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彼がこうした裏工作をしようと決心したのにはそれなりの理由があったわけだがそれがたとえ本当の動機以上のもので覆い隠されてしまったとしても、そこは柔軟に彼自身なんの矛盾も感じないまま自分を突き動かして行ったわけである。彼としても今の自分が、みんなにどう思われているかは当然知りすぎるくらい知ってはいたが、だからこそこういったあまりよろしくない自分の今の状況を、何とかしなければいけないと彼は実際に思ってもいたわけである。もし自分がこのままの状態で結婚などしたら、当然橘家の人達はあまり気持ちのいいものではないと思われるからである。親の橘氏にしてみれば、娘の婿がこんなていたらくで、その上パッとしない子会社の中堅どころの地位にいつまでもへばりついていたのでは、将来市長になるはずの彼の面子が立たないからだ。それを払拭するためにも自分の社会的な地位をもっと高めておく必要があるわけなのだが、それにはぜひ兄にそのことを訴えて再考させなければならないと彼は思ったわけである。しかしこうした彼の思いもそれなりに理解できないわけではないのだが、一つだけ彼が思い違いしていることをここで指摘しておくべきだと思うのである。それは彼の兄がしたことは、それほど身内として理不尽なことではなかったということなのだ。どういうことかと言うと、そこにはちゃんとした兄としての考えがあったからである。それこそ兄の深謀遠慮がそこに働いていたということなのだ。すべて弟の将来を考えたうえでの処遇だったわけである。彼は弟の性格をよく知っていたし、もともと大きな組織の中で何の破綻もなく、自ら組織を運営して行けるような人間ではなかったのだ。そもそもこの日本という何かと柵の多い独特な社会の中で生きること自体難しい人間だったからだ。もちろん彼だって、この日本という国で生きて行く以上は、この世界の秩序に従って行くしかなかったのだが、それでもなかなかそれができなかったというわけなのだ。もちろん彼だって何とか適応しようと頑張ったのではあるが結局は挫折してしまい、反対にこの社会そのものがおかしいのだとよくあることだが自分の責任を社会そのものに押しつけたわけである。もちろんそんなことをしても社会が変わるものでものなく、ただ彼自身がその後痛い目にあっただけなのだ。だからといって何も彼にダメな人間という烙印を押して社会から葬り去る必要などどこにもないのである。というのも日本の社会と個人の関係がそもそも現代ではかなり混乱しているからである。それは表面上は何事もなくいかにも秩序だっているように見えるかも知れないが、いったん別の角度からこの社会を見てみるとなかなかどうして極めて不安定で今にも崩れ去って行きそうにも見えるからだ。それは結局個人そのものが今にも崩れ去って行きそうだからではないだろうか。そもそもこの日本という社会は、彼のような優柔不断で人に気を遣い、それでいて人様と同じような生き方ができないような人間にはまったく住みにくい所なのだ。この事をまず分かって頂きたいのである。つまり彼のような人間は、この世の中に生きるだけでも何かしら常に問題を抱えざるを得ないということである。これが決して大袈裟な言葉ではないこともまた分かってほしいのである。そもそも、この世に彼が生まれて来たことは、彼のまったく与り知らないことだし、もちろんそこにどのような原理が働いているのか人間には分からないという前提で言っているのだが、生まれて来たことに関しては誰も彼を責めることなど出来ない道理でもある。もちろん生まれた以上、彼にも生きる責任があるとは思うのだが、それだって果たしてどこまで本当なのか、人間にはまったく分からないのが現状なのだ。彼だって、きっと生きることに戸惑っていることだけは確かなのだが、さてどのように生きたらいいのか、それがまったく分からないというところなのだ。もちろん彼だって世間に逆らって生きようとは夢にも思っていなかったのだが、なぜかそのような生き方を結果としてしていたのである。しかしこの国では、そういう生き方は誰も望んではおらず、むしろ世間からつまはじきにされてしかるべきものだったのだ。だから彼も最初は、日本人らしく世間の顔色を窺いながら生きていたわけである。しかし、それも長続きせずに自然と自分が生きたいように生きざるを得なくなったその挙げ句にぶつかったのが、日本社会に存在するある種の不文律という壁だったのだ。いったいどういう不文律かというと、たとえ不満があっても、なるべく他の人間と同じような行動をとらなければいけないというものであった。つまり、人と違ったり他人を押しのけて自分が目立ったりすることが、あまり褒められたことではないのである。いわゆる個人よりも集団の秩序を重んじているわけである。どうしてそういう考えが人々の間に蔓延してしまうのかと言うと、色々と理由はあるだろうが、始まりは彼を取り巻く家族とその周辺の生活環境、つまり学校での先生や友達の影響が大きくそこでまず無意識に感染させられ社会に出れば出たで、その不文律はより一層猛威を振るい、ますます人々の意識を縛って行くわけである。人々の意識を縛ると言っても、それは何も成文化されているわけではないので、意識的な行動の規範とはなりにくく、それがかえって生きる事を難しくしてしまうところがあるわけで、こういった無意識の規範は道徳以前の問題として日本人の根底に、動かすことのできない岩盤となって存在しているわけである。それは何もつい最近出来たというものではなく、この日本の開闢以来さまざまな時代の変遷を経て、現代まで連綿として続いているものなのだ。これに抗うことはなかなか難しく、誰もが討ち死にするしかない代物なのだが、それでも果敢にこの岩盤に抵抗すべく命を賭けて生きた人間もいたわけである。しかし、現状はあまり変わることもなく、今でもそれは人々の間でシステムとして生き続け、自由に生きることを難しくしているわけである。だからといってそれを無理になくそうというわけにもいかないのだ。それはそれで、日本人の長年の経験によって、そうすることがこの国の秩序を保つためには、どうしても必要だったからだ。必要だからこそ今でも人々の間にそういうシステムとして機能しているわけである。
話しがあらぬ方にそれてしまったが、決して余計な話しをしたわけではなく、むしろこの物語にも大いに関係している部分もあるので、いづれまた機会があればどこかで話したいとは思っている。しかし、今はこれくらいにして話しをもとに戻すと、彼の兄は弟のことを思いながらも周りの意見も無視できず、ここは涙を呑んで身内である彼を自分の組織から排除したわけである。しかし、これはある意味彼のためになったのだ。彼も親の柵から離れてじっくりと自分の生き方を見つめ直したほうが、いつまでも親の影響から逃れられないよりずっといいからである。たとえ親が死んでも親が作った組織にいるかぎり、今の彼ではなかなか自立できないと思われるからだ。彼に必要なのは親の敷いたレールから外れて、自分の力だけでしばらく生きてみることなのだ。もしそれで成功したら彼の将来もきっと明るいものになると、兄の卓氏は思ったわけで、今回彼が結婚するのを切っ掛けに、自分の力で自分の人生を築き上げてほしいと願っていたのである。そうした兄の思いなどまったくご存じないこの弟は、ただ自分の地位のことしか頭になく、いったいこれから何を話す気なのか彼の裏工作はどこまで成功するのかまったく分からないのだが、彼は手に持っていたグラスのワインをグイッと飲み干すと、その勢いでこう言い放ったのだ。
「みなさん、これからぼくの話すことにどうか驚かないで頂きたいのです。とくに紫音さん。ほかの人たちがぼくの話に呆れて失望してしまおうと、どうかあなただけにはぼくの気持ちをご理解して頂きたいと心から願っている次第なんです。最近のぼくの置かれている状況を見ると、とても満足のいく状態ではないことだけは確かなのです。それは何もぼくだけのことではなく、橘家のみなさまにも当然当てはまることだと思っているからです。そこでぼくは、これからみなさんにぼくの考えをお伝えして、そのことにぜひとも賛同して頂き、たとえわずかであってもご理解して頂かなければならないと思ったわけです。ぼくの今いる会社は、あまり誇れるほどの会社ではありません。こんな会社に何時までもいたら、それこそうだつが上がらないまま歳を取ってしまうだけでしょう。そんなことにでもなれば、紫音さんを始め橘家にとっても決して喜ばしいことではないのは明らかであるからです。それに将来の市長でもある橘氏にとっても、明らかにそんなことでは到底承知できないものだと思われるからです。自分の娘婿がこんなていたらくでは、それこそ恥ずかしくて世間に対して顔向けが出来なくなるのではないでしょうか。ぼくは、そのことをとても心配しているのです。で、ぼくはこう思ったのです。ぼくは紫音さんのためにも、今の会社からもと居たの場所に戻らなければいけないのだと。もしそのことが実現できないのなら、ぼくは紫音さんとの結婚を断念しなければならないとまで考えているんです」彼は、こう言って、空のワイングラスを無意識にもてあそびながら、まず兄の顔色をそっと窺うのだった。兄の卓氏は弟の演説を最初何か冗談の一種かと思ったくらいで、思わず笑いがこぼれそうになったくらいなのだ。しかし、どうもそんな洒落たものではなく、あまりにも常識はずれのひどい話だとようやく分かり開いた口が塞がらなかったくらいなのだ。もちろん兄だけではなく橘家の人達も当然卓氏と同じようにまったくあきれ返っていたのである。しかし、一同の表情からみて、それほど驚いているようには見えなかったのだ。というのもこういうことはそれこそ今に始まったことではないし、橘氏としても彼のこうした奇怪な言動は、それこそ散々見て来たからである。おかけで橘氏はこの時実に冷静になって、彼がいったい何を言おうとしているのかを一歩退いて考えて見ることができたのだ。するとすぐにピンと来たのだ。これこそ彼が秘密めかして自分に言ったあのことなのだと。彼の今いる自分の地位を何とかしなければならないのだという彼の言葉は、そうしなければ紫音との結婚を断念するという一種の脅しとなって兄に何とかしろと迫ったわけである。それにしても何ともはや質の悪いやり方だと橘氏は思わずにはいられなかったのだ。まったく、これでは到底まともに取り合うこともできないだろう。『いったい彼はどういう料簡から、娘との結婚を取引材料にして兄を脅そうなんて考えたのだろうか』と橘氏は、それこそ不快感むき出しでこの恥知らずの娘婿を睨み付けるのだった。するとまた橘氏に実にいやな記憶がよみがえって来たのだ。彼があの時橘氏に、「その時はよろしく」と、協力を迫って来たことを思い出したからである。まったく、どこまでも図々しい男だとは思うのだが、それでも娘のことを考えれば単純に彼の言うことを批判するわけにもいかなかったのだ。そこが親として何とも情けない立場ではあるが、しかし卓氏が果たして彼の言うことにどう反応するのか。それによっては、娘の行く末は、それこそ厄介極まりない状態に立たされてしまうことにだってなりかねないのである。『それにしても、彼はよくも私を前にして、あれだけことを恥ずかしげもなく言えたもんだ。いったい私がそんなことを気にしているとでも本気で思っているのだろうか』と、橘氏は、こうしたあからさまな彼の言動に、ある種の不快感を持ったことは確かなのだが、それでも彼の言葉には何かとても不自然なものを感じて、『どうして彼は、こんなことを言わなければならなくなったのだろう。そんなに今いる会社が気に入らないのだろうか』と橘氏は訝るのだが、ひょっとしてこれにはまだ他に、彼にしか分からない秘められた理由が、その底に隠れているのかも知れないと疑ってみるのだった。
こうした実に突拍子もない弟の言動が、果たして兄の卓氏をどう動かすことになるのか、それは誰もが早く知りたいとは思っていたのだが、当の卓氏はどうやらそれどころではないらしく、この弟の狂言が何かの冗談であってくれればと、その表情から痛いほどはっきり読み取れるのだった。それくらい彼の受けた衝撃はひどかったのだ。というのも兄の今の立場からしてみれば、楽しいはずの両家を交えたきょうのパーティーが、弟の訳の分からない演説によってすべて台無しになってしまったことが一番辛いことだったからだ。『いったい弟は何を考えているのだろう。彼は本気で橘氏がそんなことで悩んでいるとでも思っているのだろうか。これでは、それこそ橘氏を面と向かって侮辱したも同然ではないのか』と、心配性の彼としても、そこのところがとても気になるのだった。それにまた、彼が示したもしそのことが叶わなかった場合、今回の結婚を断念するなどど冗談でもそんなことは口にしてはいけないのに、それをここではっきりと宣言してしまったのである。もちろんこんなことは兄にしてみれば、とても真面目に取り合えるようなものではないことくらい分かっていたのだが、問題は弟がどこまで本気でそんなことを言っているのか、それをまず知ることがこれからどうすべきかの判断の目安になるだろうと兄の卓氏は考えたのだ。
ようやく兄の卓氏は、気を取り直して弟の言い分を改めて確認するのだった。すっかり青ざめて、今にも卒倒するのではないかと心配するほどの顔色になってはいたが、それでも彼はこうした弟の由々しき言動に、このまま何も言わないで済ますわけにはいかないので、そこは柏木家を背負って立つ人間として、はっきりとこの問題に対峙していかなければいけないと気を引き締めて掛かるのだった。
「一つ私から質問があるんですが、いいでか、亮さん」彼は、いつからかははっきりしないが、弟のことをさん付けで呼んでいたのだ。「あなたの今言ったことは、ぼくには到底まじめに受け取れない話しなんですが、実際のところ、それは本当のことなんですか?」
「もちろん本当のことです。冗談でこんなことを言えるほど、ぼくはお調子者ではありませんよ。ぼくはただ兄さんに無理なお願いをしているつもりはないんです。あなたは、おやじから受け継いだ会社の社長です。そして、このぼくはあなたの弟で血の繋がった家族ではありませんか。ぼくはただ、もといたところに戻りたいだけなんですよ。そんなことくらい兄さんにしてみれば簡単なことだと思うんですがね」
「もちろん、それはちゃんとした手続を取れば、もといたところに戻ることはできます。しかし、そうしたところで、それがあなたのためになるとは思えないのですが」
「ためになるかならないかは、ぼくが決めることです。兄さんにはぼくの気持ちなど分からないと思うのでね。ぼくが、どんだけおやじにいじめられたか。そして、どんだけおやじのために頑張ってきたか。それなのに、ぼくは最初から候補にも入ってはいなかったんですからね。こんな滑稽でバカげた話しはそうそうありませんよ。でもぼくは何もそのことを取り立てて問題にしようと思っているわけではないのです。でもまあ兄さんはそこんとこはよくご存じのはずだから、この際ちょっと聞いてみたいとは思っていますがね」
兄はそれを聞いて、まったく不意を衝かれた格好で体中に衝撃が走ったのだ。彼の心配していたことが起こったからだ。彼としても、そのことが弟に知られることは、まずないとは思っていたのだが、それが崩れたことで恐れていたことが現実となり、それが彼を根底から打ちのめしてしまったのである。しかし兄はそうした裏の事情に対しては、最初から後ろめたい気持ちを持っていたことは、すでに記しておいたが、ここでは、彼が実際に当時どう思っていたのか、その辺のところをもう少し詳しく話して見ようと思う。彼が心配したのは、そんなことをしてもしそのことが彼に知られたら、どう申し開きするつもりなんだろうと考えたのだ。そのことが実際に起こってしまったわけだが、しかし兄の苦悩はもう少し複雑だったのだ。そのことがたとえ知られなかったとしても、彼には弟がどれほど父親に苦しめられていたかは、よく知っていたので、それだけでも彼に申し訳ないとは思っていたのだ。彼だって、それなりに期待していただろうし、まさか候補にすら挙がっていなかったとは、まったく想像すらしていなかったに違いない。確かに弟からすれば、家族ぐるみで彼をバカにしたと思っても当然だろう。兄もその点で弟に同情していたのだ。彼はそれ以来、弟に対して人一倍気を遣うようになったし、この時からからも知れない、弟をさん付けで呼んだり、あなたと言い始めたのは。それが今回の事件で二人の関係が大いに揺らぐ事態になってしまったのである。確かに兄にしてみれば、これでようやく合点が言ったわけだ。彼がなぜこのような要求を言って来たのか。自分達が弟にした不正をみんなの前で暴露して、兄にその要求を強引に飲ませようという魂胆なのだ。確かに、このことで兄の立場はかなり危ういものになってしまったのは確かなようだが、しかしここで弟の要求を安易に飲むわけにもいかなかったのだ。これがもし二人だけの時に、こうした相談を持ち掛けられていたら、彼も仕方なくその要求を飲んだかも知れなないが、今回の場合はまったく事情が違っていて、弟のこうしたどこか陰湿でそれこそ脅しまがいのことを橘氏を始めみんなの前で平然と行った以上、彼もそう簡単に弟の要求には乗れなくなってしまったのである。いくら弟が父親の理不尽な犠牲者であったとしても、それとこれとはまったく別だという立場を、兄は何としてでも取らなければならなかったのだ。そうしなければ、彼は弟の脅しにどうやって抵抗したらいいのだろうか。しかしそうは言っても、こうした弟のやり方を見ていると、今まで自分が思っていた弟とは全然違った人間をそこに垣間見たように感じたのだ。まさか弟がこういうことをする人間とは、それこそ今まで思ってもいなかったからだ。実際のところ、自分は弟のことを何も知ってはいなかったのかも知れないと愕然としたのである。しかし、今となってはそんなことで悩んでいる場合ではないので、弟の非常識にどう対処すべきなのかそれをまず考えなければならなかったのだ。




