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自分の書斎に戻ってきた父親の橘氏は、娘の反逆によっていかに自分の計画が歪なものになってしまったか、それは時間が経過するにつれて、その心理的負担が重苦しく彼にのし掛かってくるのを感じるのだった。しかし、そうは言っても、いくら父親とはいえ娘が嫌だというものをそう簡単にひっくり返すことなど、どだい無理な話しだと思うのだった。一応彼も娘の意思を尊重すると言った手前、この話しを無理にゴリ押しするわけにもいくまいと考えたのだ。それに下手にいじくり回して話し自体が消滅でもしたら、それはそれで一番困るのは彼自身だったからだ。それならいったいどうすれば娘の考えを変えることができるのか。『いや、そうではなく、そういう考え方自体を変えてみたらどうだろうか』と彼はふとあることに思い当たったのだ。『無理に変えようとするのではなく、変わるように仕向ければいいのだ。そもそも人の気持ちなどはころころと変わるのが普通だ。それはどんな意志の堅い人間でも心は動くもので絶対一つのところで凝り固まっていることなど生きているかぎり出来るはずがないのだ。ましてや娘のようなやさしい心を持つ女がどうして変わらないはずがあろうか。ひょっとして朝、目覚めたとたん自分の言ったことをさっそく後悔してるかも知れんのだ』と、娘の心中を都合よく想像するのだが、どうやら、この男はどこかねちっこい性格らしく、どんな小っちゃな可能性でも自分のためになるならそれに賭けるというはなはだ執念深いところがあったようだ。その点、政治家に向いているのかも知れない。つまり彼は、まだ二人は何の接触もしていないということに、ある種の可能性を見つけたのである。つまり、娘はまだ相手の男性と会って話しすらしていないという事実。そこにかすかな望みがないわけではないと思うのだった。やはり会えば相手がどんな男かも分かるし、ひょっとして娘の気持ちも変わるかも知れないという一縷の望み持つのだった。そこでさっき自分が娘に言ったあの一言が、実に重要な意味合いを持つことに気づいたのだ。彼はその時ニヤリとして、『おれもなかなかどうして、どんなに興奮した中でも冷静に事を運ぶこができるのだ』と、たまたまそうなったことなど最初から頭にないらしく、むしろ自分の冷静沈着な態度に感心したのである。
翌朝、橘氏は食堂で娘が二階から降りてくるのを待っている間に、まったく娘と付き合うのがこうも面倒だとは今の今まで考えもしなかったと心の中で愚痴りながら、それでも昨夜の自分の取ったどこか傲慢な態度が、どのくらい娘に影響を与えただろうかと、しきりに自分の思惑と娘の気持ちを天秤にかけながら、これからどう話しを持って行けばいいかを色々と考えるのだった。ところが、いつまでたっても娘は二階から降りてこなかったのだ。これも昨夜の後遺症かなと父親は思いながらも気になってきて、お手伝いのふみ子さんに様子を見て来てくれないかと頼むのだった。
「旦那さま、紫音お嬢様は、どこかご気分がすぐれないようで今しばらく寝ていたいとおっしゃっております。でも、華音お嬢様は何か旦那さまにお話しがあるようで、すぐ降りていくとのことです。お坊ちゃまは、いつものようにまだお休みでいらっしゃいます」彼女は、こう言って、いつもとはちょっと様子が違う家の雰囲気に明らかに動揺しているみたいだった。
「ああそう。なるほど、もう親の顔も見たくないってわけだ。ねえ、ふみ子さん、私はね今朝ぐらい親としてその何というか、自信を失いかけたことはないよ。聞いてくれないか。親がどんなに子供のためを思って努力しても、肝心の子供は一向にその努力を認めてくれんのだ。むしろ余計なことだと思っているふしがある。しかし、まったく子供達は親というものを何だと思っているのだろう。これほど苦労して育て上げても肝心なところで親に楯突き、おまけに平然といつまでも寝ていられるんだからね。ああ、それにしても男親というものは娘に対していかに無力か。私はそれをね、ゆうべ身を持って体験したんだ。どんなに気立てがいい娘でも男親に対してはどこかで反抗心を抱いているらしいってことがよく分かったのだ。ふみ子さん、私はね、ゆうべ一番信頼していた上の娘に裏切られてしまったのだよ」
「まあ、何をおっしゃいますやら、どんなご事情があったのかは存じませんが、裏切られたとはあんまりな。あの紫音お嬢様が旦那さまを裏切るなんて、いくらなんでもそんなことがあるわけがございません」と、どんな裏切りにあったのかも知らず、ただ裏切りという思わぬ言葉に気も動転して闇雲にそんなことがあるはずがないと旦那さまに娘の無実を訴えるのだった。というのも彼女には、この家の子供達の性格がどういうものかぐらいよく分かっていると思っていたからである。それは自分の子供以上によく分かっていたといってもいいくらいである。いや自分の子供ではないからこそかえって彼らのことがよく分かっていたのだ。そういうわけで、旦那さまからこういう言葉が出たことに驚きと不安を感じないではいられなかったのである。彼女は田舎出の苦労人らしく人の気持ちもよく理解し何よりも揉め事が苦手な穏やかな性格の女性だった。彼女は住み込みの家政婦として長い間この家で働いていたお陰で、自然とこの家で起きるあらゆることに精通し、どんなつまらぬ出来事でも決して無視せず関わって来たのだった。とくに華音とは相性がいいらしく愚痴を聞いてやったり、ある時は一緒に涙を流したり、そういういわば家政婦という仕事を遙かに超越した母親的な役割もかねてこの家族のために親身に働いて来たのだった。
彼女はまだ五十という老けるには早すぎる年齢ではあったが、その朴訥としたどこか郷愁を覚える風貌からみんなにばあやという愛称で親しまれていたのである。もっとも本人はそう呼ばれることにそれほど抵抗はないらしく、むしろ喜んで自分のばあやという役を演じているようにも見えるのだった。要するにみんなのばあやとして、この家のために生きたいと思っていたようなのだ。彼女は十年ほど前に連れを病で亡くし、子供もいなかったので、彼女にとってこの家族は、決して赤の他人などではなく同じ家族として長い間一緒に暮らしてきたのだとういう意識をとても強く持っていたようなのだ。そういうこともあり、彼女はどうやらこの先ずっと再婚もせず、この家族と共に一人で生きて行こうと決めていたようだ。とはいえ、今までにそういう話しがないわけではなかったのだ。そのことを一番最初に彼女に提案したのが他でもない橘氏本人で「その気があるなら、いい人を世話してやってもいいよ」とまで言ってくれたのだが、どうも本人はその気がないらしかった。もっとも結婚しても、この家で引き続きお手伝いとして働くという条件付きではあったが。というのは彼女がこの家の切り盛りを事実上一人で引き受けていたこともあり、辞められでもしたらそれこそこの家庭そのものが根底から崩れてしまうおそれがあったからである。そのくらい彼女の働きぶりは目を見張るものがあり、彼女の存在があってこそ日々何の滞りもなく生活出来ると言っても決して過言ではなかったのだ。そのことは、確かに家族みんなも認めていたことで、その信頼は並大抵ではなく、その点子供達から家族以上に信頼され慕われてもいたのだ。それはやはり死んだ母親が何よりも彼女のことを大事にしていたということもあり、その信頼がそのまま子供達に自然と受け継がれていったのである。そういう親密な関係を築いていたことで、この家で起こる出来事のちょっとした変化にさえも敏感に反応してしまうこともあって、ここ数週間でこの家の雰囲気に今までにない変化を感じて、何よりも紫音のその様子にそれを感じていたのである。彼女は内心、紫音のことを華音以上に気には掛けていたのである。しかし、紫音のほうはというと、気軽になんでも相談するということはなかったのだ。ばあやも彼女の性格はよく弁えていたので、きっと遠慮でもしているのだろうと思い、ただ静かに彼女を見守ることだけにして軽率に自分のほうから話しかけることはしなかったのである。
昨夜の事件後、二人は姉の部屋でしばらく何やらヒソヒソと遅くまで話し合っていた。それが何であったのかは分からないが、先ほどばあやの話しから察するに何やら姉のためにあることを計画してたようなのだ。華音はしばらくして二階から降りてきた。すっかり出掛ける支度も済ませ、親からすればあまり感心できない派手な服装で父親の前に現れた。いつもの日常的な風景ではあったが、この日はどこか緊張しているらしくその動きにもなぜかぎこちないものが感じられ、明らかに何事かを企んでいることは明白だったのだ。彼女は実をいうと家から一時間もかけて、ある大手の会社に事務員として働きに出ていたのである。資産家のお嬢さんとはいえ、そこはしっかりした考えの持ち主でもあったのだが、彼女が大学を卒業して就職活動をしているとき、そういう娘に「何もそんなに苦労して働くこともないだろう。お前が何もしなくても一生食うだけの生活費ぐらいはいつでも出してやるよ」と、まるで娘のけなげな生き方を無にする悪魔のような暴言をこの父親はわざと吐くのだった。しかし、それを聞いて華音は「いや、けっこうです。自分の食い扶持ぐらいは自分で稼ぎますから、どうかお父さんも私のことなどご心配せずに、ご自分の財産はご自分のために全部お使いになって下さい。そうした方がお父さんも未練なくあの世に行けるんじゃありませんか?」と言って父親の甘い誘惑をにべもなく撥ね付けたのだ。もっとも、どこまで本気でそう言ったかはさておき、というのも、父親は娘のそんな勇ましい言葉などは頭から信じていなかったからだ。なぜなら、いづれ彼女もどこかに嫁ぐことになり、そうなれば必然的に財産問題が出来することは分かりきっていたからだ。それでも彼女は自分のけなげな信念をどこまでも貫き通す積もりなのだろうか。しかし、そんな信念など彼女の若さが言わせているだけで、いづれ現実が彼女のそういうけなげな考えを嫌でも変えさせてしまうことだけは間違いないと、この父親は確信していたのである。
「ところで、さっきふみ子さんから聞いたのだが、何か話しでもあるのか?」彼はこう言って黙ったまま落ち着き払って朝食を食べ終わると、そのまま何も言わず立ち上がったのを見て慌ててこう言うのだった。華音はああそうだったと言わんばかりに、うなずいたもののすぐには話さずに壁に掛かった円形の洒落た鏡の前まで来ると、そのまま化粧を入念にチェックし始めたのだ。もちろんこれも計画の一環だったに違いない。彼女はその鏡越しに父親の様子をしっかりとチェックし終えると、おもむろにこう言ったのだ。
「ああ、そうなの。ゆうべお父さんが姉さんに言ったことね。覚えてるでしょう。お父さんお気に入りのあの御曹司さんに会って自分の気持ちを言えとおっしゃたこと、あれ、どう考えてもおかしいと思うの。だからあの後二人で相談したんだけど、お父さんが勝手に持ってきた話しにそこまでする理由などまったくないという結論に達してね。それで、そのことをお知らせしようと思っただけです。じゃあ、そういうことであたしは出掛けますので、あとはよろしくお願いしますね」と言ったまま、さっさと部屋を出て行ってしまった。どうやら、最初からこういう段取りで父親の反論をうまく避けたというわけである。
父親はこれを聞いて、華音の影響をなぜか恐れるようになったのだ。それというのも、紫音一人ではとてもこれだけのことは出来ないと考えたからだ。
『しかし、それにしても果たしてこれでこの結婚も立ち消えになってしまうのだろうか』彼は自分の思惑がこれによって完全に消えてしまうことを何よりも恐れたのだ。それにしても彼はあの素直で何でも自分の言うことを聞いてくれていたあの娘が、なぜここにきて急に言うことを聞かなくなったのか、それがいまいち理解できなかったのだ。娘が自分の言うことに逆らうことなど、恐らく一生ないと思っていたからである。彼はため息を吐き、これで自分の計画も終わってしまうのかと思いがっくりと肩を落とすのだった。
『しかし、それにしても紫音はなぜ、こんないい話を撥ねつけるような真似などしたのだろう。あいつももう三十だ。女として、どう生きて行くか真剣に考える時期でもあるだろう。しかし、それにしても心配なのはあいつの性格だ。まったく実に困った性格だ。きっと、このまま何もしなければ、あいつは一生自分から行動することはないに違いない。だからこそ父親として、何としてでもあいつを世間並みに結婚させなければいけないのだ。しかし、こうなっては親といえどもどうしようもないからな。本人がその気もないのに、いくら親が頑張っても仕方がないではないか。ああ、こんなとき母親が生きていてくれたらなあ、こんな苦労などしなかったはずだ。しかし、それにしても、この結婚はおれだけでなく、あいつにだって十分メリットがあるはずなんだがなあ。あんなにいい条件の男はそうざらにはいない。それも、向こうだって決して関心がないわけでもないのだ。それをみすみす逃す手なんてあるもんか。いや断じてない。それならどうしたらいいのか』彼はいかにも諦めきれないといった面持ちで、しばらく自問自答を繰り返すのだった。ところが、一旦は途切れたように思えたこの結婚話も、その後の父親の意外な奮闘もあって再び息を吹き返すことになったのである。