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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 すると禮子は、それにはどうしても橘氏を巻き込まなければ、どうにもならないのではないかと考えたのだ。つまり、それがどんなに本当らしく思えても橘氏がそれを認めなければ、まったく問題が解決したとは言えないからである。この場において曲がりなりにもその力を持っているのは、やはり何と言っても彼をおいて他に誰もいないことは確かだからだ。それなら、彼を何としてでも自分達の味方に引き込まなければいけないわけである。しかし、その橘氏ではあるが先程からこの何とも情けない柏木の一人舞台を、何とも言えない冷めきった目でずっと見ていたのだが、いったい今の彼はどういう印象をこの劇に持ったのだろうか。それは彼女にとっても非常に興味あることではあったのだ。もちろん禮子は、彼が自分と柏木との間を不審の目で見ていたことはようく分かっていたが、こんなことになるまではそのことが自分にとってかえって好都合だと正直思ってはいたものの、事態がこうなってしまった以上そういう自分の思惑は一旦棚上げして、彼のそうした疑いの目をまず解消させることが何よりも先決だと考えるのだった。

「橘さん、どうかお気になさらないで下さいね。いや、あなたが先程から私たちのことを、不審な目で見ていらっしゃったことはよく分かっておりましたわ。でもね私はこう思いますの。こんなことは単なる茶番劇でしかないって、あなたはきっとそう考えているに違いないって私はそう信じておりますの。だってあなたのような頭のいい人がそんなことも見抜けないなんてまったく有り得ないんですもの。一時は私の不用意な発言がもとで、あなたに多大なご迷惑をお掛けしてしまいましたがそれでもあたなはそのさっぱりとしたご気性で私を許してくれました。そういうあなたの寛大なお気持ちがあるからこそ、私もこの人にどこまでもついて行こうって思うようになったんですから。だって、あなたの栄えある人生こそ私にとって何よりも大切なものなんですからね」

 彼女はこう言って仕事で鍛えたその巧みな話術で、彼の不審で引きつった頬を何とか弛まそうと懸命にご機嫌をとるのだった。橘氏は、禮子のいかにも見え透いたおべんちゃらを最初は真に受けないようにしてはいたのだが、それでも彼女一流の達者な言い回しによって、次第に橘氏もその口車にうまく乗せられてしまうのだった。しかし、彼もそこは強かにそこまで彼女が言うなら、もう一度お互いの誤解を解くために腹を割って話し合うことを彼女に迫ったのだ。禮子は、もちろんそういうことでしたら、こちらもぜひそうさせて頂きたいと、そこはすんなり同意してみせるのだった。こうして、禮子としては、何とか彼との意思の疎通も取れたので、本題の柏木のことに話題を持って行くのだった。

「ところで、このまま放って置いても大丈夫なんでしょうか?いえ、先程ひどく興奮して出て行かれた紫音さんのことですよ。あんなに興奮した彼女を見たのは、これが初めてなもんでいったいこれからどうなってしまうんだろうってひどく心配しているんです。だって、彼女の不審に私も一枚噛んでいるんですよ。たとえそのことがある男の単なる妄想によるものであるとしてもですよ。彼女が、もしそれを真に受けて彼との間に亀裂でも入ってしまったら、それこそ彼女があまりにも可哀想ではありませんか。そんなことを起こさせないためにも、ここはもう一度柏木さんのためにも、それに紫音さんのためにも何とかもう一度、彼の言い分をもっとよく聞かれたほうがいいのではありませんか?」

「実は私もね、ひどく困惑してるんだよ。正直なところ娘があれほど取り乱したのは、それこそ生まれて初めてなんじゃないかな。何で、あそこまで娘を追い詰めてしまったのかと思うと、ほんとに柏木さん。あなたは、いったい今の状況をどう考えていらっしゃるんですかね。いや、実に奇々怪々だ。これじゃ、紫音との結婚も何か雲行きが怪しくなって来たようだね。だって娘があれじゃ、どう見ても先行き不透明だってことは分かり切ってるじゃありませんか。これだけは父親であってもどうすることも出来ませんからね。もちろん二人の結婚は何としてでも実現して欲しいとは思っていますがね。いや実を言うとね私もそろそろ結婚の日取りを、あなたの親御さんと相談しようと思っていたのです。あなたもここんところ、ご自分の仕事にはまじめに取り組んでいるようだし、娘もあなたとの結婚をそれとなく匂わせてもいたもんでね。それがこの有様ではいったいどうすればいいのか、まったく分からなくなってしまいました」こう言って、親としての顔に戻った橘氏は、当然のように苦しげなため息を吐くのだった。

「ですから橘さん、ここは一つあなたの親としての立場から、もう一度彼の言い分を聞いてみてはどうでしょうか。そうして頂ければ、きっと彼の誤解も少しは解けるのではないかと思うのです」

「しかし、もう一度話しを聞くと言っても、ほんとに彼の誤解は解けるんだろうか。それに、彼はまだひどく酔っているんじゃないのかね?いったいどうなんだね。柏木さん」

「とんでもありません。ぼくはもう酔ってなどいません。酔いなど、とっくに醒めてしまいました。今のぼくは、すぐにでも紫音さんに会って、自分が犯した誤解を解いてみせなければいけないと思っているんです。どうか、もう一度何とか今すぐにでも彼女と会って誤解を解かなければいけないんです」柏木は、まるで譫言のように同じことを何度も繰り返すのだった。

「でもその前に、あなたの話しを先にお聞きしたいんですがね。あなたの正直な心の内を私に話してくれなければいけません。紫音に会うのはそれからです。いいですね」

「分かりました。橘さん、いや、ほんとに申し訳ありませんでした。ぼくは何も自分では、それほど変なことを言った覚えはないのですが、自分の言いたかったことがどうやら中途半端なまま受け取られてしまったようです。しかし今さらそんなことを言っても致し方ありませんので、実際自分の本当に言いたかったことを、ここで改めて橘さんをはじめみなさんにお話ししたいと思います。ぼくは決して紫音さんと禮子さんを同列に扱ったわけではないのです。決してそんなつもりで言ったわけではありません。そこだけはどうかお間違いのないようお願いします。ぼくが言いたかったことは、どちらの女性もそれぞれの性格においてとても素晴らしい方々であることを本当は言いたかったのです。こう言っても別に変な意味には取られる心配はないと思うのです。それは実際その通りですからね。誰も文句の付けようがないと思われるわけです。ですからぼくの言いたかったことは、貴臣くんがおっしゃった、ぼくがいかにも禮子さんに気があるようなこととは、まったく意味が違ったことなんです」

「でも、あの時、柏木さんは、自分にとってはどちらも大事な人だって、はっきりとおっしゃいましたけど」貴臣は、それは違うんじゃないのと言った調子で、懲りずにまた余計なことを指摘するのだった。しかし、この異論は、すぐさま禮子によって、完璧に無視され、あげくに批判までされてしまったのだ。

「柏木さん、あなたのおっしゃることは、まったくもっともですわ。あなたが、どのくらい紫音さんのことを思っているかは、私にもようく分かっておりますから。ねえ、橘さん、あなたもそのことはよくご存じのはずです。それを、つまらない憶測でもって、ああだこうだと言われてもそれは言う方に無理があるだけですからとても信用など出来ません。今の世の中、誰もが人の言葉尻を捉えてそれは違っていると指摘することが流行ってますが、そんなことをしたところで何の解決にもならないのに、それでも懲りずにそれは事実と違うと言ってくるのです。そんなことよりもっと大事なことは、人がどのような思いでいるのか、そのことをもっと考えてあげたほうがどれほど人間として大事なことか。そのことをもっと知るべきだと思います。ですから、ねえ、柏木さん。あなただって、ご自分の大事な彼女が今どんな心持ちで苦しんでいるか、そのことをまず第一に考えるべきなんじゃありませんか?」

「もちろんですとも。ぼくは、もはや彼女なしではこれからの人生は考えられないのです。もし、彼女を失いでもしたら、それこそぼくは身の破滅です。それはもう分かり切ったことです。ですから橘さん、ぼくは今、とてもこんな状態でいることに耐えられません。何とか一秒でも早く紫音さんにお会いして、自分の誤解を解かなければいけないのです。どうか、ぼくの切羽詰まった心の内を、どうかお察し下さい」

「そうですか。どうやら、あなたのそのお気持ちは本当のようですから、私も娘に会うことを許しますよ。しかし果たして娘はすんなりと会ってくれるでしょうか?それに、あれほどの悲痛な思いを抱いて、部屋に閉じ籠もってしまった娘を、あなたはいったいどのようにして部屋から連れ出すおつもりなんです?いいですか、柏木さん、あなたの男としての力量がここで試されるのです。決して曖昧な態度は取らないようにね。相手の気持ちに迷わされてはいけません。あなたの男としての意志に、まずあなたが従うべきです。そうすれば相手はあなたの気持ちをちゃんと理解してくれるでしょう。娘はその点は素直で、もの分かりのいい子ですからね。親の私が言うのですから間違いありません」

 こうして、柏木の一世一代の男としての、いや人間としての力量を示す事態に図らずも立ち至ったというわけだ。彼からすれば、とても自分の手に合わないことだけはよく分かっていたのだが、ここまで来てしまった以上、何としてでもこの難題に立ち向かって行くしか道がないのである。もはや、ああだこうだ言ってる暇などないのだ。彼は人生始まって以来、それこそ真剣にどんな思惑も捨てて女というものに真正面からぶつかっていくことになったのだ。彼にとってそれは下手な小細工などまったく通用しない、それこそ目も眩むばかりの冒険であり、もはややけになって逃げることも出来ないのである。今までの彼なら、とてもこんな無理はしなかっただろう。自分の性格上それはまったく不可能だってことは、自分でもよく分かっていたからだ。しかし今となっては、自分の性格そのものをここで変えなければこれから自分がしようとしていることなどまったく出来るわけがなかったのだ。それくらいの覚悟で行かなければ、とても成功など覚束ないだろう。しかし、そんなことが果たして彼に出来るのだろうか。出来るか出来ないかはやって見なければ分からないのだが、そこが確かに運命の分かれ道で、失敗するにしろ成功するにしろそれはまったく彼次第であることだけは間違いない。しかし人間は決してそんなに強くはないし、彼自身もそんなことはよく分かっていたし、そこは彼以外の何かに頼る必要があるのだが、こういう場合、何が邪魔だと言って彼の意識的なあれこれ考え込んでしまう分別であることだけは確かなのだ。こう言うべきだとか、こんなことは言ってはまずいだろうとか、そういう余計な考えがどうしても雨後の竹の子のように頭の中に浮かんで来るわけである。例えば橘氏が先程言った助言のようなものもその一つだ。これに下手に拘ってしまうともう駄目である。完全な失敗に終わってしまうことだけは目に見えているのである。それは自分の中から生まれた信念ではないからだ。つまり、そういう他人の意見に従うことは、それがたとえ為になることだと思ったとしても、もともと身に付いたものではないので、どうしても中途半端な結果になりがちなのである。しかし彼もこの切羽詰まった状況の中ではいつも以上の力が発揮できないとは限らないので、彼の覚悟次第ではうまく事が運ぶかも知れないが、正直そういう場面になってみなければ何とも言えないのだ。

 そういうわけで、彼は紫音が引き籠もってしまった部屋の前に来ると、このドアの向こうで今まさに自分のせいで悩み苦しんでいる彼女が居るのだと思うと、いったいこれから自分はどう言葉を掛けるつもりなのか、そう思った瞬間気持ちが挫けてしまい、それこそ自分は彼女を納得させるどころか、なおさら彼女を失望させてしまうのではないかと恐れ戦くのだった。というのも彼はおそらく、これから起きるであろう、言い訳、懇願、涙、許し、誓い、そういった想像するのも恐ろしい、いわゆる出口の見えない修羅場になるのではないかと危惧したのである。

 彼はおずおずと小さくドアをノックするのだった。すると、「どなたですか?」と彼女の小さな声が素っ気なく返ってきた。

「ぼくです。柏木です」と、彼も負けずに蚊の鳴くような小さな声でこう答えるのだった。

「何の御用でしょうか?」まさか、こういう返事が返って来るとは、さすがに彼も予想していなかったので、これはもしかして、すべてが終わっているという彼女なりの意思表示ではなかろうかとさっそくパニクってしまい、いったいどうしてそんなことを、と思うくらいおかしなことを口にしてしまったのである。

「いや、どうもお疲れのところ申し訳ありません。実は、折り入ってお話しさせていただきたいことがありまして、失礼とは思いましたがやって参りました」確かに彼のせいで彼女も疲れているには違いなかろうが、それにしても、これはひどい。あまりにもひどすぎて彼自身も呆れてしまったのだが、言ってしまった以上仕方がないので、そこは何とか自分のバカさ加減には目をつむり、彼女の返事を固唾を呑んで待つのだった。その時間の長かったこと。彼はもはや何もかも投げ出して、このまま帰ってしまおうかと思ったくらいである。しかしそれにしても、この長い沈黙をどう受け取るべきなのか。おそらく彼女は彼女で、きっと、どうしようかと迷っているに違いないと柏木は想像するのだった。すると、ようやくドアを開ける音がして、細めに開けられたドアの向こうに彼女の困惑した顔が見えたのだ。しかしその顔には、先程までのあの苦しげな表情は認められなかったのだ。つまり、自分を裏切った男を見るような悲壮な感じではまったくなかった、と言う意味で彼にはそれが却って不気味に思えたのである。まるで、仮面のようないかにも素っ気ない表情がそこにあったからだ。こうした実際の感情をあえて隠すという態度は、女にとって極めて普通に起こることなのかも知れない。それは女が先天的に持っている行動パターンの一つではないかと思われるからである。もっとも、女にとってたとえそれが無意識で、始めからそんなつもりなど少しもないとしても、男にはそれこそが女の恐ろしさだと、どうしてもそう思ってしまうわけである。ところが、ここで紫音は思いもかけなかった行動に出たのだ。彼女は黙ってドアを大きく開けると彼を中に招き入れたのである。

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