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こうした兄弟の何気ない思い出話は、ついさっきまでの二人の確執を思えばあまりに予想外な光景にも見えるかも知れないが、しかし兄弟なんて案外こんなもんかも知れないのだ。一見取り返しの付かないような喧嘩をしておきながら、一転なにごともなかったかのように会話をしたって何も別に仲直りしたわけではないといった意識はやはりあるからだ。まあ兄弟にもよるだろうが、そこはある一線を越えない限り、会話どころか顔も見たくないといったところまではなかなか行かないのかも知れない。しかし紫音にとってみれば、こういう状況になってくれたこと自体嬉しかったのである。これですべてがよい方向に進んでくれるだろうと期待できたからだ。ところが、この時おばあさんの様子が傍目にも分かるくらい急変したのである。どうやら孫たちが自分の夫のことを話題にしたことが原因だったようで、というのも彼らの話には決定的に間違ったところがあったからである。孫たちにとってみれば、そんなことなど分かるはずもなかったのでそのような印象を持ったのかも知れないが、おばあさんにしてみればそこにこそ語るのも憚れるような事情が隠れていたからである。なぜ夫は隠者のような生活をしなければならなかったのか。自分がそう仕向けたからである。そうおばあさんは考えていたわけなのだ。すべて自分に原因があったと思っていたからである。その苦しげな思いがその星霜を経た彼女の神々しい顔をまるで悪鬼のような険しい顔に変貌させたのだ。それは今まで思い出すこともなくすっかり忘れ去られていたものが、こうして孫たちの話によって甦りまさしくこの期に及んでこのことを思い出させようとしたのだから、これこそ天の配剤でなくていったい何であろうか。そうおばあさんは信じ、それならもはやそのことから逃げるわけにはいかないではないかと覚悟するのだった。
「お前たちに話して置きたいことがあります」と、おばあさんは何もかも話すつもりで、静かにこう語り始めるのだった。「おじいさんはね、決してお前たちが言うような生き方をしたかったわけではないんですよ。むしろ私がそう仕向けたのかも知れません。恐らくそうだと思います。私は夫の性格はそれほど好きではありませんでした。優しいだけで他に何の取り柄もないような人間でしたからね。もちろんそれはあまりにも身勝手で妻としてとても情けない考えだってことくらいようく分かっています。それでは、お前達に私がどうしてそのような考えをするようになったのか。それに、おじいさんがどうしてあのような生活をしなければならなかったのか、その訳をこれから話して上げましょうね。これを聞けば私たち夫婦がどれほど疎遠な生活をしていたかよく分かるでしょう。でもね、おじいさんはすでにこの世に居ませんので、これはあくまでも私の思いですからね。おじいさんの名誉のためにもそれだけは始めにお断りしておきますね。私にとって夫とはいったいどのようなものだったのか、その出会いはとても奇妙だったんです。二人はなぜか両家の親同士が話し合って、それで何となく決まったような結婚だったわけです。もちろん私たちは初めて顔を合わせただけで良いとも悪いとも話し合うこともなくそのまま結婚したわけですよ。私はそういう親の横暴にむりに反対はしませんでした。ろくでもない男ならすぐにでも別れてやるって気持ちでいたからです。でも夫は実に優しい男だったのです。こんなに優しい男が、この世に居るのかと思うくらい優しい男でした。あまりに優しすぎて、それがかえって何か物足りなく感じたのか、いつの間にかそのような夫が嫌いになってしまったんです。まったく何と言う思い上がりでしょう。何の苦労もなく手に入れた宝石だからこそ、かえって軽んじてしまったのかも知れません。私は夫をまるでそこらに転がっている石ころのように扱っていたのです。そのうち子供が出来ました。ところがそれが恐ろしいほどの難産だったのです。産みの苦しみを文字通り体験した私はその子供こそ本物の宝石だと確信したのです。それ以来夫のことなどもはや眼中にないくらい私の情熱はすべてその子供に注がれました。夫はそれをまるで当然のように黙って見ていました。持ち前の優しさで自分の妻が産んだ子供にかかりきりになるのは当たり前だといった眼差しで、夫のことなどまるで忘れ去ったかのような私の行動を何の文句も言わず許していたのです。そして子供も大きくなり、私は自分の息子に夫にはないある激しい情熱を見て取ったのです。息子は大学を卒業すると自分で会社を興し次第にその会社の業績を上げ、それが今のような大きなものにまでしたというわけです。これこそ私が望んでいたことだったのです。私は夫にそうなることを夢見ていたのかも知れません。それが、そうはならず息子が実現したというわけです。みなさんもうお分かりでしょう。私にとって夫とは、ただのお飾りにすぎなかったのです。私は自分の息子こそ何ものにも変えられないものであり、それに比べて夫など何の価値もないものだと思うようになっていたのです。それでも夫は何の不平も言いませんでした。まるで妻がそう思うのは当然だと言わんばかりの態度を取って見せたりするのです。私はそういう夫をますます嫌いになっていき、今思えば恥ずかしい限りですが、ある時夫に面と向かってこう言ってしまったのです。「あなたは、ただ優しいだけが取り柄の男に過ぎませんが、息子はそんな能なしではありません。彼はきっと天下を取るでしょう」するとさすがに夫はこう言い返したのです。「もちろんお前の言うとおり息子は天下を取るだろう。でもね、お前の大事な息子は私の息子でもあるのだよ」って。私は正直言って、その時思わず顔が紅くなってしまいました。そこまで夫を蔑ろにしていたことに気が付いたからです。ところが呆れたことに私はますますそういう夫を蔑ろにしていったのです。どうして、そういうふうになってしまったのか。それは自分の子供が彼をそのように扱い出したからです。私はただ息子の態度を真似して、夫をますます軽蔑するようになってしまったのです。自分には息子がいる夫などに何の意味があるのかといった態度だったんです。夫など居ても居なくても何の不都合もないとまで考えていたと思います。夫は、そういう私の態度に何も言いませんでした。それ以来夫は自分の部屋に閉じ籠もってしまい、食事の時くらいにしか出て来ませんでした。いったい部屋で一人何をしていたのか。私はそれすら何の興味も示しませんでした。これが、お前たちが言っていた隠者の正体です。私がそういう生き方を夫に仕向けていたのです。もちろん彼としては、そんな生活は望んではいなかったでしょう。もっと息子とも話しをしたかったでしょう。でも私が許さなかったのです。そんな時ピアノの一件が持ち上がったんです。私は息子がどうするのかしばらく黙って様子を見ていました。ところが驚いたことに息子は、父親にピアノを買ってやったのです。それも高級なグランドピアノをです。これには私もびっくりして、いったいどうしてこんなことが出来るのだろうかと思い悩みました。すると今まで夫に取っていた自分の態度が、息子の優しさによって否定されたように感じたのです。このことがあったことでいかに自分の愛情が狂ったものであったかを思い知りました。二人は私なんかよりよっぽど正常な絆で結ばれていたのです。それに引き換え私などは、最初からその異常さに気付いてもいなかったのです。夫はずっと孤独だったんです。隠者のような悟った気持ちではなかったと思います。きっと夫はピアノでその寂しさを紛らわせようとしたのかも知れません。すべては私の残酷な気持ちから起こったことなんです。私の罪は計り知れませんが、もはや取り返しがつきません。おじいさんは最後の最後まで私を恨むこともなく、と私は勝手にそう思っています。いや、そう思いたいのです。でなければ、どうして私の犯した罪に耐えられましょうか」おばあさんはこう言って泣き出してしまったのだ。すると紫音は、すぐさまおばあさんに近寄って、自分のハンカチを渡しながらおばあさんを慰めようとするのだが、おばあさん以上に泣いているものだがらとても慰めることなど出来なかったのだ。
そのうちおばあさんはすっかり泣き崩れてしまい、とてもこのままここに居るわけにもいかなくなったので、柏木の母親が落ち着かせるためにも一旦この場を離れて、自分の部屋に連れて行ったほうがいいと息子たちに言うのだった。彼らも心配し出して、このままおばあさんに発作でも起こされたらそれこそ大変なことになるので、そこは用心のためにこの場からお引き取りを願うことにしたのである。すると紫音も心配になったのかおばあさんの後を一緒について行くのだった。みんなはと言うと、おばあさんの驚くべき懺悔物語にすっかり言葉を失っていたようで、しばらくは誰も言葉を発することもなく、ただお互い何を話したらいいのか分からないままじっとしているしか仕方がないようであった。とはいえ、彼らはそれなりに感動してはいたのだ。しかしその話があまりに生々しかったせいか、この話の後始末をどう付けたらいいのか兄弟そろって頭を悩ますのだった。しかし、いつまでも黙っているわけにもいかず、仕方がないので兄の卓氏がとにかくこの場の空気だけでも変えようと話し始めたのだが、どうやら彼も興奮していたせいかどこか批判じみた格好になってしまったのである。
「まったくこうした話しを聞くと、人間の心がいかに複雑怪奇に出来ているかを思い知らされますね。あの歳になっても、こうした心の闇に悩まされているのだと思うと、人間とは死ぬまで悟り得ないのではないかと痛感させられます」
「それでも、おばあさんは誰にもできないことをして見せたんですわ」と、禮子が何時になく興奮したような口調でこう語り始めるのだった。「きっとおばあさんの心に何かが訪れたんだと思うんです。人生の最後に来ていきなりこのような場面に遭遇したということは、それは辛いことだったでしょうが、それを逃げずに自ら告白したということは、おばあさんのためにはとてもよかったと思うのです。恐らくあたしだったら、ここまで正直に打ち明けることは出来なかったと思います。それだけでも、あたしはおばあさんをとても尊敬しますわ。きっとおばあさんは、あなた方ご兄弟にご自分の本当の姿を知らせなければいけないと思ったのでしょうね。それにしても、たったこれだけのエピソードだけでも、あなた方のおじいさんがどれほど素晴らしいお人だったってことがよく分かりましたわ。こうしてみるとお兄さんは、どうもおじいさんの血を強く受け継いでいるようですわね。どこまでも穏やかで、優しいところが似ているように思えるからです。どうですか?亮さん。弟から見て、お兄さんはどういう方なんですか?先ほどの二人のお話を聞く限りでは何かとてもお二人の関係が、あまりよろしくないようにもお見受けしたのですが」禮子はこう言って、何やら考えでもあるのか、この兄弟のことに関心を示すのだった。
「もちろん、兄さんはとても優しい人間ですよ。弟思いだし、少なくともおやじのように決してぼくをバカにするような態度は取りませんでしたからね。その点で兄貴のことはとても頼りにしていたんです。それが社長の座に着いてからというもの何かおかしくなったように思えてならなかったんですよ。あんなろくでもない会社にぼくを島流しにして、そこで自分たちがしてきた不正もついでに島流しにして闇に葬ろうとしたわけでしょう?何ならその辺の事情を、おばあさんみたいに正直に懺悔してくれませんかね。そうしてくれればぼくのわだかまりもひょっとして解消するかも知れません」
「あんなことを言ってますが、どうなんですかお兄さん?亮さんがおっしゃってる不正というのは、例の次期社長候補のことでしょ?いったい、そんなことが実際に行われていたのでしょうか?」なぜか、禮子はこの問題に関心を示すのだった。まるで二人の間に横たわる、この不正問題の真相を明るみに出して、この兄弟の間に何が起こっているのか、もっとよく知りたいとでも思っているみたいだった。兄の卓氏も、この禮子の意外な振る舞いに、ひょっとして彼女が間に入ってくれることによって、この問題をうまく処理できるのではないかとふと思ったのだ。しかし、それはあまりにも危険なことだとは彼も一応考えたのだが、どうせこの問題は二人の間で決着しなければならないことでもあり、こういう仲介者がいたほうが、二人だけで話すより感情的にぶつかることも少なくなるのではないかと兄は考えるのだった。
「その話しは、正直に言ってしまいますが、実際にありました」と、卓氏は、覚悟を決めて自分達が犯した罪を懺悔し始めるのだった。「たしか社長の話が急浮上したのは、おやじが病で倒れた時だったと思います。ある日おやじに呼び出されて次の社長はお前に決まりだから、もし私に何かあったら後は頼んだよと言われたのです。しかし、ぼくはこの話しには急なこともありあまり乗り気ではなく、一層のこと弟に譲ってしまいたいと思いそのことを恐る恐るおやじに話したんです。そしたらおやじは猛反対してこう言ったのです。「バカなこと言うんじゃない!あいつに社長は無理だ。そんなことは分かり切っているだろう。でもな、あいつだってそのつもりで今まで頑張って来たという経緯もあるから、親としてそう簡単に無視することもできんのだ。それに、あいつはお前とは一つ違いで、お前を長男という理由だけで社長にするのもどこか無理があるしな。そこが難しいところなんだが、それでもわしは最初からお前だけを唯一の候補者だと決めてたんだ。あいつは最初から候補にすら入れてなかったんだ。すべてはお前を社長にするための、まあ言ってみれば引き立て役みたいなものでしかなかったんだ。だから分かってるな。このことは弟には内緒だぞ、いいな。このことを知っているのはわしたちと後二、三人の重役連中だけだ。あいつの処遇はお前に任せるからうまくやればいい」ぼくはね、こういうおやじの何と言うか、いかにも冷たいやり方に腹も立ちましたが、逆らうことも出来ませんでした。ぼくは思い悩みましたが、しばらくしておやじが亡くなってしまい、ぼくが予定通り次期社長に就任したというわけです。弟のその後の処遇は、確かに兄として厳しすぎるのではないかと思われるでしょうが、ぼくとしてはそれなりに考えがあったわけです」
「なるほど、そうしますと、この問題は何もお兄さんに責任のすべてがあるというわけでもなさそうですね。むしろ、その元凶はお父様の独断にあるといってもいいのではないでしょうか。ねえ、亮さん。そうは思いませんか」
「今初めて、そういう事情があったのを知って、ぼくも驚いていますが、しかし、おやじならやりそうなことですね。いや、それでよく分かりましたよ。ぼくがどれほど信頼されていなかったかをね。まあ、これが現実なんでしょう。ぼくの人生にいつもつきまとっている、どうすることもできない現実なんですよ。ところで、禮子さんは、さっきから聞いていると、いったいどういう立場に立ってぼく達のことに首を突っ込んで来るんでしょうか?何か目的でもあるんでしょうか。それとも単なる好奇心ですか?いずれにしても実におもしろいというか、奇妙というか、それはそれでとても興味あることではありますがね。しかしまあそれはそれとして、この忌まわしい問題も今となってはすでに過去のことでしかありません。でも正直に言ってしまうとその当時だってぼくは社長などという地位にあまり興味などなかったんですよ」
「えっ、それはまた意外な発言のように思えるんですけど。だって、あなたは、さっきまであれほど自分の地位に拘っていたじゃないですか。それって、どう理解すればいいのでしょうかね」こう言って疑問を投げかけたのが、先ほど亮と激しくやり合った橘氏だった。
「いや、ぼくはもともと社長などという椅子にそれほど拘ってなどいませんでした。今だってそうです。ですから兄さんにお願いしたのは、ただ以前のところに戻りたいということなんですよ」
しかし、この弟の発言は、兄にとってみればとても意外なというか、自分の疑惑を解消させるほどのインパクトを持っていたのだ。
「それじゃ亮さんは、ただ以前いた部署に戻りたいだけなんですか?」兄はこう言って、その発言が本当のことなのかどうか確かめようと焦るのだった。
「そうです。それ以上のことは何も求めてなどいませんよ。ですから、どうかぼくのたっての願いを聞き届けてほしいのです。それだけがぼくの願いなんですから」亮は、なぜか急に兄の様子に変化を感じて、これはひょっとして上手くいくかも知れないと思い、ここは絶対押しまくって何としてでも物にしてやるんだと意気込むのだった。




