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しばらくして紫音がようやく二階から降りてきたのだが、なるべくなら父親が居ないことを願いながら、それこそ音がしなように一段一段そっと降りて来たのだ。ところがその父親がまだ居るではないか。彼女はどうしたものかと一瞬考えると、即これは戻るべきだと判断してゆっくりと静かに身体の向きを変えて、階段を一歩上がろうとしたところを父親に気付かれてしまい、おまけに声まで掛けられてしまったのだ。
「ああ、紫音、いったいどうした。どこか身体の具合でも悪いのか?」と、娘が戻ろうとしたことには彼もそれとなく気づいてしまったのだが、そこはあえて見なかったことにして、いかにも昨夜のことなどすっかり忘れたような優しい声で娘を気遣うのだった。そこには確かに親が子を思う素直な心情が感じられ、決してわざとらしい態度などどこにもなく、もし昨夜の事がなければ彼女もきっとそれに見合う態度で父親に応えていただろう。それくらい自然な物言いだったのだ。しかし実際はと言えば、彼女はそれに対してはっきりとは答えず、ただ曖昧なぎこちない笑顔でその場をやり過ごしてしまったのだ。おそらく娘からすれば昨夜のこともあり、そう簡単に父親が信じられるわけもなく、一見して父親らしい優しい振る舞いではあったのだが、自分を守るためにもできるだけ用心するに越したことはないと思ったのであろう。彼女は妹がうまく言ってくれただろうかと不安に思いながら、いつも自分が座る椅子ではなく父親から一番離れた隅っこの椅子に腰掛けるのだった。もちろんこういうところにも何かしらの葛藤があったと考えても不思議ではないのだが、彼女はなぜか躊躇なくそういう行動をとったのである。「お食事はどうされますか」と言うばあやの質問に「それじゃ、コーヒーにパン一切れ、ああ、それと蜂蜜もお願いね」と言いながらも父親のほうは極力見ないようにして、決して本意ではないのだが、このさい父親のことは完全に無視してこの場を何とか耐えしのごうと覚悟しているようにも見えるのだった。というのも絶対昨夜のことをまた蒸し返してくることは目に見えていたので、それだけは何としてでも阻止したかったのだ。それが証拠に、彼女の父親を強く意識した物言わぬその鉄壁の守りの姿が分かりやすいくらい饒舌にこう語っていたからだ。『お願いだから、私に話しかけないでね』と。父親も娘のその緊張した姿勢からそれをはっきりと感じ取ったので、こういった娘の無言の圧力に父親としても今までに感じたことのな違和感を持ち、ともすれば自分がすっかり拒絶されているようにも見えて『やれやれ、これじゃ、父親の面目丸つぶれだな』と苦り切るも、言葉をかけてみる勇気などはなから失せていたのだ。しかし、こんなことで諦めるような男ではないので、ここはひとまず一歩引き下がって、娘の気持ちを考えて、しばらくは何も言わず黙っていることにしたのである。するとそこに息子の貴臣が欠伸をしながら、まだ半分夢の中にいるような覚束ない足取りで階段を降りて来たのだ。
彼は大学生だが、最近はどうやら学校へも行かず、何をしているのかそれさえ誰も知らなかったのだ。もっとも最初のうちは彼なりに大学というところに大きな期待を持って行ってたのだが、次第にこれはどうも変だと、つまり大学生活があまりにも自分の思っていたものとは違っていたので大きな失望を感じてしまったのだ。こんなことなら何もわざわざ大学に行ってまで勉強する必要などなかったのではないか。大学はもはや就職するためだけの単なるステップにすぎなくなっている。大学のブランド化がそれに拍車をかける。学問がしたいから大学に入るのではない。たんに箔をつけたいだけなのだ。こういう疑問が次々と彼の若い頭脳を襲い、そしてその行動を狂わせる。しかし、彼のような純粋な精神を誰も笑うことなどできないのだ。ところが世間は顔をしかめながらこう言うだろう。まあ、そんなことを今さら言ってもしょうがないではないか。ここは一つ生きるために大学を自分の将来のために大いに利用すればいいだけのことだ。と言って彼の尻を叩く。なるほど自分はそのうち世間に出て行って働かねばならない。そして結婚して家庭を持ち子供が出来て自分は老いて死んでいく。そういう分かり切った生活がおそらくこの先自分を待ち受けているのだ。実に恐ろしいことではないか。いったいそこにどんな希望を見いだせというのだ。そういう自分を想像しただけでも、絶望して生きることを断念するはっきりとした理由になるのではないのか。とこの青年は思ったわけである。もちろん、こういう苦悩は青年のようなもともと希望に満ち溢れている人間だからこそ起きるジレンマであり、この時期特有の希望を捨てられないからこそ起きる絶望なのだ。つまらぬ人生を送るくらいなら一層のこと死んでしまった方がずっといいと思うくらい生命力に溢れた人間なのだとも言えるのである。彼は、このようにいささか問題のある人間だったのだ。要するに世間的に見れば単なる変わり者で、世間並みの人生に何の価値も見出せないでいる人間と言ってもいいくらいである。確かにこの家族は誰を見てもそれなりに変わっていて、こう言ってもあながち間違ってはいないと思うのだが、つまり世間によくある普通の人々とはどこか違った人生を意図せずして歩いている人達と言ってもいいくらいである。こんなふうに言うと、何か彼らが特別な人間のように思われるかも知れないが決してそうではなく、こういうことは誰にでも起きていることなのだが、なかなかそういうことに気づかないで生活している人達の方が多いのではないかと思われるのである。
われわれは自分でも知らぬ間になぜかこの世に生まれて来て、どうやら自分のあまり褒められたものとは言えない人生を強いられているわけである。そういった驚くべき事実は運命とも呼ばれ、自覚云々という以前にわれわれに与えられている課題なのだ。この世に生まれてきた以上、死にたくなければ生きなければならないというわけだ。そんなこと誰が決めたのかということはここでは不問に付すが、要するに誰もが感じている人生に対する疑問、その疑問にどう答えるかは個人個人の生きる上で決めて行くしかないわけである。自分が死ぬ間際、果たしてこの人生とはいったい何であったのかと考えたとき、自分の人生がたとえ間違いだったと思えるようなことがあったとしても、自分が信じてそう生きた以上それはそれで正しい人生だったとも言えるのだ。しかし、生きるということは、少なくとも自分らしく生きるということは、もうほとんど間違いを犯すに等しいことではないだろうか。どんなに正しく生きたとしても人間はどこかで間違ってしまうわけだ。確かに人は生きる上でなるべくなら間違わないことを望むのは正しいことではあるが、なぜか真剣に生きれば生きるほど人は間違いを犯してしまう生き物なのだ。それはやはり人は人生に正解を求めているからではないのか。しかし果たして人生に正解などというものがあるのだろうか。
貴臣は半分寝ぼけまなこで部屋に入ってくると、そこに姉がいることにちょっとびっくりして「ずいぶん珍しいですね。こんな時間にお食事とは。いったいどうされたんですか?」彼もどうやら部屋の空気を察したらしく、やけにニヤニヤしながらこう聞くのだった。父親は、彼を見て娘との間に漂う気まずい空気を変えるには恰好の人物だと思い、彼を巻き込んで何とか娘ともう一度話しをしたいと思うのだった。
「おい貴臣、お前最近大学に行ってないらしいな。お前の友達の親に、この間たまたま会って「おたくの息子さん、大学に来てないようですね。うちの倅が何かあったのかって心配してたもんでね。ちょっと聞いてみたんです」って、いきなり言われて面食らってしまったが、反対にこっちが知りたいくらいだって言っといたよ。まったく親泣かせの出来の悪い息子を持つと、意外なところで余計な赤っ恥を搔くという見本みたいなもんだ。おれはな、お前を信頼して今まで余計なことは言わないできたが、これでも一応お前の親だ。息子が大学へも行かず毎日ブラブラしているのを黙って見ているわけにもいかんのだよ。お前は大学でいったい何がしたかったのだ?あれほど受験勉強に苦労して、ようやく入った大学に何で行かないのか。まったくわけが分からんじゃないか。おい、何とか言ったらどうだ」
父親は、いかにも親として言うべきことを、ごく当たり前のように言ってみただけだが、もちろん腹から心配してのことではないのだ。そんなことは息子だって百も承知で、こんなことを今言ってくるというのもいつものおやじからは考えられないことなので、おそらくこれには何かしらわけがあるのだろうと、さっそくこの奇妙な状況に胡散臭さを感じるのだった。
まったく男親とは実に情けないものだ。親としての威厳など自分が思っているほど子供はちっとも感じていないのだから。たまに親らしいことを言ったところでそれはあまりにも上滑りでちっとも効き目がないのだ。要するに身についていないのである。身についていない親心など子供ははっきりと見抜くし馬鹿にするだけだ。そんなわけで父親として当然のことを言っても、残念ながら息子はまともに取り合うこともなかった。逆に胡散臭いと疑いだした。ところが、おもしろいことに、この息子は、そういう父親を一見馬鹿にしたような態度で接してはいたのだが、決してある一線を越えることはなかったのだ。その理由が、どうやらこの男は父親としては嘘ばかり吐いていて信用できなかったのだが、自分の人生にだけは嘘を吐かずどうやら正直に生きていると思っていたからである。
貴臣は飯を食いながら、新聞を覗き込み父親の話しなどまったく興味がないという顔をして、しばらく新聞を読んでいたが、いきなりフンと鼻で笑い、いかにも下らん記事だと言わんばかりの悪態を吐くのだった。
「いやはや、新聞というものはわざわざ金を出して読む物ではなくなりましたね。こうもつまらぬ情報ばかり読まされちゃ、そりゃ読者も呆れてついて来なくなりますよ。本当に新聞の凋落振りには言葉を失いますね。でも歴史を見れば同じようなことが起こっていたことが分りますね。石油の出現によって石炭がその需要を激減させたという歴史とまったく一緒じゃありませんか。新聞はその轍を踏むのでしょうか。まあ、まったくなくなるということはないと思いますが、以前のような力はもはや期待できないのではないかと思いますね。しかし新聞も歴史という残酷な流れには抗することが出来なかったということでしょうか。悲しい運命ですね。まるで消えゆく廃線のようにみんなに惜しまれながらこの世から消えて行くしかないのかも知れません。もうあと十年二十年すれば団塊の世代と言われる人達はこの世から嫌でも消えて行きますからね。それとともに新聞もその使命を終えるのかも知れません。ねえお父さん。そうは思いませんか」彼は新聞を無造作に脇にどけて父親の胡散臭い親心など無視してこう言うのだった。
「お前もそうやって人の話しを逸らすのが実にうまいね。いや、そうは言っても新聞だってまだまだその存在を世に知らしめるだろうと私は思うがね。もっとも、それには思い切った改革が必要だがね。もう紙の媒体というのは如何にも古いよ。これからは思い切ってネットにシフトすべきだと思うんだ。そうしないとそれこそ紙とともに滅びてしまかねないからね。もちろん彼らだってバカじゃありませんから、その辺のことは考えているとは思うがね。でも彼らの未来は彼らが決めるしかないのだよ。お前だってそうだ。お前の未来はお前が決めるしかないんだ。だからいいか、今お前がしてるような生活がいつまでも続くなんて思わんほうがいいよ。ところで、父さんな、お前達にはまだ言ってなかったが、今度市長選挙に出ようと思ってるんだ。突然こんなことを言うと、きっとお前達の顰蹙を買うだろうと覚悟はしとるがね。しかし、これは決して単なる思いつきで決めたことではないのだ。こう見えて、いろいろ考えてはいるんだ。私も長いこと市会議員としてこの町を良くしようと頑張ってきたが、議員だけでは何分限界があってな。ぜひ市長になって、それ相応の仕事がしたいんだ。どうか私の最後の仕事だと思って協力してくれないか」
「へえ、そうですか。でも市長なんかになって、いったいどんなことがしたいんですか?まさか世のため人のためなんてことでもないんでしょう?それよりか案外お父さんも野心家なのかも知れませんね。お祖父さんのことは、いつだったかお母さんから聞きましたよ。なんでも政治家だけにはなるなという遺言を残して死んだみたいじゃありませんか。でも、なぜそんな遺言を残して死んだのか、よかったらもっと詳しく聞かせてもらえませんか。とても興味があるんですよ」
「いや、遺言と言っても、ちゃんとした内容のあるものでもないんだよ。爺さん死に際に、ぼそぼそ譫言のように唸っただけでね。正直よく聞き取れなくって実に困ったことだけはよく覚えてるよ。まあ、おやじは、そもそも政治家には向かなかったんだ。あいにくとその時期はごみ処理場の件で町中を巻き込んでの大騒動の真っ最中だったにもかかわらず、よせばいいのに周りからいいように煽てられ、担がれるとご本人すっかりその気になって、まったく身一つでその嵐の中に突っ込んだってわけさ。もっとも本人は落ちたって何も失うものはないのだからある意味気楽なもんさ。ずぶの素人がその気になるといかに恐ろしいか、奴さん市民の心をどう勘違いさせたのかよく分からないが、がっちりと摑んでしまったのだ。もう開票する前からその当選が決まっていたようなもんだからね。しかし、そういう狂い咲きみたない強運は結局は長続きしないものだ。あとはもう何がなにやら分からないうちに破綻しまったというわけさ。おやじは人はとても良いのだが、突然カッと頭に血が上るタイプの人間で、そうなるともう自分がどう動くか自分でも分らなくなってしまうところがあるんだ。それが結局仇となったというわけさ。そういうわけで政治家としては失敗したが、私はそんなヘマはしないつもりだ。私はおやじのように簡単に興奮して政敵を怒らすようなそんなバカなことをする人間ではないと思ってるが、それでもやはり頭に来ることは実際にあるからね。しかし、それでも何とか我慢して相手の意見を頭から否定するようなことはしないよ。それは長年の政治生活で身につけたいわば私の生き方だ。そもそも大きな目的のためには私のちっぽけな欲望など問題にもならんのだよ。それに私はそれほど主義に凝り固まった人間でもないしね。相手の言うことがそれほど変でなければ、何も無理に強情を張る理由もないと思ってるんだよ。ごみ処理場の建設もその後うやむやになって立ち消えた格好になってしまったが、それでもその問題は今でも燻り続けていることには変わりはないんだ。私はね、その問題に一つの方向性を見出せないかとずっと考えているんだよ。いや別にその話を蒸し返すつもりなどないがね。今までだってこの町のことをよく研究し地道に色んな人達とも交流してきて、それなりに自分の足場を築いてきたつもりだ。だから今度の立候補も、そういう流れでたどり着いた私の最後の仕事だと思ってるんだ。だから出る以上何としてでも当選しなければならない。それには是非とも家族の協力が必要なんだよ。だから、お前にしても、もう少し自分の人生を見つめ直してほしいんだ。分かるだろう。言ってることが。市長の息子があまりだらしがない生活をしてちゃ困るんだよ。だから、お前も大学をちゃんと卒業して社会人として責任を果たしてもらいたんだ」
『なんだ、そういうことか』と貴臣は思うのだった。『選挙にかこつけておれをまともな人間に仕立て上げようって腹だな。おれの無様な生活が栄えある市長の体面を傷つけるってわけだ。しかし、そんな心配は市長になってからしてくれよ。やれやれ困ったもんだね。それにしてもこの男は、いったい何を考えているのだろう。まったくわけが分からん。歳は取っても野心だけはどうやら人一倍あるようだ。いや、ひょっとして人間は歳を取るほど権力欲に取り憑かれるのかも知れない。肉体的な力が弱まるから、その一方で別の力が必要になるってわけだ。要するに、何かが彼の中で目を覚ましたんだ。とんだ闇の勢力が目覚めたってわけだ。しかし、そうなると、おれの生活もこのままではすまなくなるな。まったくとんだとばっちりを食う羽目になりそうだ。いや、おれだけじゃない、姉貴もその力の犠牲になろうとしているのかも知れないな。姉貴の結婚と、今度の選挙はひょっとして何か関係でもあるのだろうか。あまりにも時期が重なり過ぎている……』
彼もその辺りのことを知りたいと思ったのだが、その前にどうしても父親に言って置きたいことがあったのだ。それは彼も何となく心の中ではそうなりたいと思い始めていたことであり、この際ここではっきりと父親に宣言して置いた方がいいのではないかと思ったのである。
「ええ、それはよく分かります。ぼくだってこう見えてちゃんと勉強はしてるんです。何も大学に行かなくたって勉強はできますからね。どうかあなたの息子を信じて下さい。いくら出来の悪い息子とはいえ、お父さんをがっかりさせるようなことはいたしませんから。その点どうかご心配なさらなくても結構です。もちろんちゃんと大学だって卒業しますよ。もっとも問題はその先にある。果たして自分が何をしたいのか残念ながら今のところ決まっていません。ただお父さんを見倣って政治家にでもなろうかって思うこともあるんです。まあ、これも選択肢の一つとして考えてはいるんですよ。ですからもし今度の選挙でお父さんが市長にでもなったら、ぼくは本気でお祖父さんが呪った政治家への道を進むかも知れませんよ。それはどうか頭の隅にでも置いといて下さい」
「お前の口からまさかそんな言葉が聞けるとは、まったく驚いたよ。それがもし本当なら、いや、まあ、私は別に反対はしないよ。ただ、そうか、それなら今度の私の選挙はちょうどいい勉強になると思うから、お前もよく見てるといい」父親はその真意はさておき、息子の口からそのような言葉が出たということは驚きでもあり何となく嬉しくもあったのだ。
「ええ、よろこんで見物させていただきます。もちろん協力もしますから安心してください。ところで、華音から聞いたのですが、なんでも姉さんが結婚するそうですね。しかし、まあ、お父さんの選挙といい、姉貴の結婚といい、なぜか最近のわが家では色んなことが重なって何かと慌ただしくなってきましたね。それにしても姉さんの結婚は意外だったな。ぼくは、ずっと姉さんは独り身を貫くだろううとなぜか思ってましたのでね。しかし、意外だったなあ」と、やたらに意外を連発して驚いてみせるのだった。
「そんなに意外かね。紫音の結婚が」と父親は怪訝そうにこう聞くのだった。
確かに貴臣が意外だと言ったその真意がどういうものなのか、それはこの深窓の令嬢が結婚というものをどう捉えていたのか、ある一つの奇妙なエピソードによってその一端を伺い知ることができるのだ。またそのことによって消すことのできない、ある印象を家族全員に植え付けてしまったのである。それは母親が亡くなって一年ほど経ったころ、あるところから初めての縁談話が舞い込んだことがあった。彼女はその時分まだ母親の死というショックから完全に立ち直っていない時期でもあってか、そういう結婚とか縁談とかいったものに関心を持とうにも心がまったく受け付けない状態だったのだ。そういう時期に父親から一枚のお見合い写真を見せられ「今度こういう男の人がお前にぜひお会いしたいという話しがあってな」と言われてもあまり気乗りしないらしく、ただぼーっとその写真をしばらく見ていたのだが、やおら「こんな写真一枚で私の人生が決まってしまうのでしょうか?」と言って父親を唖然とさせたという事件があったのだ。それ以来、父親は娘の心情を計り兼ねて、すっかりそういう話をしなくなってしまったのである。そういうこともありしばらく二人の間での結婚話は禁句となり遠ざけてはいたのだが、それでも偽らざる親心からすれば何とか結婚させたいとは思っていたのだ。今度のこともそういういきさつを引きずっての難しい交渉だったのである。結果はご存じの通り失敗してしまったが決して諦めたわけではない。いや諦めきれないそれなりの理由があったので、そのぶん執拗に話しを復活させようとしていたわけである。それだけのメリットがこの結婚にはあるとこの父親は考えていたからである。これも一つの思い込みなのかも知れないが、確かにある一つの空想が何らかの理由で力を持つと、どんな困難なことにもめげずに突き進むことができるから不思議である。つまりこの結婚が自分の選挙にきっと有利に働くに違いないと思ったのだ。相手はこの町に財政的な面でも多大な貢献をしている大企業の御曹司だ。どうして影響がないと言えるのだ。それにそういう大企業の未来ある御曹司と姻戚関係になれば、わが家の名誉にもなり、もちろん娘の幸福にも繋がるものだと心から信じていたことは間違いないことなのだ。いずれにせよ、そういうはなはだ問題のある親心がたとえ彼の心に潜んでいたとしても、いや、そういう欲得ずくの理由があるからこそ、なおさら執拗にこの結婚に拘っているわけである。もちろんそんなことは娘には内緒であることは言うまでもない。そういうわけで、家族はそんな父親の思惑など知るよしもなく、紫音が結婚するんだという話しを聞けば、確かにそれは晴天の霹靂でもあり、いわゆるわが家の大事件とでもいうべき出来事でもあったのだ。貴臣は姉を見ながらこう言うのだった。
「いやね、なんか姉さんを見ていると、どこか危なっかしくてね。結婚なんかしてかえってひどい目に遭わなければいいのだがって思ったりして。もちろん余計な取り越し苦労ですがね。でも、一番大事なのは、結婚したから幸せになれるなんて思わないことですよ。もっとも、それも無理な相談かもしれませんね。誰も最初から不幸になることを願って結婚するわけではないからです。でも結局は、結婚は誤解で始まって正解で終わる勘違いの歴史なのかも知れませんね」
「お前も、ずいぶんと悲観論者なんだな。驚いたよ。でも今度の結婚話にはそういうものとはちょっと一味違ったものがあるんだよ。だから決してお前の言うようなことは起こらないと私は思ってるんだ」彼は、息子の意外な考えに驚いたものの、ここはぜひとも結婚とは決してそんなものではないことを強調したかったのか、それとも娘に昨夜の件で隠れたメッセージでも送ったつもりでいたのか、それは定かではないが、意外にもここに来て思いもよらない攻撃を娘から受けることになったのだ。それは昨夜以上の衝撃となって彼を襲ったのである。
「貴臣、私はなにも結婚するとは言ってないわよ。そのお話しは、お父さんが勝手に持ってきたもので、私の気持ちとは何の関係もないの。それにそのことはゆうべお断りしたじゃありませんか。だからもういい加減お父さんも考え直してくれませんか。なんでそうやっていつまでもその話しに拘っているのかまったく理解できないんです。それにお父さんに言われなくても、私だってこれからのことぐらいちゃんと考えているし、それに自分の将来は自分で決めますから、だからもう……」その話しは二度としないでくれと強く釘を刺したわけである。この紫音の断固とした調子が、この父親のある意味一番弱いところをもろに傷つけたのだ。しかし、一見こういうことは、どこの家庭でも起こり得る、ありふれた親子の確執のように思われるかも知れないが、この家ではまったく違っていて、彼女の口から今言ったようなことが噴水の如くほとばしること自体がもう太陽が西から昇ったようなもので、とても信じられないことだったのだ。父親からすれば、今までそんなことが起ころうとは万分の一も思っていなかったからで、というのも生まれてからずっと彼女が父親を批判することなど一度だってなかったからだ。それが目の前で突然起こったのだ。そりゃ、昨夜以上に腰が抜けるほど驚いたのである。これはひょっとして今頃になってわが愛すべき娘は強烈な反抗期を迎えたのかと疑っても不思議ではなかったのだ。娘のこのような変貌振りはいったい何が原因なのか。父親は父親ですっかり慌てふためき目を剥いたまま言葉も出なかったが、言った本人も少し興奮気味のようで、最初自分が何を言っているのか自覚もないようだった。それもそのはずこうはっきり面と向かって父親を批判するなんて自分でも信じられなかったからである。要するに娘の新たな一面に父親も驚き、本人も今まで感じたことのないスカッとした興奮に大いに戸惑っているというのが本当のところだったのだ。
「へえ、姉さんもずいぶんと言いますね。あれほど従順で父親に意見することなどまったくなかった人がいったいどうされたんですかね。とうとう姉さんも変わるべきときが来たのかな。いや、何はともあれ、それは実に結構なことじゃありませんか。何事も自分の人生は自分で決めるのが一番ですよ。それに、結婚なんてものは、無理にしたところでろくなことはありませんからね。まあ一種の賭けみたいなもんで、もっとも勝つか負けるかは実際に賭けてみなけりゃ分からないってのが困りもんですが」
「しかしな、そうは言ってもこの話は、紫音にとって決して悪い話しではないんだがな」父親はやっと正気に戻ってこう話し始めるのだった。どうやら娘からの強烈な砲撃に手傷は負ったものの何とか持ちこたえたようで、父親もここで黙っていてはいけないと思ったようだ。そこで娘の道理ある批判を何とか自分の舌先三寸で言いくるめて見せなければならないと強く感じたのである。
「その辺のところが、どうやらお前には分からなかったようで、もっとも私の説明不足もあって、お前に不快な思いをさせてしまったようなら私も謝るよ。よく考えてみると、どうやらそのあたりで誤解が生じたんじゃないかと思うんだ。だからその話しは改めてこれからお前に丁寧にしていきたいと思ってるんだ。どうだろう、だってお前はまだ相手の男性のことすら知らないじゃないか。知らないで断るのはどうかと思うのだが。ああそうだ。それなら今度会ってみたらどうだろうか。なんなら私がお膳立てしてもいいよ。お前はただそこに行って相手がどんな男性か、その目で確かめるだけでいいんだよ。断るのはそれからでも遅くはないからね。もし嫌だったら、お父さんに言ってくれれば私がその旨を相手に伝えるだけで、お前はなんら相手の気持ちに煩わされることもなく自分の気持ちを言えるって寸法だよ。相手だってお前が嫌だと言えばそれで納得するしかないし、そこに嫌な感情など起きようがないのだ。だって、お見合いですら相手が嫌だと思えばそれでことは決着するわけだからね。ましてやこれはお前にとってのちょっとした冒険にすぎないからさ。一度くらいそういうわくわくした経験もいいもんだよ。なあ、貴臣、結婚なんてそう深刻に考えることでもないよ。何よりも大事なのはお互いのフィーリングさ。写真だけじゃ何も分からないしね。もちろん無理強いしているわけじゃない。お前の気持ちが何よりも第一だからね」彼は何とか娘をその気にさせたいと思って喋りまくるのだが、そこは冷静に娘が簡単に反論できないように話しを持って行ったので、彼女も相当困った顔をしてうつむいたまま何も言えなかったのだ。これこそ父親の思う壺だった。反論されない以上、自分の話しに道理があったという証拠で、どうやら、この話しはまだ終わったわけではないということにされ、双方の言い分が対立したまま、どうやら曖昧に推移して行くことになってしまったのである。そのことはどうも紫音の性格を考えると極めて分が悪いように思われたのだ。というのも、いつ何時知らないうちに、余りにも呆気なく寄り切られていたなんてことが彼女の場合、実際に起こり得るからだ。