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翌日、紫音は夫が出勤した後さっそくネットでどこか雰囲気のいいお店はないかと検索してみるのだが、それがまた次々と良さそうなところが出て来て果たしてどれがいいのかよく分からなくなるのだった。正直なところ普段そういう場所に行ったこともなかったのでほとほと困ってしまったのだ。夫には探しておくと言ってしまった手前どうしても今日中に探さなければならないし、その上でやはり実際に行って確かめておく必要もあると考えるのだった。また義兄のためにも禮子さんとうまくいってもらいたいので、何としてでも二人のためにいい場所を見つけ出さなければと、それこそ親が自分の子供の将来を心配するかのように真剣にネットとにらめっこして、ようやくここがいいのではないかと当たりを付けるのだった。彼女はさっそくどんな店なのか確かめようと思い、服を着替えそれなりに身繕いをして出掛けるのだが一応義母に声を掛けておく必要があるので、「これからちょっと出来かけてきます」と言ったところ義母も珍しいと思ったのか、「おや出掛けるなんて珍しいね。そんなお洒落していったいどこまで行くんだい」って聞いて来たのだ。これには困ったがしかしまさか本当のことは言えなかったので(夫から家族にはまだ話すなと言われていたので)仕方なく、「亮さんから今日中に済ましておくようにと用事を頼まれましたので、これからYセンター街までちょっと行って来ます。お義母さん何か買いたい物でもあればついでに買って来ますけど」「いや別にないけどさ。そうかい、それじゃ気を付けていってらっしゃい」
彼女は通りに出ると、さっそくタクシーを拾いお目当ての店まで車を走らすのだった。その店は、自宅から車で三十分ほどかかり、この地方ではかなり都会的な繁華街として有名なところで、彼女もたまに買い物に来たりはしていたのだ。その日は平日でもあり、それほど街は賑わってはいないだろうと思っていたのだが、それでも昼近かったのでそれなりに舗道は人々でごったがえしていたのである。彼女はタクシーを降り目当ての店に入ると、その店の雰囲気をまず確かめ一通り食事も済ませ、彼女なりに評価した結果あまりいいとは感じなかったのだ。詩的な雰囲気がない上にひどく開放的だったのだ。もう少し二人だけの空間があったほうがいいのではないかと思ったのである。普通に食事するだけならまだしも、やはりその日は特別な出会いにしなければいけないのだから、その意味でも不合格だったのだ。彼女はがっかりしてその店を後にするのだった。まったく当てが外れ、これからどうすればいいのか途方に暮れるのだった。今からまたネットで調べるのも面倒だし、どこか近くにいい所がないだろうかと辺りを見回すのだが、彼女に探せるはずもなかったのである。するとその時、誰かが彼女の背中をポンポンと叩いたのだ。彼女はびっくりして振り返ると、そこに何と弟の貴臣がニヤつきながら立っているではないか。弟とは結婚以来まったく会っていなかったので、彼女も珍しく感情がもろに出てしまったのか、いきにな抱きつくような素振りを見せたのである。すると弟はまさかこんな街中で姉にそんなことでもされたら、それこそ交通事故に遭うより悲惨だと思ったので寸前に彼女の行動をかわしこう言ったのだ。
「いったい昼日中、街のど真ん中で人妻が一人で何をしてるんですか?まさか、よからぬことに手を染めたんじゃないでしょうね」
「何をバカなことを言ってるのよ。あなたこそ、いったいこんなところで何をしてるんですか?」
「ぼくは、ただ向こうからこっちに歩いて来ただけですよ。そしたら何か見覚えのあるお姿を目にしたもんですから久しぶりにご挨拶でもと思っただけです」
「それじゃ、これから家に帰るのですか?」
「ええまあ、でももし姉さんが構わないなら、久しぶりなので、これから二人でデートでもしませんか?恐らく周りの人間は姉弟とは思わないでしょうから、きっと素晴らしいデートになると思いますよ。ぼくもまんざら悪い気はしませんのでね。どうですかこれから。色々と積もる話もあるでしょう」姉の紫音はそう言われると断るのも何なので、それにひょっとして彼がいいお店を知っているかも知れないと思い承諾するのだった。
「それじゃ、ちょっとこれから食事でもどうですか?ぼくはまだ昼飯も食べてないもんでね」
「それはいいけど、でももうさっき食事は済ましてしまったの。それなら、あなただけでも食べなさい。私はコーヒーでもいただくことにするから」
「おやまあ、それじゃやはり誰かとデートでもしたのでしょうか」
「そんなんじゃないの。詳しいことは後で話すから、どこかいいところを見つけましょう」
「それなら、ぼくイチ押しのデートスポットを紹介してもいいですか。どうです、これから二人でそこに繰り出してみたら。きっと姉さんも気に入ると思いますよ」
そういうわけで、二人は思わぬ出会いの神に導かれるようにデートスポットなる所に出掛けて行くのだった。そこは確かにその店に入った瞬間から、極めて上品な雰囲気に身体ごと包まれるような実に好ましいレストランだった。高層ビルから眺める景色も最高で、誰もが満足するだろうことは請け合いだった。確かに店の雰囲気もいいし静かだし、食事するだけなら最高かも知れないけど彼女にとってはやはりそれだけでしかなかったのだ。ところが、この時弟から耳寄りの情報を聞いたのだ。それによると、「この店にはVIPルームなる特別な部屋があって、そこは予約しないとだめでとくに夜は最高のもてなしを受けることが出来るそうです」ということであった。彼女はそれを聞くと、そのVIPルームなるものに特別な関心を持ってしまい、ぜひ一度その部屋を見てみたいと思ったのだ。それを貴臣に言うと、彼は「ほら、あそこに写真がありますから見てご覧なさい」と、部屋の一画に貼られた写真を指さしながらそう言うのだった。彼女はさっそく近くに寄って、じっくりとその部屋の様子を確認するのだが、どうもその写真だけでは実際の雰囲気がどうなのかよく分からなかったのだ。それでも、これで決まりかも知れないという直感は得たのである。
「ところで、どうですか?結婚生活は順調にいってますか?まあ、苦労はあるでしょうが姉さんのことですから、それほど心配はしてませんけどね。反対に心配なのが姉さんのいなくなったわが家なんですよ。実際に何か纏まりがなくなったというか、寂しくなったというか、家族としてこれからいったいどうなって行くんだろうっていう心配が出てきたんです。華音は姉さんがいなくなって、ますますのさばり出したし、やはり姉さんの存在は橘家にとって格別なものだったんだと今になって実感しているところなんです。こんな時こそ、おやじがもっとしっかりしなければいけないのに、あんなことになっちゃって最初はやけでも起こされたらどうしようかって心配しましたが、なんか知らないけどそれほどショックは受けていないようなんです。彼にとっては禮子さんより次の選挙のことの方がよっぽど大事みたいですよ。ところでその禮子さんですが、あのパーティー以来まったくの行方知れずで何の噂も聞こえてきませんが、いったいどうしてるんでしょうかね。何か気になるんですよ。彼女のことでは色々とありましたからね。何か忘れがたいのです」
「何もそう心配することもないでしょう。あの人のことです。今ごろ一人でちゃんと生きているはずですから」
「それは確かにそうでしょうが、なぜか忘れがたいのです」
「ひょっとして貴臣は彼女に恋でもしてたのですか?」
「果たして恋と言えるのかどうか分かりませんが、ただただ忘れがたいんですよ」
姉の紫音は弟の顔を見ながらそっとため息をつき、ここにも一人犠牲者がいると静かに微笑むのだった。
「ところで、さっきから気になってたんですが姉さんはとうとう髪を伸ばし始めたんですね。通りで見掛けた時、最初まったくの別人かと思ってしまいましたよ。ぼくの慣れ親しんでいた姉さんの印象とは完全にかけ離れていましたからね。一体全体どういう風の吹き回しでそんなことになっちゃったんですか?やはり結婚したことが大いに関係してんでしょうか?いや、言わずもがなのことですね。夫の影響がもろに働いたってことでしょう。これは」こう言って、さも自分の指摘が図星に違いないと言わんばかりに大きくうなずいて見せるのだった。彼のこの指摘は確かに当たってはいたことはいたのである。彼女は結婚してすぐに夫の亮からあることを言われたのだ。「きみは、よほどその髪形が好きならしいね。ぼくが始めてきみを見たときから、ずっとその髪形だったと記憶しているのだが、どうだろう、結婚を切っ掛けにちょっと雰囲気を変えてみたら。いや何も無理にそうしたらどうだと、そんな偉そうなことを言ってるんじゃないんだ。そこは間違えないでほしいのだがそれでも、ぼくがきみの髪形に拘る理由はただ一つ、きみの違った雰囲気を見てみたいからなんだ。これは、ぼくのわがままかも知れないけど、一度長い髪のきみを見てみたいなんて勝手に思っているだけなんだよ」と言われたのである。ところがこの言葉の裏には別の理由が隠されていたのだ。もうずっと以前だが禮子からあることを吹き込まれたからである。それは、もし紫音が髪を伸ばしたら、今よりずっと女としての品位が上がるだろうと言われたことがあったからだ。禮子がそう言うくらいだから、きっとそうに違いないと彼も思ったわけで、結婚を機に何とか妻の女性らしい品格を、今以上に上げたいという夫としての願望が湧いてきたというわけである。確かにその雰囲気は以前と比べてガラリと変わっていたのである。亮も目を見張ったようで、禮子の指摘は当たっていたと感心したくらいなのだ。彼も自分の妻がより女らしくなったことを素直に喜んだのである。それは彼女にも伝わり彼の感化によって今までの自分の姿に決別できて、ここに新しい自分が誕生したのだと思えたのだ。ダークブラウンの艶やかで軽くウエーブのかかった以前よりずっと長くなった髪の毛は、彼女の今までのイメージである中性的で品のある顔立ちを一段と女らしい色合いに染め上げることに成功していたのだ。この変化は、もちろん彼女の心にも強い影響を与え、今までの自分にないある性格が得られたかのような気になってくるのだった。
「ところで、なんかあったんですか?さっき見た時、うら若き人妻が迷い多き世界を前にして、すっかり途方に暮れてるって感じでしたからね」と、貴臣は先ほど見た姉の姿に今までにない何かを感じていたのだ。それは確かに一緒に暮らしていた時の彼女からは絶対漂って来ない何かまったく新しい雰囲気といっていいものだったのだ。彼の若い感性は、もはや姉ではなく一人の人妻としての姿をそこに垣間見たのである。それはある意味すごい衝撃でもあったわけで、彼女のその謎めいた姿から今の彼には到底窺い知れぬ、何かまったく別次元の世界を覗いてしまったような感覚だったのだ。
「いや、それはもういいの。お前のお陰でたぶん解決したかも知れないから」
「それはまた、どういうことなんです?よく分かりませんが、ぼくに話してまずいことなら話さなくても構いませんが、でもさっき姉さんは後で詳しく話すとか言ってませんでしたっけ」
「そんなこと言いましたか?」
「いや、無理に話してくれなんて言いませんよ。姉さんはもはや別の家族の人なんだから。そりゃ、いくら身内とはいえ何でもかんでも話せるってわけでもありませんからね」
ところがこの時、弟なら話してもいいのではないかとふと思ってしまったのだ。しかし、いつもの彼女だったらそんな軽率な判断はしなかったはずなのだが、どういうわけかこの時の彼女は、別に情にほだされたというわけではなくいわゆる魔が差したといったほうがいいかも知れない。このことはいずれ知られることでもあり今彼に話したところでさして問題にはならないだろうと考えてしまったのである。
「実はね、ここだけの話しにしておいて欲しいんだけど、禮子さんと亮さんのお兄さんが、どうやら結婚するらしいの。いやまだそう決まったわけではなのだけど、そういう話しが進んでいるらしいんです。それで、私は二人をなるべくいい条件のもとで会ってもらいたいと思って、こうしてその場所を探しに街に出て来たというわけなんです。でも最初に行ったお店はあまりよくなくてね、がっかりしていたところにお前が現れたってわけなんですよ。お前は困っていた私を助けてくれたんです。だって亮さんに見つけておきますって約束してしまったんですもの。今日中に何とかしなければって、すっかり焦ってしまって、さっきは一体どうしたらいいんだろうって本当に途方に暮れてたんです。だけどお前のお陰で私は救われました」
「そいつは、またすごい話しですね。いったい、どういう切っ掛けでそんなことになったんです?」
「それは分からないわ。でも亮さんの話だと何でもお兄さんから頼まれたんですって。禮子さんと何とか会うことはできないかってね。でもいい、このことはまだ誰にも話してはだめですよ。とくにお父さんには絶対言ってはいけませんから。いいですね。お願いしますよ」
「もちろん、そんなことはよく分かってますとも。もしそのことがおやじに知れたらきっと気絶するかも知れませんからね。いや気絶はしないまでも、何か困ったことになるかも知れませんね。しかし禮子さんもずいぶんと運のいい人ですね。おやじを振ってすぐにそういう話しが出て来るんですから。まったく驚くべき強運の持ち主かも知れません」
その夜、彼女は夫の亮にいいところが見つかったと、いつになく嬉しそうに報告するのだった。亮は妻から詳しい話を聞くと、「ああ、そこならぼくも知ってますよ。いや、あそこはなかなかいいお店です。そうですか、いや助かりました。きみもなかなかセンスがありますね。それじゃ今度二人であそこに下見がてら行ってみませんか。ぼくはまだVIPルームは利用したことがないんで、この際彼らより先にどのようなもてなしを受けるのか一つ二人で体験しときませんか。たまには夜のデートもいいでしょう。どうですか?」と、意外にも彼がこう言ってきたのだ。彼女は妻として喜んでそれに従ったのだが、もちろんその店を見つけた経緯は黙っていたのである。
さっそく二人は土曜日の夜、事前に予約を取り家族には二人だけのディナーを楽しんでくるとだけ報告して、それこそこれからパーティーにでも出掛けていくような豪華な衣装に身を包み、いかにも二人仲良く出掛けていくのだった。この時兄の卓が、出掛ける亮をちょっと引き留めて何やら二言三言彼に耳打ちするのだった。それを聞いた亮は兄を安心させるためか、穏やかに笑ってみせ大丈夫です安心してぼくに任せて置いて下さいと、そっと目配せするのだった。二人はそのまま門の前に待たせていたタクシーに乗りこむと、夜の帳に沈む街へと車を走らすのだった。
「まったく、あの兄貴にも困ったもんです。さっきなんて言ったと思います?よほど禮子さんのことが気になるのか、まだ彼女から何か言っては来ないのかなんて聞いてくるんですからね。自分がどういう立場の人間かってことを、もう少し自覚してほしんもんですよ。初めて恋する青年じゃあるまいし、そんなことではあの禮子さんに足下を見られてとんだ目に遭うかも知れませよ。それに少しはこっちの身にもなってほしいもんです。この話しがうまく行くようにと、兄貴のためにこれから下見に行くってえのに今からそんなんではこっちもやる気がなくなりますからね。まじめな人間ほど恋愛でとんでもないポカを犯すなんてことはよくあることで、あれじゃひょっとして禮子さんに会ってすぐに結婚を申し込んだりするかも知れませんね。初めてのデートで結婚など申し込んだらそれこそ最悪ですからね。間違っても、そんなバカなことだけはしないでほしいもんです」彼は、こういって隣りにいる紫音に向かって苦笑してみせるのだった。彼はこの時、黙って微笑む紫音の稀に見る美貌に少し酔っていらたしいのである。というのもやはり今までの彼女との経緯がどんなものであれ、結婚して正解だったと本当にそう実感したからである。その美貌といい、教養といい、それに彼女の芸術的な才能といい、今の彼はたとえ誰かに自分が彼女より劣った人間だとはっきり断定されたとしても、そんなことはもはやどうでもいいことではないかと思うくらい、彼女の存在の前にひれ伏したくなったからだ。それがたとえその時の興奮の為せる業だとしても、それでも彼女と一緒にいられることだけでも、何ものにも代え難い至福の時だと思わざるを得なかったのである。




