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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 亮は、妻に内緒で外出したことをどう言い訳しようかと頭を悩ますのだが、恐らく彼女はうるさく聞いては来ないだろうと読んだのだ。そこで彼は先手を打って嘘と分かるような言い訳はせずに、ただ黙って外出したことを詫び彼女がどう反応するのか窺うのだった。案の定彼女は心配そうな顔をして何か言いたそうだったが、あえて自分を抑えてでもいるのかそのまま深くは追求してこなかったのだ。彼はしめたと思い、「しばらく仕事のことで考えたいことがあるので」と言って、そそくさと自分の書斎に逃げ込んでしまったである。彼はやれやれと椅子に座りながらホッとため息をつき、まったく紫音のような女と結婚して実に正解だったと独り言ちたのだ。これがもし他の女ならきっとやかましいことを言って一悶着起きるに決まってるからだ。ひょっとして禮子はそっちかも知れないとニヤリとするのだった。というのも、もし兄が禮子と結婚したらいったいどうなるのかそれを想像してしまったからである。もちろん、そうなるかどうかは何とも言えないが、しかし波乱要因だけは誰が見てもあるだろうと思わずにはいられなかったのだ。それにしても、あの女は今回のことをどこまで真剣に考えているのだろうかと心配になってきて、今さっき交わされた彼女との会話を思い出しながら、それについて一つ一つ分析してみるのだった。『あの女は、「ただ、お兄様にお会いしてお話しをしたいだけなんです。ですから余計なことは考えないで、あたしの思いだけを伝えて下さい」などと、よくもそんな見え透いた嘘をぬけぬけと言えたもんだ。お前さんの魂胆くらいすっかりお見通しというもんだ。しかしそれにしても女というものは、まったく理解できん生き物だ。いや女にも色々あるということなんだろうが、とくにあの女は最初の出会いからしてしっちゃかめっちゃかだったんだ。そもそもあの女にとって男とはいったいどういった存在なんだろう。今までいったいどんな下心によって男を物にしてきたのだろう。おれに興味を持ったあの時もしああした不運が彼女に降り掛かっていなかったら、いったいどうなっていただろうか。おれはあの女にすっかり取り込まれていたのだろうか。それはひょっとしてあり得たかも知れない。紫音と初めて顔を合わせたあの時、あの女はどのような思いでおれ達の前に現れたのか今でもまったくの謎だが、恐らく二人の仲を壊してやろうくらいの意気込みだったかも知れないのだ。幸か不幸かおれはその難を逃れることができたが、しかし何の因果かおれの代わりに今度は兄貴がその標的になってしまったというわけだ。あの女のことだ、きっとその執拗さで兄貴を落としに掛かるだろう。まったく、兄貴もとんだ女に見初められたもんだ。いやしかしちょっと待てよ、考えようによっちゃそれはそれで願ってもないことかも知れんぞ。一度くらい兄貴もそういう経験をしておくべきなんだ。いつまでも堅物のまじめ人間でいるより、一層のことあのような女にじっくりと鍛えられて、女の何たるかを経験した方が人間として幅が出るというもんだ。おまけに美人だし社長夫人としての品位も備えているし、まったく願ったり叶ったりじゃないか。橘氏が惚れるのも無理はない。でもひょっとして鍛えられ過ぎて息の根を止められるって可能性もあるかも知れんな。それはありうることだ。あの女が兄貴に主導権を渡すなんてことはありえないし、そうさせないためにも抜かりなく手は打って来るだろう。そう言えば禮子は兄のどういうところに惚れたと言ってたっけ。ああ思い出した。女というものは男によってその性格が変わるとか何とか言ってたな。恐らくあの女は兄貴を持ち上げようとして、おれに当てつけたんだろうがとんだ言い掛かりというもんだ。言っときますが、生まれつきってのは死ぬまで変わりませんからね。だから、あの女もその点を心配してこう釘を刺したってわけだ。「お兄様のような優しいお方は、恐らく()()()()()()()()()()()()()()()でしょうから、そこはどうぞ慎重にお願いしますね」ええ、もちろん仰せの通り慎重に兄貴を言いくるめて、あなたのもとに熨斗のしを付けてお届けいたしますとも。あなたをがっかりさせてはお気の毒ですからね。この際二人の間でどんな地獄が繰り広げられるのか、それをじっくりと舞台袖で見物させてもらうことにしますよ』

 そういうわけで亮は、いったいどうすれば兄貴をうまく説得して禮子の前に連れ出すことができるのかそのことばかり考えるのだった。しかし彼はまだこの時、兄は兄でどうすれば例のことを弟に切り出せるのか、もうほとんどノイローゼに近い状態で七転八倒していたことなどもちろんご存じなかったのだ。しかし彼はここでうまいアイデアが浮かんだのである。兄を彼女の店に偶然を装って連れて行ったらどうだろうかと考えたのだ。これはなかなかいいアイデアではあったものの、どうすれば彼をあのような店に連れて行くことが出来るのかそれが一番の難題だったのだ。そう簡単に承知するはずがなかったからである。

 ところでその兄の方だが彼はもはや自分が限界点に来ていることを、嫌でも自覚しないわけにはいかなくなっていたのである。彼はすっかり絶望的な思いに支配されてはいたものの、このまま何もしないでこのチャンスを逃すことなどもちろん考えてもいなかったのだ。そのくせ、このままこの計画を放棄してしまった方がいいのではないかとも思っていたのである。『やはりこの話しにはどこか無理があるのだ』と、彼は執拗に神のお告げでこの問題を決着させようとするのだった。しかしすかさず彼の欲望が横槍を入れてきて、『いや、そんな神のお告げなど信じてはだめだ。それはお前の人生を干からびたものにするだけの愚策でしかない』と、これまた執拗に彼を説き伏せようとするのだった。こうしていつ終わるとも知れない心の戦いは次第に病的な様相を呈してきて、どこか強迫観念に近い感情に苛まれ始め弟を見るともう絞め殺してやりたくなるような衝動に駆られるのだった。ところがある日、彼はついにフラフラになりながらもルビコン川を渡ったのだ。もっとも半分溺れそうにはなったのだが。彼は弟を見つけると、「ちょっといいかな」といって、強引に手首を掴んで彼を一室に連れ込むのだった。

「実は、あなたに頼みたいことがあるんだが、いやその簡単な話なんで、そんなに手間は取らせないからさ、いいだろう?」と、二人の親密さを思いっきりアピールして何とかこの話しを成功させたいと願うのだが、いかんせん身体は正直で声は震え顔色もすっかり青ざめ、決して簡単な話しどころではなかったことだけはその表情からはっきりと見て取れたのだ。

「別にいいですけど、いったい何ですか?」弟はいつもとは違う兄の様子に驚きながらも、その強引な振る舞いに文句も言わず素直に従うのだった。兄は最初いかにも決心が付かないといった様子でもじもじしていたのだが、しかしもはや賽は投げられたのだと観念して思い切って川に飛び込むのだった。

「それがだね、あの禮子さんのことなんだがね……。じつは彼女に会えるように何とかしてもらえないだろうか。つまり彼女と会ってどうしても話したいことがあるんだ」と、今にも自分の気持ちに裏切られるんじゃないかと戦々恐々としながらもついに目的の言葉を発することに成功したのだ。

「禮子さんとお話しがしたいって、それはまたいったいどういうことなんでしょうか?」

「やはり無理かね?」

「いや別に無理ということもありませんが、しかし、あまりにも突飛な話だったもんで、その正直驚いてしまったんですよ。だって、あなたがそんなことを考えるなんて思ってもいなかったもんでね」

「おそらく何てバカなことを考えてるんだって思ってるんじゃないのかね?」

「いや別にそんなことは思っていませんが、あまりにも意外だったもんで、つい……」

「つい呆れてしまったんだろう?」

「いやそんなことは……でも、できればもう少し詳しく、なぜ禮子さんと会ってお話しがしたいのか、それをお聞かせ願えればと思っているんですが」こう言いながらも、これはじつに不思議なことがあるものだと彼も正直驚いていたのである。

「もちろん話しますよ。あなた以外にこんなことは相談できませんからね。そもそも何でこうなったかと言うと、それはこの前のパーティーで彼女と出会ったからなんだ。もちろんそれだけなら私だって何もここまで悩むことはなかったのだが、ほら彼女が突然別れ話を切り出しただろう。あれで私の運命が変わったんだよ。これはもしかして彼女と結婚の可能性が出来たということかも知れないって思ったわけなんだ。でも、やはりそこにはとても難しい問題が立ち塞がっていたんだよ。つまりいくら彼女がフリーになったとしても、今や身内となった橘氏の気持ちを踏み付けてまで、まるで横取りする泥棒猫よろしく彼女に声を掛けるなんて果たしてそんなことが許されることなのかって悩んでしまったんだよ。でもね私はこうも考えたんだ。確かに橘氏には気の毒だが、この際もっと自分に正直になるべきじゃないのかとね。このチャンスを逃したらそれこそ後悔の念で一生苦しむかも知れないってそういう強い思いがどんどん出てきてね。だからいいかね、そこはぜひとも私の気持ちを酌んでもらって、どうか禮子さんにお会い出来るように何とかしてもらいたいんだよ。これは私からの心からのお願いだ。もし、この願いが叶うようならそれこそ一生恩に着るよ。こうして頭を下げるから、どうか私の願いを聞いてくれないかね。だって彼女とは懇意なんだろう?それに、あなた以外誰に頼めばいいっていうんだ。そこなんだよ。今までずっとこの私を苦しめて来た理由がそこにあったんだよ。そこを分かってくれなきゃね。いいかね、あなたしか頼る人間がいないということを、どうか分かってもらいたいんだ」と、最後はくどいくらい同じ事を強調するのだったが、しかし彼もこう言い終えると精も根も尽き果ててしまったのか息も絶え絶えにぐったりしてしまったのだ。ところが何とか渡りきったという思いからか、それとも今までの苦労が報われたという喜びからか、さめざめと泣き出してしまったのである。弟は、それを見て開いた口が塞がらなかったが、しかし兄の信じられないような涙の告白に、彼も一瞬わが耳を疑ったものの、それでもこれは目の前で起きたまぎれもない事実で、これこそ驚天動地の一大事件であり、ある意味天の配剤だと彼はいやでもそう信じないではいられなかったのだ。

 弟の亮はこの意外な兄の告白で、自分の考えがそれこそ百八十度ひっくり返ってしまったことに驚くのだった。しかし彼はここでこの僥倖を自分のために利用できるかも知れないと思ったのだ。彼にとって今の自分の立場はどちらにも恩を売ることが出来るような状態にあったからだ。自分のさじ加減一つで兄をいいように操ることだって出来るだろう。また禮子は禮子で、恐らく自分を頼りがいのある男だと一目置かせることだって出来るかも知れないのだ。彼は自分がこの二人に恩を売りこれからの自分の人生に何らかの恩恵をもたらすことができるかも知れないと思ったのである。

 それからというもの彼は、自分がこれからすべきことを頭の中でじっくりと練り直すのだった。彼がまず考えたことは、兄をこの際自分を頼りがいのある弟として完璧に認識させるべきだと考えたのだ。自分がすべてお膳立てするから、兄はただその指示に従って行動すればすぐにでも彼女に会えるだろうことを肝に銘じさせるのである。そこで亮は以前考えたアイデアを引っ込め、どこか雰囲気のいい場所で会ってもらった方がいいだろうと判断したのだ。やはり兄をあの店にいきなり連れて行くのはリスクがあると思ったのである。もっと穏やかで彼のような堅物にも馴染みやすい場所でなければならないのだ。その方が二人の距離もグッと縮まるに違いないからである。するとここで彼ははたと考えたのだ。これはもしかするともしかするかも知れないと。弟としてすっかり兄を誤解していた節があったからである。『こうなると両方がお互いに思いを掛けていたわけで、あとは自分達で勝手にやって下さいということになり、もはや他人が口出すべき問題ではなくなるわけだ。まあそれはそうだが、そうなるとここでまた新たな問題が発生することになりおそらくこれは柏木家にとって自分のとは比べものにならないくらいの激震が走ることを覚悟しなければならなくなるだろう。堅物社長に売れっ子ホステス嬢。いやはやとんだ組み合わせだ。彼女を知っている人間からすれば、この結婚はきっと破綻するだろうと口をそろえて言うに違いなのだ。反対に兄をよく知る人間からすれば、いったいこの結婚をどう見るだろうか。いやその前に家族がどう見るかだ。母親はきっと反対するだろう。いやそれよりあのばあさんがどう思うかだ。いずれにしろ柏木家の平和は破られること間違いなしだ。しかし、よく分からんな。彼女のような女が果たしてこんな環境に馴染めるのだろうか。恐らく自らの性格を変えない限り無理だろう。そんなことがあの女に出来るとはとても思えないのだが……』彼は、ここで大きな疑問に立ち往生してしまい、もはやそれ以上考えられなくなってしまったのである。しかし、『もはやこの問題は誰も止めることなどできないわけで、恐らくどんなことがあろうと行くところまで行くしかないだろう。あの兄貴の状態から推測するに、もう禮子に相当惚れ込んでいること間違いなしで、彼女以外何も見えなくなっているかも知れない』からだ。

 亮はこの結婚を成立させる一番の鍵は、あのばあさんの胸三寸にあるだろうと考えるのだった。確かに母親の反対は、この家ではそれほど重大なものにはならないが、あのばあさんがもし反対だとしたら恐らくどう足掻いてもこの結婚は成立することはないだろうと思われるからだ。まあ駆け落ちするくらいの覚悟があれば別だが、しかし兄貴の性格を考えれば、自分の立場を台無しにしてまでそんな無謀なことはしないと思われるのだ。亮はこうして色々と先々のことまで心配し始めるのだが、まだこの問題は始まったばかりで果たしてどうなるのか皆目分からないわけである。そんな先のことまで心配するより、とりあえずはこの話をこのまま自分の胸の中だけにしまって置くわけにはいかないと彼は考えたのだ。少なくともこの事実だけでも誰かに話しておく必要があるだろう。かといって母親に話すわけにもいくまい。ましてやばあさんに話すことなどもってのほかだ。それはまだずっと後のことだ。それなら残るは妻の紫音に話すしかほかに誰もいないことになる。

 もっとも、彼女に話してどうなるものでもないのだが、しかし話しといて悪いわけではなかろうと彼は考えるのだった。そういうわけで亮は、この驚くべき事実を妻にだけ話すことになるのだが、それがまた意外な効果をもたらしたのである。紫音はその話しを夫から聞くと、もちろんその話しに驚いたことは驚いたのだが、それよりもっと彼女を感激させたことがあったのだ。その話しを誰よりも真っ先に打ち明けてくれたことだった。なぜそんなことが彼女にとってそんなに嬉しかったのか、それは彼の今までの行動を思い合わせた上での結果なのだ。今までの彼はなぜか彼女に対して全面的に心を開いていないのではないかと感じていたからである。それはやはり禮子との間で起きた確執が、彼に対する不信となって今までずっと尾を引いていたからで、彼と結婚した以上もはやそんなことはないとは信じていたものの、彼の性格を考えるとそう安心するわけにもいかなかったのだ。それがこうして真っ先に話してくれたことで、彼がやはり自分の夫だという実感がここではっきりと得られたわけである。もっとも亮としては、そんなたいそうな話しではなく、その時は彼女のほかに話すべき適当な人がいなかっただけなのだが。

「それで、いったいこれからどうなさるお積もりなんですか?」紫音は、ここぞとばかりに彼の妻であることを誇示して夫にこれからどうするのか確認してみるのだった。

「そこなんだが、とりあえず兄貴を禮子さんのもとに連れて行かなければならないんだが、どこか適当な場所を捜してそこで会ってもらうのが一番いいんじゃなかろうかって、ぼくは考えたんだがね」

「そうですね、それなら私がどこか雰囲気のいい場所を捜しておきましょうか?だって、あなたはお仕事でお忙しいでしょう?」

「ほんとかね?いやそいつはとても助かるよ。まったく面倒なことになって困ったと思ったのだが、兄貴の頼みとなれば断るわけにもいかないしね。色々と禮子さんにも話しを付けとく必要もあるだろうし、いや、それはあくまでも兄貴のためだからね。なにも変に取っちゃだめだよ。それにしても兄貴の口からまさかそんな大それた話しが出て来るなんて思ってもいなかったよ。まあ先のことはどうなるのか分からないけど、それは兄貴しだいってことでぼく達はただ黙って見守るしかないがね」

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