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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 禮子は彼らと黙って別れたあと、タクシーを拾いそのまま自宅へと帰ってしまったのだ。しかし彼女にしてみれば、やはりあのまま彼らと一緒に歩いて行くこと自体気が重かったわけである。第一別れを切り出したその張本人が、どうして別れた男の後に付いて歩いていかなければならないのだ。それは確かにその通りだが、それならそれで一言挨拶でもしてさっさと別れてしまえば、別に何の問題も起きないと思うのだが、ところが彼女はそうはしないで黙って消え去ることを選んだわけである。確かにそれはまずいやり方だとは思うが、しかしそれだって考えようによっては、一番いい判断だったかも知れないのだ。というのもそうすることによって、お互い余計な思いに煩わされることもなく別れることが出来たからである。もっとも反対に邪推してしまうことだってあるかも知れない。しかしどちらにしろ彼女の行為は、何らかの批判を受けることは確実で、それに対しては彼女もある程度覚悟はしていて、その責めは甘んじて受けようと思っていたのだ。しかしまあ、それはそれとして彼女としてもここまで急展開するとは思ってもいなかったのだが、それでもやっとこれで橘家との縁も切れたと思い、彼女もどこかホッとしていたことは確かなのだ。ところがことはそう簡単にいかなかったのである。しかし、これから彼女はいったいどうする気なのだろうか。禮子は取りあえず今までの仕事を続けながら、その後のことはまたゆっくり考えればいいと、自分の住んでいるマンションの前でタクシーを降りると、彼女らしい磊落さで気持ちを切り替えるのだった。彼女の住まいは橘家とはかなり離れた隣町にあって、外観がいかにも高級マンションといった造りの五階建ての建物で、彼女はその最上階の部屋で一人静かに暮らしていたのである。

 翌日、柏木はこれから橘氏の家に行って、どうしても自分の誤解を解かなければいけないと思うのだった。しかしそれにはいったいどうすればいいのか。彼も何の証拠も示せないのにこれから彼の家に行っても、あの疑惑で凝り固まっている親子を納得させるのはなかなか難しいのではないかと考えたのだ。『それにしても禮子はまったく余計なことをしてくれたもんだ』と彼は忌々しく思うのだが、それでも彼は昨夜考えたことを思い出し、その禮子に一緒に行ってもらって、その疑いを晴らしてもらおうと思ったのである。それならまず始めに彼女に会ってそのことを頼んで見ようと考えたのだ。柏木は自分の車で彼女が働く店に出向くと、あいにくと禮子嬢はお店にはおらず、どうしようかと悩んでいたら、そこのママが気を利かせて彼女の携帯に、これから店に来てくれないかと電話してくれたのだ。しばらくすると禮子はやって来たが、どこか浮かない表情でソファーに座るなり、いったい何のご用なんですかといった明らかに面倒くさそうな態度を取って見せたのである。柏木はこれはどうもまずいと思い、そうした彼女の気持ちに配慮して、なるべく刺激しないようまず謝ると自分の窮状を訴えるのだった。

「いや、お休みのところ突然お呼び立てして本当に申し訳ありませんでした。なにぶん急を要する事態に至ったものですから、その何ですよ、あなたもご存じの橘氏のことなんです。いや昨夜は、ぼくもとんだ目にあってしまいすっかり悪者扱いにされてしまいましたからね。つまりそれで困っているわけですよ。まったく痛くもない腹を探られてね。あなただって、その、たぶん橘氏に疑われているに違いないのですが、でもあなたはすでに別れてしまったのだから、その点気が楽かも知れませんがぼくはそうはいかないのです。紫音さんとのことがありますからね。お分かりでしょう?そこでなんですが、一つお力をお借りできないでしょうか。いやあなたの力がどうしても必要なんです。なにせあちらには華音という疫病神がおりますからね。あなたもこのことに関しては、その、ずいぶんと前からお気づきのことだとは思いますので、そこでどうしてもあなたの口から二人には何の疾しい関係などないのだとはっきりと言ってほしいのですよ。そうしないかぎり、いつまでたってもぼくは疑われたまま紫音さんと結婚しなければならなくなるのです。そんなことはまったくあり得ないことでしょう。つまりそういうわけで、これから一緒に橘さんの所に行ってもらって、そのことを証言してほしいのです。もちろん気が進まないことくらい十分承知しておりますが、そこを何とかぼくを助けると思ってお力をお貸し頂けないでしょうか。この借りはいずれ何らかの形で絶対お返ししますから。どうかあなたのお力で何とかこのどうにもならない状態からぼくを救って頂きたいのです」こう言って柏木は、ここは何としてでも禮子に協力して欲しかったので、何なら土下座してでも承知させたいという覚悟でいたくらいなのだ。ところが禮子は呆れて、そんなことくらい自分で何とかしたらどうなのかと正直思ったので当然断ろうとしたのだが、ふとあることを思いつきそれはこれからの自分の人生を大きく左右するかも知れないと直感したのだ。すると彼女の厳しい表情が一変し、まるで手のひらを返すようにこの面倒な役目を引き受けるのだった。この借りは絶対返すという柏木の言葉が、彼女にとって極めて好ましいある計画を思いつかせたからだ。それについては今ここであれこれ言わないが、というのも彼女にもまだ明確なものではなかったからである。いずれ、それははっきりすると思うのでその時までどうかお待ち願いたい。

 こうして二人の密約はお互いの思惑が一致してめでたく締結されたわけである。すると、善は急げとさっそく二人は橘家目指して彼の車を走らせるのだった。その頃、橘家は夕食も終わって子供達はいつものように、それぞれ自分の部屋に引っ込んでしまい、あとに残った橘氏は一人寂しく食後のひとときを過ごすのだった。ところが、しばらくして紫音が二階から降りて来たのだ。彼女は父親が昨日言ってたことが、どうしても気になりそのことを改めて聞いて見たくなったからである。いや、この際父親が誤解していることを、ここではっきりとさせておかなければいけないと彼女には思われたのだ。そこで彼女は父親がくつろぐリビングに入って行くと、さっそくテーブルを挟んで父親の真正面に座るのだった。父親は、突然目の前に現れた娘を見るとこれは意外なことがあるものだと、日頃そんな習慣がなかった親子にしてみれば、こういう娘の意外な行動に驚いていったい何が始まるのかと父親も一瞬とまどってしまいとっさに言葉も出ないのだった。すると紫音は落ち着いてこう話し始めたのだ。

「お父さんにちょっとお話ししたいことがあるんです。ほら昨日のパーティーでのことなんだけど、あの時お父さんはさかんに亮さんのことを疑っていましたけど、あれはどう見ても誤解しているとしか思えなのです。だって亮さんは決して禮子さんと、そのような関係にあるとはどうしても思えないからです。そんなことはないとお父さんは言うかもしれませんが、あたしには誤解としか思えないのです。ですから、私からお願いしたいことがあるんです。明日にも亮さんと会って下さい。そして二人でもう一度よく話し合って頂きたいのです。そしてその誤解を解いてほしいのです。それでないとお父さんが誤解したまま、私たちは結婚しなければならなくなるんです」

 これはまた意外なことを娘は言うと、この時父親は正直そう思ったのだが、それでもいきなりこうして自分の婚約者をまるで庇うような話しをされたら、父親としてもそこまであの男を信じているのかと、自分の娘ながらなぜか哀れに思えて来るのだった。

「お前はそこまであの男を信じているのかね?でもまあ、それはある意味当然かも知れないがね。私にだってお前があの男を信じたい気持ちはよく分かるが、それでも禮子があのようなふざけたまねをした以上もはやそうとしか思えないではないか。ここまで来ればあの男と通じていると考えたほうが、よっぽど筋が通るんじゃないのかね?いずれそのことははっきりするとは思うが、それでもお前はそう言い張るつもりかね?しかし私はね、お前のそういうけなげな気持ちを知った以上、あの男がますます許せなくなって来るんだよ。もしあの男がこの場に居たら、それこそ私は……」

 この時、玄関のチャイムが鳴ったのだ。いったい今ごろ誰がやって来たのだろうと二人は顔を見合わせたが、紫音はさっそく玄関に出るのだった。するとそこに今話題にしていたあの二人が揃って立っていたのである。紫音もこの偶然に驚いたのだが、それでも二人は父の誤解を解くためにやって来たのだと直感するのだった。二人はそのまま紫音に連れられて父親の居るリビングに通されたのだ。さすがに今話していた二人が目の前に現れたことで、父親の橘氏も驚いて言葉もなかったのだが、それにしてもご両人が揃って、それも前もって連絡もしないでいきなりやって来たということは、娘のためにもあまり考えたくはないのだが、いよいよその時が来たのかと彼も覚悟するのだった。

「いや、これはまた突然なお出ましで、それもお二人揃っていったい何の御用ですかな?」橘氏は、内心ドキドキしながら、彼らのその訪問の理由を聞くのだった。しかし、こっちはこっちで果たしてうまく説得できるだろうかと不安でしょうがなかったのだ。柏木は、まず夜分いきなり押し掛けて来たことを謝り、実は昨日身に覚えのない疑いを橘さんに掛けられ、ひどく困っていることを訴えるのだった。それについて何とか自分の疑いを晴らすためにも禮子さんに証言してもらい、自分が無実だと言うことを橘さんに分かって頂きたいのですと説明するのだった。橘氏はいったい禮子が何を証言するつもりなのかと不審に思ったものの、あくまでも自分の想像が正しいと思っていたので、どこまでも疑いの姿勢は崩さなかったのだ。禮子は昨日のこともあり、なかなか思い切りよく切り出せないでいたのだが、そこは腹をくくって何とか自分の仕事を果たすためにも、ここは一先ず下手に出て昨日の自分の行為を謝るのだった。

「橘さん、昨日は本当に申し訳ございませんでした。何も言わずに立ち去ってしまい、自分でもなぜあのようなことをしてしまったのかよく分からないのです。でもこのことについては何も弁解しようとは思いませんし、みなさんの批判は素直にお受け致します。ところで今柏木さんから説明がありましたように、なぜかこのあたしが彼のためにその誤解を晴らす役目を仰せつかったというわけです。でも橘さんあたしは何もあなたを説得しようとは思っていないのです。あなたがどう誤解しようと、もはや何の関係もありませんからね。でも紫音さんのことを思いますと、あたしもそう冷たい態度を取っていられなくなるんです。だってそれではあまりにも彼女がお気の毒ですからね。ですから橘さんどうかこれからあたしが言うことを黙ってお聞き願いたいのです。あたしは今回のことは、それほど深刻に考えてはいません。ある意味橘さんの疑いは別のことに起因しているのではないかと思われるからです。それに比べればあたし達の疑惑などわけなく晴れるでしょう。なぜなら、そんなことなどまったくないからです。それだけは橘さんの目を見てはっきりと断言できますので、もしお疑いなさるのでしたら、どうぞあたしの目を見て下さい。どうでしょうか、これでもまだあたしが嘘をついているとでもお思いでしょうか?橘さんはあたしの性格を以前からよくご存じのはずです。あなたとは今までも色々ありましたからね。もちろん、このあたしも橘さんの人間性がどういうものかよく存じ上げております。ですもの、お互いよく知っている者同士、これ以上何も言わなくても恐らくこの問題は解決したも同然と、私は確信しているんです」

 なぜ禮子はこのようなちょっと人を小馬鹿にした物の言い方をしたのだろうか。もしこんなやり方でこの老獪な橘氏を説得できると思っていたとしたら、それこそ驚くべきことで恐らく彼女は催眠術師か、それとも男を手玉に取る女詐欺師のどちらかだろう。しかし彼女はそのどちらでもなく、ただ本当のことを言っただけなのだ。もちろん世の中、本当のことがすんなり通れば何の苦労もないのだが、ただ橘氏にしてみれば、彼女はいったい何が言いたいのだろうと不審に思ったのだ。もし彼女が本当に疑いを晴らすために来たのなら、こんなやり方ではとてもじゃないが説得など覚束ないだろう。それをなぜ、わざわざこんな子供染みた言い方をしたのだろうかと不思議に思ったのだ。ところが話しがますます訳の分からないものになっていったのだ。彼女が実に奇妙なことを言い始めたからである。

「もちろん、橘さんはこんな子供染みた釈明で、そう簡単に納得するような方ではないことくらい百も承知しておりますわ。確かに疑惑を晴らすということは実に難しいことです。たとえたくさんの証拠を目の前に積まれても本人が信じなければ、いつまでたっても解決しませんからね。ですから問題は疑惑を晴らすことではなくあなたがどうしてそこまで柏木さんのことを疑うのかということなんです。そのことをもう一度よく考えてみる必要があるのです。そこであたしはよく考えました。思うに、そうした疑いのもとには何かもっと違った原因があるんじゃないかと、いやもちろん、これはあたしの勝手な想像ですが、でも何となく当たっているようにも思われるのです。というのもお二方には、それこそ今までも色んなことがありましたからね。あたしもそのつど色々と考えさせられました。で橘さんはおそらく柏木さんに何か感情的なしこりのようなものをお持ちではないかと推測したんです。そのしこりは恐らくずっと昔からの、それこそお二人がお知り合いになったころからのものではないかと想像されるのです。そう考えますとこの問題は、けっこう根が深いのかも知れません。単純にあたしが柏木さんの疑惑を晴らそうと、ここで必死に話しても、恐らくあなたは納得などしないでしょう。あなたの疑惑はそれくらい複雑でやっかいなものになっているんだと思います。ですから普通のやり方ではとてもじゃないが解決はむりでしょうね。そこで一つ提案があるんです。どうでしょう。あなたの疑惑をそのままこの私に預からせては頂けないでしょうか。そうすることで橘さんはご自分の疑惑を持たないまま、紫音さんの結婚を安心して迎えることが出来るといわけです。いかかでしょうか。このような提案は」こうした彼女の奇妙な提案は、もちろん橘氏に理解されたとは思えないのだが、それ以上に柏木との関係にその原因があるのではないかという彼女の指摘に驚いてしまったのだ。確かにそういうこともないわけではなかったからである。この時も柏木が禮子にすべてを託しているような姿がまず不満だったのだ。

「いや、あなたのその奇妙な提案のことを云々する前に、どうしてあなたご自身がそれも亮さんの疑惑を晴らすということのためだけにわざわざやって来られたのでしょうか。まずそのことがどうにも私には解せんのだ。自分の疑いを晴らしたいというのなら、一人でやって来るべきだったんじゃありませんかね。それでこそ娘の婚約者であるあなたの責任ある行動だったのではないでしょうか。それを、よりによって彼女にその言い訳を語らせて、それで私を納得させようなんてことではとてもじゃないが私は納得なんかできませんよ。私はね娘が不憫でならないんだ。あんたのような人に娘を押し付けた私自身にも責任はあるのだが、それでもあなたがそんな人間だとは今の今まで思ってもいなかったよ」橘氏は、ここで思いかけず初めて自分の不満を彼にぶつけるのだった。

「橘さん。いや、あなたのお気持ちがよく分かりました。あなたのそうしたわだかまりがいかに根深いものであったのかそれを聞いてはっきりしましたわ。やはり、お二人の間にはどうやら込み入った事情が潜んでいるのかも知れませんね。でも、どうかここは落ち着いてよく考えなければいけません。いいですか橘さん紫音さんのためにも、あなたはここで父親としての責任を果たさなければならないのです。あなたは、ご自分のそうした疑惑を何とか解消する必要があるのです。そうしない限り恐らく将来において紫音さんが泣くことになるかも知れません。あなたの代わりにね」

「それはまた、どういうことなんですか?娘が、どうして泣かなければならないのかね?」

「それは、あなたが自分自身で責任を取らない以上、彼女が代わりにその責任を負うことになるからです。でも一つだけ紫音さんが助かる方法があります。それは先ほど言いました、あなたの疑惑をあたしに預けることです」

「それが、まるで分からないのですがね。あなたが言う、その疑惑を預かるという奇妙な提案は、いったいどういうことなんでしょうか?いやもちろん私の疑いは、はっきりとしたものだと信じているのですが、それでもあなたがおっしゃる娘が私の代わりに将来泣くなんて言われたら、それこそ重大問題で、そんなことはとても承知できません。でもね禮子さん。彼にもしそのような疑いがないとしたなら、何の問題も起こらなかったのです。お分かりですか?この疑いは親として当然なものだと思うのですが」

「要するに橘さんは、どうしてもご自分の疑いを手放したくないわけですね?そこなんですよ。あなたにとっての問題は。ですから一旦その疑いをあたしに預からせて下さい。そうすれば、あなたの代わりに紫音さんは泣かないで済むのですから」

「いや禮子さん。あなたもずいぶんと面白いお方だ。もしあなたが正気でそんなことをおっしゃっているのなら、それこそ私は何もかも拒否して、この結婚を断念したほうが、よっぽど父親らしい決断だと思うのですがね。え、どうなんですか。禮子さん」

「しかし問題はそんなことではないのです。あなたと亮さんとの間で起きている関係自体に問題があるのですから」

「それは、いったいどういうことなんでしょうかね?」

「ですから、お二人の出会いそのものに何か原因があったのかも知れませんね。今あなたが亮さんに抱いている疑惑も、恐らく、始めからあなたご自身の中にあったものなのかも知れないからです」

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