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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 禮子にとってはまったく予想外な展開となり、自分の思惑も当てが外れてがっかりしてしまったのだが、それでも、これで何もかも終わったとは少しも思っていないらしく、この柏木という人間はまだ自分にとって必要な存在であると思っていたようなのだ。というのも今回の彼の働きぶりは、それこそ彼女の眼鏡に大いに適ったからである。これならまだ使い道は十分あると踏んだのだ。それにしても自分という人間も、ずいぶんと物好きなところがあると呆れるのだった。いったい自分は何をしたいのか。なぜ、こうして訳の分からぬことに何時までも首を突っ込んでいるのだろうかと、今回の件でほんとに訳が分からなくなってしまったからである。あの時、柏木の言った通りこのまま誰にも告げずに橘氏の前から黙って消え去ってしまったほうが、それこそ橘家のためにもよっぽどよかったのではないかと思われたのだ。そのほうがお互いのためにも幸せなのだと誰でもそう思うに違いなかったからだ。しかし……、とここで彼女は考えたのだ。どういうわけか人は、この何か言ったあとに、この「しかし」という実に厄介な接続詞を付けたがるのである。「しかし、そんなことは思ってもいなかった」とか、「しかし、ほかにもっとやるべきことがあるんじゃないか」とか、色々と矛盾したことを言いたがるのである。要するにこのまま何事もなく平和裏に事を終わらせることがなぜか出来ないのだ。こういう心こそ人間にとって一番厄介で、自分の意志ではどうすることも出来ない何か不気味な力をそこに嫌でも感じてしまうのである。人間の心の奥底には、何か事を起こしたいという止みがたい欲望が頑としてあるみたいなのだ。このような自分ではなかなかコントロールできない意志にこそ、良くも悪くも人の運命を左右していまうような威力が潜んでいるのかも知れないのだ。気持ちの上では何も好き好んで事件を起こしたいわけではないのに何かこのままでは引っ込みがつかないとかどこかすっきりと終わってないとか色々と理由を付けてしまうわけである。彼女もおそらくそういう気持ちが強いらしく、自分でもこれからどうするかは、まったく分からないままそれでも自分の意志は堅く、たとえその先に何が待っていようとただ進むしかないから進むのだと言わんばかりの気持ちなのかも知れない。

 柏木は、今回の醜態によって自分の評判をすこぶる落としてしまい、このままでは彼女との結婚も親の立場から見れば、とても安心して心から喜べないのではないかと心配するのだった。そこで彼は一計を案じて、橘家と柏木家の家族同士によるホームパーティーのようなものを開きたいと橘氏に申し入れたのだ。先程橘氏に話したいことがあると言ったのはそのことで、要するに橘氏に安心してもらうために彼が思いついた苦肉の策なのだ。それでも、このアイデアはそれほど悪いものではなく、両家の親睦を図るためにもそれは確かに必要なことでもあったからだ。そういうこともあってかこの話は、誰も反対することもなくスムーズに進んで、その日取りも一週間後の日曜日に柏木家で執り行われることまであっさりと決まってしまったのである。なぜ柏木家に決まったのかは何分そこに柏木本人の思惑が働いたからである。つまり、この親睦会には彼の将来にかかわるある重要な問題が隠れていたからだ。人間の虚栄心というものは誰の心にもあるものだが、それがまして自分の弟の結婚相手の家族となれば、いくら自分の弟がダメな人間だとしても、そこは自分の弟をよく見せたいと思うに違いないと柏木は読んでいたからである。橘氏だって柏木の今の社会的な状態がどんなものかよく知っていたし、兄としても橘家のことを考えれば、今の状態のまま彼を放置して置くわけにはいくまいと考えたわけである。それにこの結婚は、弟にとってもまた柏木家にとっても極めて重要なものだと兄が考えていたことも十分承知していたのだ。そのくせ彼は一度も家族に紹介すらしていなかったのである。何の相談もないまま弟の独断で結婚は進められていたのだ。兄にしてみればまったく考えられないことなのだが、どうすることも出来ずにただ遠くから見守るしか方法がない状態だったのである。それが、今回こうしてお互いの家族が出揃って、その親睦を深めようという企画は兄としても願ってもないことだったし、それに自分の豪邸の前に広がる庭園を見ながら、このパーティーを開こうというアイデアがすこぶる気に入ってしまったのだ。というのも彼は何よりもこの庭が大のお気に入りだったからである。その庭は普通の庭とはちょっと違っていて、色んな樹木と草花が雑然と植えられ、どこか日本の原風景を思わせる風情がそこにあったのだ。おそらく橘氏も自宅に大きな庭園を構えていたので、その点で気が合うかも知れないのである。まして、この二人は以前に一度会っているのだ。初対面ではないということもあり、そこは話しも弾むに違いないのである。橘氏は、その場の空気を敏感に感じ取れる抜け目のない人だし、おそらく兄の気持ちを十分に察して、きっと兄を持ち上げてくれること請け合いであると考えたわけである。こういった柏木の思惑は、もちろん彼の将来を兄にもう一度再検討させる狙いから思いつかれたわけだが、つまりこのアイデアは彼にとっては一石二鳥の効果を狙ってのものだったのだ。要するに自分の将来の保証と橘氏を安心させるという、実に抜け目のない策略がそこに隠されていたわけである。

 こうして柏木も自分の社会的将来を何とか今よりも、もっと確実なものにしたいという欲望を次第に持つようになったわけである。そういうことからも彼の性格が以前とはまるで変わってしまったように見えるのだった。それはあまりにも違うものであり、どうしてそんなまるで正反対の性格が、ここに来て彼の行動を左右し始めたのだろうか。しかし、そういうことは誰にでも起こることで、彼の場合を考えてみれば、紫音との出会いが彼の性格に大いに影響して彼も変わることを余儀なくされたわけなのだ。それを外から見れば突然変わったように見えて驚くのである。あれほど競争心など侮蔑していた彼なのに、それがこうして社会そのものと競争しようとしているのだ。彼の葛藤そのものが以前と比べてまったく変質してしまい、以前はこの忌まわしい社会的習慣といかに対峙すべきかを考えていたのだが、今度はその社会的習慣にすがりつこうと懸命になっているのである。それも自分が納得する地位に就くためには、どんな手を使ってでも実現させたいと思っているようなのだ。こうした彼の変貌こそ次第に彼を混乱の極みへと追い詰めて行くのである。それは余りにも自分の気質と違ったものであったからだ。彼の素質は、この社会との親和性があまりよくなかったのである。これは意外と気が付かないもので、誰でもそうだとは思うのだが人にはその人の生まれ持った気質というものがあり、大体その気質に沿った仕事を自ら選ぶものと言ってもいいからだ。しかし、彼の前には親によって敷かれたレールが最初からあったので、ただそれに乗って進むしかなかったのである。彼はもちろんそれを当たり前のように感じて、何の疑いも持たずにいたのだが、現実は彼の思うようなものとはまったく違っていたのである。つまり、そこで彼はものの見事に挫折してしまったというわけだ。彼はこのとんでもない世界の異常さに、それでも最初は何とか食らいついて行こうとしたのだが、何分自分の気質がまるで免疫のように働き、この世界を拒絶し始めたのである。彼は妙な強迫観念に取り憑かれ、自分の世界に籠もるようになり、もはや社会とは適当に付き合うだけにして、このろくでもない世界を居心地のよい部屋の奥から、胡散臭い疑いの眼で見るようになっていったのである。こうして以前に語られたような彼の二重生活が始まったのだが、その性格からいって、それはなるべくしてそうなったというほかないのだが、本人はそれほどはっきりとした自覚などなかったのである。自分の素質といっても、それが本人にはっきりと自覚されるには、よほどのことがない限り無理だと思われるからだ。子供に自分の素質を自覚しろと言っても無理だろう。子供はただ赴くがまま、つまり本能のまま自分の素質を発揮するのだが、それは自覚されたものではない。もちろん彼は子供ではないが、それでも若者には若者の生き方というものがあるからだ。若者は子供ではないにしろ、やはり無意識に自分の人生を始めるのが普通だと思うし、それは子供のように無自覚ではないが、それでも自分の素質などはっきりとは分かってやしないのである。自分を知ることよりまず社会に出て、その泳ぎ方を覚えることのほうが先決であり、それだけでも大変なのに、どうして自分の素質のことにまで頭が回るというのか。おのずと自分のことは後回しにして社会に無理やりにでも適応するしか方法がないのである。柏木も大体似たような手順を踏んで、この社会と何とか折り合いを付けようとしたのだが、残念ながら途中で挫折したと言うわけである。それが今回は彼にとってどうしてもそうしなければならない必要から、何がなんでもこの社会のお墨付きを得て自分が一廉の人間であることを彼女に証明して見せなければならなくなったのだ。そうしなければ自分のこれからの人生は、それこそ惨めなまま彼女とずっと暮らすことになってしまうと彼は考えたわけである。

 両家の親睦会は予定通り日曜日に執り行われることになり、準備も大体整ってあとはただ、その日が何の問題もなく穏やかに迎えられることを心から願うばかりだったのだ。ところが、ここでちょっとしたトラブルが橘家で起きたのである。禮子を橘家の一員として出席させるかどうかで一悶着起こってしまったのだ。橘氏はいずれ結婚するのだから、家族の一員として考えても何の問題もないと言い張るのだった。それに対して子供達、とくに華音が反対を言い始め、いくら結婚すると言ってもまだはっきりと決まったわけではないという理由で、今回は見送るべきだと主張したのである。このはっきりと決まったわけではない、という言葉に父親はカチンときて華音の意地の悪い理屈を非難するのだった。それは余りにも彼女を信頼しなさすぎる意見だと真剣に怒ったのだ。どうしてそこまで彼女を毛嫌いするのか。いったい彼女の何がそんなに駄目なのか、それを知りたいと華音に詰め寄るのだった。この父親のいつもとはちょっと違った態度に、彼女もいささか恐れをなして、そんなに言うのなら連れて行けばいいと言うしかなかったのだ。こうしてここは父親の意見が通りまったくやれやれと思うのだが、しかしこうした家族のゴタゴタはこれからもきっと起こるのだろうと思うと、彼も正直憂鬱になるしかなかったのである。

 当日は、朝からよく晴れて柏木にとってもいい一日になることを祈り、自ら率先して準備の仕上げのために力を貸すのだった。その日のために雇ったパーティースタッフたちに一々指示を出しながら、手抜かりがないようあちこちに目を配るのだった。彼はこういうことに関しては、なぜかよく気がつくようで、もっともそれだけこの親睦会を重要視していたからだが、彼もなかなかどうして人を使うのが意外と上手だったのだ。これは彼の才能の一つなのかも知れない。これと似たことが橘氏の選挙の時にも起きていたからである。彼は自らよく動き、面倒くさい仕事を上手に人を使いながら片付けていったという実績があったのだ。もっとも本人にしてみれば、そんなことにどれほどの価値があるのか、その自覚すらまったくなかったのだが。

 彼は、フォーマルな背広に着替えて、橘家の到着を今か今かと待つのだった。すると、ようやく大型の高級車が二台、柏木家の門を通り抜け表玄関の前にゆっくりと横付けされると、中から橘家の面々が、それぞれに装いを凝らした格好で姿を現したのだ。柏木の目にはさすが橘家という家柄が自然とその子供達にも受け継がれているのか、こうした特別な集まりで見ると、またいつもとはちょっと違ったオーラみたいなものをそこに感じてしまうのだった。とくに紫音のドレスアップされたその装いに目を見張ってしまったのである。彼女は、もともとお洒落には気を遣わない性格だったので、普段着る物にもそれほど拘りはなく、いたってシンプルな格好で過ごすことが多かったのだ。彼もそういう姿を見慣れていたせいか、この時ほど心を動かされたことはなかったのである。確かに彼女の場合、着る物によってその雰囲気どころか、彼女の品格そのものをもう一段押し上げてしまうくらいの効果があったのだ。こうして、いつもとは様子が違う彼女のその魅力的な姿に、禮子とはまた違った美しさを感じて彼の視線も釘付けになるしかなかったのである。お陰で、禮子が車から降りて来たことにすら気付かなかったようで、彼女に背を向けたまま、ただ紫音のエスコートに余念がなかったのだ。彼は、もちろん橘家で起こったトラブルのことなど知る由もなかったのだが、彼としても、まさか禮子までが来るとは想像すらしていなかったのである。そもそも彼のシナリオに彼女の名前は書かれていなかったのだ。この意表を突かれた禮子の出現は、彼にしてみれば何か自分の意図とは違ったことが起こるのではないかと、警戒する要因にはなったのである。

 とはいえ、そこは柏木も抜かりなく禮子にはそれなりに恩義もあったので、彼女に対して礼儀に外れるような対応など出来るはずもなく、さっそく彼女の派手な装いを言葉巧みに褒めちぎるのだった。何事も女性に対しては、失礼のないように礼儀を尽くすのが彼のモットーでもあったからだ。もちろん、華音に対してもそれなりに礼儀を尽くして対応したのだが、あいにくいつもの彼女とはちょっと様子が違って、どこか憮然とした表情で挨拶もそこそこにそのまま室内に逃げるように入ってしまったのである。貴臣は、さっそく若者らしい素直さで彼の豪邸に驚いて見せ、これに比べれば自分の家など納屋同然だと、そこはへりくだって彼の自尊心をくすぐって見せるのだった。最後に、彼は橘氏に心の籠もっ挨拶をして、先日のお詫びをすると今回のパーティーは自分の将来にとって極めて重要なものになることを彼に白状するのだった。それは紫音さんのためにも必要なことだと言うのだ。橘氏は、彼がいったい何を言おうとしているのかちょっと戸惑ったのだが、そこは彼の気持ちを察して、「何かお話ししたいことがあるなら聞きますよ」と、仕方なくそう言葉を掛けてやるのだった。すると柏木は、そのまま橘氏を誰もいない庭に連れ出して、あたりを気にしながら自分の考えを手短に話して聞かせるのだった。「今回の親睦会は、自分と紫音さんの将来のためにもぜひ成功させなければならないものなんです」と言って、まず橘氏を驚かしたのだ。彼は続けて、「自分は決して今居る地位には満足していないので、その是正のために何とか兄にそのことを認めさせなければならないのです。そこでご相談なんですが、その時はどうかよろしくお願いします……」と何やら謎めいたことを付け加えて橘氏の手を強く握るのだった。橘氏は、その最後の奇怪な言葉に、これはまたきっと何かやらかすつもりなんだと確信したのだが、話しの流れで何となく承諾したような格好になってしまい、それでなくても娘のことで、このところ心労が絶えなかったのに、それに加えてまた余計な気がかりが増えてしまい、心から楽しみにしていたこのパーティーも、彼の一言ですっかり台無しになり正直彼も少し腹が立って来るのだった。

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