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こうした弟の意外な発言は、兄の卓氏にとって例の気になっていた疑惑を払拭するだけの力はあったのだ。まるで胸の支えがすっかり下りたように彼もこれで一安心と思ったわけである。しかし、とここで用心深い彼は、安易に喜んではいけないと気を引き締めるのだった。兄としても、弟が元の部署に戻るだけなら、それほど難しい問題ではないとは思うのだが、そうなると、それはそれでまた別のことが気になるのだった。いったい弟は、なぜその程度の人事異動を要求するために、こんな大袈裟なやり方までして自分に訴えかけてきたのか、その理由がまったく読めなかったからだ。確かに、もし弟が兄を社長という座から何がなんでも引き摺り下ろしたいという明確な理由があるのなら、それはそれで十分に納得できるのだが、どうもそうではないらしいから話しが分からないのである。確かに弟にしてみればもちろん自分に野望がまったくないわけではなかったのだ。ただそんなことを冗談にも言おうものなら疑惑が疑惑を生み、もはや元の部署に戻るのも難しくなるだけだろうと思ったわけである。しかし正直に言って今この時点ではそういう考えはまったくなかったのである。しかし人間の欲望などいつどこで火がつくか分かったものではないし、彼だって明日突然自分の真の欲望に目覚めるかも知れないのである。だからって何もそのことで彼が批判される筋合いのものでもないだろう。彼には彼の事情というものがあるからだ。それがたとえ他人から見ればまるでバカげた話しに思えたとしても、本人にとってはそれこそ自分の人生を左右するほどの大問題だったからである。そういう本人にしか分からない理由は、他人にはどうでもいいことかも知れないが、そうはいってもそういった類のことは誰にでも起こり得ることで、それを考えれば決して関係ないといって済ましておくわけにもいかないのである。
そういうわけで、亮にしてみれば、真の動機がなんであれ自分の要求を叶えたいと必死に戦ってきたわけだが、たとえその要求が通ったとしても、それで何もかも解決したというわけにはいかなかったのだ。確かに彼は自分が社長の器でないことくらい自覚していたが、自覚しているからって何も社長になってはいけないというものでもなかろうと彼は心のどこかで思っていたのである。それは当然のことで、人の能力など最初から分かるはずがないからだ。本人が自覚していない能力がどれほど使われずに眠っているか、それはもうほとんど信じられないくらいだろう。どうしてそうなってしまうのか。それはやはり勝手な思い込みが本人のやる気を最初から削いでしまうからである。確かに父親から見れば彼には社長を務める能力はないと見えたかも知れない。それでも彼には欲望があったのだ。つまりやる気がなぜか出てきたのである。つまり人間にとって一番必要なのは能力ではなくそれを根底から支えるやる気があるかどうかなのだ。いったい自分をいつまでもそういうダメな人間だと思い込んでいること自体そもそもダメではないか。いや自分の能力を自覚することは別に悪いことではないだろう。だって人生においておのれを知ることこそ一番重要だからだ。しかしその場合のおのれを知るというのは単に分をわきまえろという意味だろう。能力もないのに出しゃばるなってことだ。しかし彼の場合はちょっと違うのだ。彼はもちろん自分のことなどろくすっぽ知りゃしないのである。それは必ずしも悪いことではないのだ。なぜならどれほどの能力が彼の中に眠っているか分からないということと同義だからだ。彼には可能性がある。もちろん失敗する可能性もあるが成功する可能性だってあるのだ。彼はさっき兄からとんでもない話を聞かされてからというもの、自分の未来をなぜもっと高く持ってはいけないのかと思い始めたのである。もちろん彼は自分をそれほど優れている人間とは思っていなかったのは事実だが、それでもさっき聞いた話しから、おじいさんのような人でも、女性から見れば優れた人間に見えるのだ。いったい、おじいさんのどこか優れているのか、彼にはいまいちよく分からなかったのだが、それでも、禮子があれほど褒めていた以上そうなんだと思わざるを得なかったわけである。しかしその禮子だが、何で自分たちのことに関心を示してきたのだろう。亮はさすがにちょっと変だと感じてはいたのだ。彼は、禮子がこの家に来てからの様子をずっと見ていたし、まるですべてのことに興味がないといった態度で一人孤立していたこともしっかりと観察していたからだ。そういう禮子がなぜこうまで自分達に興味を示して来たのか。それは決して見逃せない変化だと確信するのだった。『あの時おばあさんといったい何を話したんだろう』彼も禮子と橘氏のことを考えると、やはり彼女がこれから先どうするつもりなのか、そういう思いもあり、ここは一つ彼女がいったい何を考えているのか知る必要があると思うのだった。すると、そこに紫音が戻って来たのだ。その表情はずっと涙に暮れていたせいか、目が真っ赤でいかにも悲しみに沈んだまま、そこからまだ回復できていない様がありありと見て取れたのだ。しかし彼女は部屋に入るなり、すぐにおばあさんのその後の様子をみんなに報告するのだった。
「おばあさんは、やっと落ち着いて眠ってくれました。あれだけのことをみなさんに告白してくれたのです。最初はどうなるのだろうかとちょっと心配しましたが、それでもおばあさんはとても気丈な方のようで、私に向かってこう言ってくれたのです。「ねえ紫音さん、あなたも結婚したら分かると思いますけど、夫との関係はとても大事ですよ。たとえ二人の間がうまく行かなくなったとしても、決して私のような過ちだけはしないで下さいね。それに男と女は、まるで違った人間だということをあなたも忘れないで下さいね。こんなこと言ったからといって何も変に考えてはいけませんよ。ある意味それは当たり前なことなんですが、それがなかなか男も女も分かっていないんです」おばあさんは、その後も色々と話してくれましたがあまりお喋りして興奮するのもいけないと思ってか、お母様が少しお休みになったらどうですかって注意するほどでした。でもその時のおばあさんの様子を見ていると、何かとても落ち着いた表情でずっと天井を見ていましたが、そのうち目をつむって眠ってしまいました」
「紫音さんにいいお知らせがありますよ。亮さんはお兄さんと仲直りをしてくれました」いきなり禮子がこう言うと、さすがに柏木兄弟は驚いて禮子を見るのだった。
「まあ、それはとてもよい知らせですわ。これでお二人の誤解も解消されて行くと思います。お兄さんの思いがようやく亮さんにも通じたのでしょう」紫音は、急に笑顔になって二人の仲直りを喜んだのだ。
「いや、まったく禮子さんって面白い方ですね。来た時はあれほどムッツリしていたのに、それが突然何が楽しいのか急にはしゃぎ出すんですからね。ぼくだって面食らってしまいますよ。いったい何があったんです?」亮が、こう言って、さっそく禮子の腹を探ってみるのだった。
「別にあたしははしゃいでなんかいませんよ。そりゃ来た当初は、あたしも恐らく虫の居所が悪かったんでしょうね。何となく自分がまるで招かれざる客のように思われたからです。自分の居る場所ではないとなぜか感じていたからですよ。でもねさっきお庭でおばあさんとお話ししてから、そんな自分が阿呆らしくなってしまったんです。要するに、あたしもこの柏木家と何らかの関係を持っても、それほど変なことではないと思ったからです。でもまあ亮さんもご自分の妻になる人をもう少し大事にしてあげなければいけませんわ。あなたの仕事に対する考えも別に間違ってはいないでしょうが、それにしても彼女との結婚をだしに、お兄さんを脅そうなんて姑息な真似はあまり頂けませんわ。それに、あたしがどういう立場でものを言っているのかってさっきおっしゃいましたけど、あたしは何時だって女としての立場でものを言っているつもりですからね。あなたもあたしの立場を云々する前に、ご自分の立場をもっとはっきりさせたほうがよろしいんじゃありませんか?」禮子は、こう言って、亮のいかがわしい立場をさりげなく批判するのだった。こうした彼女の変化は、彼女にとって極めて重要な変化であったことは確かだったようだ。自分の進むべき道が、突然目の前に開けたように思えたからである。橘氏との結婚を断念してからというもの、いったい自分はどこに進めばいいのか、今の今までまるで分からなかったのだが、それが一気にはっきりした声となって彼女を導こうとしていたからだ。『そうだ、これこそお前の進むべき道なのだ』と。こうして彼女の進むべき道が決まったことで、次に行うことがこれまたはっきりとしてきたわけである。しかし、いったいどうやってその難問を解決したらいいのだろうか。もちろん、彼女の力だけでその難問が解けるのかといえば、なかなか難しいことは彼女だって分かっていたのだが、それはどうしても解かねばならない問題でもあったわけだ。以前、その難問を亮にやらせようとして失敗してしまったのだが、もう一度彼を使って出来ないものかと頭を捻るのだった。
「ぼくの立場はそんなに朦朧としているのでしょうか?言っときますが、ぼくは、いつだって自分の立場は弁えているつもりですがね。それに引き替え禮子さんは、いくら女の立場からだと言っても、どうしてそこまでしつこく口を出して来るのかその意味がよく分からないんですよ。ひょっとして、女の好奇心なんてものから、ぼく達のことを探っているんじゃないでしょうね。もしそうなら、それこそ時間の無駄というもんですよ。だって、あなたが本気で取り組まなければならないのは、ご自分のこれから先のことを、ようく考えることだと思うからです」亮は、ここで極めて際どいことをこう言い放って、禮子を一瞬戸惑わせるのだった。しかし、そこは落ち着いて彼女もこう切り返したのだ。
「どうして、あたしが口出しするのか。そんなにそのことが知りたいのですか?それではその訳を言いましょう。あたしにとって、柏木家の人達はとても大事なものになったからです。だから口出しするんです」
「それじゃ、まったく意味が通りませんよ。いったいなぜ大事なものになったんでしょうか?そもそも、大事っていったいなんですか?意味が分かりません」
「それは、亮さんのような方にはなかなか難しいかも知れません。こういうことに関して、あなたは、どちらかというと疎いのではないかと思われるからです」
「しかし、説明してくれなければ、そんなこと言っても、誰だって理解できないと思うんですがね。それとも、禮子さんは、お前になんかいくら説明したって理解なんかできないってことがおっしゃりたいわけなんですか?」
「ああ、もうそういうことを言う時点で、あなたの限界がよく分かりますわ。男の方は、一旦理屈が通らなくなると、そうやって皮肉の中に逃げてしまうからです。でも女はね、その理屈が通らなくなったところから考え始めるのです」
この突然始まった二人の不思議な会話は、もちろんここに居る人達には、何のことやらいまいち理解できなかったのだが、ただ一人だけ敏感にこれに反応した人がいたのだ。橘氏は、こうした禮子の一見意味の掴みにくい会話を、彼一流のやり方で解読しようとしたのである。少なくとも橘氏には、彼女の中で何かとても重要なことが起こったに違いないと感じたのだ。それが自分達の結婚とどう繋がっているのか、それはまだ分からないが、極めて特異な現象が彼女の中で起こったことだけは間違いないと橘氏には思われたのである。亮も、確かにこれには何かあるとはっきりと感じてはいたのだ。というのも禮子の本心を知っている彼からすれば、この変化に意味があることは極めて明白だったからだ。しかし、たとえそうだとしてもだから結局彼女は何が言いたかったのか、それがまるで分からなかったのである。一方、禮子にしてみれば、ここであのことを言ってしまえたら、どんなに楽になるだろうと正直思っていたのだ。その衝動はとても強かったのだが、それをこの場で言えばどうなるかそれはまた新たな混乱となって、両家に迷惑を掛けてしまうことくらいは予想出来たのだが、だからといってそのために言えなかったと思うのも何か癪に障るのだった。ところが、ここで紫音が思いも寄らないことを話し始めたのだ。
「さっき話しのついでに、おばあさんがこうおっしゃってましたわ。禮子さんという方は、とても誠実で正直な方だと。詳しいことは話しませんでしたが、何かとても感心なさっているご様子でした」
「おばあさんとは先ほど色々とお話ししました。それは亮さんもご存じですわ」
「でも、ぼくは話しの途中でおばあさんに追い出されてしまったんです。何か女だけの大事な話しがあるとかでね。恐らくぼくの悪口でも話したかったんじゃありませんか?」
「そう確かにおばあさんは、亮さんのことはあまりよく言ってませんでしたわ。でも、それは家族にはありがちなことで、大して心配するほどのことではないと思います。それよりおばあさんには、紫音さんのほうがよっぽど気になってたご様子で頻りにどんな方なのかと聞いて来たんです。でもあたしは何も言いませんでした。言いたくなかったのです、だってあたしがその時うかつに言ったことが、おばあさんに変に影響してしまうことを恐れたからです。そんなことにでもなれば紫音さんにご迷惑が掛かりますからね。でもおばあさんは、さすが懐の深いお方らしく、そういうあたしの不遜な態度を許して下さったのです。そういうおばあさんのいらっしゃるこの柏木家に、どうしてあたしが関心を示さないわけがあるでしょうか。亮さんあなたを含めて、あたしはこのような方々がいらっしゃるご家族に深い尊敬の念を持つようになりました。あたしはだからこそ、あなた方ご家族に関心を持つようになったのです。それが原因だと、あたしはあえてそう言いますわ。それでも、あなたはまだ何かご不満でもあるのでしょうか?」
「禮子さんのおっしゃることはよく分かりました。それでは一つぼくからお聞きしてもよろしいでしょうか。いやあなたが、それほど興味を示して下さることは、確かにぼくとしても柏木家の一員としてとても嬉しいですが、しかしあなたにとって一番重要なことは橘氏とのご結婚をどうするかってことではないでしょうか?」ここで、一瞬禮子の心臓が止まったのではないかと思うくらい息が出来なくなったのだ。あれほど解きたかったその難問が、突然亮本人の助けによって解けるかも知れないと心が震えたからである。
「それはまたどういうことでしょうか?」ここで彼女は、極めて慎重に彼の本心を見極めようとするのだった。「確かに橘さんとの結婚は、あたしにとって一番重要な問題だとは承知しておりますが、しかし、あなたはそのことでどうしろとおっしゃるのですか?」
「どうしろとはまたずいぶんなご発言で、それとも本当にお忘れになったのですか?あなたがおっしゃったお言葉を」
「あら、あたし何か言いましたでしょうか?」
「何か言いましたでしょうかって、それはまた重ね重ねの呆れたご発言で、いくら何でもあなたらしからぬ言葉だと思うのですが。それではぼくから、あなたがお忘れになったその言葉を、ここでみなさんにお話ししてもよろしいのですね?」しかしこの突然発生した亮の暴走は、禮子にとってはそれこそ願ってもない幸運が訪れたと見て取るべきものだったが、それでも一方から見れば、とても危険なことでもあったからだ。それは大混乱が起こることを覚悟しなければならない異常事態が、これから始まることでもあったからだ。従ってその質問にどう答えるかは、彼女の運命を決める極めて重要なものになるので、彼女は慎重にその言葉を選びながらこう言うのだった。
「亮さん、あなたは本当に以前から頼りになるお人だと思っていましたわ。あたしの重要なすべての出来事にあなたが絡んでいましたからね。よくも悪くも影響してきたのです。ですから今回もどうかあなたのお力で、あたしの人生を変えて頂きたいと思いますわ」
「それは、いったいどういう意味なんでしょうかね。ぼくのような頭の悪い人間には何のことやらさっぱり分かりませんが、しかしただぼくだって常識のある人間ですからね。何もここであなたが嫌がることを無理にしたいとは思っていませんよ。そこは安心して下さい。ぼくもちょっとどうかしてました。ああみなさん、これは別に何でもないのです。ですからどうか、あまり考え過ぎないで下さいね。まあ二人だけの秘密とでも言っときましょうか。いや、こういう言い方も実にまずいですね。まるで誤解してくれってわざわざ白状しているようなもんですからね。でも、ぼくにとってはもうそんなことはどうでもいいのです。誤解されようが、何されようがぼくの人生は、ある意味なるようにしかならないと思っていますのでね」
「いや亮さん。さっそく私はあなたの言葉を誤解するかも知れませんよ」こう言ってきたのが、橘氏本人であった。彼は誤解どころか、そこに正解を見てしまったわけだ。つまり、この下手なお芝居そのものが見る人が見れば、それこそ迫真の演技に見えてしまったというわけである。




