供たちはそれぞれに苦労を強いられていったわけだが、それに対処する態度が兄と弟ではまったく違っていたわけなのだ。弟の方はそれこそ身も心もすっかり父親の命令に従っていたわけだが、兄はなぜかそこに一線を引き父親の意見から自分を守ろうとしたのである。もちろん彼だって父親の言うことに何から何まで従わないわけではないのだが、それでも父親のやり方がおかしいと思ったら、そこであからさまに抵抗するのではなく黙って聞くふりをしてやり過ごしたのである。ということは彼はそういうところでかなり冷静に父親を見ていたということである。もともとそういう素質があり、おまけに逆境が彼の素質を一段と強めていったとも考えられるのだ。それは自然とすべての対象に向けられていたわけで、その点で母親も例外ではなかったというわけだ。だから特別にどうこうという問題ではなく、自然の成り行きでそうなっただけだと言えなくもないわけである。それなら、禮子の場合はどうなのかという疑問も出るだろう。もちろんすべてが説明できるなどというわけにはいかないのは当然で、人間のやることに何から何まで答えが出せるわけではないのである。彼だって年がら年中、冷静に物事を見ているわけではないので、人間であるということはその人の意識を超えた存在であり、誰もが自分はこういう人間であるなどと思っているような存在ではないからである。

 兄の卓は、ここに来てようやく自分の人生が、何か十分に意味のあるものになって行くのではないかと期待するのだった。彼はそれ以来、なぜかすっかり浮ついたような心理状態で過ごすことが多くなっていたのである。まるで子供が、明日大好きな遊園地に出掛けるのだという期待から興奮してしまい、夜も寝られないという状態にほぼ近かったかも知れない。しかし彼のことだからこうした母親との食事も本番を前にしての予行練習といった意味合いがきっと隠れているのではないかと考えられるのだ。しかしそれでも何となく緊張した面持ちで年老いた母親と連れだって出掛けて行くその二人の後ろ姿に、この親子が抱えてきた歴史がぼんやりと透けて見え、それがそのままこの親子の未来を予言しているようにも見えたのだ。この記念すべきイベントに、もちろん家族もこぞって参加し、二人が仲睦まじくタクシーに乗るところまで家族揃ってお見送りしたというわけである。

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