表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫音の約束   作者: 吉田和司


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

54/104

54

 こうして夢のような結婚式は無事に終わり、列席者たちはそれぞれ現実という夢の中へと帰って行くのだが、兄の卓氏は、幸せそうな二人の様子にすっかり幻惑されてしまったのか、自分の今いる状態が急にみすぼらしく感じられてきて、何か非常に気まずい思いに打ちのめされてしまったのだ。要するに本来ならまず自分が最初にしなければならなかった結婚を弟に先を越され、内心忸怩たる思いに苛まれている自分を、こうした沢山の人々がいる中で意識しなければならなくなるとは、まったく兄として恥ずかしい限りだと思ったわけである。もちろん彼は二人の結婚を祝福したのだが、そこに自分の歯がゆい現実を重ね合わせると、自分が何か大事なものを取り逃がしている人間のように思われて来て仕方がなかったのだ。このような感情は決して虚栄心から出たものではなく、彼が実直でまじめな人間なだけ身に染みて感じたわけで、いくら自分が社長という弟にはない極めて重要なポストにいる人間だとしても、そんなものは今の彼には何の慰めにもならない形だけのものでしかなかったのである。こうした感情は意外と深刻で、今まで味わったことのないものでもあり、どうすれば解消できるのか彼としても今までの自分を振り返り、そのしわ寄せが今こうして自分を悩ます結果になったのだと反省するのだった。もちろん今までだって結婚を考えていなかったわけではなく、ただ何となく仕事を理由にわざと遠ざけていただけなのだ。それが目の前で弟の豪華な結婚式を見せ付けられては、兄としてもこのまま黙って独身を貫いているわけにはいかないのではないかと、ようやく彼もその気になって来たというわけなのだろう。

 こうして卓氏は自分も何とかいい人を見つけなければいけないと思ったのだが、そこですぐに思い浮かんだのが、もちろん禮子のことであった。それもそのはず彼はあの時、実際に目の前で二人の破局を目撃していたわけで、その時は橘氏の不幸を他人事ながら気の毒に思ったのだが、それがここに来て彼の不幸が自分にとってまたとないチャンスであることを嫌でも実感したのである。ところが、それはそう簡単には実現しそうにない、とてもハードルの高いもののように彼には思えて来るのだった。つまりたとえ彼女がフリーになったとしても、おいそれと近づいて果たしていいものかどうか考えずにはいられなかったからだ。というのも自分の弟がその気の毒な父親の娘と結婚したのである。冷静に考えてそんな不幸な橘氏を向こうに回して、いったいどんな顔をしながら彼女に近づく気でいるのか。それに今となっては身内となったわけで、そう単純に割り切れないものがそこにはあると思わざるを得なかったわけである。確かにそういう無視するわけにもいかない微妙な面もないわけではないが、これは彼にとって大きなチャンスであることもこれまた紛れもない事実なのだ。彼としても、そのことは大いに感じているわけである。だからこそ悩むわけではあるが、この千載一遇のチャンスをこのままみすみす見逃して、自分の人生を後悔という魔の手に委ねてしまうのか、それともここはあらゆる困難を乗り越えて前に進むべきなのか、慎重居士でもある彼のような人間にとって実に悩ましい時間をこの時身を持って体験したわけである。こうして彼は何度も悩んだあげく、『ここは、自分の正直な思いを優先すべきであり、橘氏には悪いが後悔しないためにも彼女に話しだけでもしてみるべきなのだ』と、彼にしては珍しく大胆にそう結論付けるのだった。

 とはいえそうは思ったものの、それでも彼のような万事に慎重を期す人間には彼女と話しをするだけでも、そこに前途多難なものを感じざるを得なかったわけである。『第一、どうやって彼女に会ったらいいのだろうか。まさか橘氏に相談するわけにもいくまい……。そうだ、弟に頼むという手もあるかも知れない。彼女とも親しくしていたようだし、あいつに頼めば恐らく何とかなるのではなかろうか……』実際こう考えたことで、彼の錆びついていた結婚という夢の歯車が少し動き出したと言ってもいいくらいなのだ。彼もこれで彼女と接触することが可能になるかも知れないと思い、どうやら彼もその気になってきたらしく自分の空想を本気にし始めたようである。

 こうして兄の卓氏は、自分の結婚を真剣に考えるようになったことで、ようやく柏木家にとって一番望んでいたことが動き始めたわけだが、すでに動き始めていた弟夫婦の間にちょっとした問題が起こってしまったのである。それは二人の新居を巡るトラブルで、夫婦という未知の関係を築いていく上での最初のすれ違いでもあり、どうやらそこには彼の夫としての対応のまずさがあったようだ。その新居の話しはすでに彼女とも相談して決まっていたのだが、それがいつの間にか変わっていて、急遽彼の家族と一緒に暮らすことになってしまったのである。彼女にとって一番問題だと思ったことは、自分に何の相談もなく決定されたことであった。なぜこんな大事なことを一言の相談もなく決めてしまったのか、彼女もうやむやにしておきたくなかったので彼にそのことを問い質したところ、「相談しなかったのは悪かったが、実はその暇もなく突然決まってしまったからなんだ」と言い訳するのだった。どうやら、おばあさんの強い意向がそこに働いたようなのだ。いったいどういうことなのか彼女ももっとよく知りたかったのだが、どうも要領を得ず彼もそれが何なのかまったく分からないようだった。しかし彼は慌てて、「いや、この同居は一時的なものなんだ」と、彼女を安心させようとしてこう付け加えるのだった。『一時的なものなら何の相談もなしに決めていいのか。第一、一時的っていったい何時までのことなのだろう』と、彼女も彼のやり方にすっかり困惑してしまったのである。こうした彼の性格は前々から気にはなっていたが、その問題点がいきなり露呈したわけである。彼女にしてみれば何も一緒に住むことが嫌だというわけではなく、ただ彼の話しがあまりに曖昧でよく分からない点が問題だったのだ。こうして紫音にしてみれば、二人だけの新しい生活を思い描いていたその夢が突然変えられたわけである。確かにどんな夢であれ、それがいきなり変更されたとなると、夢が膨らみすぎていた分その落ち込みようは半端ではなく、彼女のような女でもなかなか気持ちの整理がつかないのだった。とはいえ、ここで自分の不満を彼にあれこれ訴えても、もはやこの件は覆ることもないと思いこれ以上余計なことは言わないことにしたのだ。それにしても、『あのおばあさんはいったい何を考えているのだろうか。ひょっとしてピアノのレッスンのことが関係しているのだろうか。しかしそれなら何も一緒に住む必要などなく、この家に通えばいいだけの話しではないか。それとももっとほかに何かあるのだろうか』まったく、新婚そうそう思い掛けないトラブルに巻き込まれてしまったが、彼女も、ただこれから始まる生活に慣れて行くしかないと腹を決めるのだった。すると、さっそく彼女を困惑させるようなことが姑との間で起こったのである。簡単に言ってしまえば、姑の気持ちがよく理解できなかったのだ。それは母親なら当然持つであろう息子の嫁に対する感情なのだが、要するにやることなすことすべてが気に入らないのである。母親は別に意地悪をしているつもりなどないのだが、長年この家で経験してきたことが彼女にとって絶対的な基準になっていたので、それに合わないことはすべて気に入らないのである。そうしたことは姑には当たり前なことで、その一挙手一投足、彼女のお眼鏡に叶わない物はすべて否定されたというわけだ。しかしそうは言っても、こうした軋轢はどんな親しい仲でも起こり得ることだと以前から彼女も覚悟していたので、それほど過敏に反応することもなく、ただここで変な意地を張って、彼女に逆らうことだけはよそうとそこは彼女も割り切って一日も早く姑に気に入られるよう心掛けるのだった。なるべく彼女も昼間は二階の自室に閉じ籠もることもなく、下に降りてきて「何か自分に出来ることがあれば何でも言って下さい」と、一応気を遣って見せるのだが、この柏木家には家政婦が二人いていずれも中年のおばさんだが、その二人がこの家の雑用をすべて取り仕切っていたので彼女の出る幕など少しもなかったのである。こうして、ほとんどやることもなく昼間は二階で過ごすことが多くなっていた彼女ではあるが、それでも一つだけ彼女にしか出来ない仕事があったのだ。例のおばあさんとの約束であるピアノのレッスンを受け持つことであった。あれ以来おばあさんは毎日朝の十時から三十分ピアノに向かうことが日課となっていたのだ。確かに一緒に住んでいるお陰で、おばあさんとも時間を気にせずお話しできるようになり、より一層身内としての関係を深めていけるような気になるのだった。それに音楽を介した関係は、彼女にとって一番願ってもないものだったからだ。というのもピア二ストを断念した、ただのピアノ愛好家である今の彼女にとって、音楽を通してこそより自分の本質をこのおばあさん相手に発揮できると思ったからである。こうして紫音は、いつしかおばあさんのよき話し相手となり、レッスンの後には必ずといってもいいくらい彼女の演奏が披露されたのである。お互い時間だけはたっぷりあったので、このミニコンサートは二人にとって至福の時間となり、とくに慣れない環境で苦労の多い彼女にとっては心を癒やす又とない時間となったのである。こうして、また一段とおばあさんとの関係が深まっていくわけで、紫音にとってもこの柏木家での生活が、幸いにも音楽の力を借りることで何とか問題も起こさずにうまくやっていけるのではないかと期待するのだった。しかし、こうした二人の関係をあまりよく思わない人もやはりいるわけで、彼女としてもまったく気付いていないわけではないが、それほど悩ましいものだという認識はまだその時にはなかったのだ。

 一方夫となった亮はここに来てすべてが順調に変わって行くように思えたのだ。それは自分が兄に要求したことが履行され本社に戻ることが出来たからである。これは彼にとって、これからの人生を考えるとまずその第一歩が実現できたことになるからだ。彼はこの時はっきりと心に誓うのだった。これからがおれ自身の力の見せどころだと。彼自身も今までの自分の生き方をずいぶんと反省して、これからは今までとは違った生き方をしなければならないと思ったのである。それは妻になった紫音のためにも、そうすべきであると考えたのだ。それはある意味彼にしか分からない見栄の結果であるかも知れないが、それでも彼は本気でこの社会で一廉ひとかどの人間になることを誓ったのである。彼はもちろん、自分が社長になるという野心は今のところなかったのだが、それでも何とか社会に認められるような人間になりたいという思いは以前よりも遙かに強いものになっていたのである。確かにこれだけを見ると彼も結婚してずいぶんと変わったように見えるが、しかし人間の性質などそう簡単に変わるものではなく、もし本当に変わりたいと思うのならそれなりの覚悟も必要なわけである。するとさっそく彼の覚悟を試すかのような難題が彼の前に立ちはだかったのである。それは兄のある計らいがあってのことであるが、彼はいきなり弟を彼が以前居た営業部から人事部に異動させたのである。弟の亮もこれには正直驚いたのだが、しかし人事部と言えばかなりシビアな部署であり、彼のようなあまり決断力のない人間には実に面倒な仕事になるかも知れないからである。しかし彼もそうなった以上それに従わざるをえないわけで、兄の真意などあまり考えずに喜んでその指示に従ったのである。しかしもちろん、その部署のベテラン社員にしてみれば、ちょっと厄介な人間が配属されてきたと思わざるを得なかったのである。しかしその理由がなんであれ、彼も一応この会社のトップの親族であり、この異動を軽く見るわけにもいかなかったのだ。彼が再び本社に戻ってきた経緯については色々と取り沙汰されてはいたが、もちろんはっきりとしたことなど誰も知る由もなかったのだ。しかしそれでも噂だけは彼のいない間に、いかにもまことしやかな話しとなって社員の間に広まっていたのである。こうした話しはバカげていればいるだけ、誰もが面白がって半ば本気にしてしまうわけで、彼としてもその対処に苦慮したわけだが、そんな噂などはなから気にしなければいいだけのものだと思って放っとくことにしたのである。確かに彼にとって問題だったのは、そんな噂ではなく兄から聞いた話の方だったわけで、それが意外なほど彼のプライドを深く傷つけていたのだ。自分が次期社長の候補ですらなく、単に兄の噛ませ犬でしかなかったということが、あまりにもショックだったわけである。ところで彼はどうしてそのことを前もって知っていたのだろうか。どうやらそれは彼の勝手な想像だったようだ。つまり以前からそういうことがあっても不思議ではないという思いがあったからである。だからそれが本当だったと知ってかえって驚いてしまったのだ。自分の勝手な想像が真実だったわけである。彼としてはこれをどう考えるべきなのか、その時はまったく頭が真っ白になって何がなんだかよく分からなかったのだが、しかし今それを改めて考えるとひどいどころの話しではなく、父親が生きていれば腹の底から抗議すべき問題だと彼も憤慨したのである。しかしその父親も既に他界しており、いないからこそその話しも暴露されたわけだが、いったいこの怒りをどこにぶつければいいのか分からなかったのである。ところがその嫌悪すべき話しを、何とあの時彼女は席を外していて聞いていなかったのだ。この奇跡的な僥倖を彼はそれこそ涙を流さんばかりに喜んだのである。というのも、もし彼女がその話を聞いていたら果たしてどうなっていたのだろうか、恐らく男として面目丸つぶれになるだろうと彼も覚悟しないわけにはいかなかったからだ。彼は以前から自分が彼女よりずっと劣っている人間だと思っていたので、これ以上自分の恥を晒すことは我慢できなかったのである。もちろん、そんなことで彼の評価が下がることはないとしてもだ。それでも彼女だって、なにがしかの判断はするに違いないからである。彼は、こういうことをやたらに気にするわけで面子がどうの、これで自分は永久に彼女に頭が上がらなくなるなどと自虐的な妄想を逞しくするわけである。しかし、そうは言っても彼だって彼女を信じていないわけではないのだ。ただ自分の恥を彼女に知られたくなかっただけなのだが、そう思うこと自体とても彼女を信じているなどと言えた義理ではないことには気付いていなかったようだ。とはいえ、今回の思い掛けない暴露話は、意外なほど彼の根幹を揺るがす事件となり、同時に兄に対する見方を大きく変える切っ掛けとなったのである。父親と結託してたとえその時父親に従わざるを得なかったとしても、こうして自分をだましおまけに自分を遠ざけるために左遷までしたわけで、これはどう考えても自分を厄介払いしたかっただけだと彼には思えたのである。この時、彼はまだはっきりと意識したわけではないが何となく自分の正当な権利を奪った人間として、彼の心の奥底に兄に対するある忌まわしいイメージが形作られていったのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ