表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫音の約束   作者: 吉田和司


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

40/104

40

 こうした彼女の意外な行動は、いったい何を意味しているのだろうか。もちろん柏木は、彼女のこうした思いきった行動に自分はひょっとしたら許されたのかも知れないと思ったのだ。しかし、それは今のところまだ希望の段階でしかなかったのだが、それでもこうして彼女の部屋に招き入れられたということは、そこに非常に重要な意味合いがあることだけは確かなように思えたのである。しかし、そうは言っても、こうしていきなり彼女の部屋に通されたとはいえ、まさかいきなりジロジロと部屋の中を見るわけにもいかず、なるべく大人しくしていようとただそれだけを心掛けてジッと同じ場所にバカみたいに立っていたのである。彼女はそれを見かねて、椅子に座るよう優しく声を掛けるのだった。

 彼女の部屋はかなり広くてとても気持ちの良い、いかにも紫音という女性が好むようなイメージそのままの明るくて綺麗な部屋であった。この部屋は南向きで日当たりも良く、ベランダには数々の草花が所狭しと並んでいて手入れもよくされているのだろう、どの花も彼女の愛情に応えるように色鮮やかに咲き誇っていたのである。それに彼女はよほどの読書家でもあったのか部屋の一画には机が壁際に寄せられ、それに平行して大きな本棚が二つ並び、そこに上から下まで隙間なくびっしりとそれこそ色々な本が並び、彼女の知的好奇心がどれほど強いかを証明するのだった。そういう知的な面と同時に部屋の奥には女性としての嗜みからか、ピアノが例のごとく置かれていたが、それは決して趣味の一環として置かれていたわけではないのだ。彼女のピアノの腕前は実際プロ級といってもいいくらいで、わけあってその途中で挫折してしまったのだが、それでも気が滅入った時などに彼女のしなやかに動くその白い指から、哀愁あるメロディーが奏でられる時もあったのだ。

 柏木は、こうした彼女のプライベートルームに招き入れられた事実を、いったいどう捉えているのだろうか。彼も次第に落ち着いて来ると自然と頭も回転しだし、彼女のこうした行動はやはり自分のことを、まだ捨て切れないでいる証拠ではないかと、はなはだ都合のいい解釈をして自分を慰めて見るのだが、正直に言って、その真意がいったい何なのかはまったく見当もつかなかったのだ。しかし、こうした女性の部屋は、もちろんまったく初めてというわけではなかったのだが、それにしてもこの部屋の清々しさは、かつて経験したことがないくらい彼の気持ちを別次元に誘うのだった。それは男の部屋とはもちろん比べようもないくらい独特な雰囲気と、ある種の柔らかな肌触りとでもいった色合いで部屋の中は統一され、その隅々に至るまで完璧に整理整頓されていたのである。もちろんベッドも彼の目にすぐ入ったのだが、それこそ、男のがさつなベッドとは大違いで、どこまでもシンプルで清潔感に溢れたベッドだったのだ。彼はもちろんそれをジックリと見たわけではないのだが、それでもそんなことは一瞥しただけですべてを理解したわけである。

「いや、紫音さん。先程までのぼくがお見せした数々の無礼をどうか許して欲しいのです。もちろん、許して頂かなくてもそれはそれで結構なのですが、それでも、あなたを傷つけてしまった過ちだけは、ここではっきりと深くお詫びしなければなりませんし、ぼくの本意もまたはっきりとさせなければならないのです。そうしなければ、あなたに対する誤解はいつまでも解けぬまま、あなたを苦しませるだけだと思うからです。ここに来る前に橘さんからこう言われました。いったい、あなたは、あのように傷つけてしまった娘の心をどう癒すお積もりなのかと。確かに紫音さん。ぼくは、あなたの思いも寄らない悲痛な叫びに正直驚いてしまいました。自分の犯した罪はそれほどひどかったのだと。あなたをそこまで追い詰めてしまったことに対してどうお詫びすればいいのか、今になってもその言葉すら見つかっていないのです。しかし、これだけはどうか分かってほしいのです。ぼくは断じて禮子さんには何の思いも抱いていないということです。それだけはどうか信じてほしいのです。それはまったくの誤解ですから。あの時のぼくの言い方が、どうもみんなの顰蹙を買ってしまったようなんです。もちろん、あなたもすっかり驚いてしまったのでしょう。でも、一番驚いたのはぼくなんですよ。ぼくは、ただあなたと禮子さんの、その素晴らしい性格について話したつもりでいたからです。それを何か変に誤解されたもんで、いやもちろん、ぼくの言い方が実にまずかったことだけは確かで、自分でも今さらですがひどく反省しているのです。ですからどうか、あなたもその点を何卒ご理解して頂きたいのです」しかし、このとき柏木はどうやら自分は何か壁のようなものに向かって一人で話しているようだと思い始めたのである。というのも、さっきから彼女の様子を見ていて何か変だと感じていたからだ。その顔からして何の変化もなくずっと同じで、まるで柏木の言うことなど、まったく聞いていないようにも見えたからである。確かに紫音自身もその時自分の中で何が起きていたかは、なかなか明確には説明できなかったと思われるのだ。誰かが、いったい何を考えているのですかと聞いたとしても、おそらく自分でもはっきりとは答えられなかったに違いない。そもそも彼女が柏木を自分の部屋に入れたことさえ、正直に言ってまったく何も考えていなかったのだ。嘘のように聞こえるだろうが、実際のところ、そうしようと思ってそうしたわけではないからだ。はっきり言ってしまえば彼女の本能的な行動だと言ってもいいくらいである。つまり、柏木という男を自分の手に取り戻すために仕組まれた無意識の行動だったのだ。もちろん彼女は、決してそんなつもりでしたわけではなかったのである。しかしやはり自分でも少し変だと感じてはいたのだが、それでも、こうして大胆にも彼を自分の部屋に入れてしまったことには正直驚いていたのである。しかし驚きながらも内心喜んでもいたのだ。これはこれで彼を自分だけのものにするいいチャンスだと考えもしたからだ。こうした女性としての暗い本能に目覚めた彼女は、すると今度ははっきりと自分がどれだけ彼を愛しているかを知らせるには、いったいどうすればいいのか、ただそれだけを考えることが彼女の至上命題になったわけである。

 一方、柏木は、彼女の様子を少し変だなとは思っていたものの、もちろん、彼女がそんなことを考えているとはつゆ知らず、彼は彼で、どうしたら自分の思いを彼女に知らせることが出来るかと、こちらも似たようなことを考えながら、これからどのように話しを進めて行けばいいのか思い悩むのだった。彼はこの時、橘氏の助言を思いだし、そこに何か助けになるものがあるのではないかと考えたのだ。すると彼は、とても自分を引きつけた、ある言葉を思い出したのだ。それは何かと言うと、相手の気持ちに迷わされずに、ただ自分の意志に従えばいいのだという、いかにも男だけが持つ、ある種の単純明快な力強い言葉にひどく心が動かされたのだ。もっとも、そういう言葉は彼の性格にはもっとも縁遠いものであったが、それだからこそかえってそういう言葉に強く引かれたのかも知れない。すると、彼は電光石火のごとく、まったく何のためらいもなく、それこそ考えるよりも先に身体が勝手に動いてしまったように、実に素早い身のこなしで彼女の前にひざまずき、こう言ったのだ。

「紫音さん。あなたの信用を取り戻すには、もはやぼく自身が変わらなければいけないと思うんです。そうしなければ、あなただって、ぼくが何を言っても信用できないと思うからです。それには、いったいどうしたらいいのか。もはや、何も考えずに、ただ、あなたの前にひざまずくことだと思うのです。あなたの前にひざまずいて、あなただけを愛しますと誓うことが、あなたの信用を取り戻す唯一の方法ではないかと思うのです。どうか、ぼくのこうした思い切った行動を信じて下さい。こんなことは、今まで一度だって出来た試しがないんですから。こんなことは、それこそ人生始まって以来初めてのことなんですから。こんなことが出来るというのも、ただ、あなたを失うことが怖いからです。だって、あなたのいない人生など、まったく考えられないからです」

 何の前触れもなく、いきなり飛び出した柏木の行動は、それこそ今までの彼からは想像すらできないものだったのだ。それに加えて、こうした彼のバカ正直で底意のないまっすぐで力強い言葉は、それでなくても何の心構えも出来ていなかった紫音を、ひどく感動させてしまったのだ。そして、すぐさま彼の言うことを信じたのである。彼女は自分の大胆な行動が、思いも寄らない結果をもたらしたことに驚くのだった。何だかよく分からないうちにすべてがいい方向に進み、彼を自分の前にひざまずかせてしまったからである。まるでそうなるべくしてそうなったように、これぞ無欲の勝利と言わないでいったい何だと言うのだ。この誰にも予想できなかった大勝利に、彼女はよっぽど女としての自尊心を満足させたのだろう、その表情にも明るさが戻ってきて、その目にも薄らと涙が光ったようにも見えるのだった。

 しかし、こうした柏木の思いきった行動は、確かに自分の意思を明確にしたという点で評価できるかも知れないが、男としての立場から考えると、果たしてそれでよかったのだろうかという疑問はやはり残るのだ。もちろん、彼の苦境を考えれば、彼女の前に膝を屈するというのも、ある意味やむを得ないのかも知れないが、それは正直に言って、本当の和解とはちょっと違うところがあるのではないだろうかという気がするのだ。しかし、そうはいっても、二人の間に立ちはだかっていた誤解という氷塊は、これで確実に溶け去って行くことだけは、おそらく間違いないであろうから、それはそれで一応満足すべきものなのかも知れない。

「あなたのその潔い行動を私は信じますわ。亮さん、私こそ、どれだけあなたのことを愛しているか、それは今日ほど身に染みて感じたことはありませんでした。こんなことは、それこそ私の人生において初めてのことでもあり、自分が取ってしまった行動が果たしてよかったのかと、ずっと悩んでいたのです。でも、あなたはこうして誤解を解こうと、私のもとに来て下さり、私にご自分の思いを熱く語られました。それに引き替え、私は、自分の熱い思いを、どのように言えば、あなたに伝わるのかそれがまったく分からないのです。亮さん、どうか、そういう私のうぶな心を許して下さい。本当は大人の女として、もっとあなたを愛さなければいけないのに、正直なところそれがまだ出来ないのです。自分が言ってしまった言葉に今さらながら恥ずかしくて仕方ありません」

「いいえ、紫音さん、そんなことはありません。あなたの言葉は、十分ぼくの心に届きました。いや、届くだけでなく心に突き刺さりました。あれほどの真実の叫びは、今までのぼくの人生ではそれこそ聞いたことがありません。あなたは、女として当然の気持ちを抱いただけなんですから。それを恥ずかしがることなんかちっともありません。ぼくのほうこそ、もう少し注意して話さなければいけなかったのです。まったく、自分の犯してしまったあの数々の醜態は、それこそこれから先ずっと、みなさんの心に残ってしまうのですね。それを思うと、実に忸怩たる思いで今にも心が潰れそうです。なぜ、こんなことになってしまったのだろう。そうです。そこなんですよ。ぼくが一番恥じなければいけないことは……」

 彼はこう言いながらも、なぜこのような事態を引き起こしてしまったのか、その原因をここで彼女に知らせることは、ようやく和解に漕ぎつけることができただけに、ここでまた新たな誤解を生み出すようなことはとても出来なかったのである。つまりその原因の根っ子には禮子とのあの約束があり、そのため彼女が橘氏との結婚を断念したという事実を言えないのは実質何も言えないのと同じだからである。しかしその禮子だが、どうしてあれほど自分のために色々と手を尽くして自分の誤解を解こうとしてくれたのだろう。彼はそう思い結局彼女の不思議な尽力のおかげで、こうして紫音とも和解できたのだから、今になって思えばそれこそ一番信じられないことだったかも知れないのだ。

 二人は、こうしてどん底の心理状態から、実に満足のいく喜びに満ち溢れた状態へと駆け上って行ったのである。なぜこうもうまく事が運んでしまったのか。その原因を考えれば、おそらく二人とも何も考えずに、事に当たったということが一番の要因だろうと思われるのだ。つまり二人とも面倒なことになりがちな自分の分別に従わず、ただ無意識に従ったからである。それはほぼ間違いないことで、それがためにこうして何事もスムーズにお互いが納得できる行動ができたのである。とはいえ事はこれで終わったわけではないのだ。むしろ、このことによって今まで以上にお互いの顔を見ることにもなったからである。それは二人にとって新たな気づきをもたらさずにはおかない、ある意味もっと困難な状況をもたらす結果にもなるからである。しかしこうした気分の高揚は、二人にとってそうした困難を忘れさせてしまうくらいの歓喜に満ちた悦楽の時間となったのである。柏木はこの時ほど、紫音に女としての魅力を感じたことはなかったのだ。不思議なことだが、今まではそういう魅力を感じたという記憶がなかったのである。しかしこれは何も彼女に女としての魅力がないということではないのだ。紫音は、確かにどこか中性的でその普段の着るものからしても、あまり拘りがないということは何となく気が付いていたのだ。もちろん柏木と付き合いだしてからは身の回りのことには人一倍気を遣いだしていたのだが、それでも彼女にそういう助言をする人もいなかったこともあり、なかなか自分の魅力に気が付いていないのではないかと思われるのだった。確かに彼女のその容姿から言っても、魅力がないなどとはとても言えなかったのだが、本人が無頓着なせいかまったく生かし切れていないところがあったのである。それは禮子と比べれば一目瞭然なのだが、もちろん禮子はその道の達人でもあり、比べるのも無理があるのだが、もし彼女が紫音に何かしらの助言をしたらおそらく彼女の容姿も一変するかも知れないのである。そう言えば、何時だったか何かの拍子に、彼女が紫音の容姿について柏木に言ったことがあったのだ。それは髪形についてで「もう少し髪を伸ばしてその顔に変化を付けたら、きっと彼女も女としてのその雰囲気が一変するかも知れないわね」と。柏木もその時、確かに彼女が髪を伸ばしてもう少し化粧に気を遣えば、彼女の魅力も格段に上がるだろうと確信はしていたのである。しかし、そのことは今まで彼女に言ったこともなかったし、なぜかそのまま忘れ去られていたのだった。

 紫音は、先程までの落ち込みようからは想像もできないくらい、明るく振る舞うようになり自分の部屋に柏木を入れたことに特段の意義を感じていたらしく、おそらく自分のプライベートを見せたという恥ずかしさもあったようだが、それよりも彼を取り戻したという思いが何よりも彼女の気持ちを高揚させていたようだった。その証拠に、柏木が先程から部屋の中を自由に動き回るのを嫌だとも思わずに、むしろ自分の大胆な行為がもたらしたその勝利を味わうかのように、誇らしく彼を見守る視線がそこにあったからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ