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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 禮子は、すっかりこの庭が気に入って何時間でもここに居たいと思うのだった。そう思うことに、果たしてどのような意味が隠れているのか、この時はまだよく分かっていなかったのだが、それでもこうした気分は、今までまったく彼女に縁のないものであり実に新鮮な印象をもたらしたのである。その時、給仕がみんなにお酒を配り始め、禮子はそれをいち早く受け取ると近くにあったベンチに腰を下ろし、一人そのお酒を飲みながら、自分が今感じているようなその気分がいったい何を表しているのか黙って考えるのだった。彼女はその時、まるで自然の中に一人でいるかのような感覚になっていたようで、周りの人間世界のことなど一切気にもしていないようであった。どうせ自分など、彼らの生活とはまったく縁がないのだと言わんばかりの、しらけきった気持ちがまだどこかに残っていたのだろう、それがかえって彼らのことなどにまったく気を遣う必要などないといった、いじけたような気分になっていたのかも知れない。栗色の豊かな髪を時よりかきあげながら黙ってお酒を飲むその姿は、一人孤立しているような不自然な印象を持たれてもおかしくはなかったのだが、それでも自分は今こうしていたいのだから放っといて頂戴といった、どこまでも人を寄せ付けないオーラのようなものが彼女の身体全体を包み込んでいたのである。そういうわけで、この時の彼女をどう扱えばいいのか橘氏もほとほと困り切っていたのだ。かといって、このまま放って置くわけにもいかなかったのだが、それでも誰も彼女に言葉を掛ける勇気がなかったのだ。しかし、ここで思わぬ伏兵が突如現れたのである。何を思ったのかおばあさんが、禮子のそばに車椅子を弟の亮に押させながら近寄って来たのである。

「あなた、いったいどうなさったんですか?そんな浮かない顔をなさって、そんな顔をしてては橘さんも立つ瀬がないではありませんか。でもまあ橘さんのことはこの際脇にどけておきましょうね。あなたもなかなかご苦労されたお人のようですからね。いいえ何も言わないでいいのよ。私はね、ただあなたのお顔を拝見していたいの。実にいいお顔をしてますわね。いや美人とかそんなことを言いたいわけではないのです。もちろんあなたのお顔は美しいですよ。女ですら惚れてしまうくらいにね。何が言いたいのかお分かりですか?顔にはその人の運命が現れるからです。女の顔はとくにそれが極端に現れるの。ですから女はとくに自分の顔に注意していなければいけません。とくに美人顔は年齢というものが一番の難敵ですからね。でもあなたのお顔は歳を取っても決して衰えることはないと思います。それくらい、あなたのお顔は特別な運命を担っているのではないかと思われるからです。あなたそんな自覚などまるでないでしょう?それで、いいんですよ。変に意識するとすぐ脱線していきますからね。あなたもお気をつけなさいませね。それにしても、あなたのお酒の飲み方は実に堂に入ってますね。あなたお酒お好き?」

「ええ、好きですわ。おばあさん」

「そうでしょうね。でも、あなたはお酒には決して飲まれない質の人らしいわね」

「あたし、水商売を長いことしていましたのよ」

「そうだと思いましたわ。で、あの男と出会ったというわけですね。それにしても何でまた、あのような人と、いや、やめときましょう。あなたにとっては大きなお世話でしょうからね」

「いいえ、かまいませんわ。あばあさんが聞きたいのであれば何でもお話しいたしますわ。なぜだか分かります?あたし、おばあさんがとっても気に入ったからです」禮子はこう言って、初めて笑顔を見せるのだった。

「私も、あなたのような方に気に入られてとても嬉しいですよ。なにせ、この家には若い女性が一人も居ませんのでね、私としても長い間、あなたのような若い方とお話ししたいとずっと思っていたんですから」

「でも、これからは亮さんのお嫁さんとお話しが出来るじゃありませんか」彼女は、こう言って亮の顔を見るのだった。

「ええまあそうね。ああ、あなた、ここはもういいから、しばらくあちらに行っててくれません?これから女同士の大事な話しがあるもんですからね。終わったらまた呼びますから」こう言って、おばあさんは亮をいきなりこの場から追い出すのだった。

「あなた、どう思います?あの男を」おばあさんは、邪魔者を遠ざけるとすぐに彼女にこう聞くのだった。

「亮さんのことですか?いい方だとは思いますが」

「いい方ですって?あの道楽者が?あなたも、あまり男を見る目がないのですね。それでは、これから先苦労しますよ。いいですか、よくお聞きなさい。あなたも橘さんとご結婚されたらよく分かると思いますが、男はどうしようもないくらい子供ですからね。それは年齢とは何の関係もありませんよ。男は六十になってもまだ子供なんです。いや、年を取れば取るほど手の焼ける子供になって行きますからね。ですから、あなたがもし考えているのとまったく違っていたと気付いても、慌てて離婚などしてはいけませんよ。男など最初からそういうものだと思っていればいいのです。そう思うだけでもずいぶんと違いますからね。それに橘家は、このあたりではなかなか由緒ある家柄ですからね、その点世間的にも信頼されていますから、あなたも安心して身を任せていればいいのです。もちろん、色んな風評が立つかもしれません。でも政治家の妻になるのなら、それくらいの覚悟はしていなければいけません。まあ、こんなことは余計な話しですからもうやめますが、それにしても橘さんのお嬢さんは、今のところ私の目にはなかなか腹の据わったお嬢さんのように見えたのですが、実際はどうなんでしょう。あなたもあの方とは親しいのでしょう?どのような方なのか、これからのこともありますので、あなたのご意見を伺いたいのですがどうでしょうか?」

「それはまた困ったご質問ですわね。だって、この私に何が言えるというのです?私のようなつまらない女に、彼女がどういう女か言えると思います?それこそ、間違いのもとになりかねませんよ。私だって女ですからね、うっかり口がすべって、おばあさんに変な先入観でも吹き込んでしまったら、それこそ彼女に申し訳ないじゃありませんか」

「何も、あの方の悪口を聞きたいわけではありませんよ。でもまあいいでしょう。あなたのお気持ちはようく分かりました。あなたが誠実な方だということもよく分かりましたわ。それだけでも、あなたとこうして気さくにお喋りができてとてもよかったと思います。これも何かのご縁かも知れませんので、どうか気を悪くなさらずに、きょうは存分に楽しんでいって下さいね。じゃあ、これで失礼しますね。ああ、亮、亮、終わりましたので部屋まで連れて行っておくれ。少し休みますから」こう言って、おばあさんは、禮子に謎のような印象を残して家の中へと消えて行くのだった。

 すると、そこに卓、橘両氏がおしゃべりしながら禮子のところに近づいて来たのだ。どうやら二人は広い庭の中をぶらついていたようで、それだけを見ていると何やら雑談に夢中になって、たまたま禮子のそばを通りかかったようにも見えるのだった。ところが二人はさっきから禮子のことが気になってしょうがなかったのだ。というのも彼女があまり楽しんでいないという共通の認識を同時に持っていたからである。もちろん、その気がかりはそれぞれに違っていたのだが、主催者の卓氏からすれば当然橘氏のことにも気を配らなければならなかったのだが、それ以上に禮子のことが色んな意味で気になって仕方がなかったのである。橘氏も彼女のこうしたつまならそうな顔を見ると、それはそれで色々と気を回してしまうのだが、自分の娘のために開いてくれた楽しいはずのパーティーも、柏木に聞かされた話しのこともありもはや素直に楽しめなくなっていたところに持ってきて、いったい何が気に入らないのか、いつもの禮子とはちょっと違った様子が一層橘氏をイラつかせてしまうのだった。

 そうはいっても、ここでその理由を聞くわけにもいかなかったのだ。卓氏の手前自分達の込み入った事情を知られるのがはばかられたからである。ところが、卓氏本人がいったい彼女はどうしたのでしょうか。あまり楽しんでいないようですが、と橘氏にいきなり聞いてきたのだ。彼としても、正直彼女がなぜこの場に溶け込もうともせずにさっきから一人で過ごしているのか、そのことがとても気になっていたからだ。橘氏は、そう指摘されるとかえって困ってしまい、どう話しをしたものかと思い悩みながら彼女の側まで歩いてくると、禮子が突然二人に、ここに座ってお話しでもしていきませんかと誘ってきたのだ。二人は思いもしなかったこの誘いに驚いたものの、さっそく彼女を挟んでというのも禮子自身がそう座るように指示してきたからである。仕方なく二人は左右に分かれて、どこか畏まった様子ではあったが、卓氏にしてみればこれは彼女と遠慮なく話せるまたとないチャンスでもあったので、橘氏には悪いとは思いながら、そこは主催者という立場を利用して彼女の気持ちをここぞとばかりに探って見るのだった。

「どうですか楽しんで頂けてますか、禮子さん。失礼しました。気安く名前など呼んで。名字のほうを失念してしまったものですから」

「いえ、いいんですよ。禮子と呼ばれて誰が気を悪くするというものでもありませんからね。この際そんなことで一々気を遣うことなどやめにしましょう。そんなことより、私ねあなたがこさえたというこのお庭がとても気に入ってしまったんです。私ね今までお庭になんかまったく興味などなかったのですが、それが、なぜか知りませんがとても親しみを感じてしまったんです。こんなことは今まで一度だってなかったのに、いったいどうしてだろうとずっと考えていたら、あなたのおばあさまが声を掛けてくれましてね。色々とお話しを聞かせてもらいました」

「何か、失礼はありませんでしたか?」

「いいえ、とても気さくなおばあさまで、私のことをとても気に入って下さいましたわ」

「祖母は、このところ弟の結婚のことでなぜかよく分かりませんが落ち着きがなくなっているんです。いったい何が不満なのか、ぼくを黙って見てはため息をつくんですよ。何か言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに、まったく困ったもんです」

「きっと、おばあさまには弟さんより、もっと気になることがあるんだと思いますわ。でも、そういうことはいずれ解消されていくと思いますよ」

 こうした一連の会話は、橘氏にとって、色んな意味で示唆することの多いものだったのだ。それは、禮子が自分の前でこうした意味ありげな会話をしたことでも、そこにとても暗示めいたものを感じないわけにはいかなかったからである。それは橘氏の立場に立ってみれば当然気にしてしかるべき事だとは思うが、何分そうした込み入ったことはこの場ではとても話題にすらできなかったので、彼としてもただ黙っているしか方法がなかったのである。すると、ここで卓氏が橘氏を気遣ったのかどうかは分からないが、いきなり結婚の話題を橘氏に振ってくるのだった。

「ところで弟の結婚のことなんですが、いつ頃になるのか、どのような形で行うのか、もうそろそろ、大凡のことでも決められるところは決めておくべきではないかと思うのですが。もちろん橘さんも、そのことは十分お考えのことだとは思いますが、いかがなものでしょう」

「私も、そのことをずっと考えていました。娘はまだ何も決めてはいないようですが、それでもやはりどんなものにするか、大体のことだけでも考えておく必要がありますからね。それに、この結婚は身内だけで簡単に済ますというわけにはいきません。世間的に考えても、かなり盛大なものにならざるを得ないと思います」

「確かに、お嬢さんのことを思えば、簡単に済ますわけにもいきませんからね。それではこの話は、また日を改めて考えることにしませんか。とてもこの場で決められそうもありませんので。ところで、橘さんご自身のご結婚はもうお決まりになったのですか?」卓氏はこう言って、禮子越しに橘氏を見るのだった。するといきなり禮子が立ち上がってその場から少し離れ、あたかも自分にはまったく関係ないかのような素振りを見せたのだ。もっとも彼女にしてみれば、二人の話しに自分が間に居ては邪魔だと思って気を利かしただけなのだが。とはいえ橘氏は、そうした彼女の行動に正直面食らってしまいいったいこの行動をどう考えたらいいのか戸惑うのだった。それでも彼女の性格を思い、もはやそういったことに一々気を回すのはよそうと、彼もここまで来ると何かが吹っ切れたような気持ちにでもなってしまったのか、それともそういう自分にほとほと疲れ切ってしまったのか、そこははっきりしないのだが、なぜかこの時彼にしては実に思い切ったことを言ってしまったのだ。

「私どもの結婚は当分ないと思います。何も急いで結婚する必要もありませんのでね。彼女もたぶんそういう考えだと思いますよ。ですから、そこは急がずにお互いの気持ちを十分に尊重しながら考えていきたいと思っているんです」橘氏は、まるで聞こえよがしにこう言って笑うのだが、それでも彼女だって、そう思っているのは分かっていたので、まさにこれは当てつけ以外の何ものでもなかったのだ。こうなってしまうと、彼もどうとでもなれと思ってやけっぱちな気持ちになってくるのだが、そのくせこれはちょっと言いすぎたかも知れないと、すぐ気にし始めるのだった。

 ところが、卓氏にとってこの話はとても興味あるものとして彼の記憶に残ったのだ。ちょっと勘のいい男なら、そこに何かを感じたはずなのだが、ただ卓氏は変に気を回すこともなく、この年の離れた二人の行く末を彼独特の冷静沈着な態度で分析してみるのだった。彼女にとってこの結婚は、確かにとても割がいい結婚かも知れない。橘氏がもし市長になれば、彼女だって市長夫人として確固たる地位を得るわけだし、それは今ままでの彼女の人生からすれば夢のようなものかも知れないからだ。すると、ここで卓氏は、果たして自分には橘氏に匹敵するようなものがあるのだろうかと、なぜか突然自分の身に置き換えて、どこか真剣な面持ちで考え始めるのだった。つまり彼の性格上そうなった場合のことを考えて、ちゃんと答えられるように今から準備しておいたほうがいいと判断したのだが、それがまたいかにも彼らしい空想の仕方でもあったのだ。そういうわけで、彼は自分の空想にすっかり気を取られてしまったのだが、すぐにそういう夢のような状態から、現実に引き戻される出来事が起こったのである。なぜかほかの連中が揃って、この場に集まって来たからである。亮を筆頭に紫音、華音、貴臣と、どこか困惑したような面持ちでゾロゾロと連れ立って来るのを見て、いったい何があったんだろうと、こちらはこちらで明らかに戸惑っているようだった。

「みなさんに、ぼくから一つお知らしなければいけないことがあるんです。それは、これからの両家の発展のためにも、とても重要なことなんです」亮は、いきなりこう言って、みんなを驚かすのだった。

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