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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 紫音のこうした断固とした態度は、さすがに男性諸氏を大いに慌てさせたのだ。つまり、こうした嘘偽りのない彼女の真摯な言葉は、何のためらいもなく彼らの考えを変えさせ、まったく彼女の言う通りだと彼らを大いに反省させることに成功したわけである。実際にこの時の彼女は、彼らの態度しだいでは本当に帰る覚悟でいたのだ。こうして再び穏やかな雰囲気に曲がりなりにも戻ることができたのはよかったのだが、しかしそう簡単にこうした感情的なもつれは消えるものではないのでなかなか以前と同じような雰囲気に戻ることは難しかったのだ。とはいえ、そこはお互い子供ではないのでいつまでもこだわっているわけにもいかず、何とか表面上だけでも普通の態度で過ごそうと思うのだった。そこで紫音は、こうしたどこかギクシャクした雰囲気を変えようと、ある思い切った行動に出るのだった。彼女はさっき自分が言ったことを実行しようと考えたのである。つまり、これからミニコンサートを開こうと決心するのだ。彼女はそのことをみんなに伝えると、身の処し方に苦労していた彼らにとっては、願ってもない時間の過ごし方が出来ると思いすっかり喜んてしまったのである。そこでグランドピアノが置かれている広間に、みんなゾロゾロと連れられて行き、ちょっとした演奏会場に変身したその部屋に、しばらくして艶やかなドレス姿の紫音が登場した時、まるで本物のピアニストが現れたかのように、一瞬部屋の中がどよめき拍手が湧き起こったのである。確かにみんなの注目を一身に浴びたその時の彼女の姿は、誰もがプロのピアニストが弾いているのかと思うくらい、その素晴らしい演奏にしばし時を忘れ、彼女の縦横無尽なテクニックにただただ感嘆するのだった。するとこの時、亮がリクエストを言ってきたのだ。

「紫音さんにお願いがあります。例のあの曲をまた聴きたいのですが。ほら、あのサティのジュ何とかという、ちょっと曲名を忘れてしまいましたが、お分かりでしょう?」

「ええ、ジュ・トゥ・ヴーでしょ。いいわ。それじゃ、この曲を私たちの未来のために捧げましょうね。いや、それより両家のために捧げたほうがいいかも知れませんね。そうしますわ。それでは、あなたと、そしてご家族のために心を込めて演奏させて頂きます」彼女はこう言って、以前彼のために弾いた曲を、今度はみんなの前で思いを込めて演奏してみせるのだった。この時、柏木の母親がおばあさんを車椅子に乗せて広間に入ってきたのだ。おばあさんは彼女の弾くピアノの音色にすっかり聴き惚れてしまったのか、ピアノとはこんなに素晴らしい楽器なのかとなぜか感慨を新たにしたのである。演奏が終わると拍手が起こり、みんな立ち上がって彼女の演奏を讃えるのだった。おばあさんもすっかり感動して拍手しながら誰にも気づかれないようにそっと目頭を拭ったのだ。

「とても素晴らしい演奏でしたね紫音さん」と、おばあさんがこう言いながら、みんなの前に出て来るのだった。「それに私の目に狂いはなかったと、とても満足しておりますわ。いえね、あなたが先ほど、みなさんにお話ししていたのを陰で聞いておりました。あなたのどこか理知的で、それでいてどこまでも優しい感情に包まれたあなたのその心は、これからの柏木家にとって、とても大切な宝になると思うからです。こんなことを言ったからといって驚いてはいけませんよ。誰にも、その人だけがもつ役割というものがあるのです。それはとても大事なことなんですが、残念なことにほとんどの人はそのことにまるで気が付いていません。でも、中にはまるで誰かに導かれるように、そのような生き方をしてしまうことがあります。本人はまるで自覚がないままにね。そういうことがあるんですよ。世の中は、まるで当たり前のように毎日過ぎて行きますが、それでも誰も何も気が付かないまま自分の運命を生きているのです。まあ、こういうことは若い方にはあまり聞かせたくないのですが、でも、この方は常に誰かに見守られているみたいで、決して道を外れることはないと思われるからです。もし外れるとしたら、それは彼女自身が自らそれを選んだ時でしょう。でも安心しなさい。たとえそうなったとしても、あなたは決して揺らぐことはないでしょう。ですからどうかご自分の信じた人生を生きて下さいね。それがあなたの運命だと思って」

「おばあさん一つお聞きしてもいいでしょうか」

 この時、おばあさんは、彼女が自分の話にさっそく興味を抱いてくれたのかと嬉しく思い、「もちろんいいですとも。何でも疑問があったら言って下さい」と、彼女が何を言ってくるのだろうとそれなりに期待してしまったのだ。ところが、それがあまりにもつまらないことだったので、おばあさんも、いささかがっかりしてしまったのである。

「どうして、ここにこんな立派なグランドピアノがあるのでしょうか。いきなり、変なことを聞いて申し訳ありません。でも、このピアノを見た時、不思議に思ってしまったんです。いったい誰が弾くのだろうかと疑問に思ってしまったからです。もちろん、もしかして誰かご家族の方が弾かれているのなら、それはそれで納得いたしますが」

「私もね、それを聞かれるととても辛いのですが、でも、あなたがどうしても聞きたいというのなら、仕方がありません。お話しいたしますが……」おばあさんは、なぜかその話しをすることを嫌がったのだ。

「もちろん、どうしてもお聞きしたいですわ」と、彼女は、その嫌がる話しをなぜか聞きたがるのだった。まるで、その話しを自分はぜひ聞く必要があるのだと、そんな確信でもあるかのように執拗におばあさんに食い下がったのだ。仕方ないのでおばあさんも渋々だが話し始めるのだった。ところが、これがまたおばあさんにとって、とてもいい結果を招くことになったのである。

「このピアノは、私の夫が、そうですね、もう十年ほど前になると思いますが、自分が弾くために買ったものなんです。紫音さん笑わないで下さいね。その時、夫は七十も後半だったと思います。なぜか知りませんが、突然ピアノを習いたいと言い出したんですよ。そんな年寄りが、それも音楽などまったく興味もなかった夫が、どういう風の吹き回しでそんなことを言い出したのか、まったく理解できませんでしたが、それでもぜひともピアノが弾いてみたくなったんだと言って聞かないのです。息子も、いい加減呆れていましたが、それでも本人がそれほど弾きたいと言っているのだがら、無理に止めろとうのも気の毒なので、息子はついに買う決心をしたのです。そこでどんなピアノを買えばいいのかと悩んだのですが、息子はそれなら一層のこと、この家に相応しい最高のピアノを買ってやろうと決心したのです。夫はとても喜んで、それこそピアノが届いたその日から毎日、先生に付いて熱心に練習し始めたのです。まったく、どう考えればこうした夫の行動を理解できるというのでしょう。私も、そのときは深く考えることもなく、ただやりたいようにさせていました。どうせ中途で挫折するだろうと、半ば冷ややかに夫の道楽を見ていたのですが、一向に止める気配がないのです。それこそ何かに取り憑かれたように毎日熱心にピアノと格闘していたんです。先生もそれは驚いて、これほど熱心に毎日練習していれば、一年も経たないうちに上達するだろうと太鼓判を押すんですよ。確かに夫はみるみる上達して、易しい曲なら何の違和感もなく安心して聴いていられるほどにまでなったんです。まったく驚くべき執念です。夫はもっと上手くなりたかったのでしょうが残念なことにその願いもむなしく突然亡くなってしまいました。でもその死に顔はとても安らかなものでした。まるで自分のやりたいことが曲がりなりにもできたという満足感でもあったのでしょうかね。夫のそのような最期は、それこそ私に何かを教えてくれました。実は私も夫に倣って最近ピアノを習っているんですよ。で、先ほどのあなたの素晴らしい演奏を聴いて、とっさにこう思ったんです。そうだ、この方にピアノを教えてもらおうと。ですから紫音さん、あなたがこれから私の先生になってくれることをここでお願いしたいのです。そうして頂ければ、私にとってこれ以上ない喜びであなたをこの家に迎えられますし、これからの残り少ない日々を楽しく過ごしていけるのではないかと思うのです。私にピアノを教えて頂けますか?」

「もちろんですとも、おばあさん。喜んでお役に立たせて頂きますわ」紫音は、感激して涙を浮かべながら、おばあさんの前にひざまずき、その両手を握るのだった。

「よかったですね、お義母さん。孫のお嫁さんに教えて頂けるなんて、それこそ夢のようですわ」こう言って、柏木の母親も、なぜか二人が意外と早くいい関係になれたことに驚いているようだった。しかしこの母親にしてみれば、自分の息子の嫁がいとも簡単に、この気難しいおばあさんを手なずけてしまったことにどこかやっかみのようなものを感じてはいたのだが、それでも、この嫁が自分に対して果たしてどう振る舞って来るのか、それが正直なところ気掛かりにはなっていたのだ。しかし今のところ、この母親は彼女より自分の息子たちのほうが気掛かりにはないっていたのである。というのもこの母親は、弟が兄に見せたその態度に、とてもショックを受けていたからだ。いったい亮は何を考えているのか、彼女自身もまったく想像すらできなかったのだが、それでも兄に牙を剝いたようなその態度が、母親からすればとても許せないものであったからだ。もちろんこうした母親の依怙贔屓は無意識ではあったが、はっきりとこの兄弟の間に存在していたことがここで明らかになったわけである。こうした親子関係は、それこそ誰にも気づかれずに今に至るまでずっと二人の関係そのものを蝕んできたことになるわけである。母親はもちろん、そんな差別をしていることなどまったく微塵も感じてはいなかったのだがそれでも子供からしてみれば、そういう差別は手に取るように感じていたわけである。自分の母親は、弟より兄のほうが大事なんだというほのめかしは、それこそ敏感に感じ取っていたことだけは事実だったのだ。それでも、弟はそういう不満は一切態度にも見せず、大人になっていったわけだが、果たして彼の中に本人もそれほどはっきりとしていない恨みとか怒りは彼にどのような影響を与えていたのか、それはまったく不明ではあるが、それでも何かしらの心理的負担を抱え込んで生きて来たことだけは確かかも知れない。問題は、それがどのように彼の生き方に影響を与えて、彼の人生をある意味生きづらくしてしまったのか、もちろんはっきりとした形で示すことはできないが、それでも何となく彼の今までの生き方を見れば、そこに何らかの痕跡を見出せるかも知れないのだ。

 確かに、こうした母親の無意識な態度が、彼の人間形成に何の影響も与えなかったということはとても考えられないので、たとえそれが表面上に現れず無意識のまま影のようにまとい付いて彼を苦しめていたとしても、決して不思議でもなんでもないわけである。われわれの日常そのものが、すべて意識だけによって進められていると考えること自体おかしな話しで、誰もが意識的に毎日生活していると思っていても、その生活の大半は、ほとんど意識などしないで生きているといってもいいほどである。それくらい、われわれは無意識の影響をもろに受けているのだが、そんなことは文字通り無意識のまま、まったく気付きもしないのである。柏木自身も、どちらかというと無意識にその人生を生きているような人間ではあるが、それでも彼には、ある種の人生に対する感受性があったおかげで、自分が今していることにどこか違和感を感じ始めていたのである。たとえ、それが自分にとってやむを得ないことだったとしても、果たしてこんなことをして、それは正解だったのかという疑問は彼も持っていたのだ。もちろん、そういう疑問を持ちながらもそれを止めることができないのが、なんともはや哀しいことではあるが、しかし、それでもそれが彼にとって必要なことだと思うのならそうすべきなのである。間違いを犯すことは、それほど間違ってはいないのだ。これは言葉の洒落ではない。実際そうなのだから。われわれの人生は、間違うことでその歯車が動くように出来ているからだ。つまり、そもそも間違わない人生など意味ないのである。だからといって何がなんでも間違いなさいと言っているわけではないが、それでも、われわれは間違いを犯したくないと思っても、なぜか肝心なところで間違いを犯してしまうのだ。むしろわれわれは真剣に生きれば生きるほど、どこかで間違ってしまうと言ってもいいくらいである。間違いを犯さない人生、それはその人にとってある意味致命的な欠陥となる。自分は間違ったことなど一度もしたことがないと豪語する人は、恐らく自分が人間であることさえ忘れているのかも知れない。

 おばあさんのこのエピソードは、紫音はもちろんのこと、他の人達にもいい影響をもたらしたのだ。とくに、兄の卓氏がことのほか感動していたようで、なぜか知らないがこの祖父のことを人一倍懐かしんでいるようだった。実を言うと、彼はこのおじいさんのことをとても愛していたのだ。子供の頃からとても懐いてしたし、おじいさんも彼のことを人一倍可愛がっていたからである。彼は性格的にも、このおじいさんにどこか似ているところがあったようだ。以前にちょっとばかり触れたことがあるが、このおじいさんは決して優れた才能とか特筆すべき性格の持ち主ではなかったが、どこまでも穏やかで、優しい人柄であったことだけは確かなようだった。彼はそういう平凡な自分の人生を、それなりに受け入れていたみたいだし、それはそれで優れた人格の持ち主だったのかも知れない。しかし、彼もやはり強い欲望を持った正真正銘の人間だったのだ。彼のエピソードがそれを物語っているわけだが、彼にも男としての意地があったと見るべきなのか、それとも自分の人生に何が足りなかったのか、それを確かめようとしたのかそれは分からないが、人生の最後に突如彼の心に訪れた音楽という訪問者は、彼の最後を飾るにもっとも相応しい心の伴侶であったのかも知れない。

「私もよく見掛けたもんですよ」と、兄の卓氏がこう思い出を語り始めるのだった。「おじいさんが、一人ピアノを黙々と練習しているところをね。あれほど熱心に情熱を傾けて無心に練習している姿は、なぜか今思い出しても涙が出て来るんです。私はね、おじいさんが、この家ではどこか肩身の狭い思いで過ごしているのではないかと、それなりに心配していたからです。なにせ、おやじがこの家では最高の権力者でしたからね。それに引き替えおじいさんの遠慮したその姿に、私は時より父親の悲しみのようなものを感じないではいられませんでした。自分の息子に、どうしてあれほど遠慮しなければならなかったのか」

「それは、簡単なことですよ」突然、弟の亮がこう引き取るのだった。「つまり、おじいさんは、何もかも分かっていたからです。要するに自分の分をわきまえていたというわけです。おやじの絶対的な権力にいくら父親とはいえ、とても口など出せる雰囲気ではなかったじゃありませんか。でもね、ぼくは、よくぞ息子にあんな高級なピアノを買わせたということだけでも、おじいさんは最後の最後で、自分の父親としてのわがままを自分の息子に突き付け、それを実現させたという奇跡を演じて見せたわけですよ」

「確かに、何であの時、おやじはいとも簡単に、おじいさんの願いを聞き入れたのだろうか?それは、今もって不思議でなりませんね」

「きっと、おやじも自分の父親がかわいそうになったのかも知れませんね。まったく冗談のような話しではありますが、ぼくは、そこに鬼の目にも涙ではありませんが、親子の自然な情愛が突然この鬼の心に甦ったのではないかと信じたいですね。それにしてもその存在は希薄でしたね。居るのか居ないのかまったく気付かないくらい、ひっそりと暮らしていたようにぼくには見えたからです。これぞ日本男子の一つの生き方の見本を見るようでしたからね。つまり、悟りきった隠者の生活ですよ」亮は、こう言って自分の意外な言葉が、兄を思いのほか興奮させていることに気が付くのだった。

「悟りきった隠者の生活ですか。なるほど、亮さんも、時より穿ったことを言いますね。確かに、おじいさんにはそういった隠者の雰囲気はありましたよ。私は、そういうところに惹かれていたのかも知れませんね。まったく、おやじとは正反対の生き方でした。生涯、何の波乱もなく実に静かに暮らしていましたからね。でも、その実際の気持ちはもちろん分かりませんが、おじいさんにもやはり色んな葛藤があったと見るべきでしょうね。人間とは実に複雑怪奇で、決して他人に分かり安くこの世を生きられるはずもないからです」

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