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こうした彼の女性に対する一時的な興奮は、今までにだって同じようにあったことはあったのだが、それでも彼女だけは何か今まで経験した女性達とはちょっと違って、まるで別次元のような存在に思われたのである。これはもしかして自分が選ばれた人間であり、彼女はそうした運命の一環として彼の前に現れた女性なのかも知れないと彼は思ったのである。こうした空想はもちろん突飛でいかにも思い上がった心理に色づけられたものではあるが、それは彼のようなある種の劣等感に苦しんでいる人間には得てしてそういう空想は自然に湧き起こって来るものなのだ。いわゆる自然というものは、そういう空想を彼に吹き込むことで何とか彼のいつまでも癒やされることのない苦しみから一時的にでも解放させてやるわけである。こういうことはいかにも人間的な自己保存の法則でもあるわけで、われわれは実を言うと現実と空想がどこで別れていて、どこで繋がっているのか実際にはほとんどはっきりしていないのである。人は現実というものは実際にあると思っているわけで、それは確かにあるのだろうが、それなら空想だって同じように彼の脳裏に現象として現れ、現実と同じように彼に何らかの影響を与えているわけである。そのくせ空想など信じるにたらんとかバカにするけど、それは大きな間違いでわれわれ人間は空想なしではとてもこの世を生きて行けない仕組みになっているのである。いやもっと言えば、その人の空想のほうがその人の現実より数倍も大事なことだってあるのだ。われわれは現実にばかり価値を置いて生きているが、それは昼間にだけ通用する価値観で、夜ともなればもうほとんど夢という空想の世界が、彼の肉体を含めた心全体を支配していることを忘れてはいけないのだ。とはいえこの世に生きている以上われわれはどうしても眠りから覚めるわけであるが、そうなったら最後われわれは夢の世界を忘れ現実と思われている非情な世界に従うしかないわけである。そうなるとやはり自分と彼女との格差は確かに存在することになるのだ。彼女とこうして何事もなく結婚したとはいえ、彼女に対する引け目も自覚しなければならなかったのである。正直なところ自分がいくら背伸びしても到底達しようがないくらいな人間だってことは身を持って分かっていたからである。彼は自分の存在をもちろん今いる組織の中で存分に発揮したいとは思っていたが、どうすればそれが出来るのかそれがイマイチ分かっていなかったのだ。人に尊敬されるくらいの人間にはなりたいと思っていたが、そのためにはどうすればいいのか彼はそれを自分の会社における地位という格付けによって考えて見るのだった。
やはり会社の組織というものを考えて見ると、地位というものがその人の価値を決定づけているように彼には思えたのだ。もっともそれがその人の人格そのものではないとは一応分かっているのだが、どういうわけか暗黙の了解とでも言うのか、会社は色々と違った役職を作っては人を差別したがるわけである。まあそうしたほうが組織を運営する上で効率的だという考えなのだろうが、人間の側から言わせてもらえば、それがそのまま彼の現実の価値としてその社会で通用してしまうことになり、いつの間にか自分もその役職と同一化してそのような肩書きが大手を振って彼の人生を支配してしまうわけである。これこそ空想の成せる業で現実と空想が絶妙に絡み合った世界観によって会社というものが成り立ち、社会的にも影響を与えて行くわけである。つまりそれが文化であり、人間の計り知れない空想力がその社会を動かして行くわけである。これこそ人間にしか作れない形であり果たしてそれがいいのかどうかはさておき、空想というものは得てして暴走しがちだということも忘れてはいけないのだ。要するに人間の空想を馬鹿にしたり軽んじたりしてはいけないわけで、それは時に決定的なものとしてその人の人生や果ては社会までをも動かすことになるからである。
二人はその部屋の雰囲気と期待通りのおもてなしにすっかり感激してしまい、これならあの禮子嬢も兄貴のセンスを認めてくれるのではないかと亮はすっかり満足してしまったのだ。紫音もその点は一緒で、何よりも夜の眺望がきっと二人をいい方向に誘ってくれるのではないかと思うのだった。
「この店ならきっと禮子さんも満足してくれるんじゃないかと思いますね。これで兄貴の株も上がって彼女だって一目置くようになるかも知れませんよ。だって彼女のようなプロの商売人は、ちょとやそっとのことではまったく驚きませんからね。兄貴も初対面から彼女に引けを取っては立場上実にまずことにもなるわけですよ。社長ともあろう者が一商売人に足下を見られたりでもしたらそこれそ恥ですし、第一、先行って困ることになるからです。まず最初にガツンと自分を主張しなければだめなんですよ。しかし、その点でぼくはある不安を感じているわけです。なにしろ兄貴は、ああいうまじめで優しい性格ですからね。恐らくどんな話題で彼女を楽しませたらいいのか、それすら分かっていないんじゃないかって今から心配しているんですよ。まして気の利いた冗談など兄貴に期待すべくもないんだ。確かにそういう不安はありますが、それでも彼だって今までにまったく女性と付き合った経験がないわけではないので、その気になれば何とかなるでしょう。まったく今からこんな心配をしなければならないなんて、まったく弟として恥ずかしいですがこれが現実なんです。少なくともぼくの知る限りではね。今まで彼がどんな女性に興味を持ってきたのかよく分かりませんが、そう言えば以前一度だけ好きになって結婚したいと思っていた人はいたようです。その後どうなったのか知りませんが、恐らく別れてしまったのでしょう。何事にも慎重な兄貴ですから。それは女性に対しても一緒じゃないでしょうか。ましてや相手は生身の人間ですからね。仕事と同じように杓子定規に付き合っていたら、そりゃ呆れて即刻見捨てられてしまいますよ。それが今度は、いきなり禮子嬢という難物と恐らく結婚を前提に付き合いたいと思っているようですから、果たしてどうなることやら弟として実に心配なんです。しかしまあ、この先どうなろうとこっちはどうすることもできないわけですからね。兄貴に頑張ってもらうしか、ぼく達には、まあせいぜいこういう場所を探し当てることくらいしか出来ませんからね。もっともこれも、また家族として兄を思えばこそでして、しかしそのお陰って言っては何ですが、きみをこうしてデートに誘うこともできたわけですから、まあこれはこれでよしといたしましょう。だって今夜のきみはもう言葉で言い表せないくらい実に素敵だからです。これは決してお世辞でもなんでもありませんよ。いや何できみにお世辞を言わなければならないんです?自分の妻にお世辞なんか言って一体どうしようってんです?おかしなこと言わせないで下さいよ。ハハハ、でもぼくは、ただ無性に愉快なんです。何でかよく分かりませんが、とにかく愉快でしょうがないんですよ」彼はすっかり酔っ払って、目の前で静かに微笑んでいる妻を、まるで優れた美術品でも見るようなどこか感に堪えないといったまなざしでジッと見詰めるのだった。
すると彼の興奮度はマックスに達したようで、自分の妻がいかに素敵かを酔いに任せてこれでもかと言うくらい喋りまくるのだった。それはまともな人間ならとても恥ずかしくて聞いていられないんじゃないかと思えるくらいの内容だったのだ。まあ個室だったからよかったと言うべきで、ひょっとして紫音だけがその被害者だったかも知れないのだ。しかし彼女は、もちろん自分をそんな被害者だなんて考えたこともなく、むしろ彼の酔いに任せた甘ったるい戯言を妻として今までにないくらいの興味を持って聞いていたのだ。違う言い方をすればとても嬉しかったのだ。こんな楽しそうな彼を今まで見たことがなかったからである。もちろん彼女だってそうした夫の話しを一々まともに聞いていたわけではないが、それでもそこに自分に対する愛情が、これでもかというくらい詰め込まれていたことだけはよく分かったのだ。それに兄に対する愛情も半端なく感じられたので、彼はきっと禮子さんとの結婚を本気で願っているのだと思い少し感動したのである。
彼はすっかり酔い潰れてしまい、これではとても一人では歩けないだろうと、誰もがそう思うくらいの醜態ぶりで、どうしたら彼をまともに歩かせられるのか、それだけでも彼女にとっては大問題だったのだ。こうして、下見という口実で行われた二人のデートは、少なくとも彼女からすれば喜んでいいのか悲しんでいいのか分からないほど奇妙なデートになったわけである。酔っぱらった彼を介抱しながら、家まで連れて帰るという体力的にもきつい中、何を思ったのか彼女の肩にすがりながらしきりと自分の野望を語り出すのだった。彼女も酔っ払いの寝言と一応割り切って聞いていたのだが、それでもやはり妻として気になるようなことも話していたのだ。例えば「おれは、いずれ天下を取ってみせるからな。そうしてお前にとってどれだけこのオレ様が誇れる人間かってことを証明してやるんだ。いいかい、そのことだけはぜひとも覚えて置いてくれ。正直お前は実にいい女だ。おれには過ぎた女だと言ってもいいくらいなんだ。これは本当のことだよ。ああ、だからこそ、だからこそ、おれは必ずお前のために天下を取って見せなければならないんだ。いいかい、それだけはぜひとも忘れずにお前の記憶の中に刻み込んでおいてくれ……」と、酒臭い息を吐きながら彼女の耳元でしつこいくらい繰り返すのだった。すると彼は、何を思ったのか急に立ち止まって人目も憚らず何度も彼女のほっぺにキスをしたのだ。まったく、こうなると彼女もさぞかし決まり悪がっているだろうと思われるかも知れないが、どうもそんなことはないらしくむしろそういう彼を今まで以上に愛おしく思うようになったのだ。まったく訳の分からないことばかり言いながらも、どうもその一言一言にそれを単なる酔っ払いの戯言と言って済ましていられないものを感じていたからである。というのも、その言葉にどうしてもそうならなければならないという彼の悲痛な叫びが感じられ、もっと大事なことだが、それは虚栄心というものとはまたちょっと違ったものがそこにあると直感したからだ。というわけで、この夜の出来事は彼女にとって忘れることの出来ない経験の一つになったのである。
翌日亮はひどい二日酔いに苦しみながら目を覚ましたのだが、昨夜自分に何があったのかあまりよく覚えていなかったのだ。それでも何か半分夢のような記憶がうっすらと甦っては来るのだが、すべてを思い出すまでには至らなかったのである。昨夜自分が何を話し何をしたのか、それを聞いてみたいとは思ったのだがひょっとして自分が妻に恥を晒したかも知れないという不安があり、もしそんなことがあったりしたら、それこそ恥ずかしくて妻の顔さえまともに見れなくなってしまうのではないかと恐れるのだった。そういう夫に対して彼女も十分に心得ていて、昨夜何があったのかなどそれこそおくびにも出さずその表情もどことなく明るく、ただ朝食の支度に忙しといった態度で夫を迎えるのだった。それを見ると恐れる必要など少しもなかったのかも知れないと、彼も現金なもので一気に気が緩み冗談がてらに、昨夜のことをちょっと聞いてみようかなんて気にもなってくるのだった。
「ゆうべはちょっとばかり酔ってしまい、よく覚えてないんだが、あれからどうなった?」
「べつに何もありませんでしたわ。でも少し訂正させて頂くと、ちょっとどころか完璧に酔ってましたけどね」
「いやそこなんだよ。ぼくの心配しているのは。だってきみに余計な苦労を掛けたんじゃないかって、とても心配したからさ」
「確かにあなたの酔いっぷりには私も驚いてしまいましたけど、でもそんなに心配するほどのことは何もありませんでしたよ。あなたは終始ご機嫌でしたし、しきりに私のことを褒めていましたっけ」
「褒めていたって?それじゃ気を悪くするようなことは何も言ってはいなかったんだね?」
「ええ最初から最後まで褒めっぱなしで、それこそ私をどこまでも持ち上げなければ気が済まないって感じでしたから。それにあなたはしきりにこれはお世辞なんかじゃないよ。きみは実際に素敵な女性なんだからって、そのことばっかやたらに念を押してましたわ。それこそ涙を流さんばかりに」
「もちろん、ぼくは今だってそう思っているよ。それに間違いはないがもっとも涙は流さないがね。いやそれにしても昨夜は実に楽しかったよ。久しぶりに、あんな楽しい時間を過ごしたことはなかったな。それにあの部屋は実に良かったですね。兄貴もきっと喜んでくれると思いますよ」と、彼もすっかり安心したのか、最後に彼女を褒めることも忘れずにこう付け加えると次のやるべきことを思い出して、つまりこれから禮子に連絡をとり、兄のことで話しがついたことを報告して置くべきだと考えたのだ。もちろん彼は自分の今置かれている立場がどんなものか十分心得ており、彼女もこれで自分を頼りがいのある人間として、狙い通り一目置いてくれるだろうとほくそ笑むのだった。
「これからちょっと禮子さんに兄が会いたいってことを知らせて来るよ。それに、いつ会えばいいのか彼女にも都合があるだろうし、まあ兄貴の方は何とかなるとしても、禮子さんが果たしてどう思うかということもあるからね。その点ちょっと心配なんで、ぼくが仲に入ってうまく彼女を説得しなければならないだろと思うんだ。まったく厄介な話しだけどね、この際兄貴のために何とかぼくも頑張らなければならないので、これから彼女に会って何とか話しを付けて来るよ。果たしてどうなるのか分からないけどね」こう言って彼も一応これから自分のやらなければいけないことを、妻に分かってもらうためにまるで弁明するような調子で語って見せたのだが、あに図らんやさっそく物議を醸したのだ。
「禮子さんにこれから会うって、彼女は今どこにいらっしゃるんですか?」彼女は、不思議そうな顔をしてこう聞いてみるのだった。
「いやそれは、以前彼女が勤めていたお店に、これから確認して聞いてみようと思っているんだ。もちろん彼女が今どこにいるのかぼくにはまったく分からないからね。でも彼女の働いていたお店は知ってるんだ。だからそこのママに電話番号を聞いてさ、どこか街中で会おうと思っているんだよ」彼は妻の指摘に思いっきりあせってしまい、自分が迂闊にさらっと言ってしまったことに大いに慌てるのだった。確かに彼女からすれば、禮子が今どこにいるのかまったく知らないのに何で夫が知っているのかと不思議に思ってしまったのである。彼はこの時危うくボロを出す寸前までいってしまったのが、何とかそれを回避してみせたのだ。彼はもうこうなったら彼女の前で店のママに電話して禮子が今どこに居るのか聞いてみるという思い切った行動に出なければ、彼女を心から安心させることは出来ないだろうと思うのだった。
彼は冷や汗もので、一応なんとかその演技を彼女の前で遣り果せたのだが、それでもすっかりあせった彼は、彼女の前でする禮子の話はこれからはなるべく慎重にしなければいけないと肝に銘じるのだった。こうして何とか無事に家を出た彼は、彼女が働く店の近くの喫茶店で待ち合わせをすることになったのだ。しばらくして彼女は颯爽とした姿でやって来たが、どこか緊張しているような、いつもとは違うその様子からやはり返事が気になるのだろう、彼の表情からその吉凶を読み取ってやろうという気持ちがありありと伺えるのだった。
「禮子さん返事が遅れてしまい申し訳ありませんでした。さぞ気を揉んだのではありませんか?でも、それだけ兄貴を説得するのが難しかったからですよ。その点どうかご了解願いたいのです」
「いやいくら時間が掛かったってちっとも構いませんわ。なるべくお兄様のお気持ちを第一に考えて頂きたいので無理はして欲しくはないのです。それで、どうなんです。お会いして下さるんですか?」
「もちろん、そこは抜かりなくぼくも色々と手を尽くして、あなたの期待に応えるために頑張りましたよ。その点で、どうかぼくの奮闘振りをを認めて頂きたいのです。で、兄貴はあなたのご要望に応えてある場所でお会いしたいと言ってきたのです」
「彼が場所を指定してきたのですか?」
「そうです。と言うのは、あなたがどうしてもお会いしたいということを言ったところ何か急に態度が変わりましてね、色々とぼくに聞いてくるのです。いったいなぜ彼女が私なんかに会いたいのだろうなんてね。妙に考え込んでしまったりしてね。それからですよ彼の様子がおかしくなったのは」
「まあ、いったいどうしたんでしょうか?まさか、変なことでも吹き込んだんじゃないでしょうね」
「滅相もない。そんなことは断じてありませんからどうかご安心下さい。いや、そこなんですが、どうやら兄はあなたに少し気があったようなんです。いやそれは、まだはっきりとした確証はないんですが、しかし、どうもそんなところではないかとぼくは睨んでいるですがね。だって自分から場所まで指定して来たんですから。何か思うところでもあったんじゃないでしょうか」
「そうですか、まあ、それはそれとして、それではいつお会いできるのかそれを決めましょうか。あたしは、いつでもいいのですが、お兄様のご都合もあるでしょうからね」
「ああ、そういうことでしたら話しは決まったも同然です。で、その場所なんですが、あなたも恐らくご存じだとは思いますが、Yセンター街にある、あの高層ビルね。その最上階にあるガストン・ロワイヤルっていうレストランで会いたいと兄は言ってるのですが」彼はこう言って、禮子の様子に注視するのだった。
「ひょっとしてあのVIPルームという部屋でしょうか?」
「やはり、あなたもご存じなんですね?あそこはなかなか評判もいいし、ぼくも以前に友人とあそこで楽しい一時を過ごさせて頂きました」
「それでは、お兄様が直々にそこで会おうと言ってきたわけですね?」
「もちろん、そうです」
「分かりました。それなら場所はそこに決めましょう。それでは日時はお兄様のご都合のよい時を選んで頂いて、決まりましたら電話で知らせて下さい。それでよろしいですね?」
「分かりました、そのように伝えておきます」




