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兄の卓氏は、例の件を弟に相談するために出来るだけ慎重に、そのチャンスを窺っていたのだが、なかなか思うようにその切っ掛けが掴めないのだった。ところが話す機会はそれこそ山ほどあったのだ。弟夫婦が一緒に暮らし始めたことで彼と顔を合わすことはしょっちゅうあったからだ。それでいてなかなか切り出すことができなかったのである。今日こそ絶対に話すんだと覚悟を決めるのだが、なぜか弟の顔を見ると呪いでも掛かったようにどうしても言葉が出て来ないのだった。そのうちイライラしてきて、『いったいなぜ切り出せないのだ』と、彼は真剣に悩み始めるのだった。『子供じゃあるまいし、いったい何を躊躇しているのだろうか』と、彼も冷静に分析してみるのだがさっぱり分からず、ただ今日も切り出せなかったという事実が、どうしようもなく彼を落ち込ませるのだった。
ある日、これじゃ駄目だと思い背水の陣ではないが、今度しくじったらそれこそ首でも吊るしかないと覚悟して、さあこれでどうだといざ弟に向かって話し始めるのだが、案の定肝心なことには少しも触れられず、結婚生活はかくあるべしとか、やはり男は所帯を持ってこそ真の幸福が得られるとかなんとかのたまいながら、それでも何とかしてお目当ての話しまで持って行こうとするのだが、なぜか見当違いな方向に逸れてしまい結局は目的地まではたどり着けず中途で挫折してしまうのだった。これじゃいつまで経っても埒が明かないと、我ながらまったく呆れてしまうのだが、どうもここまで来るといかに彼でもこれはちょっとおかしいと思わざるを得なかったわけである。そこで彼は考えたのだ。これはひょっとして、この計画そのものを止めるようにという何かのお告げではないのかと。とはいえ彼は決して神のお告げのようなものを信じているわけではないが、それでもここまで来るとそうも言ってられないというか何かそう思いたくなるような気になって来るのだった。というのも自分がこうも躊躇している理由が、そう考えることで何となく腑に落ちたからである。確かにこの話しには最初からどこか無理なところがあったのだ。橘氏の心情を無視して、どうしてこうも自分勝手に話しを進められるのかと彼も首を傾げたのだ。自分の欲望に簡単に乗せられて、それでよしとしているところがそもそもおかしいのである。組織の長たる者が果たしてこんなことでいいのだろうか。つまり、こうして神のお告げは彼の心情に大いなる影響を与え、彼はすっかりこの計画そのものを断念する寸前まで行ってしまったのである。しかし人間とはおもしろいもので、そういう神のお告げを一方で信じながら、片方では自分の欲望に丸呑みにされていたのである。むろん、そんな自覚などあるわけではなく、ただそういう受け取り方もあるかも知れないと肯定的に考えただけなのだ。とくに彼のようなまじめな人間はとくにそうで、そう考えることでこの葛藤ともおさらばできると逆にホッとしてしまったのだが、そうは問屋が卸さなかったわけである。一旦欲望に火が付いたら最後、ちょっとやそっとの反省で消え去るなんてことはあり得なかったからだ。彼は禮子という女にそれこそ身も心もすっかりやられていたのである。それはもう間違いないことで、もはや彼の心は彼女一色に染め上げられていたと言っても過言ではなかったからである。もちろん自分ではまさかそこまで惚れているという自覚はなかったので、今のところ平静を保ってはいたもののいつ何時その均衡が破れるか、それはもはや時間の問題でもあったのだ。現に彼の本心は決して諦めようなどとはこれっぽっちも思っていなかったからである。当然それは意識されることはなかったのだ。だからこそ、自覚のないまま、この無間地獄のような葛藤にいつまでも悩むことになるわけである。こうなるともはや笑うしかないのだが、本人は決して笑うどころの話しではなかったことだけはどうか分かって頂きたいのである。このようにしていつ解決するのかさっぱり分からない厄介至極な心の葛藤は、本人の意に反して続いて行くわけであるが、そうした彼の苦しみにまるで呼応するような形で、ある計画が別の所で進められていたのである。
禮子は前々から考えていたある計画が何となく見えて来たので、それをさっそく行動に移そうとしていたのである。彼女は亮に電話して今すぐ店まで来てほしいとお願いするのだが、その言い方がお願いするというよりも今すぐ来て頂戴といったどこまでも命令口調で終始するのだった。彼もやれやれと思ったが、それでもその差し迫った雰囲気から断るわけにもいかず、仕方なく妻には内緒でこっそりと家を抜け出し、通りでタクシーを拾うとそのまま彼女の待つ店まで直行するのだった。彼は以前橘氏のことで彼女に助けられたことがあり、その時彼女にこの借りは絶対お返しすると約束していたので、もし彼女から何か頼み事でもされたら彼も喜んでその話しを聞く用意はあったのだ。今回は前の時とは逆の立場だが、あの時の彼女は、まるで素っ気なくそんなことくらい自分で解決したらどうなのといった態度が見え見えだったが、今回はそれとはまるで違って店に入った瞬間から彼を満面の笑みで優しく迎えたのである。まったく女というのは何だってこうもやすやすと態度を変えられるのだろうと何時もながら感心してしまうのだが、それでもたとえそれが彼女独特の演技だとしても、なるべくこちらもそれに合わせながらいったいこれから何が始まるのかそれを見定めようとするのだった。すると彼女はさっそくこう話し始めたのだ。
「わざわざお呼び立てしたのは他でもございません。とても大事なお話があるんです」彼女はこう言いながら、手慣れた手つきでまあ一杯とお酒を勧め、彼も黙ってそのグラスに口を付けるのだが、『いったい大事な話しってなんだろう?』と、彼も一応覚悟はしていたものの、そう改まって言われると何となく怖くなってきて、なるべく面倒な話しでないことを祈るのだった。すると禮子も相手が、すでに結婚していることに配慮して、「ごめんなさいね。いきなり呼び出したりなんかして、あたしも随分と迷ったんです。だって、すでに結婚されたあなたをこんな所に呼び出すなんて、紫音さんにでも知れたらそれこそ一大事ですからね。そうでしょう?新婚早々お二人の間に波風を起こすことなど、いくらあたしでもそんなことは望んでいませんからね。ですから、どうぞこのことはご内密に」こう言って、禮子は、『断っておきますが、あたしはどこまでもあなたを思って言ってるんですよ』てなことを何となく匂わせながら、一時は我を忘れるほど好きになってしまったこの男をジッと見つめるのだった。彼女も、こんな具合に彼を見つめるなんてことは予想もしていなかったのだが、何も彼に未練があるわけではなく、ただこれからの自分の運命がいったいどう動いていくのか、それもひとえにこの男の働き一つに掛かっているのだと思うと、自分とこの男の関係が妙な因縁で繋がっていると思わざるを得なかったのだ。亮も禮子から改めてそんなことを言われると半ば強制的に呼び出しておきながら、ひとんちの家庭を心配するとは相変わらずこの女の頭の中はどうなっているのかと呆れたのだが、それでも確かに妻に内緒でこんな所に来ることはなるほどあまり褒められたことではないし、彼女の言うことも一理あるとは思うものの、しかし自分にはやましいことなど何もないと思っていたので彼女の言うことは今の自分には少しも当てはまらないと考えるのだった。もしこれが自分から進んで彼女に会いたいとでも思っていたのなら確かに問題だが、そんなことは露ほども思っていなかったので彼女の心配は杞憂だと胸を張って言えたのである。
「禮子さん、ぼく達のことをそんなに心配してくれるより肝心のあなたはどうなんですか?だって、この間はずいぶんと思い切った行動に出てしまいましたが、あれから橘さんは何も言っては来ないのですか?」
「いくら何でもあそこまではっきり断ったのだから、いつまでも未練がましく思い続けるなんてことはしないと思いますわ」
「確かにあなたの一撃は決定的だったかも知れませんが、彼だってそう簡単にあなたを諦めるとは思えないんですがね。だって彼にとって、あなたの存在は何ものにも代え難いんですから。それを考えればこのまますんなりと諦めるとはぼくにはどうしても思えないんですよ」
「だから何ですか?そんなこと言って橘さんが諦めないでいたら何か良からぬことが起きるとでも言いたいのですか?そんな終わったことを今さら心配するより、もっと前を見るべきではないでしょうか。こうしてあなたをお呼びしたのも、あたしにとってとても大事なお願いがあるからです。ですからもう彼のことは忘れましょう。そんなことよりこれからあたしが話すことを真剣に検討して頂きたいのです」彼女はこう言って、いつまでも橘氏のことでグタグタ言っている亮を睨み付けるのだった。彼もいきなり柳眉を逆立てた彼女のその意外な迫力に恐れをなし、「それでは、さっそくその大事な話しとやらをお聞かせ願いましょうか」と、グラスの酒を一気にあおると、さあこれで聞く準備が出来たと言わんばかりにグッと背筋を伸ばすのだった。
「あなたのお兄さんにお会い出来るようにうまく取り計らって頂きたいのです」
「ああそうですか。えっ、兄貴に?あなたがですか……?」と言って目を剝いたまま絶句してしまったのだ。というのも禮子の顔が見る見る赤くなってきたからで、最初なぜ赤くなるのかその意味が分からなかったのだが、すぐにピンと来てなるほどこれは極めて重要な案件だと彼も十分に理解したのである。
「いや失礼しました。でも、ご心配なくそんなことは実にたやすいことです。ぼくに任せて下さい。あなたの都合のいいようにぼくがセッティングいたしますから。帰ったら、さっそく兄貴にあなたのお気持ちをそれとなく話しておきましょう。そうですか、あなたがね……いや失礼。でも兄貴もきっと驚くと思います。なにしろああいう人間ですからね。なかなか難しいところがあるわけですよ。しかしまあ、そういうことでしたら何も余計なことは言いません。あなたのご要望にこたえるためにぼくも最善を尽くしまからどうかご安心下さい」彼は、もちろん何で彼女が兄貴に会いたいのか、その理由をどうしても聞きたかったのだが、わざわざ言わずもがなのことを聞いて彼女を怒らすより、ここはぜひとも自制してむしろ彼女の方から自白させたほうがいいと咄嗟に判断したのである。
「でも、お兄さんは、お仕事でお忙しいのでしょう?」
「いや忙しいと言っても、年がら年中忙しいわけではないのです。まあ社長という仕事柄やはり忙しいには違いありませんが、それでも時間くらいは何時だって取れますから。何も心配する必要はありませんよ」彼はなぜかこの時思いっ切りはしゃぎたくなったのだ。これは『実に面白いことになってきた』からである。『彼女が橘氏を見限った裏には兄の存在があったからかも知れない。それにしてもいつ彼女は兄のことをそういう目で見るようになったんだろうか。まったく何て抜け目のない女なんだろう。単なる老いぼれ市長候補から現役バリバリの中年社長に鞍替えしたというわけだ。そう言えばあの時いろいろとおれ達のことを聞いてたな』彼はひとしきり彼女と兄の接点がどこにあったのかその記憶を辿ってみたが、これといった決定的な場面などは思い浮かばず、ただあの時のパーティーのどこかで、そうした瞬間があったのだろうと想像するしかなかったのである。しかしこの時一抹の不安が彼の脳裏を横切ったのだ。兄のような堅物と、海千山千の禮子のような女が果たしてうまくいくのだろうか。それに第一兄がこの話しにうまいこと乗ってくるのかという不安もあったのだ。正直それは決して「たやすい」どころの話しではないことくらい彼にだって簡単に想像できたからである。『もし断られたりでもしたらどうしよう。だってあの男が自分の結婚相手に、まさか彼女のような女を選ぶとはとても思えないからだ。それはもう二二が四と一緒で小学生でも分かる問題だ』からである。彼はこの時、迂闊にもすっかり自分の考えに没頭してしまって、禮子が見ていることも忘れてしまったのだ。案の定彼女は彼の沈黙が気になって、さっそくこう言って来たのである。
「もし会うことが難しいのでしたら、無理に急ぐことはないのです。だって無理に急いでお兄さんに嫌われでもしたらそれこそ元も子もありませんからね。それでなくても彼のような優しいお方は、あたしのような女は恐らく好みではないでしょうから、そこは慎重にお願いしたいのです」亮は、こういうどう受け取ればいいのかよく分からない言葉に頭を悩ますのだった。字義通りに受け取って果たしていいものか、それとも彼女のような女だからこそ、こうした言葉の裏にかえって感じやすい女心を見るべきではないかとも思えるからである。とはいえ彼女のような変幻自在に自分を演じられる魔性の女は、そう簡単に自分の本心を自白するはずなどなかったのだ。すると彼はとうとう我慢できずに彼女にこう聞いて見るのだった。
「あなたのおっしゃる通り、当然この話しは慎重に進めて行く必要がありますが、それにしても、あなたのお頼みには驚いてしまいました。もちろん、余計な詮索は控えますが一つだけどうかお聞かせ願えればこちらとしても有り難いんですがね。というのも兄のような堅物は、おそらくこういうことはあまり経験がないと思われるからです。そこでなんですが、この話しをうまく進めて行くためにも、あなたのその何て言いますか、その偽らざるお気持ちと言いましょうか、何故兄を見初められたのかといった、まったくもって不躾な話しではありますが、そこはこうした緊急事態に免じてどうかお許し願いたいのです。というのも兄を承知させるためにはぜひともあなたの真実の言葉が必要だからです。あなたも兄のことは少しはご存じでいらっしゃいますから、ぼくの言うこともそれなりにご理解して頂けるものと信じているわけなんですがね……」
「そうですか。そういうことでしたら、あたしも自分の正直な気持ちを話すことにしましょう。それであなたがうまくお兄様を説得できるというのなら。実は、この間のパーティーで、あなたのお兄様とお会いしてひどく心が動かされてしまったのです。あたしのような女は得てしてお兄様のようなお方に会うと、どこか自分が変わってしまうような気持ちになるものなんです。女というものは男によって随分とその性格が変わるものですからね。それは、あなたも今のあたしを見て心当たりがあるのではありませんか?」
「いったい、どう返答すればいいのか言葉に窮しますが、でも、今のあなたを見ていると確かにそういうこともあるのかも知れないと、ぼくのような人間にもそれなりに合点できるところがないわけではありません。しかし禮子さん。あなたも実際隅に置けないお方ですね。正直驚いてしまいましたよ」彼は、こう言って、急にその態度を変えいつもの調子で語り始めるのだった。「確かにあなたの狙いは間違ってはいないのかも知れません。ただ一つ心配なのが兄貴がどこまでこの話しに乗って来るかということなんです。こんなことを言うのも、ぼくにはよく分かっているからです。兄貴の性格がね。まったくあの性格を思うと本当に頭を抱えてしまうわけです。その用心深いことと言ったら、石橋を叩いてもそれでもまだ安心できなくて、その強度を一々確認するような男なんですから。まったくこういう性格の男を禮子さんの前にどうすれば無事にお届けできるのか、正直なところこのぼくにも分からないわけです。いや、でも心配しないで下さい。兄はまったくの石頭ではありませんからね。話しくらいは聞くはずです」
「それだけで十分ですわ。あたしは何もお兄さんを無理やり落とそうなんて思ってやしませんからね。あなたもどうやら勘違いしているのかも知れませんが、あたしはただお兄様にお会いして、もっとよくお話しをしたいだけなんです。もちろん彼のことをもっとよく知りたいという気持ちがあることには間違いありませんがね。だからってすぐにあなたがおっしゃるようなことになることなど少しも望んではいないのです。そこのところをもう少しご理解して頂ければ嬉しいのですがね。あたしもこれで随分と勉強したんですよ。男と関係を持つことがいかに難しいかってことを。ですもの相手がどんな男であろうと、もはやそんなことで一々悩むことはなくなりました。ですから、どうか余計なことは考えないで下さい。ただお兄様にあたしの気持ちをお伝えして下さればいいのです。それで駄目なら諦めるだけですから」




