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こうした男女の隠微な問題は、得てして経験のない若い無鉄砲な力が働かなければ、決して表には出て来なかったのかも知れない。しかし、そうでもしないかぎり経験のある大人達は、自分達の偽善をまともに反省することなどないのだ。それにしてもこの貴臣の思い掛けない指摘は、確かに本人達には実際のところ、ようく分かっている問題ではあったのだ。ただ、それが今まで何とか自分達の力でお互いに封じ込めていたわけである。ところがここに来て、どういう運命の力が働いたのかは知らないが若い男の向こう見ずな好奇心によっていきなり禁制の箱が開けられ、それが一気に部屋の中の空気を変えてしまったというわけである。
確かに、これを指摘されたときの、ここに居る四人の当事者たち、とくに柏木は彼の指摘をいったいどのように弁明するのだろうか。これは非常に興味のあることだが、もしかしたらこの貴臣の指摘を一切無視して済ますかも知れないのだ。それは大人達が切羽詰まったときによくやる手だが、果たしてそんなことで一旦疑われたこの深刻な問題を簡単にやり過ごすことができるのだろうか。しかし、それでもこの酔っ払いは、貴臣の指摘に何か言ってくるかも知れないのだが、果たしてどうなるかはこれからのお楽しみだ。
しかし案の定と言うべきか、こうした貴臣の穿ちすぎた指摘には、誰も触れようとはしなかったのだ。というよりも、恐ろしすぎて触れようにも触れることができなかったのかも知れない。そのうえ、まずいことに、この時紫音が取った行動が、彼の疑惑をすっかり封じ込めてしまう力を発揮したのである。彼女は、柏木のそばにそっと寄り添い自分の婚約者でもある彼を優しく慰め出したのだ。こうした彼女の自然な振る舞いは、どのような弁明にもまさる決定的な反論になったのである。ところがである、驚くべき事に彼女にとって、この行動は単に彼への愛を示す一つの演技に過ぎなかったのだ。つまり彼女は、この時もはや心優しいだけの女ではなくなっていて、自分がどれほど彼を愛しているかそれをどうしても禮子に見せ付ける必要があったからである。というのも彼女ははっきりと見てしまったからだ。柏木の気持ちがすでに禮子の手に落ちていることを。ところがそうは思ったものの、そんなことはあまり気にもならないらしく、むしろそれが彼女を無性に奮い立たせる格好になっていたのである。なぜなら彼女は、この時自分が実際に心の底から柏木を愛していることを確信したからである。そういう強い愛があれば彼の気持ちなどすぐに取り戻せると思っていたのかも知れない。
それに引き替え柏木は、朦朧とした意識の中しばらくうつむいて泣いていたが、さっきからどうも誰かが、自分を優しく慰めてくれていることに気づいたものの、それが誰なのか知ろうともせず紫音が手渡したハンケチで涙を無造作に拭きながらある言葉が彼の記憶を呼び起こし、それがまるで悪夢のように彼の意識を苦しめていたのである。それは先ほどの貴臣が言った言葉で、いったい自分は紫音と禮子のどちらが好きなのだろうかということなのだが、それは昔から彼を悩ませていた問題だったのだ。いわば彼にとって死ぬほど嫌な二択問題であった。試験問題ならいざ知らず人生においては、そう簡単に答えが出るわけがないと彼はそう思っていたからだ。彼にとって個人個人まったく違った個性だし、どちらもいい所もあれば悪いところもある。それが人間であると思っていたからだ。それは確かにその通りではあるが、それでもこの人生においてはやはり選択は常に迫られているわけである。それは紛れもない事実で、いくら何でもその別れている道の前でずっと立ち止まっているわけにはいかないからで、どうしたってそのどちらかを選択しなければならないわけである。そんなことは分かっているのだが、どうも彼には、それがなかなか通用しないのだった。とくに女性に関しては、彼には昔から不思議な巡り合わせがあって、どうしても二人同時に関係を持ってしまうことが非常に多かったからである。彼が望まなくても向こうから勝手にやってくるのだ。彼にとっては一種の喜ばしき災難で、どうして自分は二人の女性に、それも同時に言い寄られるのだろうかといつも思っていたからである。もちろん付き合うだけなら、二人だろうが三人だろうがちっとも構わないのだが、それが相手から急にどっちか選べと迫られるともう駄目なのだ。男として潔い決断が出来ないのである。
しかし柏木は、この時ばかりは自分が極めて重大な人生の岐路に立っているのではないかと悟ったのである。酔った意識の中ではあるが、それでも何か極めて異常なことが、これから起こるのではないかと感じるのだった。というのも、さっきの貴臣の言葉が自分にとって重大な意味を持っていたからだ。自分の決断力のなさが自分の人生を何かもう一つパッとしないものにしている原因だと感じていたからである。つまり自分はここではっきりとした決断を示さなければいけないのではないのか。それは、彼女達のためにも必要なことなのだ。少なくとも、自分の意思表示だけでもしておくべきだ。それが男としての最低の義務でもあるからだ。そういう男らしい考えが、突然、彼の酔った意識の中で湧き起こると、なぜか日頃の優柔不断さも消えて自分でも驚くべきことだったが、自分の人生における重要な選択問題に立ち向かおうという熱い思いががぜん込み上げてくるのだった。
「ああ、みなさん、どうかぼくの話しを聞いて下さい」柏木は、こう言って、ようやく自分の人生における前代未聞の決断を、酔った意識の中ではあるが、何とかやり遂げようと覚悟を決めるのだった。「もはや、躊躇している場合ではなくなりました。ぼくは、先ほどの貴臣くんがおっしゃられた極めて重大な疑問に、お答えすべき義務があると思ったからです。それはまた禮子さんを始め、ぼくの大事な紫音さんに対しても、お話ししておくべき問題であると考えたからであります。ああ、ぼくは今、非常に気持ちが高ぶっていて、自分でも冷静な判断が出来ないのではないかと危惧しているのです。それは他でもありません。どうすれば、誰も傷つけずに、こうした問題を解決することが出来るのか、それがぼくにとって何よりも大事なことだからです。誰も傷つけることなく、お互い心穏やかに済ますことが出来ないものなのか。しかし、それは経験上から言っても、なぜか不可能であり、ただ非常にやり切れない思いだけが後に残るだけだからです。でも、ぼくは何とかそうならないようにと、いつも心掛けていたことは事実なんです。ですから、どうかお二方とも冷静になって、ぼくのこれから話すことをお聞き下さい。実を言えば先ほど貴臣くんが、ご自分の疑問としておっしゃっていたことは、ぼくの人生において、それこそ決定的な問題だったのです。つまり、誰か一人を選ぶことがです。これこそ、自分にとって最もやりたくないことだったのです。どうして、二人の女性を前にして、自分はこっちの人に決めたなどと、まるで洋服を選ぶ時のような気持ちで言えるのかと。そんなことは、どう考えてもおかしいんじゃないかと昔から思っていたからです。しかし、それでも二人の女性は、どちらかはっきり決めてくれと、当然のごとく言ってくるのです。この時の女性の心理は、いったいどのようなものなんでしょう。ぼくからすれば、ただどちらの女性も、それぞれまったく違ったタイプの性格をしていて、どちらがいいとか簡単には言えないというのが正直なところなんです。もちろん、こういうところが一番女性にとって我慢の出来ないものだってことは、自分でもようく承知しております。なぜなら、女性にとっては何もタイプを聞いているわけではないのだ。どちらが良いとか悪いとかではなく、お前は結局どっちを選ぶんだと単刀直入に聞いているだけだからです。つまり、そこに問題があるんですよ。なぜかと言えば、ぼくは、ただそれぞれの女性の気持ちを尊重したいからです。それが、男として責任ある態度だと思うからです。どうして、まるで自分の好きな料理を選ぶように、こっちがいいやなどと軽々しく言えるのでしょうか。それこそ失礼極まりないと思うのですが、いや、どうかみなさん、ぼくのこうした考えに何かご不満があったとしても、そこは何卒ご容赦願いたいのです。ぼくは今どう見ても普通の状態ではありません。自分が何を言っているのかさえどうも覚束ないのです。何やら詭弁らしきことを言っているのかも知れませんが、もう少し我慢してお聞き下さい。ですから、ぼくの言いたいことはですね、貴臣くんがおっしゃられたことは、ぼくにとっては、それほど気にするほどのことではないと思うんです。つまりですね。紫音さんにしろ、禮子さんにしろ、ぼくにとってはどちらも大事な人だからです……」柏木が、こう言った瞬間すかさずみんなから、ため息が漏れたのだ。この男は、いったい何を考えているのかと、呆れ返ったような失望したようなため息が漏れたのである。これでは彼の婚約者である紫音の立場が、まったく軽んじられたも同然ではないか。そう思われても仕方がないくらい、柏木は、このとき明らかに間違った考えを表明したように見えたのだ。これは決して酔っ払っているという言い訳が、決して通らないくらいのひどい告白になってしまったのである。しかし断っておくが、これが彼の結論ではなかったのだが、どうもみんなの様子が一変してしまったことに彼も驚いたのか一旦途中で話すのを止めてしまったのだ。すると部屋の中の雰囲気がガラリと変わり、何やら柏木を軽蔑するような目でみんなが見るようになったのである。とくに華音は怒り心頭とでも言ってもいいくらの気持ちで柏木を見ているし、何よりも禮子が、まるで自分が彼の対象の一人であることが、さも迷惑でもあるかのような白けた態度で黙っていたことが、彼にとって余りにも意外だったのだ。いったい何がどうなっているのか、彼はこの時背筋がゾッとして酔いもすっかり醒めてしまい、いったい何でこんなことになってしまったのか自分の言ったことに何か落ち度でもあったのか、その辺のことがまったく分からぬまま、ただこの異常な雰囲気を何とかしようと慌てて何か言おうとしたら、紫音がいきなり立ち上がってこう叫んだのだ。
「私は、それでも柏木さんを愛しております。彼がどう言おうと、そんなことはどうでもいいのです。彼には彼の考えがあるのでしょうから、そのことをここでとやかく言いたくもないのです。むしろ、私は彼のそういう考えを尊重します。でも、私は今くらい彼のことを愛していると思ったことはありません。どうか、そのことだけでも柏木さんには知っていて欲しいのです。あなたが、たとえ禮子さんを好きだとしても、私はそのことを非難するつもりはありませんから……」彼女は、これだけのことを、それこそ悲痛な思いで言い放つと、そのまま逃げるようにして部屋から出て行ってしまったのだ。柏木は彼女の狂おしいくらいの魂の叫びを聞くと、それこそ心臓が破裂しそうなくらい苦しくなり、それはまったくの誤解ですって正直大声で叫びたかったくらいなのだ。どうしてそうなってしまうのだと彼はすっかり面食らってしまったのだが、いったいこれは現実に起こったことなのかと自分の頬をつねりたい衝動に駆られるのだったが、まさかそこまでは出来なくてただ途方に暮れたように真っ青な顔で、ジッとその場に立ちすくみ紫音の後ろ姿を目で追うだけが彼に出来る精一杯の行動であったようだ。
しかし、この時の柏木の様子を少し離れたところで静かに見ていた禮子は、柏木のこうした行動を、彼の性格を知る上で極めて重要なものだと分析するのだった。彼女は、以前にも似たようなことがあったことを思い出していたのだが、この時もそれとまったく同じだったことに一層の驚きを覚えたのである。もし他の男なら、婚約者でもある自分の彼女が悲痛な心の内を叫んで部屋を飛び出してしまったら、必ずその後を追いかけて行くのではないだろうか。それが普通に男が取る行動だろうと思うのだった。しかし彼はそうはしないで、ただジッと途方に暮れているだけなのだ。この時の彼の心は男としていったいどんな働き方をしているのだろうか。とはいえ、彼女は何もこの男が決してダメな男だとは思っていなかったのだが、それでも、このままでいくと彼は極めてまずい立場に立たされることになるだろうと思うのだった。彼女としては、それではどうも困ったことになるし、それに第一彼女の当初の目的でもある柏木に約束してもらったあの秘密も、このままでは約束通り秘密のまま埋もれてしまうことにもなりかねなかったので、ここで彼女は何とか柏木を今の悲惨な状態から救わなければいけないと考えるのだった。しかし、救うと言ってもいったいどうすればいいのだろうか。みんなの様子も、すっかり混乱しているようだし、ここで、自分が何かを言ってもそう簡単に理解されないかも知れないと思うのだった。それでも、ここは何としても彼のことを助けて紫音との関係を元に戻さなければならないと思ったのである。
「柏木さん、あなた、本当に私のことが好きなんですか?いやね、私には、どうもそんな風にはとても思えないのですがね。いいですか、あなたもようく考えてみて下さいな。あなたと初めてお会いしたときのことを。私たちは、それこそ水と油でまったく溶け合わなかったではありませんか。それが何で今ごろ、まるで私たちがすっかり溶け合っているかのような、そんな印象をあなたはお持ちになっているんですか?そんなことは、まったくあなたの思い過ごしなんじゃありませんかね?第一あなたのお話しがそもそもおかしいのです。何か中途半端でただみんなに誤解を与えているだけにしか思えないんですよ。あなたは、ご自分の面白い女性経験をお話しになっていましたが、それが本当だとしてもそれと私たちのことを一緒にしてもらっては困るんですよ。いいですか柏木さん。私をあなたの選択肢から外してもらえませんか。いえ、そうしてもらわなければ私としても本当に困ってしまうんです。だって橘さんとのこともあるからです。そのことも考えて頂かなくてはどうにもこの問題は収まりそうもないからです」禮子は一青年の余計な一言が、どうやら柏木をとんでもない精神状態にさせてしまい、その結果自分にまであらぬ嫌疑がかけられ、どうにかしてそれを必死に否定しようとしたのだが、それだけではこの大混乱は収まりそうもなく、柏木との誤解を解くためには何かもっとほかに決定的なものがどうしても必要だと考えたのだ。




