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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 こうして柏木は彼女の相談に気安く乗ったのはいいが、自分の足下すら怪しいのに本当に大丈夫だろうかと心配されはしたが、そこは酔っ払いの底力で彼の持ち前の曖昧さと優柔不断さが、すっかり影を潜め、もうほとんど人格が変わってしまいそれこそ堂々たる酔っ払いに変身してしまったのである。禮子は、柏木にいったい何を相談したのか。要するに、これから二人で橘氏のもとに行って、彼の今の気持ちがいったいどんなものなのか、うまく探ってくれないかとお願いしたのだ。そういうわけで、この酔っ払いが果たしてどのような働きをあそこで見せてくれるのかそれは彼女にとって、いや橘家の家族達にとっても実に面白い見世物になるだろうと考えたのである。

 禮子は、さっそく柏木をタクシーに乗せ、そのまま退院したばかりの橘氏と、その家族が待つ女の館へと、この酔っ払い共々乗り込んで行ったというわけである。しかし禮子は、彼が自分で秘密は守ると一応約束してくれたのはいいが、この酔っ払いが、果たして、その約束を守れるのか、という心配はしなかったのだろうか。それは彼女としても当然心配してはいたが、それでも彼女には確信があったのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()。つまり、そこにこそ彼女の狙いがあったのではないかと考えられるのである。しかし、なぜそのような手の込んだやり方を、それも柏木を使ってさせようと考えたのだろうか。確かにそうなればこの酔っ払いの緩頬かんきょうを煩わすだけで、彼女の心理的負担はそれだけ和らぐには違いなかろうが、どうもそれだけでこのようなあまり感心しない茶番劇を考えたとも思えないのだ。もっとほかに、彼女の真の狙いが隠れているのではないかと考えられるのである。とはいえ、世の中そう何でもかんでもうまく事が運ぶわけではないので、彼女としてもこの先自分の狙いがどうなるかはまったく予断を許さなかったのだ。

「橘さん、無事に退院されて、何はさておき、おめでとうございます。いや、ほんとによかった。ぼくもずいぶん心配したんですよ。ぼくはね、あなたが倒れられたと聞いて、取る物も取り敢えず大急ぎで病院に駆けつけたんだ。そしたら驚いたことに、あんたは、いきなりぼくの顔を見てこう言ったんです。「どうしたんです?そんな鳩が豆鉄砲食らったような顔をして」ってね。こっちは、心配して慌ててやって来たんだ。それを、この男は元政治家でありながら憲法の基本理念でもある、ぼくの個人としての尊厳を傷つけたんです。この忌々しい男はぼくのことを鳩呼ばわりして笑ったんです」こう言って、柏木は、ますます酔っ払いの本領を発揮して自分が何を言っているのかも分からずに橘氏にいきなり毒づくのだった。

「いや、柏木さん、どうか落ち着いて下さい、私はね別に悪気があって、あんなことを言ったわけではないんです。ただ素直な感想を述べただけなんです。これは決して皮肉なんかじゃありませんからね。確かに、あなたの暖かい思いやりは人間の尊厳を体現したものだと私も感じていました。ああ、この人は実に心の優しい自分を偽れない人間なんだなって思いましたからね。いやね何で私があのような失言をしてしまったのかと言うと、あなたの様子が純粋な意味で、あまりにもおかしかったからですよ。ほかに理由などありません。真剣な面持ちというものは、ちょっとしたことで滑稽さに変わることもあるんですよ。もちろん、その時の私の気分も大いに関係していて、それがまたあなたの顔を見た瞬間うまい具合にツボにはまってしまったんでしょうね。それであんなことを言ってしまったわけなんです。ですから、からかうつもりなど端からなかったんです。それだけはどうか信じて下さい。ほんとに申し訳ありませんでした。ところで、きょうは、わざわざ私の退院祝いに来て下さったんですか?いや、それにしても、ずいぶんと聞こし召していらっしゃるようですが、いったい、どうされたんですか?それも何ですか禮子さんに介抱されての同伴とはね何ともはや恐れ入ります……」橘氏は、一応この酔っ払いに敬意を払いながらも、よく分からない理屈で彼を煙に巻くのだが、しかし、そんなことは彼にとってどうでもいいことだったのだ。それよりなぜ今この二人が一緒にやって来たのかそれにひどく驚いていたのである。というのも、今さっきまで彼女のことで、家族達と揉めに揉めていたところだったので、そこへ彼女が、それも酔った柏木と一緒に現れたことで、正直変な夢でも見ているのではないかと錯覚してしまったのである。いったい、この夢をどう解釈したらいいのだろうか。もちろん、変な意味に捉えないように注意はしていたのだが、何か二人の間に妙な空気をどうしても感じてしまうのだった。つまり、この状況は橘氏にとって実に悪夢と同じような効果をもたらしたのである。さっそく、華音がこの異常現象に彼女独特の勘が働き、柏木にこう言うのだった。

「柏木さん、いったい、あなたは、ご自分が今どんな状態でいらっしゃるのか、もちろん、ご存じのはずですよね。まったく、どうしてそんな酔った状態で、それも禮子さんと、わが家にやって来られたのか、どうかお願いですから、あたし達に分かるように説明していただけませんか?」

「ああ、それでしたら、もちろんご説明させていただきますとも。ですから華音さん、どうか、そんな怖い顔でぼくを見ないで下さい。あなたにそんな検事まがいの疑いの眼で睨まれると、何かぼく達が変に疑われているみたいじゃありませんか。ぼく達は、その先程もちょっと言いましたが、ただ、あるお店で偶然出会っただけなんです。ましてや知らない仲じゃなし、話しの一つでもしたって何の問題もないと思うのですが。そうでしょう華音さん。あなただって、もしぼくと街中で出会えば近くの喫茶店にでも入って、ぼくとお茶の一杯でも飲みたいと思うんじゃありませんか?それとも、そんなことは金輪際あり得ませんかね?いや確かに、あなたのような物静かでお淑やかなお嬢さんなら、ぼくが喫茶店に誘っただけでも顔を真っ赤にしてその場から一目散に逃げ出すかも知れませんがね。いや、ぼくにはその時のあなたの初々しいうぶな後ろ姿がはっきりと目に浮かびますよ。ウホホホ……」こう言って彼は、さも、してやったりといった満足そうな人を馬鹿にした笑い方をするのだった。まったく人間の心の中には、本人する知らない色んな性格というか奇癖というものが満ち溢れているのかも知れない。彼も、普段なら決してこんな奇妙な笑い方はしないはずなんだが、アルコールで麻痺した脳は日頃決して表に出さないものまでこうして日の目を見させてくれるわけである。それにしてもこの柏木の醜態ぶりにみんな呆れ顔だったのだが、ここまでひどくなるとやはり黙ってなどいられなくなるのが人情というものである。

「それにしても柏木さん。どうして、そんなになるまでご自分を放っておかれたんです?だって、それでは禮子さんに対しても失礼だと思うんですがね。それに、ご自分だけそこまで酔っ払っているというのも何か変だし、それに第一、お二人はいったいどんなお店で出会ったって言うんです?まさか、街中の喫茶店なんかではないですよね」華音はこう言って、このムカつく酔っ払いを、どこまでも執拗に追及するのだった。姉の紫音もこの時、妹の追及がひどくならないうちに何とか手を打ちたかったのだが、どうにも彼女の不信感が想像以上で、姉としてもどこか口出し出来ない雰囲気を感じてしまったのだ。ところが、ここで柏木はいきなり紫音に助けを求めてきたのだ。

「どうか、紫音さんから何か言ってやってくれませんか。ぼくがいくら言っても、おそらく何の手応えもないでしょうから。どうか、あなたから彼女にもう少し冷静になりなさいと、それだけでも言って下されば、このお嬢さんもきっと考え直してくれるでしょうから。もう、この鬼検事はぼくにはまったく手に負えませんよ。どうか、あなたのいつかのあの素晴らしい対応振りをまた見せて下さい。どうか、お願いします。それでないと、ぼくは彼女に今度こそ息の根を止められてしまいそうですから」

「息の根を止められるですって?ええ出来ることならそうしてやりたいわよ。でもね、息の根を止められる前に、あなただって何か言っておきたいことがあるんじゃないの?何もかも正直に白状することが、あなたの立場を確かなものにする一番の近道なんだから。いいですか、さあ何もかも白状してしまいなさい!」

「もう分かりましたってば。ですからもう少し穏やかに話してくれませんか。だって、ぼくは何も悪いことなどしてないのですから。疾しいところなんて微塵もないんですから。いいですか華音さん。あなただって、ぼくの弁明を聞かれたら即刻ご自分の過ちを認めることになるんですよ。すると、あなたはぼくの前に頭を垂れぼくは粛々とあなたの過ちを許すことになるわけです。そんなこと、いくら何でも嫌でしょう。いいですか華音さん、あなただっていずれ分かる時が来るかも知れません。この世は実にわけの分からない世界だってことがね。何が真実で何が嘘なのか本当のところ誰にも分からないのです。実を言えばね、あなただけにお教えしますが、そんなものはどこにもないんです。ただそういう言葉があるだけでね。みんなその言葉に騙されているだけなんですよ。この世は夢であり夢は現実でもある。それと同じことですよ。どちらも人間にとって手に余るものでしかないのです。そうでしょう華音さん」こうした酔っ払いの戯言は、得てして戯言のまま笑われて終わるものだが、それでも時には酒中に真ありで、本人が無意識なだけ、なかなか含蓄のある気の利いたのことを言うこともあるようだ。ところが、この酔っ払いはどこか調子に乗って、その態度が次第に説教染みて来るのだった。「でも、あなたはまだまだお若い。世の中のことなど小指の先ほどもご存じないのだ。いいですか、勝ち気なお嬢さん。そんなに人の嫌がることをいい気になって追及していると後々後悔するかも知れませんよ。いろんな意味でね。それよりも、お姉さんの生き方をもっと見倣うべきです。ねえ、紫音さん。あなたは実に素晴らしい人です。ぼくもねあなたのような方と結婚出来るかと思うと実にうれしいのですが、その反面何て言うか、その、うまく言えませんが、自分という人間があまりにも劣って見えて仕方がないんです。いったい、どうしてでしょうかね。これは実に困ったことで、あまり男として喜んでもいられないのではありませんかね。どう考えられます?」

 彼は、こう言って次第に周囲の人間たちを、ますます酔っ払いのわけの分からない世界へと引きずり込んで行くのだった。こういう場合、酔っ払いの一番の強みはもはや彼が何者も恐れぬ、ある信念に裏打ちされた英雄のように喋ることである。それに彼の性格そのものが、たとえ酒の力を借りて変身していたとしても、それでも、それは彼の人格の一部でもあり彼の思想そのものでもあるわけだ。この酔っ払いは突然、何か不思議な力を放つかのように、みんなの好奇心を一気に掻き立ててしまったのである。彼のこの告白は確かに面白い題材ではあるかも知れない。彼が見せた、こうした人間としての弱みは、普段の生活の上ではなかなか表に出にくいものだからだ。

「ぼくは、こう思うのですよ。確かに紫音さんは素晴らしい女性ではあるのですがそれでもやはり、そこは人間ですから、もちろん、これは何も紫音さんをディスるわけではないのです。それを最初に断っておきますね。誤解されるのもいやですから。とくに華音さんにはそう申しあげておきます。で何が言いたいのかというと、紫音さんも人間ですからそこは欠点もあるでしょう。本人はどう思っていらっしゃるのか分かりませんが、まあ、そう考えても間違いではないでしょうから、そのことを前提に言わせてもらえば、彼女にもやはり誰にも言えない悩みがあるだろうと考えられるわけです。もちろん、これは、あくまでもぼくの想像ですがね。ところがそう考えてもですよ。ぼくは彼女の足下にも及ばないくらい駄目な人間に見えてしまうのです。これはいったいどういうわけなんでしょう」

「それは、やはり、あなたが実際に駄目な人間だからじゃないんですか?もちろんこれはあくまでも、あたしの勝手な想像ですがね」と、ちょっと言い過ぎてしまったかも知れないと、一応心配してこの酔っ払いをいかにも哀れそうな目で見るのだった。

「いや、華音さん、あなたは実に痛いところを突いて来ました。実際そうなのかも知れません。確かに、ぼくの人間性が、もともと劣っているのだと考えれば何も今さら悩む必要もないわけですからね。いや、華音さん、どうもありがとう。あなたは本当にぼくの息の根を止めてしまいました」彼は、こう言って、彼女の決定的な言葉に一瞬気を失いそうになったが、それでも何とか酔っ払いの威厳を保ちながら余裕のある態度で冗談っぽく答えるのだった。すると、紫音がさすがに黙っていられなくなって、このままでは、とんでもないことになりかねないこの話しを何とか収めようとしてこう言うのだった。

「もう、やめましょう。いいですね。それにしても華音。あなたもそんなことは冗談でも言ってはいけません。亮さん、ほんとにごめんなさいね。きっと、あなたもひどく酔っているので、そのような勘違いをなさるのでしょう。あなたは、私から見ても決して劣ってなんかいませんわ。それは断言します。誰だって、自分のことは自分では、なかなか判断できないと思うんです。それは自分の顔を直接自分の目で見ることができないのと一緒で、自分の性格などまったく分からないと言ってもいいのではないでしょうか。ですもの、あなたがご自分のことを駄目な人間だと思うことも、あまり意味のあることではないと思うんです。それは、自分のことを知らないで、いたずらに卑下しているのと一緒だと思うからです」

「これですよ。こういう彼女の聡明さがぼくを戸惑わすんです。いったい、どうすればこのような高みに彼女と一緒に立てるのだろうと、ぼくは考えてしまうからです。果たして、その資格が自分にはあるのだろうかと疑ってしまうのです。今までの自分の人生を振り返って見れば誇れる物など一つもなく、どうして今まで平然と生きてこれたかと思いほんとに身の毛がよだつくらいなんです。みなさんも、ぼくの数々の不祥事はご存じだから、今さら喋々するまでもありませんが、それにしても、いったいどの面下げて彼女と一緒に、これからの人生を過ごして行けば、彼女のあのような高みに到達できるのかと、今から恐れ戦いている始末なんです」

「柏木さん、そんなに、ご自分のことを卑下するものではありませんよ」突然禮子が口を出すのだった。「女はね、自分が見初めた男が、自分にとって掛け替えのない男だと分かれば、どんなに劣った人間でも、そんなことに関係なくそれは献身的に足下にすがりついても一緒について行くもんなんですよ。ですから、女は、そういう男のわけの分からない見栄など気にする必要などないのにって思っているんです。いいですか、ここにいらっしゃる男性の方々も、ようく考えていただきたいんですが、女の心を射止めたいと思うのなら、決して変な小細工などしないでもらいたいんです」彼女は、確かに柏木に向かって、これを言ったと思うのだが、それにしてもいったい誰が変な小細工をしたというのか、それは今のところまったく不明だが、それはとにかくこの禮子の切れのいい話しっぷりに、部屋の中はすっかり静まり返ってしまったのだ。

「いや、禮子さん、あなたは何て素晴らしい人なんだ。それを聞いて何て言うか、ああ、ここにも、ぼくのことを親身に考えてくれる人がいるんだと思いなぜか感激して涙が……」柏木は、こう言って、ほんとに泣き出してしまったのだ。

「あーあ、とうとう泣かしてしまいましたね。しかし、いったい、彼の涙は、誰のための涙なんでしょうか」貴臣が、こう言って、こうした一連の劇の裏に果たしてどんな意味が隠れているのか、さっきからこの状況を冷静に観察しながら、彼なりに何とか把握しようとしていたのだ。彼もここに来て、どうも父親を含めた女二人とそれに柏木との関係が、何か非常に複雑に絡み合っているのではないかと思い始めていたのである。彼の、こうした鋭い直感は彼の若々しい感受性を恐ろしいぐらい刺激してしまったので、このまま黙っていられなくなって自分も積極的にこの問題に介入して行くのだった。

「それにしても、不思議ですね。柏木さんのお気持ちとしては、いったい、どのような女性が自分の好みに合っているのでしょうか。いやどうも、さっきから、この状況を見ていて感じたのですが、どうも、ぼくには、柏木さんは姉の紫音よりよっぽど禮子さんに好意を抱いているようにも見えるからです。これは、まったくぼくの思い過ごしなんでしょうかね」彼は、こう言って、よせばいいのに、ここに核心的な問題を、つまり危険極まりないパンドラの箱を開けてしまったのだ。

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