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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 いよいよ、柏木の深謀遠慮が試されるパーティーが始まることになるのだが、ちょっとその前に柏木の家族について、その必要と思われる部分だけでも詳しく紹介しておいたほうがいいと思うのだ。そのほうがこれから始まるこの舞台劇の成り行きを、より一層理解して頂けると思うからである。以前にも少し、この柏木という人間を紹介したときに、脇役のような形で彼の兄のことを話したと思うのだが、ここではむしろ主役という立場で話してみたいのである。というのも、どういうわけか彼が橘家のこれからの命運を握ることになってしまうからである。そういうことから言っても彼の存在は決して無視できないのである。

 彼、つまり柏木卓かしわぎすぐる氏は、弟と一つしか歳が離れていなかったのだが、その容貌からいっても、またその風格からいってもまったく違っていたのだ。たった一つ違いの兄弟でありながらこうも変わるものなのか。そういう疑問はおそらく誰の心にも自然と起こったに違いないのである。彼はまだ四十にはなっていなかったが、どうもその身のこなし方からとても三十代には見えなかったのである。どう見ても四十代後半か五十代に見られても決して不思議ではなかったのだ。確かに頭は少し薄く本人も気にしているのか、これ以上の髪の後退をどうしても阻止したいと色んな育毛剤をあれこれと試して見てはいたものの、その毛根を活性化することもなく、洗うたんびに髪の毛が抜けていくのを恨めしげに見送るしかなかったのである。とはいえ、その顔立ちは、弟より品があって確かにようく見れば、まだ三十代であるという証拠は、その肌の張り具合一つ見ても十分証明できたのである。そういう男として、まだ老けるには早すぎる年齢とはいえ何の因果か彼の身体だけが、なぜか彼の意志に逆らって老成の道を脇目も振らずにどんどん進んでいるようなのだ。体型的に見てもここ最近体重がめっきり増えてきて、頭どころかその腹回りにまで気を使わねばならなくなってきていたのである。彼はまだ独り身で本人も結婚は望んではいたものの理想が高いのかなかなかいい相手が見つからず、そのうちに親の跡を継ぐことになり、ますますそっちの方面に気が回らなくなってしまったのである。そこへ持って来て弟の問題が起こり、自分も兄としてこのまま放って置くわけにもいかず、何とか弟の更生を願い自分のことよりも弟の結婚を心配するくらいだったのだ。

 彼はどちらかと言うと、父親のように我が強いわけでもなく、自分の考え一つで何もかも決めて行くというようなタイプの人間ではなかったのだが、父親が一代で築いたこの会社が、その跡を引き継いだとたんおかしくなったのでは話しにもならないので、そこは何とか彼も父親に負けないように自分の性格を変えてでも、鬼のように変身して厳しく部下達に当たることもあったのだ。

 彼もどうやら弟とはまた違った意味で自分の立場と格闘する運命を担っていたわけだが、弟のようにこの会社と反目することもなく、そこは長男として親の跡を継ぐことに大いなる誇りとその責任を十分に自覚し、自分を殺してでも会社のために働くことに彼なりの意義を感じていたようである。しかし、彼もまだ三十代で、現代の厳しい社会的状況を新しい感覚で感じていた彼からすれば、父親が作ったこの会社の組織そのものが、どこか旧態依然のままであることに違和感を持っていたことは事実なのだ。このままで果たして父親を超える業績が出せるのか、それを考えると実に厳しい現実が彼を待ち受けているように思えて仕方がなかったのである。そうした公私にわたって問題を抱えていた彼ではあったが、今回こうして両家の親睦会が開かれたことは、柏木家のためにも良い影響をもたらしてくれるのではないかと秘かに期待していたのである。橘氏とは、選挙のことで、彼も弟を通じてそれなりに協力していたので、その点で弟のためにもよかったのではないかと考えるのだった。もちろん、こうして両家の関係が親密になればなるほど橘氏の次の選挙にも、前回以上の協力をしなければいけないと彼も考えていたのである。

 柏木家には、もちろん兄弟のほかにその母親である彼女の存在が父親以上の影響を彼らに与えていたのだが、その母親は追って紹介することにして、もう一人今は亡き先代の母親、つまり彼らの祖母がまだ健在で、この柏木家の行く末をまるで地母神のように見守っていたのである。この祖母は、御年八十八歳だが、衰えたところなど微塵も見せず、自分が生きている以上この柏木家をおかしくさせるわけにはいかないといった意気込みが、その豊満な身体から滲み出ているのが感じられるのだった。とはいえ、さすがに足腰は衰えて移動は車椅子だったが、まだまだその声には張りがあり、歯も丈夫で総入れ歯にはなっておらず、堅い物でもバリバリ音を立てて食べるくらい矍鑠かくしゃくとしたおばあさんでもあったのだ。ところが、そういう元気に溢れたおばあさんが息子が自分より先に亡くなったことで、そのショックから自分もその後を追うのではないかと思われるくらい、一時は死線を彷徨うほど弱ってしまったのである。しかし、どうやらまだ死ぬ運命ではなかったらしく、再び元気を取り戻しそれからというもの本人は生かされたことに何か特別な意味でも感じたのか、自分の息子が築いたこの柏木家を守ることに最後の時間を使おうと決心するのだった。それにはまず孫たちを結婚させて何とか一人前の人間にしなければいけないと思うのだった。それだけは何としてでも実現させなければならないと、このおばあさんは思ったのである。彼女が一番心配したのは、やはり弟より兄のほうで弟が先に結婚しそうだと聞かされた時、あまり良い気持ちはしなかったのだ。というのも彼女にはやはりこの家の長男が先に結婚して、この柏木家の土台をしっかりと固めなければいけないと思っていたからである。このおばあさんにとって、柏木家が一層の繁栄をして行くためには、まず長男がしっかりとこの家を守っていかなければならないと信じていたからである。現代で家を守るということは、確かに難しいことにはなっているが、それでもこういう考え方はどんな制度になろうと、日本人の心から消え去ることはないと思うのである。たとえ現代の家庭がバラバラで、自分勝手に振る舞うことが当たり前になり、家族関係が壊れ掛かっていたとしても、それでも生活の土台はまず家族にあるのだし、それをいい加減にしておくわけにはいかないのである。つまり、このおばあさんは、自分が育った伝統的な考えに従ってただ家族が安定するための秩序を作りたかっただけなのだ。もちろん理想と現実はまったく違っていたとしてもである。第一このおばあさんだって、自分の夫に対しては、お世辞にも良い関係とは言えなかったのである。この矛盾した心の働きこそ、実に厄介極まりない人間の現実でもあるわけだ。つまり、このおばあさんの心情からすれば、そのくらい自分の息子が突出した存在だったわけで、そこに絶大な誇りと母としての責任を感じざるを得なかったのである。それはもう信仰に近いと言ってもいいくらいであった。息子が築いてくれたこの柏木家という大きな家を、今以上に繁栄させなければならなかったのである。彼女はそうすることが死んだ息子に対する自分の責務であると考えたのだ。要するにそれはこうも言えるのだ。彼女にとって、自分が生んだ息子がこうして大きな足跡を残したということは母親にとって大きな誉れでもあり、この家を存続させることは夫婦の関係よりも優先すべき事柄であり、そのほうがずっと大事なことでもあったからだ。彼女は、こうして自分の生んだ息子に絶大なる誇りを感じていたのだが、自分の夫にはこれといった強い心の絆といったものはなかったみたいである。彼女にとって夫はそれほど自慢するほどの男ではなかったようで、別にこれといった才覚もなく、ただ真面目で優しいだけが取り柄のただそれだけの男であったようだ。もちろん、これだけで彼女の夫を判断してはいけないのだが、彼女にしてみればそういう男はそれほど価値があるとは思っていないようだった。確かに女にしてみれば、そういう夫と自分が生んだ息子を比べれば、それは自然と息子のほうが遙かに大きな存在であったことは仕方のないことなのかも知れない。ましてや、その息子が自ら一代で会社をここまで大きくしたとなれば、それは比べるのも気が引けて夫はただ小さくなるしか仕方がなかったのだ。もっとも、彼女の夫はすでに数年前に亡くなってはいたのだが、こうした妻の夫に対する態度に彼もとうとう我慢できずに、ある時彼女にこう言ってしまったときがあったのだ。「お前の気持ちも分かるが、それでもお前の自慢の息子は、おれの息子でもあるのだよ。おれを軽蔑するのはお前の自由だが、おれの分身でもあるこの息子は、おれの出来なかったことを代わりに成し遂げてくれたのだ。おれにとって実に誉れ高き息子でもあったのだ」と。もちろん、彼は自分の不甲斐なさを恥じてはいただろうが、それでも彼はそういう誉れ高き息子の成功を見届けながら、あの世に旅立っただけでも幸せだったのかも知れない。しかし夫婦関係から見ると、ご覧のように彼は自分の妻にとってはそれくらいのものでしかなかったのだ。夫婦の絆とはいったい何なのか。そもそも、この柏木家は橘家とは違ってごく普通の家柄の出であったようだ。もっとも母方のほうは、ある地方のかなり豊かな農家ではあったようで、夫とはどういう縁で知り合ったのかよく分からないが、何でも彼女の母親にある親類から申し出があり、その親同士が話し合っただけで、それで何となく決まってしまったということである。そういう本人の同意などまったく無視されたような結婚によって出来た息子が、一種の英雄として母親を歓喜させたというわけである。確かに、彼女にとっては英雄とも言える息子だったのだろうが、その息子は、ちょっと変わった子供でもあったのだ。よく近所の悪ガキどもを集めては、自分が大将になって色んな悪さをするのだが、自分の言うことをよく聞くやつにある種の特権を与えるのだった。もちろん特権と言っても、ただ自分とタメ口で話しが出来るという子供らしい他愛のないものなのだが、それでも別の観点から見ると、彼の心の働きがその頃から発揮されていたわけである。彼は大学を卒業するとすぐに小さな会社を興し、ちょうど高度経済成長期の最後の波に幸運にも乗れて最初は順調にいったものの、その後色んな波に影響され、時には倒産寸前まで追い詰められたこともあったが、思い切ったリストラによりそれを何とか乗り切り、その後も強引な経営手腕を発揮して、この地方でも指折りの大きな会社にまでして見せたのであった。彼は日本人には珍しく、心情的に無理だと思うことも難なくやってのけることができたのだ。もちろん、風当たりはもの凄く彼もさすがにへこたれそうになったが、会社を存続させるためには自分のやったことは正しいと信じ頑として自分の考えを曲げることはなかったのである。もちろん、そういうことが成功したというのも彼を助けた人間が社内にいたからなのだ。彼は確かに頑固だがそれでも彼独特の人心掌握術があったわけで、能力のある人間はどんどん重要な部署に抜擢して、何とか危機を乗り越えたというわけである。そういうわけで、彼にとって自分の会社は命よりも大切なものであったわけで、以前にも少し話題にしたとは思うのだが、何よりも一番彼が心配したのが、自分の亡き後誰がこの会社の跡を継ぐのかということにあったのである。自分が一代で築き上げてきたこの会社を誰がどう発展させていくのか、もちろん本心ではどちらかの息子に跡を継いで欲しいと心から思っていたのである。彼はそのために、小さい内から息子達に英才教育を施していたのだ。というのも、誰にも文句を言われないような人間に、自分の息子を育て上げなければならなかったからである。それは一種のスパルタ教育で、子供達の性格など一切無視してただひたすら大人の思い込みを子供達に押し付けるという教育であった。そういう教育で育った二人の息子は、それでもなぜか違った影響をそれぞれに受けたのである。兄は、子供ながらもどこか要領がよかったらしく、父親の傍若無人なやり方をうまく避けながら、何とかその被害を最小限に留めたのだ。ところが弟は父親のやり方をまともに受けたのである。このまともに受けたという、その性格こそ彼の運命の形そのものでもあったのだ。父親に逆らうことなどもってのほかで、どんな無理難題でも父親の期待を裏切らないために涙を流しながらも何とかやり遂げようとしたのである。しかし、それはまだ子供の頃の話しで、その時はただ純粋に父親の言うことを信じて黙って付いて行くしかなかったのである。いわば彼の素質が無自覚に発揮されていたわけである。彼はすっかり父親の言いなりなって自分の意志などそこにはまったくなく、ただ父親に気に入られるために自分を押さえ込んだまま思春期を過ごし、父親に用意されたレールの上を滑って行くしかなかったのである。とはいえ、そうした一見乱暴なやり方ではあったが、実のところ彼にとってはそのほうがかえって楽だったのだ。なぜなら、そこに自分の判断などまるで働かす必要がなかったからで、ただ父親の言うとおりにしていれば父親も喜んだし、自分もそれなりに満足することが出来たからである。しかし、彼の精神的な反逆は彼のまったく与り知れない心の奥底で着々と準備されていたのだ。その反逆は、彼が父親の会社に就職したことを切っ掛けに始まり、それでもしばらくは彼も父親の体面を考えて、そういう自分に抵抗して何とかこの会社と折り合いを付けようと必死に仕事をしたのだが、とうとう自分の人生の秩序を自ら壊すという快挙を、いや暴挙をやってのけたのである。その経緯は以前に話したことがあるので、ここではもう繰り返さないが、ただ人間は日々変わっていくものだし、それを止めることなど誰にも出来きやしないので、ただ本人にしてみれば、これから自分がやろうとしていることは、今の自分にとって一番やらなければならないことだと思っていただけである。そういうわけで、彼にとって見ればこれからのことを考えると、この兄の存在がどうしても重要なものになって来るのだった。

 その兄ではあるが彼もまたなかなかユニークな人間ではあったのだ。彼は弟とは違って実に冷静沈着なところがあり、それは子供の頃からそういう傾向があったのだ。何でも先を読みどうすれば一番安全に間違いを犯さずに進むことが出来るか、それを考えることが彼にとって一番の関心事であったようだ。例えば映画館に入って最初にすることは、まず非常口を探して一番安全に逃げられる通路を確認してから、自分の席に座るのが彼のお決まりのルーティンであった。彼にとって、どうすればそういう危険から素早く安全に脱出できるかをまず最初に考えてしまうのである。要するに、まだ起きていないことまで考えて心配するような、まさしく石橋を叩いて渡るような性格だったわけである。それが彼の本性に一番合ったやり方のようだった。そういうわけで彼も父親の教育方針をすっかり見通して、どうすれば一番被害を受けずにこの難題から、身を守ることができるかを考えていたのである。そのお陰で彼は精神的に父親から一定の距離を保つことができて、この訳の分からない父親の教育方針がいかに出鱈目で意味のないものであるかということまで見透かしていたのだ。ところが、しばらくしてなぜ父親がこうまでして自分達を、躍起になって教育したがるのかと考え始めたのだ。すると、こいつはどうやら自分を父親の後釜に据えることを考えてのことだと、そこまで見抜いてしまったのである。そう考えると自分の運命はもはやこの父親の手中に握られていることを察してしまったのだ。彼はこうして、これからの自分の人生が父親によってすでに決められていると観念したのだが、それでもこの桎梏から一時は逃れることをずっと考えていたのである。彼も自分の人生は自分で決めたいと思っていたので、いくら父親がそう思っていたとしても、何もこの父親の願望に無理に従う必要もないのではないかと思ったのである。しかし、父親の性格を考えると、正直なところ果たしてそんな悠長なことを言って済ましてなどいられるのかと考えざるを得なかったのだ。確かに父親に反抗することは、やろうと思えばできないことでもないが、その後のことを考えるとどうもデメリットのほうが大きいと彼は判断したのである。つまり彼の性格がここでも遺憾なく発揮されたわけだが、ところが彼は父親のそういう思惑から逃れるのではなくこれも何かの運命だと考え、自分の人生を一旦父親の意図から切り離して、自らの意志で父親の敷いたレールに乗っかってやろうと決心したのである。

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