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柏木と紫音の奇跡的な和解が成立し二人の顔にもようやく明るさが戻って来た頃一階のリビングでは、橘氏を始め貴臣、華音、そして禮子と、二階でどのようなことが起こっているのか、誰もが頭の中であれこれと想像していたのだが、それについては誰も何も語らず、ただどうなるのかその結果だけを誰もがジッと待ち続けていたのである。しかし、ただ黙って待つのも次第に退屈して来たのか、貴臣が、何を思ったのか急に話し始めるのだった。彼は自分も家族の一員として、こういった男女の複雑な問題にも十分意見を言えるだけの見識を持っているところを、みんなに見せてやろうという青年らしい願望が芽生えたのである。というのも先程は禮子によって自分のやり方が、意味のない揚げ足取りだと一蹴されてしまったことに異議を感じていたでので、自分だってそこそこのことを考えているのだというところをみんなに見せつけてやりかったのだ。そういうわけで、みんなが時間を持てあまし気味になり始めた、こういう時を狙って話せばきっとみんなも自分の話に賛同してくれるに違いないと思い、この先二人がどうなるかについての自分の見解をいくぶん緊張しながら話し始めるのだった。
「それにしても、ただこうしてジッとその結果を待つというのも、なんか無駄に時間を過ごしているように思えて仕方ありませんが、それでも二人の将来を考えればこれはこれで意味のある時間なのかも知れませんね。こういった経験はいったい何に例えればいいのでしょうか?子供の大学受験の結果発表を、ただひたすら待つ親の心境とでも言えばいいのでしょうか。ねえお父さん。お父さんもきっと自分の娘がどう判断するか、その当たりがとても心配なんじゃありませんか?でも姉の性格から言っても、そんなに心配する必要などないとぼくは思っているんです。だって紫音姉さんのような頭のいい人が、こんなちょっとした誤解にいつまでも拘っているわけがないからです。ですから問題は柏木さんのほうにあると思うんです。ぼくの見たところ、今の彼はもうほとんど腰砕け状態になっていて、まともに考えることすらままならないと思われるからです。あの酔っ払った状態で来たときのあのふてぶてしい態度からは、想像もできないくらいへたれ込んでしまいましたからね。これでは、そもそも自分の疑惑を晴らすことすら厳しいんじゃないでしょうか。これは彼にとってはきわめて大きなハンデになりますよ。つまり、いくら姉が大きな気持ちで彼を許そうとしても、彼のほうがしどろもどろじゃ和解どころか話しにもなりませんからね。しかし彼にだって意地があるでしょう。自分の誤解を解けないまま、このままオメオメと引き下がるなんて、とてもそんな恥ずかしいことは男として出来ないと思うんです。自分で蒔いた種は自分で刈り取るのが男ですからね。どんなことをしてでも彼女を説得するはずだとぼくは考えているんですよ。それでなきゃ、あまりにも男として情けないですよ。こんなことくらいで女を説得できないようじゃ一層のこと、二人は別れたほうがいいんです。男としてまったく見込みがありませんからね」
貴臣は、こう言って、男とはどうあるべきかという自分の見解を、恥ずかしげもなくみんなに披露するのだった。ところが、彼の気負った雄弁もどうやらみんなの賛同を得るまでは至らなかったようだ。父親などはそもそも息子が何を言わんとしているのかよく分らなかったし、禮子も初めのうちはそれほど関心も引かなかったのだが、次第になかなかおもしろい分析をすると思って、何か一言彼に言ってやりたくなったのだが華音が何か言いたそうな素振りを見せたので途中で止めてしまったのだ。その華音だが確かに弟の話を興味ありげに終始ニヤニヤしながら聞いていて今にも彼女の口から皮肉の一つでも飛び出しそうだったのだ。しかし彼女には弟を皮肉るよりもっと重要なことが言いたいようであった。
「あんたも、ずいぶんと大人になったわね。以前なら、おそらくこんなことには関心も示さずバカげた話しだと腹の中でそれこそせせら笑っていたに違いないんだから。それが、どうしてここまでのめり込んでしまったのかしらね。いったい何が原因なの。ひょっとして、あんたも彼の行動には不審な点が多すぎるとでもまだ思っているのかしら。だって、そうでもなけりゃ、こんなことにわざわざ口を挟んで来るなんてことはしないと思うのよ。でもね、もしそうなら、それでこそあたしの弟だと褒めてやりたくなったわ。あんたがさっき言ってた彼の疑惑ね。あたしも同じような事を考えていたのよ。だって、柏木さんのあの酔った姿を見てあたしもピンと来たからなの。ああ、これは臭いと。確かに彼のあの不自然な一連の行動が、それこそすべてを物語っていたというわけなのよ。ねえ禮子さん。あなたが酔った彼と一緒にやって来たというのも、そこにあなたなりの何か考えがあったと見ても、まんざら間違ってはいないとあたしは考えているの。しかし、まあ、こういうことは、もちろん、あたしの勝手な想像ですからね。あまり強くは言えませんが。でもまあ、彼がこれからどうなるのか、それによって、あたし達の見解がどこまで正しいのか、いずれ分かると思いますので、それをジッと待つことにしたいとあたしは思っているんです」
華音は、こう言って、まだ二人の疑惑は決して終わっていなと言うことを、今度は彼女自身が弟に代わって再び言い始めたのである。これには貴臣も驚いてしまったのだが、それでもこの時ばかりは自分の意見と一致していたことに、いつもとは違う姉の姿を見るのだった。むしろ、これはおそらく彼女の強い意志なのだ。この橘家を守るためには、この疑惑に目を瞑るわけにはいかないという彼女なりの決意の表れだと貴臣は見るのだった。すると、そのとき二階からピアノの音が聞こえて来たのだ。いったい誰が弾いているのか。それは、もちろん紫音以外には考えられないのだが、なぜこの時ピアノが弾かれたのか。それは誰もが疑問に思ったことなのだが、それでも自然と耳を傾けてしまう実に感じのいいその曲は、誰でも一度は耳にした曲なのだが、それが何と言う曲なのか誰も知る者はいなかったのだ。ただ禮子だけはよく知っていたらしく、その曲名からすぐピンと来てなぜ今それが弾かれたのか、その意味もすっかり分かってしまったのだ。他の三人は、そこまでの知識もなく、ただこれで二人の誤解もようやく解消したんだとそう思ったのである。しかしなぜこのようなハプニングが起こったのか。それには柏木のちょっとした、いじけた気分が絡んでいたのである。
柏木は彼女を知ろうと男の好奇心から部屋の中を遠慮しながら見て回ると、まず目についたのはその蔵書の多さだった。それでも彼は何よりもその内容を重視するのだった。いったい彼女はどんな本を読んでいるのか、それを知ることはこれからの二人の関係にも大きく影響するからである。しかし彼を驚かしたのはその量もそうだがその質のほうであった。音楽はもちろんのこと、文学、自然科学、哲学、歴史と、それこそありとあらゆる分野のそれもかなり難しい書物がこの本棚には詰め込まれていたのである。彼はそれを知ると、それこそ言葉もなく彼女の教養の高さに驚嘆し、自分の無知蒙昧に嘆息するのだった。彼は、彼女のそういう精神世界を知ると、やはり彼女は自分とはまったく違う世界の住人なのかも知れないと思うのだった。しかし、それでも何とか自分も彼女のそういう精神の世界に少しでも近づきたいという気持ちだけは、忘れずに持ち続けようと思うのだった。彼も自分の今までの劣悪な生活にピリオドを打ったことだけは、内心自分にしてはよくやったとホッとしてはいたのだが、それでもこれからの自分の人生を思うと、なんか重苦しいものを感じてしまうのだった。それは紫音というまたとない女性を得たことで、それがなぜか二重にも三重にも、自分の肩に重荷として感じられるようになっていたからである。どうして、そういう矛盾した感情を持つようになってしまったのだろう。それはつまり彼女と比べてやはり自分は人間的に劣っているという考えが、どうしてもつきまとってしまうからである。そういう虚栄心というものが彼の場合はとくに強かったせいで、何もこんなことで彼女と張り合う必要などどこにもないのに、それがなかなか彼には分からなかったのである。つまりこのとき彼はこう思ったのだ。自分に地位という後ろ盾があれば、彼女だって自分のことをそれなりの人間として認めてくれるのではないだろうか。そういう気持ちがますます強くなったのである。それを思うと、『どうしてあの時兄の言うことに唯々諾々と従ったのか、あんなちっぽけな子会社に俺を島流しにしやがって、父親の滅茶苦茶な教育に耐えきたこの俺がどうしてこんな貧乏くじを引かされなきゃならないのだ』こうした怒りの気持ちがまるで場違いなように彼を襲ったのだ。なる程どんな考えだって思い浮かぶ時には浮かんで来るわけで、何も彼が悪いわけではないのだろうが、なにせ彼も色々と矛盾を抱えた人間でもあったので、すべてのことが一緒くたんになって彼を苦しめたわけである。要するに自分が兄と争わずに目の前にぶらさがっていた地位をあっさりと兄に譲り、自分は人妻に現を抜かした結果がこの有様だったからである。彼のこうした鬱屈した気持ちはなかなか晴れなかったのだが、しかしそんな気分にいつまでも縛られているわけにはいかなかったのだ。だって目の前にはさっきから自分の行動を黙って見ている彼女がいたからである。そういう自分の不機嫌さなどとっとと封印すべきだったのだ。そうしないとせっかく彼女との和解も台無しになってしまうではないか。それなら自分のむしゃくしゃした気分を大きく変えてもらうためにも、彼女に何か一曲弾いてもらおうと思い、こうお願いするのだった。
「いや紫音さん。ぼくの聞いたところによりますと、あなたはピアノの名手だそうではありませんか。ぼくもそれを初めて聞いたときは、さもありなんと思い時に天は二物を与えるもんだと、ずいぶん羨ましく思ったもんですよ。まったく人間の素質というものは、まったくままならないものだとつくづく思いますね。どうしてある人にはそういう優れた才能を授け、別な人にはまったくろくでもない才能を授けるのか。それはこの自然というものが、いかに気紛れに出来ているかってことの何よりの証拠ではないでしょうか。気紛れというのは、もちろんこれは人間の側から見た理屈で、自然からすればそうなるべく選ばれた人だけに、そういう類い稀なる才能を授けたといってもいいのかも知れませんからね。そういう意味で自然は実に残酷なほど貴族主義的なところがあると見るべきなんですよ。招かれる人は多いが選ばれし人は少ないと言うことでしょうね。それにもかからわず、あなたはそういうご自分の才能を途中で放棄されたそうではありませんか。もちろん、そうすべき理由があったのでしょうが、それでもやはりあなたのやり方は、いささか乱暴なことに思われるんですがね。いや実に勿体ない決断をしたと、ぼくには残念に思われて仕方がありませんよ。世の中には色んな事情でなりたくてもなれない人もいるんですからね。しかしまあ、それも一つの運命なのかも知れません。まったく人間とは実に言葉では言い表せないくらい、実に不思議な生き物なのかも知れませんね。それはほんとにつくづくそう思いますよ。ねえ紫音さん。あなたとこうしてそれもあなたのお部屋で二人だけでお話しできているのも、つい先程までのことを思うとまったく信じられないくらいじゃありませんか。どうして、こう気分が上がったり下がったするのでしょう。今のあなたを見てると、ほんとに楽しくて仕様がないって顔をしてますからね。どうです、ここいらで一つ、あなたのその抑えきれない喜びを何とかあなたの音楽によって表現して見せてくれませんか。下の連中にも、ぼく達の今の気持ちを聞かせてやりましょうよ。きっと心配していると思うのでね。どうです?それにぼくもあなたのピアノをぜひ聞いて見たくなりました。ねえ今の二人の気持ちにぴったりの、何か楽しくて愉快なやつを一曲聴かせてもらえませんか」
こうして、柏木の突然のリクエストに応えなければいけない仕儀に立ち至ってしまったわけだが、彼女としてもここで断るのも申し訳ないので、仕方なくピアノの前に座り、一曲弾くはめになったというわけである。何か気持ちのいい曲をと考えて、彼女はある曲を思い出し、それを自分の熱い思いとして彼に捧げるのだった。彼女はおもむろに鍵盤の上の指を置き、気持ちを集中させながら自分の思いをしっかりと乗せて奏でられた、その印象的で優しいメロディーは、軽快なワルツに乗って己の情熱を高らかに歌い上げたのである。
「ああ、この曲ならぼくも聞いたことがありますよ。実にいい曲ですね。こういう曲こそ今の二人の気分そのままですね。実に素晴らしい」
「よろこんで頂けて、とても嬉しいですわ。この曲は女の熱い思いそのままを優しく表現したものです。今の私の気持ちにピッタリなんです」
「いや、まったく素晴らしい。あなたは、ほんとにピアノの名手ですね。実に感心しました。それほどの実力がありながら、いったいどうしてピアノを止められてしまったのでしょうか」
あいにくと、彼にはまったく分かっていなかったのだ。彼女がどんな思いで、この曲を弾いていたのかを。
「ところで、この曲は何て言う曲なんですか?」
「サティのジュ・トゥ・ヴーですわ」
「ああ、ジュ・トゥ・ヴーですか。まったく、心が実に洗われますね。ねえ、紫音さん。こうした穏やかで安らぎのある時間が、ぼく達の間に、これからもずっと続いていくといいですね。ぼくは、どちらかというと、女性との間で揉め事が起こるのが実に苦手なんですよ。何事も穏便に済ませたい質の人間でね。何よりも女同士が角突き合わせて争うことが一番嫌なんです。どうして、もっと穏やかに生きられないものかと思ってね、ほんとにそういうことが今まで余りにも多かったもんですから。あなたに向かって、こんなことを言うのもどうかと思うのですが、ぼくは決してあなたを裏切るようなことはしないでしょう。どうか、このぼくを信じていて下さい」
それを聞くと紫音はピアノを弾くのを止め、彼をそれこそ真剣な眼差しで見るのだった。しかし、それは何も彼の言うことに同意して、その言葉を信じたというわけではないようだ。むしろ反対に何か不吉なことでも聞いた時のように、実に嫌な予感を持ってしまったのである。いったい、なぜそんなことを言うのだろうと、彼の性格をその底まで見通すような眼差しがそこにあったのだ。いわば、そういうことを平気で言う彼の人間性こそが、一番の問題だと彼女は見ていたのである。
とはいえ、こうして曲がりなりにも二人の誤解が解けて、一旦はどうなることかと思っていた家族たちも安心したのか、二階から降りて来た二人の穏やかな顔を見ると、父親の口から安堵のため息が自然と漏れるのだった。柏木は申し訳なさそうな顔で橘氏に近づくと何か耳元で一言囁くのだった。それは、後でちょっと二人だけでお話ししておきたいことがあると言うのだ。橘氏は少し顔をしかめ、いったい何を二人だけで話そうと言うのだろうと訝るのだった。
「紫音さん。あなたのピアノとても素晴らしかったわよ。あの曲はほんとにあなたの今の気持ちそのままでしたわね」禮子が意味ありげに突然こう言うのだった。それは、ほかの連中はきっと何も分かっていないだろうから、せめて自分だけはその意味が分かっていたことを、彼女に知らせて上げたかったからである。




