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それ以来卓氏は、自分の人生を父親の跡を継ぐという一点に絞って過ごして来たのだが、突然父親が病に倒れてしまい、父親の希望もあって急遽彼にその責任が覆い被さって来たというわけである。彼自身も、こんなに早く自分がその跡を継ぐとは思ってもいなかったのでどうもまずいことになったと、一時は弟にその地位を譲ってしまおうかとさえ考えたのである。しかし、まわりの重役連中がそれを許さなかったのだ。とくに父親が猛反発したのである。ということは、すでにこの時点で誰が父親の跡を継ぐかは決まっていたのである。もちろんこのことは弟には秘密だった。しかし兄としては弟にだって当然資格があると思っていたので、このことは彼としてもあまり気持ちのいいものではなかったのだ。ところが、そこには父親なりの正当な理由があったわけで、組織の人間としてちゃんとやって行けるのかという彼の資質が問われたのである。実際のところ、その頃は彼自身も仕事にあまり身が入っておらず、精神的にも実に不安定で、その私生活においてもすこぶる荒れていた時だったのだ。そういうこともあり社内的には何の反対もなく、卓氏に跡を継いでもらうことが決まってしまったのである。そこで問題になったのは弟の処遇だった。彼をこのまま兄の下で、今のまま働かしておいて果たして良いものかどうかという議論が出たのだ。彼にだってプライドがあるだろうし、彼のためにも何とかしなければいけないと兄は考えたのだ。そこで弟の将来のことを考えて、別の子会社に適当な肩書きを付けて一時的に出向させるという決定を下したのである。しかし、彼が素直にこの決定に従うかどうか色々と心配していたのだが、彼自身もその時は、その処遇にそれほど反対するような態度も見せずに、あっさりと兄の辞令を飲んでしまったわけである。その当時は彼も、それはそれでくだらぬ柵から解放されたと思い、かえって清々した顔で何のわだかまりもなかったのだが、それが紫音との結婚をきっかけにああだこうだと後悔し始めたというわけである。そういう意味で、今回のパーティーは自分のへまによって失った地位を何とか取り戻したいといういささか身勝手ではあるが、彼にとっては極めて重要な意図が隠れていたわけなのだ。
そのパーティーがいよいよ始まり、橘家の家族達が柏木によって一人ずつ兄の卓氏に紹介されると、兄もすっかり上機嫌になり、「今回こうしてみなさんをお招きすることができまして、私を始め柏木家一同喜びに堪えません。とくに紫音さん。あなたにお会いできたことをとても光栄に思っております。不束な弟ですが、どうかこれからもよろしくお願いします」と、兄はまず弟を気遣って見せるのだった。こうした兄の態度は、弟にしてみればこれはなかなか期待が持てるのではないかと正直思ったのだ。こうして一通り挨拶が終わると、かなり広い庭が見える部屋に移動するのだった。そこは、すっかり支度が出来た大きなテーブルが二つ並べられていて、その上には隙間もないくらい様々な料理で埋め尽くされ、その豪勢な持てなし振りにまず驚くのだった。いかに今回のパーティーが柏木家にとって重要なものであるかが、これを見ただけではっきりしたのだ。つまり柏木家にとって弟の結婚は、決して軽く見てはいないということを雄弁に物語っていたというわけである。各自それぞれ席に着くのだが、橘氏が兄の指示によって一番左端の席に座ると、あとは別に決まっていたわけでもないのだが、なぜかその横に紫音が座りそれに続いて華音、貴臣、そして禮子と座るのだった。なぜ禮子が橘氏から一番離れた席に着いたのか。何かそこに暗黙の了解でもあったのかどうかは分からないが、それでもなかなかいわくありげな席順ではあったのだ。もちろん誰もそのことには言及することもなく、ただ柏木だけが禮子の心情を察して、おそらく彼女の意志がその席を選ばせたのかも知れないと思うのだった。一方、柏木家の席順を見ると、橘氏の真ん前の席だけ椅子がなく、その横が一つ空席になっていてその隣りに柏木兄弟が並んで座ったのだ。いったいその空席に誰が座るのか、それに何で一つだけ椅子がないのか何となく気にはなるのだった。すると、しばらくしてこの家の影の実力者である例のおばあさんが登場したのだが、どうやら移動は車椅子を使っていたらしく眼鏡をかけた品のよいご婦人がいかにも慎重に押しながら部屋に入って来たのだ。それを見ると、兄はそっと立ち上がり、その品の良いご婦人と入れ代わり、そのおばあさんの車椅子を橘氏の真ん前に運ぶなり、まずはそのおばあさんをみんなに紹介するのだった。おばあさんは微笑みを絶やさずみんなに会釈しながら、「どうかみなさん。きょうは遠慮せず私たちの持てなしを楽しんでいって下さいね。それにしても、みなさんはそれぞれにご器量良しで、お父様もさぞや鼻が高いのではありませんか?」おばあさんはこう言って、とくに紫音を見ながらこういう女性こそ卓の嫁として一番ふさわしい人だと、なぜか一目見るなりそう思ってしまったのである。『それにしても、なぜ、あんな道楽者の嫁になるのだろう』と、おばあさんは不思議に思い、『まったく近頃の若い娘は男を見る目がまるでないのだろうか』と嘆くのだった。しかしおばあさんは、それでも彼女がそんな思慮のない女だとはとても思えなかったのだ。というのも、このお嬢さんは何か心に秘めた強い思いがあるようだと睨んだからである。『このバカな男を自分の愛情で何とかしたいとでも思っているのかも知れない』と、おばあさんは密かに察したのだ。確かにそういうことはよくある話しで、駄目な男を何とか一端の人間にしてやりたいといった殊勝な女性の気持ちは、おばあさんにも分からないわけではなかったからだ。とくに、このような『物静かで考え深そうなお嬢さんなら、自然とそういう行動を取っても決しておかしくない』からである。この人生の達人は、その愛想のよい笑顔の裏で女が持つそうした不合理な心情を本能的に洞察して見せるのだった。『それにしても、何て素敵なお嬢さんなんだろう』と、このおばあさんはすっかり紫音に見とれてしまったのである。『ああ、人生とはどうしてこうも思うように行かないのだろう』と、この長い人生を歩んできた老婆が、心からそう嘆くのだった。もし、できることなら自分の権限で彼女を卓の嫁に出来ないだろうかと本気で思ったくらいなのだ。『卓だって、きっとこのお嬢さんとなら、いい家庭が作れるに違いない』と勝手に確信するのだった。こうなってしまうと、もはやおばあさんの妄想は止まることもなく、どんどんひどくなるのだった。要するに妄想と現実がごちゃまぜになって、実際にそうすべきだと思うくらい彼女に惚れ込んでしまったのである。お陰で卓が、自分の母親をみんなに紹介していたときも、じっと紫音から目を離さず自分の妄想に浸りきっているみたいだった。あまりにも、その凝視がひどかったもので、さすがの紫音もどうしていいのか眼のやり場にほとほと困ってしまったのだ。仕方なくおばあさんを無視する形になってしまうのだが、やむを得ずおばあさんから目を離して柏木の母親のほうに目を転じるのだった。
柏木の母親は、痩せぎすの、六十はとっくに過ぎた品のいいご婦人で、その眼鏡の奥で光る鋭い眼には、恐ろしいくらいの自制心から醸し出される、いわば隠忍自重によって培われたある種の力があったのだ。それは彼女自身が、この柏木家でずっと生活してきたその全歴史の重みから来る何とも言葉にできない苦しみが、そこに凝集されていたからである。確かにこういうおばあさんのもとで、何十年も一緒に暮らしていれば自分を押し殺すことが習慣となり、それが第二の天性にまで進化し、彼女の人格を変えていったとしても何ら不思議ではないと思われるからだ。それはまたこうも言えるかも知れない。むしろこの柏木家に適応するためには、そうするしか手立てがなかったのだと。それでも、彼女にとってここ最近かなり居心地の良い生活環境にはなりつつあったのだ。というのもあれほど自分勝手で口喧しい夫が亡くなりこの姑ももはや時間の問題ともなれば、あとはただ大人しく待っているだけで、この柏木家は必然的に彼女のものになるからである。彼女にとって、いわば今の立場は、この義母が今は亡き自分の息子に感じていたその立場と、ほぼ同じようなものになりつつあったからである。歴史は繰り返されるというわけだがしかしそうは言っても、まだ手放しで喜ぶわけにはいかなかったのだ。というのも、この姑が生きているかぎり油断は禁物で、うかつに自分の力を示して、この家の秩序を壊しては息子達に申し訳ないからである。それにまだ彼女自身も、この義母をどこかで恐れていた節があったのだ。もっとも、彼女の夫が亡くなってからというもの、次第に彼女も自分の意見を言える雰囲気にはなってきたのだ。今までは、夫の存在に掻き消されて自分の意見などないも等しかったのである。それくらい夫と姑の存在が強すぎて、もうほとんど息をするのも遠慮しながらするしかなかったのだ。それが、今度は自分の息子達が結婚することによって、いよいよ自分の存在が確かなものになる気配が出て来たのである。しかしこの結婚が果たして、柏木家を今までにない自分に合った状態にしてくれるのかどうかは、まだ何とも言えなかったのだ。それでも今回の弟の結婚はある意味柏木家にとっても、またこの母親にとっても、これからを占う一つの試金石にはなると思われるのだった。そこで、さっそくこの母親は紫音の品定めをして見るのだった。すると、その印象は彼女にとってあまりいいものではなかったのだ。この母親は、紫音を一目見るなり亮とは相性が良くないと見抜いたのである。彼女は母親の立場から、遠慮なく紫音の印象を分析してみたのだが、それでも女の直感で、彼女のどこか知的で女性というものを前面に出していない彼女のような女は、亮の好みではないと感じたのだ。これはそれほど間違った直感ではないように見えるのだが、というのも、母親であれば自分の息子の好みくらい長い付き合いから分かっているはずだと思えるからである。もちろん、これはあくまでも彼女自身の好みとして考えたほうがいいので、そういう点から見ると、紫音に対するこの母親のスタンスは自ずから決まって来るのだった。
こうして両家の紹介が終わると食事が始まるのだが、橘家の子供達はこうした家族揃っての形式張った食事の経験などあまりしたこともなかったので、その見たこともないような豪華な料理の数々に、舌鼓を打つどころか、緊張からかその味の良し悪しもあまりよく分からなかったのだ。ところが、貴臣だけは、なぜかうまそうに次から次と出て来る料理を平然と平らげ、その味を一人で堪能しているようだった。それを見た華音は、何か気の利いた皮肉の一つでも言ってやりたくなったのだが、まるで子供のように無心に食べている弟の姿を見ると、そういえば子供のころ親戚の家にお呼ばれしても、遠慮もせずにご飯をお代わりしていたので、これには母親も呆れて、あとで人様の家ではもう少し遠慮するものですよと叱られたことを思い出し、やれやれ彼には母親の躾もあまり効果がなかったのだと悟り、仕方ないので彼女も黙って食事することに専念するのだった。禮子はというと、彼女は彼女で全然別のことを考えていたわけで、自分がなぜここに居るのかその意味を改めて考え直していたのである。すると自分という人間が、この場の雰囲気からあまりにも遊離していることに嫌でも気が付くのだった。自分の考えが変わらない以上、自分がここに居ることに何の意味があるのだろうと、彼女は思わずにいられなかったのだ。もちろん彼女だって、橘氏の気持ちを十分理解した上でこうした席に出席することを承諾したのだが、それでも何かひどいわだかまりが彼女の心を騒がせて、落ち着いた気持ちで食事をすることなどどうしても出来なかったのだ。ところが、このとき禮子の気持ちを癒やすような、ちょっとした出来事が起きたのである。ことの発端は、兄の卓氏が先程から禮子の様子を、当たり前な気持ちで見ることができなくなっていたという、男としてどうしようもない気持ちの高ぶりが起きてしまったからである。というのも、橘氏から禮子を最初に紹介された時その魅力にさっそく心惹かれてしまったからだ。もっとも、彼だって彼女の立場はようく承知してはいたが、そういうこととはまた別に彼女そのものの存在が、彼の男としての情念に火を点けてしまったというわけである。いわば彼の本能が、あれこれの立場を無視してその欲望を彼に押し付けて来たというわけである。それは、彼のような何事にも慎重な態度で生きているような人間でも、いや、そういう人間であるからこそこうした欲望が自分の考え方に反して彼の心を挑発してしまうのは、ある意味やむを得ないことでもあったのだ。そういうわけで、さっきからどうにも気になってチラチラと彼女のことを見ないわけにはいかなくなってしまったのである。こうして橘氏にとってみれば、実に厄介極まりないことが、誰が悪いというわけでもなく自然の成り行きで起きてしまったのである。しかし、こういうことは何らかの形で表面化せずにはいなかったのだ。もちろん、それはあからさまにではなく、実に巧妙にまったく誰にも気付かれずに進められて行くというのが、心の実に狡猾な一面でもあったわけである。
食事も終わり、柏木家の当主である卓氏にしてみれば、まず橘氏とその親交を深めなければいけないと思うのは当然で、これから彼との距離を縮めるためにも、何か親しみの持てる話題はないかと考えるのだった。その点、二人は以前に一度会ってもいたので、そこは形式張らずに話せることを望んでいたのだ。彼は、橘家の人達に外に出ることを提案するのだった。天気もよく暖かい日差しが食事で満たされた、みんなの気分をより一層解放して行くのだった。そういった何となくいい雰囲気になってきたこともあり、彼はここで自分のお気に入りの庭をみんなに紹介してみようと思ったのである。彼の自慢の庭は、ちょっと普通の庭とは趣が違って、どこか不自然なほど庭という誰もが想像するものとは、ちょっといやずいぶん掛け離れたものであったのだ。庭というよりも自然のコピーではないかと思われるくらい自然に近かったからである。いわば彼の作りたかったそのイメージは、日本の里山風の何とも言えない長閑な風景に近いものだと言ってもよかったのだ。
「橘さん、話しによりますとあなたのご自宅にも立派な庭園があるとお聞きしましたが、私どものこの庭について、一つ率直なご意見をこの際ですからお聞かせ願えませんか?」彼は、こう言って、自分の庭を橘氏だけではなく、その子供達にもその忌憚のない感想を聞きたいという態度を示して見せるのだった。
「いや実に素晴らしい作りだと思います。これはこれで実に独創的なものですよ。こんな庭は今まで見たこともありません。確かに日本の庭といえば、昔から決まった形があるもので、なかなかそういう伝統的な考えから抜けられないところがあるものです。でも、こういうのもやはり日本の庭と言ってもいいのではないかと私は思いますがね」橘氏はこう言って、本心から感心してみせるのだった。
「確かにこれは庭というよりも自然の一部だと言ってもいいのかも知れませんね。でもぼくは、とても肯定的にこれを庭だと断定しますよ。こういう庭がもっと日本に広まれば、日本人も今までのような自然と切り離された生活から少しは解消されるのではないかとぼくは思いますね。だって、これこそ日本人の心を癒やす原風景と言ってもいいからです」貴臣が、ここぞとばかりに自分の見解を披露するのだった。
「いや、そう言っていただけると、私もこれでよかったんだという自信が持てますね。いやね、これを作っていた間は、あまり評判はよくなかったんですよ。こんな雑木林みたいに木ばかり植えて、お前はここに田圃でもこさえて米でも作るつもりかって、真顔で父親に言われましたからね」
「それはまた、なかなか手厳しい話しですね。でも、これはこれで手入れもなかなか大変なんではありませんか?」
「そうですね。放っとけば、あっという間に雑草で埋まってしまいますからね。そこは自然との折り合いをちゃんとつけなければ、ただ雑然としたものに成り下がってしまうので、そこは面倒でも手を抜かずにちゃんと手入れしていく必要があるんです」
「なるほど、その点から言えば、私どもの庭は庭らしい庭ではあるが、あまり面白みのある庭ではないのかも知れませんね。それでも、なかなか工夫されたところもあるんです。こんど一度私どもの家にいらして下さい。あなたのご都合のよい日に立ち寄って頂いても結構ですよ。いや、それより、ここで正式にみなさんを私どもの家に招待したいと思うのですが、いかがでしょう」
「それは、とても光栄です。ぜひ橘さんのお庭を拝見するためにも、その招待はぜひ受けさせて頂きたいと思います。ところで、橘さんは、この度ご結婚されるとお聞きしたのですが、いや実に羨ましい限りです。私などは、まだ一度も、こういった素敵な方とお会いする機会すらないのですから」彼は、こう言って禮子を見る口実ができたと思い、内心ドキドキしながら彼女を見るのだった。こうした彼のちょっとした何気ない身振りにも、そこに本人の秘められた思いがどうしても滲み出てしまうことはやむを得なかったのだが、それをどう受け取るかはすべて彼女のその時の気分次第だったのだ。確かに禮子は、今まで人様の家の庭など何の興味もなかったのだが、この時ばかりは彼女の心もすっかり落ち着いて、この庭に何か癒やされるものを感じていたのである。ということは彼女の心に何か今まで感じたこともないあるものが、そっと忍び寄って来たことを肌で感じ、それを受け入れたと言ってもいいのかも知れない。




