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この時の禮子の心境を有り体に言えば、あまりに期待しすぎてしまったせいか当てが外れたその結果に何とも言えない虚しさと、それを上回る怒りを感じてしまったのである。できることなら一気に決めて欲しかったのだが、なぜか思うようにいかないのが人生でもあるわけだ。ところが、ここで彼女にとって実に厄介な問題がすでに生じていたのである。橘氏がそこに自分の見たいものを見てしまっていたからだ。それは彼にとって幻影だと思いたかったのだが、どう見ても彼には疑う余地のない現実としか思えなかったのである。しかし、たとえそう思ったとしても今すぐ何が出来るというわけでもなかったのだ。しかしそれにしても、これはいったいどういうことなのかと彼も呆れ返ったわけではあるが、そんなバカなことが実際にあっては娘の父親としてはなはだ困るのだ。橘氏は、ここにきて親としていったいどうすればいいのか本当に分からなくなってしまったのである。こういうことは今までの長い人生でそれこそ初めてのことであり、この期に及んで娘にどう説明すればいいのか皆目見当もつかなくなってしまったのである。しかしそれでも橘氏は問題解決を急がなかったのだ。今の状況が状況でもあり何もここで問題をはっきりさせてしまうのも、かえって問題そのものをこじらせてしまうだけだと思い、一旦時間を置いて今は何もしないほうがいいと彼も混乱した頭で何とかそう判断するのだった。
一方禮子はと言うと、またしても亮にしてやられたことで、もういい加減彼のことなど当てにせず自分の力だけでこの問題を解決したほうがいいのではないかと、ようやくまともな考えに彼女も落ち着くのだった。『自分はもっと、おばあさんを見習うべきだ』こうして彼女は自分の憶病さに改めて気付き、この問題は絶対自分の力だけで解決すべきだと覚悟するのだった。『自分の進むべき道を他人に決めてもらっていいわけがないのだから』と。
橘氏には、この娘婿の実態がもはや自分にはとても手に負えない代物に見えて来るのだった。しかし今さらそんなことで思い悩んでも、すでに手遅れであとはたとえ絶望的であっても彼を信じるしかほかに手立てがないと諦めるのだった。しかし禮子となると、そう簡単に諦め切れないのだが、こっちはこっちでより一層面倒なことになることだけは彼も覚悟するしかなかったのだ。確かにもし彼女が自分との結婚を断念したとしたらそれこそ最悪の事態になることだけは確実で、そんなことにでもなればわが橘家はそのまま破滅へと真っ逆さまに転落して行くしかないだろうと橘氏は絶望的に天を仰ぐのだった。そうした不安は二重に彼を苦しめることになるのだが、非情にも天はまさしく彼を見捨てたのだ。突然、禮子の口から、彼がもっとも恐れていた言葉が飛び出したからである。
「橘さんにお願いしたいことがあるんです。あたしとの結婚を諦めて頂けないでしょうか。突然こんなことを言われても返事に困るとは思いますが、しかしこれはもうずっと以前から考えていたことなのです。あなたはどう思っていたかは存じませんが、あたしも色々考えることがありましてね、どうしてもあなたとの結婚を諦めざるを得なくなったのです。その理由は一言では言えませんが、決してあなたを嫌いになったわけではありません。もっと違った理由からそういう結論に至ったのです。いわばあたしの生き方の問題と言ってもいいかも知れません。ですから、あなたがどう引き留めようともはやあたしの思いは変わらないと思います。こんな重大なことを、こんな時に話すこと自体非常識なことくらい重々承知しておりますが、しかしもうどうにも気持ちが抑えられなくなって、こうした暴挙に出てしまったというわけです。もちろんすぐにご返事が欲しいというわけではありません。ただ、あたしの考えだけは承知しておいて頂きたいのです。すべてはあたしのわがままから起こったこととはいえ、このことだけは決していい加減な気持ちから出たものではない、ということもどうか信じて頂きたいのです」
しかし、こうした禮子の発言は橘氏だけではなく、もちろんその家族にも非常な衝撃をもたらしていたのだが、ところが橘氏本人は驚いたことにあれほど不安視していた彼女の動向なのにも関わらず、意外にも実に冷静に彼女の言葉を聞いていたのだ。どこか他人事のような、やっぱりそうなるしかないよねといった、どこまでも醒めきった態度で終始していたのである。しかしその一方で、こうなると柏木のほうは、これでほぼ確定したと見てもいいのではないかと橘氏は結論付けたのだ。これでいよいよ新たな局面が彼の前にはっきりと現れて来たわけである。橘氏はもうこうなったら、彼女の決意はその言葉通り覆ることはないと肝に銘じてしまい、『で、いったいこれから禮子はどうするつもりなのか。それにしても柏木は自分の結婚のことをどう考えているのだろうか。まさか、このまま彼女と手に手を取ってトンズラするわけではないだろうね』こうした橘氏の苦しげな疑問は、親としてまた彼女の元彼としても当然起こってしかるべきものではあったのだが、あまりにも彼らの行為が空想染みていて、とてもまともに考えることすら不可能だったのだ。すると今度は柏木が、こう言って自分の驚きをみんなに表明するのだった。
「しかし禮子さんもずいぶん思い切ったことを告白してしまいましたね。ひょっとして、おばあさんの影響でもあるんですかね?いやすいません。でも、これでさっきぼくが、あなたに配慮して言わなかったのが無駄になってしまいました。それとも、ぼくの余計な一言がトリガーにでもなってしまったのでしょうか。もしそうなら謝りますよ。実に申し訳ないことをしてしまったと」
「そういう柏木さんは、ご自分の妻になる私の娘を前にして弁解することは何もないのですか?」こう言って橘氏は、もはやあれほど問題を荒立てないようにしようと決心したことなど、すっかり忘れてしまったかのように柏木を睨み付けながら彼に釈明を求めるのだった。
「いや、もちろん橘さんぼくが禮子さんを挑発してしまったようで、それについてはとても弁解などできないと思っております。しかしこの事と、紫音さんのことはその、まるで関係ありませんので、そこのところはどうか誤解なきようお願いしたいのですが」
「いったいどう関係ないのですか?私はね、もう以前からあなたと禮子さんのことは疑わしいとずっと思っていたのですよ。それが、結局こうしたことに行き着いたと理解しているんです。どうなんです?そこんところをあなたははっきりとさせるべきではありませんかね。娘のためにも」
「それはまた、いったい何のことでしょうか?ぼくがいつ禮子さんと、そのあなたがおっしゃるような疑わしい関係でなければならないのでしょうか?ぼくにはとんと見当が付かないのですがね」
「見当が付かないなら、あたしが父に代わってお話しさせて頂きますよ」こう言って口を出してきたのが、この柏木の疑惑問題にかけては以前からマークしていた華音だった。彼女は、ずっとさっきから自分の出番が来ないかと、それこそ手ぐすね引いて待っていたのである。
「柏木さん、あなたと禮子さんが疑わしいとあたしはずっと前から睨んでいたのです。いつでしたか、あなたが酔っ払って禮子さんに連れられてわが家にやって来た時のことを覚えていらっしゃいますか?あの時です。あなたのいかがわしい振る舞いに疑惑の影を見出したのは」
「待って下さいよ華音さん。いや、これは参ったな。何だってこういつまでも痛くもない腹をそれもまたしてもあなたに探られなければならないんでしょうか?まったく勘弁してくれませんかね。ぼくはね、あれ以来、あなたには恐怖を感じているんです。あなたが何かを言うたんびに身体がビクって反応してしまうんですよ。だってあの時あなたがしつこく追及して来たおかげで、ぼくは危うく息の根を止められそうになったんですからね。そのおかげでぼくはパニック障害になりかけたんです。あなたはぼくにとっては疫病神そのものなんですよ。どうかお願いします。いや橘さん、あなたからも何とか言ってやってくれませんか。これはもう冗談でも何でもなく、ぼくにはとてもじゃないが手に負えない相手なんですから」柏木はこう言って、自分がどれほど華音を恐れているか真剣に訴えかけるのだった。橘氏は、この様子を見て、何で華音が出しゃばって来るのかと実際呆れていたのだが、それにもまして柏木の不甲斐ない態度に呆れ返るのだった。
「華音もうお前は口を出すな。いいか、お前が喋り始めるとなぜか問題がこじれてそれこそ収拾が付かなくなるんだよ。もうこれ以上ことを大きくしては、それこそお兄さんに申し訳ないし、それに今回こうしてわざわざ開いて下さった親睦会も台無しになりかねないのだ。いや本当に申し訳ございませんでした。お兄さんにどう説明すればいいのかまったく途方に暮れています。いずれ、このことはお兄様にも分かって頂ける時が来ると思いますので、その時まで何卒ご容赦のほどよろしくお願い致します。もちろんこんな終わり方は失礼極まりないとは思いますが、しかしこうなってしまった以上やむを得ません。どうかお兄様から、あなたのお母様それにおばあ様に対して深くお詫び致しますと、どうかよろしくお伝え下さい。このお詫びはいづれ改めて必ず致しますので、今日はどうかこれで失礼させて頂きたいのです」
橘氏は、こう言って、強引にお開きに持って行こうとしたのだ。もう、そうするしか方法がないといったていで、お兄さんに無理を承知で頭を下げるのだった。兄の卓氏も、いったいどうすべきなのか正直判断が付きかねたのだが、橘氏がどうでもそうしたがっているので仕方なく同意するのだった。それでは車を呼びましょうと彼は言うのだが、それすら橘氏は断って、タクシーは通りに出て拾いますと言って、強引に子供達を引き連れて柏木家を逃げるようにして立ち去るのだった。すると門を出たところで、さっそく華音が文句を言い始めたのだ。
「こんな派手なドレス姿で通りなんか歩けませんよ。いったい何を考えてるんでしょうね。お父さんは」
「うるさい!もうドレスどころの話じゃないんだ。いいか、おまえ達はこのことを肝に銘じなければならんのだぞ。この由緒ある橘家があの女にすっかり辱めを受けたのだ。このことはおまえ達の将来に極めて大きな傷を付けてしまうことはもはや疑いなしだ。ああ、何という恥辱。あの女の仕打ちは一生忘れんからな。どこまでこのおれをこけにすれば気が済むのだろう。こんなことになるくらいなら禮子なんか連れて来なけりゃよかったんだ」と、つい本音が漏れるのだった。しかしこの時彼らの後ろから彼女がついて来ていたのだ。もちろん橘氏はそのことに気がついていたのだが、むしろ聞こえよがしにあえていつもより強めに話していたのである。しかしそういう当てつけがましい彼の本音を彼女が聞いたかどうかは定かではなかったのだ。というのも知らぬ間に彼女の姿はその場から消えていたからである。
「あれ、お父さん、その禮子さんですが、どこにも見当たりません」こう言って、貴臣は辺りを見回しながら消えた彼女の姿を捜すのだった。しかしこの時誰もが彼女がいなくなってホッとしたのだ。というのもやはりこのまま一緒にどんな顔をして帰ればいいのだろうかと、みんなそう心配していたからである。すると橘氏は、腹の中で『ちょっと言い過ぎてしまったかな。いやでもあれくらい言わなきゃ俺の腹の虫が収まらんのだ。それにしたって一言あってもいいと思うのだが。それとももう俺の顔も見たくもないってわけか。まったく、あいつのやりそうなことだ』と、橘氏は自分達はあくまでも被害者だという意識が消えなかったので、自分が何を言ってもそこは許されてしかるべきだと考えていたのだ。しかし、もはやそんなことで頭を悩ましている場合ではなかったのだ。それよりこれから娘の結婚がいったいどうなってしまうのか、それが何よりも一番の大問題だったからである。それには柏木家とすぐにでも話し合いを持つべきだと考えるのだった。何とか兄の卓氏にこの問題の真意を話して、兄のほうから弟の亮に何とかもう一度話し合うことを承知させる必要があると思ったのである。
しかし当の紫音は、どうも最初から腑に落ちなかったのだ。いったい父親は何を心配しているのか。彼女には父親みたいに誤解なんかちっともしていなかったからだ。禮子が父親に破談を願い出たとき、もっと違うことを考えていたのである。きっと彼女は別の道を見つけたに違いないと直感したのだ。別の道とは父親でも柏木でもない道を彼女は見つけたのだと確信したのである。父親のことはとても残念ではあるが、それは仕方のないことだと彼女もそれほど落胆などしていなかったのだ。むしろ、これは喜ぶべきことだと彼女は歓迎さえしていたくらいなのだから。
一方、柏木家ではこういう始末になったことを、どう考えるべきか兄弟共々何かとても腑に落ちなさそうな顔で、お互いしばらく黙り込んでいたのである。兄はもちろん何も分かっていなかったので、弟にその真意を聞きたかったのだが、亮は亮で橘氏はじめ華音まで自分のことをしつこく疑っていることを知って呆れていたのである。『まったくあの親子ときたら、おれのことを何だと思ってるんだろう。ああまったくやり切れん。そこまでおれのことを信じられないとはな。しかしまあ、あの男も禮子に面と向かっていきなり断られのだ。そこは同情すべきところだろうがあの女もなかなか度胸があるよ。それにしても、あの女にとってはこれで一応ケリが付いたというわけだが、問題は、あの男がおれのことを誤解しているということだ。ということはこの誤解をどう解いたらいいのか、一番いいのは禮子本人に自分とは関係ないことを証言させればいいわけなのだが……。しかしあの女、これからいったいどうするつもりなんだろう。このままあの仕事を続けて行くつもりなんだろうか。いやそれにしても惜しいなあ。橘氏と結婚しときゃそのまま誰もが羨む身分にもなれたろうに。それをみすみす逃すとは実にもったいないことだ』亮は、これからの自分の人生を思うと、なぜか彼女のような生き方はまったく正気の沙汰とも思えぬ呆れた行動に見えてくるのだった。『なんで彼女は、あんないい条件を平気で逃すことが出来たんだろう。何かほかに目当てでもあるのだろうか?まったく訳が分からん』こうして彼は、女のやることはまったく理解できないという結論に達し、もうそれ以上考えることを諦めるのだった。すると、ようやく兄が自分の疑問を亮にぶつけてきたのだ。
「ちょっと聞いてもいいかな。さっき橘さんが言ったことなんだが、あれはいったいどういうことなんだろう。ほら禮子さんと亮さんが、なんか関係でもあるかのような口振りだったじゃないか。もしそれが事実なら、とてもこのままにしてはおけないからね。そうだろう?いったいどうなんだね?」と兄は、恐る恐る聞いて見るのだった。
「いや、そんなのまったくのデタラメですよ。どうかぼくを信じて下さい。身内が信じてくれないとなると、ぼくも立つ瀬がなくなってしまいますからね。そこだけはよろしくお願いしますよ。橘さんには明日にでも会って、ぼくからよく言っときますよ」
こうして両家の親睦会は、予想もつかなかった結果を残して一応幕が下りたわけだが、しかし問題は禮子のその後の足取りだった。彼女は橘家の人達があわてて柏木邸を出たとき、彼女も途中まで一緒に歩いていたのだが、大通りに出てタクシーを拾う前に、誰にも気付かれないようにそっと姿を隠してしまったのである。彼女としても、このまま一緒に彼らと連れ立って歩いて行くのもなぜか嫌だったのだ。その心情はよく分かるのだが、それでも何も言わずに姿を消すとは彼女らしからぬやり方だったが、どうやら彼女も発作的にこういう行動を取ってしまったらしく、自分でもまずいことをしたという自覚はあったようだ。ちなみに例の橘氏の恨み節は彼女も聞くことは聞いていたのだ。しかし彼女にとって、その程度の嫌みはまったく気にもならなかったようだ。むしろ彼の本音が聞けてかえってよかったとさえ思ったくらいである。




